はじまり
人は、死ぬと朽ちる。
体に虫がたかり、正体不明の生き物が皮膚を這っている。家の中には腐臭が立ち込め、呼吸すら苦しかった。近所にまでこの臭いが漂っているらしく、家のドアを叩いては「どうにかしろ」と怒鳴られる。羽虫の飛び回る音が耳に染みついていた。
初めてまじまじと見た死体は母のものだった。
死体の髪の毛は痛み、細く縮れている。纏っている衣服には謎の液体が染みて、しっとりと濡れていた。異様に細い手足を床に伸ばして、イエリの母は死んでいた。
この頃快晴が続き、過ごしやすい陽気だった。そのため燦々と日差しが降り注ぎ、部屋の中に嫌な熱気を籠らせる。ドアを開けて換気したいが、臭いが外へ漏れてしまう。そうなれば、近所住人の怒りは頂点に達し、もはやドアを叩かれるだけでは済まないだろう。村は皆貧しく、自分が生きるのに精一杯だ。誰かを助けたり、気遣ったりする余裕などない。暑さと異臭に耐える毎日だった。
死体は腐敗が進行し、動かすことができなかった。一度外へ運ぼうとしたことがあったが、掴んだ腕の肉がぶよぶよと柔らかく、気味が悪くなったイエリは諦めた。温かかった母の腕と同じだと感じられず、途方に暮れるうちにこの有様だ。
ドアを一日中閉め切り、日が沈んでから食料を調達しにいく。十一歳になろうかというイエリにとって、一人で食料や水の用意をするのは大変だったが仕方がない。弟はまだ乳飲み子で、動ける状態ではなかった。母がいない今、姉である自分がやらなくてはならないのだ。
ガタン、と大きな揺れに尻が浮き、イエリははっと顔をあげた。
イエリは馬車に揺られていた。常に漂っていた悪臭はなく、涼しい風が吹き抜ける。荷台に乗せられたイエリは、両手を縄で縛られて座っていた。
馬車はちょうど、街道から一本外れた通りへ入っていくところだった。道が悪くなるため、大きく揺れたのだろう。その後も振動が続き、落ち着かなかった。
考え事をさえぎられたイエリは、荷台の上を見渡す。
狭い荷台には数名が座らされていた。年齢は様々だが、皆一様に貧しい身なりをしている。不健康そうな顔色を一層暗くして、うつむいていた。手首には縄が結ばれ、首には鉄製の重い首輪をはめている。首輪は奴隷の証だ。イエリは自分の首にはめられた鉄の輪に触れ、小さくため息をついた。
シオは大丈夫かな。もう森へ連れていかれちゃった? イエリが迎えに行ってあげなくちゃ。だから、こんな所にいる場合じゃないのに……。
首輪は外れず、縄もちぎれそうにない。イエリはもう一度大きな息をついた。
イエリが奴隷商人に売られたのは、数日前のことだった。
イエリと弟のシオは、自宅に閉じこもっていた。母の死後、二人は頼れるあてもなくその日暮らしの生活だった。
母が死んだのは一週間ほど前。
母はその身一つでイエリを育ててくれた。娼婦として働きながら、良き母でもあった。貧しい生活だったが、母は笑顔を絶やさない。父親の分からないイエリにも、愛情を持って接してくれていた。
「人に優しくすると、その分だけ自分に素敵なことが起きるのよ。だから困っている子がいたら助けてあげるの。どれだけ貧しくても、心まで貧しくなったらおしまいだわ」
母は不思議な人だった。誰もが隣人を疑い利用しようと目を光らせる中、一人微笑んでいた。厄介な客に手を上げられても、給金を満足にもらえなくても、
なにかを恨むような様子はなかった。
──イエリがいると思うと、頑張れるから。
イエリは母が好きだった。生きていくのはつらかったが、他人を蹴落とすことばかり考える村人たちより母の方が気高く思えた。母はやがて弟を身ごもり、子を下ろす術もなく出産を決めた。
イエリも微力ながら出産の手伝いをした。部屋が血まみれになるほどの大惨事だったが、シオは無事に生まれてきた。その時の感動を言葉に表すのは難しい。
生まれてすぐのシオは小さく、弱々しい命だった。全身がしっとりと温かく、ほかほかとしている。胸に抱くと、手足を突っ張ってじたばたと暴れるのが面白かった。指を伸ばすと、丸くなった手で掴み、きゃ、と笑う。シオは、イエリの宝物になった。
シオを産んだ後、産後の肥立ちが悪く、母は弱っていった。もともと貧しい暮らしであったし、出産に耐えるだけの体力がなかったのだろう。ほどなくして母は死に、父親の違う二人の子どもだけが残されたのだった。
母はそれなりに人気のある娼婦であり、一夜を買うにもいい値段がつけられていた。そのため、小さくとも屋根やドアのある家に暮らせていたのだが、母の死後もこの家に住み続けられる保証はなかった。シオのためにも、イエリがなんとか稼がねばならない。
しかし、娼館へ行っても「ガキのくる場所じゃない」と一蹴され、荷物運びや土木作業などは論外。イエリを雇ってくれる場所はなかった。娼館を出入りしていた頃、一度だけ声をかけられたが、通りかかった娼館の主人から断られた。うちはノーマルなのがウリなんだ、と主人は言っていた。
母はそれなりに整った顔立ちだったが、イエリは特段美人でもなかった。薄いグレーの髪はぼさぼさと広がり、頬にはうっすらとそばかすが浮いている。母は美しい青い瞳だったが、イエリはグレーのくすんだ色をしていた。汚れたシャツからは痩せこけた手足が飛び出し、貧しい子供そのものだ。母のように、自分の体に価値をつけるのは難しそうだ。
イエリが稼ぎ先について頭を悩ませている時だった。村の男たちが突然家に押しかけたのだ。
男たちは、床に寝かされていたシオを連れて行ってしまった。追いかけようとしたイエリも別の男につかまり、何が何だかわからないまま奴隷の仲間入りを果たした。
男たちの話を盗み聞くに、イエリは娼館の主人に売られたらしい。母の死後、客をとれないイエリたちを置いておく理由もない。イエリは奴隷となり、住んでいた家も売られた。すべてを剥ぎ取られ、首には奴隷の証である首輪。イエリの手元には何も残らなかった。そして、より大きな町で開かれる奴隷市場へ連れていかれることとなった。
住み慣れた家を離れるのは悲しかったが、働いて食事を得られるのなら奴隷でもかまわないと思っていた。イエリを売ったお金でシオの面倒を見てくれるのなら万々歳だ。
しかし娼館の主人は、シオを森へ打ち捨てるよう告げた。きっと働き手として売り飛ばすには、シオがまだ幼いからだろう。イエリにはそれが許せない。
シオは、何も持たないイエリにとって唯一の宝物だ。
母が死に乳を飲めなくなったシオは、目に見えて弱っていた。イエリの食事はゴミを漁ればなんとでもなるが、母乳は捨てられていない。水しか口にしていないシオの衰弱は明らかだった。森に捨てられれば、すぐに死んでしまう。
イエリはなんとしても逃げ出して、弟を迎えに行かなくてはと決心した。
ひとまず、馬車から逃げ出すタイミングを待つことにした。今は道が大きく開けており、逃げ出せばすぐにばれてしまう。せめて視界を遮るものがあるところでなければ。幸い、進行方向には森が見えている。森へ入ってしまえば奴隷が一人いなくなったところですぐには気が付かないだろう。手首の縄も、両手首の自由を奪うのみで、どこかに繋がれているわけではない。いざとなれば馬車から転がり落ちればいいのだ。
まだかまだかとそわついていると、イエリの向かい側に座った少年に目がいった。
少年は独特の雰囲気を持っていた。
体躯はイエリよりも小さい。衣服はあちこちが破れているが、素材自体は上等なものに見える。肌の張りもよく、手足は健康的な太さをしていた。やせっぽちのイエリに比べて、いい暮らしをしていたのではないかと感じられた。浮世離れした空気を持ち、彼の周りだけ芝居の中のようだ。こんな底辺の奴隷商人の馬車にいるのは、なんだか不自然だ。
「ねえ、君……」
好奇心にかられたイエリが声をかけると、少年は大きく肩を震わせた。彼の瞳は恐怖と絶望に染まって、美しい碧眼が所在なく揺れている。随分と恐ろしい目にあったらしい。
「君、名前は?」
「……ルオ」
「イエリはイエリって言うの。ね、ルオ、ひょっとしてお坊ちゃん?」
突然話しかけてきたイエリに驚いたのか、ルオは目を白黒させた。
「あ、洋服がてかてかして見えたから。触り心地も違いそうだし」
イエリは自分のシャツの裾を触ってから、ルオの服を握る。そこで衝撃を受けた。
「なにこれ! なんだか、つるつるして……触ってるだけで気持ちいい」
ルオの着ているシャツは、イエリにとって未知の触り心地だった。毛羽立った麻のシャツしか着たことがないため、こんなにもなめらかな質感の衣服を見たのは初めてだ。そして、ルオもまたイエリの服に驚いていた。
「こんな服で、ちくちくしないの?」
「これしか着たことないからわかんない」
イエリはあっけらかんと答えた。それからもう一度、確信を持って言った。
「お坊ちゃんだ」
上等な衣服を着て、なんの疑問も抱いていない。そこらの奴隷と雰囲気が違うのにも頷けた。
自信に満ちたイエリに対し、ルオは困った顔をしていた。お坊ちゃんか、と聞かれて素直に頷くのも難しいだろう。おどおどと胸のあたりを握りしめている。服の下になにかあるのだろうか?
「お坊ちゃんなのに、売られちゃったの?」
そう尋ねると、ルオの表情が一気に曇った。先ほど顔をあげたときと同じような、深い悲しみが伝わる。まずかったかな、とイエリが遅れて後悔していると、ルオは目にみるみるうちに涙を溜めた。
「ぼく、いらない子なんだ……」
つぶやくと、肩を落としてさめざめと泣き出してしまう。イエリは慌ててルオの隣へ這い寄った。瞳からは、宝石のような涙がこぼれていく。
なだめながら聞き出した話によると、こうだ。
ルオは貴族の家の三男として生まれた。しかし母は主人に仕える侍女であり、ルオは不義の子だった。主人から認知されていても、正妻である夫人には認められなかったらしい。ルオを疎ましく思った夫人は、母の死後、ルオが屋敷で暮らすことを許さず、遠い地の別荘に飛ばした。腹違いの兄からは可愛がられていたが、家の決定には逆らえないため悲しい顔で見送られた。
ルオには他に行き場もないため、少ない使用人と共にひっそりと暮らしていた。そして先日盗賊に押し入られて、奴隷として売られたそうだ。
「お母さんがいないの、大変だよね」
ややずれた共感を示すと、ルオは怪訝な顔をした。縛られた手で彼の背中をさすりながら、ぽつぽつと話す。
「イエリもね、ついこの前お母さんが死んじゃったの。夕ご飯持って帰ってきたら冷たくて固くて、弟がずっと泣いてて……びっくりしちゃった」
「そっか」
ルオは頬を涙で濡らしながらも、同情的な目をした。立場は違うが、似たような境遇ではあるようだ。二人の間に、奇妙な繋がりが生まれたのを感じた。
「あのね……」
ルオが、握りしめていた手をそっと開く。服の中からごそごそと取り出したのは、ロケットのついたネックレスだった。
「母上の形見。盗られないように頑張って隠したんだ。イエリには見せてあげる」
「これ、中に何か入ってるの?」
「うん。母上が一番大切にしてたものだって。ぼくは見てもよく分からなかったけど」
ルオがはにかむ。どうやら、自分を気遣ってくれた礼のつもりで、自分の宝物を見せてくれたらしい。イエリは嬉しくなり、自分もなにか返したいと思ったが、生憎何も持ってはいない。なにか、なにかないか。
そこで、イエリは一つ思いつく。イエリの宝物は一つだけだ。その話をしよう。
「イエリの弟……シオっていうんだけど。すごく温かくて、しっとりしてて、イエリの宝物なの。でも、シオはまだ村にいるの。このままだと森に捨てられちゃう」
「森に?」
森、と聞いた途端ルオの顔が青くなった。自分の肩を抱きしめて、がたがたと震えだす。どうしたの、と問えば弱弱しく言葉が帰ってきた。
「どうって……森を知らないの? 竜だよ。森には、人を食らう竜が暮らしているんだ。一歩入ればすぐに食べられちゃう」
その言葉に、今度はイエリの血の気が引いた。森がそんなにも恐ろしい場所だとは知らなかった。シオが弱って死ぬよりも、竜に食べられるほうが早いかもしれない。
「い、行かなくちゃ」
「行くって、森に? 危険だよ! それに、奴隷が逃げるのは重罪だ。見つかったらただじゃすまない!」
「でも、シオにはイエリしかいないの」
父はなく、母も死んだ。赤子の弟を助けられるのは自分しかいない。たとえ罪になったとしても、弟だけは助けなくては。
イエリはルオに顔を寄せると、小声で先ほどの思いつきを話した。
「ルオも一緒に行く?」
「え……」
「このまま連れていかれても、奴隷として働かされるだけだし……もし帰る場所がないなら、一緒に逃げよう」
「ぼ、ぼく……」
ルオは言葉に詰まった。瞳が宙をさまよい、唇が開閉を繰り返した。奴隷として働く未来と、罪を背負って逃げ隠れする生活を天秤にかけているのか。青い瞳が戸惑った。
ルオを見つめていると、視界がふっと薄暗くなった。見上げれば、空を葉が覆いつくしている。いつの間にか森へ入ったようだった。イエリは早口でルオへ語りかけた。
「イエリはもう行く。今決めて」
「そんな、待ってよ」
馬車が揺れる。舗装されていない道には木の根や石が飛び出し、車輪がうまく回らないようだった。いい加減尻が痛いが、飛び降りるならスピードが落ちている今以外にない。
「もう森に入っちゃった。ここで降りなきゃ……」
そう言いながら、言葉が途切れた。
ここは「森」だ。先ほど、遠くから確認したため間違いない。ただの雑木林の類ではなく、西の大森林に繋がる場所だ。そしてルオの話では、森は足を踏み入れるだけで危険な場所らしい。
「イエリ、決めたよ。ぼく……」
ルオが顔をあげ、決心した声で告げる。
だが、それに被さるように耳をつんざく咆哮が響いた。
空気が震え、胃の底まで痺れるような重低音。縛られた両腕で必死に耳をふさぐと、荷台が大きく揺れた。
ヒイン、と馬がいななく。御者のコントロールを外れた馬は立ち上がり、混乱したようにあちこちへ走り出した。馬車は木の根に乗り上げるとバランスを崩し、大きく傾いた。
「うわあっ!」
突然のことに、イエリの体は宙に投げ出される。
一瞬の浮遊感。
すぐに全身を衝撃が襲い、イエリは地面を転がった。手首を縛る縄がその衝撃で千切れるが、咄嗟のことで受け身もとれず、背中を大きく打ち付けた。
「げほ、痛……」
呻きながら薄く目を開ける。あたりは盛大に土煙が立っており視界が悪い。痛みに咳き込みながら、イエリは周囲を見渡した。馬車はどうなったの? さっきの叫び声は……。
「へ」
口から間抜けな音が漏れた。
イエリの目の前に、馬車はもうなかった。
土煙の中、荷台の残骸と思われる破片が飛び散っている。そして、残骸を踏みつける大きな鱗の足。
視線を上へ伸ばすと、足、腹、首と赤茶の鱗に覆われた体が見えた。長い首の先には頭部がある。無数に生えた鋭い牙をむき出し、赤い瞳は興奮したようにぎょろついていた。鞴のような呼吸音が胸部から響き、むっと獣臭さがあたりに充満する。
「竜だ……」
同じく投げ出された奴隷が呟く。それは、竜を知らないイエリでも理解できた。
人間の上に立つ存在。圧倒的強者であることを、本能が感じ取っていた。
竜は土煙に頭を突っ込むと、なめらかに起き上がる。
「ひ、あああ、やめてくれっ」
ひっくり返った悲鳴が響く。竜の口には一人の男が咥えられていた。御者の奴隷商人だ。
イエリの胸に、嫌な予感がこみ上げた。恐怖が体を支配し、目をそらすこともできなくなる。自分の鼓動がやけにうるさく、視野が暗く狭まっていく。竜の呼吸音が止まった瞬間、男の請う悲鳴が耳をつんざいた。
瞬間、世界が暗転した。




