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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第二章 境界の地
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失われた欠片

 フリアナは頭を悩ませていた。

「フリアナ、終わったよ!」

「あ……ええ。ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」

 遠くにいるイエリが手を振っている。明るい笑顔の彼女は、束になった麦を干竿のそばに置くと、そのまま走って家の中へ駆け込んだ。先日の竜の一件から、兵士の巡回タイミングが変わった。あまり外をうろつかないほうがいいだろう。

 フリアナは手元の小麦へ目を落とす。作業はあまり捗っていなかった。空を見上げれば、すっきりと色の濃い青空が広がっていた。


 竜を前にしたイエリの様子は尋常ではなかった。

 近づくだけで恐ろしい竜を見に行きたいと言うだけでなく、竜の死体に無体を働く兵士たちへ突撃しようとさえした。竜を恐れているフリアナでさえあれはどうかと思ったが、しかし我を忘れるほどのことだろうか。彼女は結局泣いて暴れ、いつの間にか気を失っていた。フリアナはイエリを連れて、こっそりと竜の死体から離れた。

 イエリは一日眠った後目を覚ましたが、その様子を見てフリアナは疑問を抱いた。

 竜の死体が手ひどく扱われるのを見て随分とショックを受けていたため、目を覚ました後再び暴れはしないかと心配していた。だが、イエリは起き上がってけろりと言った。

「おはよう。おなか減ったぁ」

 はじめは空元気かと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女は竜の件について全く覚えていないようだった。至って自然な態度であり、号泣して暴れたときのエネルギーは感じられなかった。あのときはショッキングな場面を目撃して錯乱していただけのだろうか? 

 悩んだフリアナは、息子へ手紙を出した。息子は、フリアナと共に畑の世話をしているが、今年は稼ぎのいい仕事があったため都へ出ていた。都には多くの人や情報が集まる。小麦のことしか分からないフリアナとは違い、イエリの状態についてなにか分かるのではないかと思ったのだ。

 息子からの返事には、奴隷を匿うことでフリアナの身に危険があるのではと懸念する気持ちが長々と書かれていた。優しい子だが、心配性でもある。イエリが見つかった際のデメリットを書き連ねた後、手紙の最後にフリアナが求めていた答えが書かれていた。

 ──強い恐怖や衝撃的な場面に出くわすと、心を守るためにつらい出来事を忘れてしまうことがある。その少女についても、そうなのかもしれない。

 それはとても自然な回答に感じた。思えば、イエリは逃げ出してきた時のこともあまり話さない。もしかしたら、とてもつらい出来事があって無意識に忘れてしまったのかもしれない。

 そうなれば、イエリの記憶を下手に刺激しないほうがいいだろう。本人が忘れたがっているのだ。そっとしておきたい。竜に関する情報に触れないよう、フリアナは注意していた。

 しかし、そんなフリアナの気持ちとは裏腹に、イエリは自由に歩き回った。時間さえあれば畑に出て、じっと森を眺めている。フリアナが家に戻るよう呼びかけても生返事で、本人が満足するまで動こうとしなかった。竜に対して恐れ以外の感情があるようだったが、下手にトラウマを刺激したくないため聞き出すのも躊躇われる。フリアナは仕方なく、イエリのそばに立って共に森を眺めるしかなかった。

 イエリは暇さえあれば森を見ており、その時間は以前より長くなっていた。竜を殺す場面は覚えていないはずだが、心の奥底で何か感じているのかもしれない。


 イエリについての心配は絶えなかったが、時間は待ってくれない。フリアナは商人に会うため、町へ行くことにした。

 小麦を収穫した後は、乾燥させてから脱穀する。乾燥には大体二週間程度かかるため、その間に商人と話をつけるのがいつもの流れだ。収穫物の半分ほどは税として収めるが、残りは自宅で使うか商人に売ってしまう。そのため、脱穀した後速やかに商品を引き取ってもらえるよう頼まねばならない。今年は息子の不在で作業が遅れたため、商人もやきもきしているだろう。


「私は今日一日出かけるけれど、家で大人しくしているのよ」

「うん」

 朝食時にイエリへ告げると、彼女は頷いた。イエリは好奇心旺盛で向こう見ずなところがあるが、基本的には素直でいい子だ。フリアナはイエリのことが大好きだった。彼女が奴隷でなければ、ここで堂々と暮らしていけるというのに。なんとか首輪を外せないかとフリアナはよく考えていた。

「森へ近づいたら駄目よ」

「分かってる」

 フリアナの忠告も聞き飽きたのか、イエリは頬を膨らませた。拗ねるような目をしているのが愛らしい。フリアナは微笑ましく思いながら食事を終えた。

 フリアナが準備をして家を出ると、イエリが外まで出て手を振っていた。

「いってらっしゃい」

 誰かにこうして見送られるのは久しぶりだ。胸がくすぐったいような心地で、フリアナも手を振り返した。

 イエリが自分で暮らしていけるようになるまで、こうしていたい。大人になっても、彼女が望むならずっと家にいても構わない。心の傷が癒えるまで、ここで小麦を育てて暮らせばいい。そんな願いすら抱いた。


 だからこそ、家に帰った時イエリがいなくなっているとは思いもしなかった。





 フリアナを見送ると、イエリはベッドの上に転がった。フリアナが不在の間に小麦へ触るのは気が引けたし、特にすることもない。退屈だが、村で暮らしていた時も同じように過ごしていた。あの頃と比べれば、ここは天国だった。

 しかしなぜだろう。フリアナの家がどれほど居心地良くとも、森で過ごした時間を忘れられなかった。

 森では、王以外に言葉が通じる者はなく、食事も自分で見つけなくてはならない。襲ってこないとはいえ、あたりに竜が闊歩している。一日中森を歩いて草むらで眠る日々は、快適とは言い難かったはずだ。

「でも、イエリは……」

 村では娼婦の子として虐げられ、母が死ねば奴隷として売られた。イエリはいつも息が詰まっていた。何か恐ろしいものが迫ってきて、いつか追いつかれてしまいそうな感覚。その正体は掴めなかったが、村にいる時も、奴隷として売られた時もずっと感じていた。愛する弟の世話をしていても、恐怖は消えなかった。

 イエリは、森の中で暮らして初めて楽に呼吸ができた。竜はイエリに無関心で、自然のままに生きている。卵泥棒を捕まえてからは、自分が森の一員として迎え入れられたようにすら感じた。王には嫌われてしまったが、イエリはすっかり竜たちのことが好きになっていたのだ。

 森を出てフリアナと共に暮らすようになってからも、どこか違和感は拭えなかった。イエリは奴隷で、隠れて暮らしていく。この先、首輪がついている限り一生こんな生活なのだ。森の中を自由に歩き回る喜びを知った今、そんな生活に耐えられる自信はなかった。

 森に帰れたら。もう一度王さまと仲直りできたら。

 許されない願望を抱いては、遠目に森を眺めてばかりいるのだった。

 昼頃まではそうしてベッドの上でとりとめもないことを考えていたが、やがて退屈に耐えられなくなったイエリは外に出ることにした。兵士は基本的に森のほうばかり見ているから、家の外で森を見るくらいならば見つからないだろう。楽観的に考え、ドアを開ける。

 外では爽やかな風が吹き、イエリの髪をなびかせる。よく晴れた、気持ちのいい陽気だ。イエリはドアの前に座り込み、森をぼんやりと眺めていた。

 そういえば、あの竜はどうしたかな。夕方に見た、紫の鱗をした──。

「……て、あれ?」

 呟いてから、我に返る。あの竜とは、何のことだろう。夕闇の中、濃い紫色の鱗が血に濡れている光景が頭をちらつく。森でそんな竜と出会っただろうか。なんだかおかしな気分だ。思い出そうとすると思考に霧がかかり、うまく掴めない。しかし、なにかとても重要なことな気がする。イエリは何を忘れているのだろう。

「紫の竜で、目が……黒くて? わかんない」

 喉元まで出かかっているのに正解が分からず、とても気持ちが悪い。小さく唸りながら、髪を掻き乱す。

「おおい、イエリ」

 考え込んでいると、遠くから声を掛けられ思考が中断される。顔をあげれば、一人の老人がやってきているのが見えた。

「おじいさん!」

 彼、クレイはフリアナの近所で同じく農家を営んでいる男性だ。イエリの存在をしっている数少ない人物であり、困ったことがあればいつでも呼んでくれと言ってくれていた。背が曲がり体中に皺やシミが浮いているが、「まだまだ現役だわい」とにっかり笑う。さっぱりとした人柄の彼にイエリは懐いていた。

「どうしたの?」

「フリアナに話があるんだが」

「そうなの? 今日は出かけてるよ」

「おや、タイミングが悪かったかの」

 彼は肩をすくめて見せた。急ぎの用ではないらしい。おどけたようなクレイの様子に、イエリはくすりと笑った。

「しかし、フリアナがいないのに外にいていいのかい?」

「ちょっとくらい、見つからないよ」

 フリアナは最近、やけに神経質にイエリを見張っている。兵士の来る時間帯も把握しているし、ずっと家の中にいるのは退屈だ。彼女がいない時くらい、息抜きをさせてほしい。

「まあ、イエリは賢い子だから大丈夫だろうが……竜が出てきてからこっち、兵士たちもピリピリしている。気を付けるんだよ」

「竜?」

 クレイの一言がひっかかり、イエリは眉をひそめた。竜が森から出たのか。彼らは思慮深く、よほどのことがなければ森から出てこないはずだ。突然身を乗り出したイエリに驚きながら、クレイは説明してくれた。

「イエリは知らないのかい? ほら、一週間くらい前か。竜が森から出てきて、兵士に討伐されたろう。死人は出なかったけれど、竜が掟を破るのは珍しいからの。皆気が立っておる」

「竜が……?」

 イエリの頭に霧が立ち込めた。酸素が足りない時のようにぼうっとして、目の前がちかちかと揺れている。遠くでクレイが呼ぶ声がするが、膜の内側にいるイエリには届かない。

 竜が殺された。森から出てきたから殺されたんだ。でも、どうしてフリアナは竜のこと教えてくれなかったの? イエリが竜の味方ばかりするから?

 違う。なにかおかしい。イエリは何かを見落としている。

 日が落ちてうっすらと暗くなった景色の中に、目をぎらつかせた竜がうずくまっていた。急所を狙われないよう姿勢を低く保ち、反撃の時を待っている。

 イエリは知っている。殺された竜を知っている。

 いくら息を吸っても酸素が入ってこない。自分の呼吸する声が頭に反響してやかましい。思い出せ、思い出せ。

 竜は一人の男を狙って飛び出した。恐ろしいほどの膂力で、拘束するロープを引きちぎったのだ。しかし竜が男に食らいつく瞬間、男が何かを構えて──。

「あ、ああ……!」

 イエリは頭を抱えて崩れ落ちた。視界が閃光で塗りつぶされ、その時の映像が蘇る。


 竜が殺される瞬間、イエリはその場にいた。


 気が付けば、瞬きを忘れた両目から涙が流れていた。涎や鼻水を垂らし、汚いうめき声をあげる。突然蹲ったイエリを心配したのか、クレイが背中をさすっていた。

「イエリ、イエリ! 具合が悪いのかい?」

「は、うぐ、ああ……っ」

 言葉を発せず、ただ首を横に振る。心臓が握りつぶされるような痛みに襲われ、イエリは嗚咽を漏らすことしかできない。

 掟を破った以上、竜が殺されるのは仕方ない。つらいけれど、竜だって森に入った人を食べる。同じことだ。しかし、竜が意味もなく森を出るとは思えない。卵泥棒のように、なにか人側の策略でおびき出されたのだとしたら。

 怒りにも似た悲しみが、イエリの胸を裂いた。

 確かめなくてはならない。あの竜がただ掟を破っただけの異端者か、人に嵌められた被害者なのか。

「おじい、さん」

 イエリはしゃくりあげながら、涙に濡れた瞳でクレイを見上げた。

「イエリ、行かなきゃ……」

「行くってどこにだい。こんなに真っ青な顔で」

 クレイは気遣うようにこちらを覗き込んでくる。話をしていた相手が突然苦しめば心配もするだろう。イエリは彼の優しさに感謝しながらも、きっぱりと言い切る。

「恩返し……フリアナにもおじいさんにも助けてもらったけれど、その前に助けてくれた人が……ううん、竜がいるの」

「竜だって?」

 クレイは目を白黒させている。イエリは顔をわしわしと拭うと立ち上がった。頭がくらりとしたが、必死で姿勢を保つ。

「フリアナが帰るまでにイエリが戻れなかったら、出かけたって伝えてほしい。フリアナにもおじいさんにも恩返しは絶対したいけど、でも、これはイエリにしかできないことなの」

 竜は森から出られない。つまり、平原で人が何を企んでいるのかを知ることはできない。人が何かを計画し竜を陥れようとしているなら、それはイエリにしか確かめられないだろう。

 クレイは困惑していたが、イエリの目に強い意志が宿っていると知ると、説得は諦めたようだった。

「せめて、フリアナが帰ってきてから……」

「フリアナは絶対駄目って言うし、あまり時間が経つと分からなくなっちゃう」

 竜が殺されてから一週間は過ぎている。今から調べても証拠が残っているかは怪しいところだが、だからこそ余計に時間をかけるわけにはいかない。頑固なイエリを見て、クレイは頭を振った。

「全く、フリアナになんて説明すればいいんだ」

「……ありがとう、おじいさん」

 フリアナとクレイは、イエリが今まで出会った人の中で一番親切だった。温かい食事や綺麗な寝床のある生活がどれほど心安らぐものか、イエリは初めて知った。

 けれど、行かなくては。どちらにせよ、シオを探しに行くのならここに留まってはいられない。潮時だったのだろう。

「助けてくれて、優しくしてくれてありがとう。おじいさんもフリアナも大好き」

「困ったことがあればまた戻っておいで。わしもフリアナも歓迎するからの」

 イエリは精一杯の笑顔を浮かべた。そして、気合を入れるために自分の頬を叩く。

「おじいさん、兵士の詰所はどこ?」

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