海風のなか
自分を呼ぶ声が聞こえる。甲高いその声は、自分の姿を見つけた途端歓声に変わった。おうさまぁ、と叫びながら少女はこちらへ駆け寄った。
少女は目の前にやってくると、額に汗を滲ませながら目を輝かせた。満面の笑みで見つめられると、ついたじろいでしまう。
先日の雷雨から、王とイエリの関係は少し変わった。
イエリは王の生まれを知り、王を気高い竜だと言った。その言葉は王を酷く驚かせ、複雑な感情をもたらした。
竜たちは皆王を尊敬している。王を信じ、どんな命令にも従うほど忠誠心が強い。前王の時代にはまつろわぬ竜もいたようだが、今の王が生まれてからはそういった話もない。竜たちにとって、王は絶対的な存在だ。
しかし、王の苦しみを知る者は少なかった。
王に名前を与えたケセドは、海の主たる立場からか、王の孤独を知っていた。だからこそ王に名を与え、友として接したのだろう。「自分たちは特別だからね」と話した彼の声は、どこか寂寞を感じさせた。幼いころは理解できなかったが、やがて王も自らが特別であると自覚せざるをえなかった。
この少女は、それを見抜いた。
王としての孤独や重責、しかしそれでも森のために尽くす喜び。イエリはそれらを感じ取り、王を賞賛した。同情の言葉ではなく褒めたたえることで、王に礼儀を尽くした。本人にそのつもりはなかっただろうが、王は度肝を抜かれた。まさか年端もいかない人の子供からそんな言葉が出るとは思わなかったのだ。
彼女の体は小さく、少し力を入れるだけで折れそうだ。だが、彼女の微笑みは柔らかく安心感がある。人は腕で抱きかかえることでコミュニケーションを取るとネツァクは言っていたが、実際彼女を抱きしめると鼓動が早まる。腕の中に彼女がいるとほっとした。
彼女と過ごす時間が増えるたび、自分の感情を持て余す。イエリが微笑むと感じる喜びは、もはや目をそらせないほど大きくなっていた。彼女に絆されていると認めなくてはならない。
イエリもイエリで、王の近くにいることが多くなった。王を恐れているはずだが、最近の彼女はなにかと王のそばにいたがった。鳥の雛のように後ろをついて歩く彼女を邪険にすることは不可能で、王はたいてい彼女とネツァクを引き連れていた。
もしかしたら、と淡い期待が胸に宿る。時間が経つにつれ王に対する恐怖は薄れ、彼女も王を受け入れてくれたのかもしれない。他の竜と王の扱いに大きな差はない。時折若干の距離は感じるが、今すぐネツァクと同じ扱いを望むのは贅沢というものだ。少しずつ、お互いを知っていけばいい。
「王さま、今日はどこ行くの?」
イエリがネツァクとじゃれながら笑った。ネツァクは構ってもらえるのが面白いのか、機嫌良く鳴いている。王は彼らを一瞥して答える。
「海へ」
「海!」
イエリはぱっと表情を明るくした。
「イエリ行ったことない! 海も竜の場所なんだよね」
「ああ」
頷きつつ、早くも憂鬱な気持ちになる。頭を悩ませるのは、海の主である友人だ。イエリを連れて彼の元へ行けば、ケセドはくつくつと笑って水面を揺らすに違いない。彼は王をからかうのが好きなのだ。
イエリを置いていくことも考えたが、結局連れていくことにした。海が見れると言ってはしゃぐ彼女を置いていくのは忍びない。森へ戻ってから、落ち込んだ彼女の顔など見たくない。
私はいつから、こんなにも甘ったれた考えを持つようになったのか。
思考をリセットすべく頭を振るが、靄は晴れなかった。段々、自分の判断に自信がなくなっていく。王として自分はイエリを突き放すべきか否かも、ケセドに相談したかった。
「海へは道が決まっている。ついてくるのなら離れるな」
「うん」
イエリはネツァクへ手を伸ばし、遊びながらついてくる。
「タ、タララ、タタタ、ララー」
少女の足が歩きながらステップを踏み、耳慣れない旋律を奏でる。短いフレーズが何度も繰り返され、お世辞にもうまいとは言えないが、彼女はとても楽しそうだった。
一体なんの歌なのか。興味を引かれた王が目をやると、イエリは視線に気が付いて首を傾げた。
「あ……うるさかった?」
「いや。人の歌か」
尋ねるが、イエリの返事は煮え切らないものだった。
「多分そうだけど、イエリもよく分からない。村にいるときね、いつも漁ってたゴミ箱の近くに家があったの。その家から聞こえてきて、いつのまにか覚えてた」
人の生活について王は詳しくないが、人は皆ゴミを漁って生きているのだろうか。森に侵入するほどの食糧難だと言うから、あながち間違いでもないのかもしれない。広く暮らしやすい平原でゴミを食べているのか、と思うと憐憫の情がわいた。
「竜は歌うの?」
「ああ」
「どんな歌? 聞きたい!」
イエリが王の横に並んで瞳を輝かせる。彼女は足元を見ずに歩くため非常に危なっかしい。木の根に気を付けるよう言うと、イエリは照れた笑みを浮かべた。
「で、竜の歌は?」
「竜は求婚の際に歌う」
「へえ!」
見慣れた木を右に曲がる。その先は獣道であり、イエリがついてこられるか懸念がよぎる。振り向いて彼女の様子を窺うと、彼女は躊躇うことなく草むらをかき分けてあとに続いていた。安堵するが、彼女の弱い肌では草の葉で傷ができるかもしれない。王はなるべく先行し、草を倒しながら進んだ。
「じゃあ森で過ごしていれば聞けるかな?」
「聞いたことがないのか」
「うん」
イエリは頷いているが、それはおかしい。竜は歌う際高い声で鳴くため、森によく響く。一か月やそれ以上森で過ごしていれば、一度は耳にしているはずだ。そこで、王は一つの可能性に思い至った。
「歌は、人の耳では捉えられないのかもしれない」
人は竜よりも可聴領域が狭い。そして竜の歌は人に聞かせるものではないため、聞き取れない高音で鳴いているとしても不思議ではない。そう説明すると、イエリは嘆いた。
「竜の歌聞いてみたかったのに……プロポーズの歌じゃ、イエリが聞く機会なんてないけどさ」
アオもいつか歌うのかな、と呟いている。ネツァクは自分について話しているとは知らず、キュイッと鳴いてみせた。
そのまましばらく歩いていくと潮の匂いがしてくる。イエリも気が付いているのか、しきりに息を吸って匂いを確かめていた。ネツァクも海は初めてらしく、緊張した様子で鼻を鳴らしている。
木々が減って視界が開けると、イエリは感嘆した。
「うわあ……!」
少女の目が海の青を映して輝く。太陽を反射する水面は眩しいだけだというのに、彼女の瞳が同じ輝きを宿すとまるで別物だ。イエリは口を半開きにしたまま、王と海とを交互に見た。
「すごい、広い……近くに行っていい?」
王が頷いた途端、イエリは砂浜へ駆け出した。甲高い笑い声をあげながら砂を蹴り上げ一直線に走っていく。砂に何度か足を取られて転びかけたが、彼女の勢いは止まらなかった。波打ち際にたどり着くと、泡立つ波を見て歓声をあげる。
「アオ見て! 遠くまできらきらしてる!」
飛竜の仔を呼びながら、彼女は波と踊った。柔らかい髪が海風に吹かれてなびく。彼女はふと顔をあげて王を呼んだ。
「王さまも!」
「今行く」
王が歩き出すとイエリは嬉しそうに笑った。その時初めて、海も悪いものではないと思えた。
〈随分にぎやかなお客さんだ〉
途端に、足元へ打ち付ける波のリズムが崩れた。海を見れば、水面が膨らんで大きな波を起こしている。
王はイエリを小脇に抱えて後ろへ下がった。波打ち際に立っていれば水を被ってしまう。彼女は目を白黒させたが、海の異変に気が付くと大人しく従った。王はイエリを後ろへ下ろすと海へ向かって語りかける。
〈もったいぶらずに早く出てこい。ケセド〉
〈初めてが肝心なんだよ、何事もね〉
ふざけた口調の割に声には感情が乗っていない。やがて声の主はゆっくりと水をかきわけて姿を表した。
巨大な頭部はぬらりと光り、水を滴らせた。濁った瞳は王を見た後、隣のイエリへスライドする。彼は面白がるように口を薄く開いた。
「あ、あー……きみが、たまごのおんじんか」
「人の言葉、喋れるの!」
口を開けていたイエリは我に返って飛び上がった。一歩進み出て、ケセドの頭を見上げる。おわあと気の抜けた声を漏らした後、ぺこりと頭を下げる。
「イエリだよ。今は森で暮らしてるの」
「じぶんは、ケセド」
彼はそこまで話すと、わずかに頭を縮める。
〈人の言葉は発音が難しいな。君から紹介してくれ〉
王は承諾した。
「ケセドは海の竜をまとめている。私だけでは海まで目が届かないからな」
「海の王さまなの?」
「そうとも言えるが……王という立場なのは私だけで、彼はあくまで海の竜だ」
「じぶんはながくいきているだけさ」
イエリは目を瞬き、ケセドを上から下まで観察した。
「とても大きいね。海の竜はみんなそう?」
「ケセドは規格外だ。海の竜も大小様々な者がいる」
そう話していると、ケセドから面白がるような目線が飛んでくる。実際には彼の目は悪いため見えていないはずだが、音や気配で場所を感じ取っているのだ。
〈君が楽しそうでなによりだ〉
〈……こうなるから嫌だったんだ〉
王はため息をついた。ケセドはそんな王の様子まで含めて愉快なようだ。
「ケセドと話す。そのあたりで待っていろ」
「分かった」
イエリは頷くとネツァクを連れて離れる。潮騒に声が消される程度に離れると、イエリは波で遊び始めた。無邪気な笑い声が時々波間に聞こえる。王は目を細めて彼女らを見送った。
〈君、変わったな〉
ケセドが言った。その声はいつも通り平坦なものだったが、彼なりに驚いているらしい。
〈彼女のおかげかな。以前は人格を排した森の機構のようだったけれど、今は君自身を感じる〉
ケセドはいつの間にか真剣にこちらを見ていた。先ほどまでのふざけた空気から一変し、海の主としてそこにいる。王は一呼吸し、改めて本題に入った。
〈王として、彼女をどうするべきか考えている〉
きゃあ、と悲鳴が上がる。思わぬ波でイエリが足を濡らしたらしい。彼女は笑いながらネツァクに文句を言っている。それを遠目に見ながら、ケセドに尋ねる。
〈お前は彼女をどう思った〉
〈とても純真だ。自分を見ても怯えない、肝の据わった子供だね。そして、君によく懐いている〉
〈そこはいい〉
王は苦虫を噛んだように顔をしかめ、話を続けた。
〈彼女は善良だ。恐らく竜にあだなすこともない。しかし……〉
〈王として、人である彼女をどこまで受け入れるか?〉
ケセドは王の悩みを瞬時に理解した。王が生まれてから、生まれる前からの付き合いだ。古竜には全て筒抜けなのだろう。
〈彼女は、不思議だ〉
雷雨の日、洞穴で交わした言葉を思い出す。うっすらとした闇が落ちる中、イエリの冷えた手が王に触れた。
〈彼女に触れると、ひどく安心する。彼女の言葉は嘘がなくまっすぐだ〉
小さな体を抱きすくめると、彼女と自分の鼓動が重なったような、静かな感動があった。あんなにも近くで誰かと触れ合ったのは初めてで、王は動揺した。
〈彼女といると時々自分が分からなくなる。王として、彼女にどう接するのが正しいのか〉
強い風で王の髪が後ろへたなびく。べたつく海風は相変わらず不愉快で、王は無理やり髪を撫でつけた。
〈まさか、君からそんな話を聞くとはな〉
ケセドが呆然と、けれど嬉しそうに呟いた。王が怪訝な目を向けると、彼は身じろいで海面を揺らした。
〈君は一つ勘違いをしている〉
〈勘違い?〉
〈個を捨てて全体に奉仕するだけが王の在り方ではない〉
ケセドは静かに続ける。
〈君は自分の欲求や思いを限りなく希薄にすることで森を守ってきた。森の一部になることで、暴走したり誤った行動をしないようにと〉
〈ああ〉
彼の言うことは正しい。王は自分を捨て去ることで過ちを犯さないようにしていた。そして今日まで大きな間違いもなくやってこられたのだ。
〈しかし前王は違っていた。彼は明るく奔放で悪戯ばかりしていたけれど、王として立派に努めていたよ。最期を看取った全ての竜がそのことを知っている〉
王は、前王のことを知らない。前王が死ぬと同時に王は生まれたのだ。当時から生きていた竜に話を聞くことはあっても、前王がどんな竜だったのかは知らない。
〈前王は優しく同族に甘かったけれど、まつろわぬ竜の追放は躊躇わなかった。彼は王として正しかった。
つまりね、ケテル。欲望を持たないことが良き王の条件ではない。騒乱を起こした竜がいれば、それが愛した竜でも処断する。欲望を持っても、最後には決断を下せる者。それが王だ〉
ケセドは普段とは違い、冷静に一つ一つ語った。永きを生きる古竜の言葉は重みが違う。滔々と語るその姿は威厳に満ち、彼が古竜なのだと再認識させられた。
〈君が彼女を手元に置きたいのならば、それでいい。しかし彼女が竜にあだなすのなら君の手で彼女を殺せ。できないのならば、今すぐ森から追い出すべきだ〉
〈私は……〉
イエリの細い首を思い浮かべた。王が少し力を込めれば簡単に折れるだろう。薄い体に爪を立てればすぐに事切れる。だが、彼が言っているのはそうではない。王の覚悟として彼女を殺せるのかと、ケセドは問うている。
〈私は、竜の王だ〉
顔をあげてまっすぐと前を向く。
〈森を乱す者は許さない。それは相手が人でも竜でも同じこと〉
自分にも、王として生きてきた矜持がある。人の娘に調子を狂わされたとしても、そこだけは間違えない。
王がはっきりと言い切れば、ケセドは力を抜いてくすりと笑った。
〈まあ、君なら心配はないと思っているよ。それに……〉
ケセドが鼻先をイエリに向ける。彼女は遊び疲れたのか、砂浜に座って海を眺めていた。
〈あの子の空気はとても優しい。きっと大丈夫だろう〉
〈ああ〉
波の音が繰り返される。打ち寄せるうねりの頂上に白い泡が立ち、足元までやってきていた。
王が歩み寄ると、ぼうっとしていたイエリも気が付いた。日差しに晒されていたからか、彼女の頬が赤く染まっている。イエリは立ち上がって体の砂を払った。
「お話、終わった?」
「ああ。戻るぞ」
待たされていたはずだが、イエリは文句一つ言わず微笑んだ。ケセドが頭を低く下げ、イエリの近くへ寄る。
「たまごのおんじんよ」
「わ! どうしたの?」
突然近寄ってきたケセドに驚きながら、イエリは首を傾げた。
「おうを、よろしく」
「うん?」
イエリはもう一度首を傾げた。ケセドの言う意味を理解できなかったのだろう。王はため息をついて頭を抱えた。
「気にするな」
「うーん……わかんないけど、一個だけイエリにも分かったよ」
王とケセドがイエリを見る。彼女は髪を風にかき混ぜられながら笑い声をあげた。
「王さまとケセドが仲良しだってこと!」
一瞬、潮騒が場を支配する。直後にケセドの笑い声と、王の深いため息が零れた。




