境界を犯すもの
フリアナとの暮らしは、イエリにとって心安らぐ楽しいものだった。
彼女は朝早く目覚め、飼っている山羊から乳を絞る。簡単に朝ごはんを済ませると畑へ出て、小麦の様子を観察する。今の時期は小麦を成長させる段階らしく、発育の邪魔にならないよう雑草を抜くのが重要らしい。葉に斑点が浮く病気などにかかればその対処も必要になる、とても繊細で根気のいる仕事だった。
イエリは洗濯や掃除の他、兵士の見回りがない時間には農作業を手伝った。農地は広大で、それをこれまでフリアナ一人で面倒を見ていたというのだから驚きだ。知識のないイエリにできるのは雑草を抜くことだけだが、それでもとても助かるとフリアナは喜んでいた。
一日働きまわると、夜にはベッドに横たわった瞬間眠ってしまう。毎日忙しかったが、誰かに罵倒されることも、食事の心配もない。村に暮らしていた時よりも充実した暮らしだった。
一方で、「村」探しは難航していた。
フリアナは可能な限り「村」について調べてくれたが、めぼしい情報はなかった。森の近くにありながら兵士の巡回がない村など、聞いたことがない。巡回にきた兵士にもそれとなく探りを入れたが、彼らもそんな場所は知らなかった。
また、兵士に見つからないようタリステリアから離れる方法だが、こちらも現状手詰まりだ。イエリが森から追い出される少し前から、兵士たちの動きがにわかに騒がしいとフリアナは話した。
「都で何かあったか、竜に大きな動きがあったか……詳しいことは分からないけれど、今動くのは危ないわ」
どうせ村の場所も分からないのだ。無闇に動いて捕まっては、シオを迎えに行く機会を永遠に逃してしまう。イエリは大人しく、フリアナのもとで過ごしていた。
フリアナは、農作業の合間に様々なことを教えてくれた。イエリはあまりにも世界について無知だ。彼女の教えてくれる事実は、イエリにとってとても興味深いものだった。
太古の昔には人と竜は共に暮らしていたが、諍いが起きるようになり、二つの種族は住処を分けた。
人は平原と川に、竜は海と森に。その領域を侵さず、互いに不干渉であれ。
人の王と竜の王が不可侵の掟を取り決め、今もなおその掟に従って暮らしている。
人は川の傍に集落を作り、村となり、町へ発展した。人口は増え続け、今ある領土だけでは食料が賄えなくなってきている。おまけに、一部の富裕層が財産を独占しているため、貧しい者たちは激しい飢えに苦しんでいる。
飢えて死ぬか、一か八かで森へ入って食べ物を探すか。その選択を迫られた結果、森へ足を踏み入れる人が後を絶たないそうだ。
「兵士は、森から出てくる竜は見逃さないけれど、森に入っていく人は気にしない……私は農家をやっているからなんとか飢えずにすんでいるけれど、そうでなければあっち側だったかもしれないわね」
イエリは複雑な気持ちでその話を聞いていた。
イエリは裕福な暮らしではなく、日々ゴミを漁って生きていた。もっといい家に暮らし、毎日食事にありつける暮らしであればいいのにと想像したこともある。しかし、それで森に入って食料を探すのは、ルール違反だ。
「竜はこっちに出てこないよ。なのに、人は勝手に入るの?」
「竜を殺して食べるわけじゃないわ。少しだけ、果実や動物をもらいたいだけ。誰だって、飢えて死にたくはないでしょう?」
「でも、動物は竜の食べ物だよ。人がとったら竜が困っちゃう」
イエリ自身森で果物や魚を食べてはいたが、王から許可をもらっていた。もし人が本当に食料に困っていて食べ物を分けてもらいたいのなら、王に尋ねるのが先ではないのだろうか。
「人の王さまが、王さまに……竜の王さまに聞けばいいのに。少しだけご飯を分けてくださいって。王さまは優しいからきっと」
そこまで言ってから口を押さえる。イエリが竜の王を知っていることはフリアナに話していない。フリアナは、急に黙ったイエリを怪訝そうに見つめたが、やがてため息をついた。
「それが出来ればいいのだけど。王は市民の窮状には無頓着だわ。都にこもって、何をしているのかも定かじゃない。王妃が実権を握っていて、そのせいで今の富裕層優遇があるの。市民の声が王に届くことはないし、王が竜の王へ掛け合ってくれる、なんてことも起こりえないでしょう。
それに竜は人を捕食するわ。所詮動物だもの、話したところで分かり合うことができるとは、とても……」
しかしそれは、やはり人の都合でしかなかった。
人が自ら起こした不始末を、竜の領域を侵すことで解決しようとしている。イエリにはどうも違和感がある。
王やアオや、他にも森に暮らしていた竜は皆穏やかに見えた。追いかけられて食べられそうになったこともあるが、あれはイエリが許可なく森へ踏み入ったせいだ。竜は、フリアナが話すように野蛮で知能が低いものとは思えなかった。
納得できない様子のイエリを見て、フリアナは首を傾げていた。
「イエリは不思議ね。まるで竜の味方をしてるみたい」
イエリは思った。もし母が生きていたら、竜についてどう考えただろうか、と。
人が竜を心底憎んでいると実感できる機会は、すぐに訪れた。
フリアナと暮らし始めて二か月ほどが過ぎた頃。「村」についての情報がないことにやきもきしながらも、農作業を繰り返す日々に馴染んでいた。やってきたころは真っ青だった小麦はわずかに色づき始め、畑に黄金の波がやってきた。もう少しすればいよいよ収穫だとフリアナが嬉しそうに話す。
その日、イエリは家の前で農具を磨いていた。収穫となれば鎌が必要になる。刈り取りがスムーズに行くよう、鎌を研いでいた夕方だった。
遠くから大きな咆哮が聞こえた。空気がびりびりと震え、傍でさえずっていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。心臓まで響くようなその音を、イエリは知っていた。
「この声……竜!?」
イエリは思わず鎌を放り出し、畑へ向かって駆け出した。畑では、小麦の様子をチェックしていたフリアナが驚いたように腰を抜かしている。
「フリアナ!」
イエリが叫んで駆け寄ると、彼女ははっと正気に返って叫び返した。
「イエリ、出てきちゃ駄目よ!」
よろよろと立ち上がろうとするフリアナのもとへ駆けつけ、肩を支える。驚いて転んだだけで、特に怪我はないようだ。イエリはフリアナの無事を確かめてから、改めて森へ目線をやった。
「竜の鳴き声だ」
「こんなに大きなのは初めて聞いたわ。急いで家に入りましょう。竜が出てくるかもしれないし、そうなれば兵士も来る」
フリアナは肩を押して家へ向かおうとするが、イエリの足取りは重かった。どうしても竜が気になるのだ。
この鳴き声、竜に襲われた時に聞いたのと同じだ。狩りをしてるの? ううん、竜の狩りはもっと静かだった。
のろのろとしたスピードをフリアナに叱られながら、イエリはふっと思いつく。
──人だ。森に人が入ったとき、人を狩るときあの鳴き声をだすのかもしれない。
「フリアナ待って」
イエリがいよいよ立ち止まると、フリアナは汗だくの顔で振り返った。
「イエリ、ちょっと見てくる」
「なにを馬鹿なこと!」
絶叫に近い叱責を浴びて、イエリは首をすくめた。フリアナはかつてないほどの剣幕で告げる。
「竜に食われて死ぬか、兵士に見つかって奴隷監督所に送られるかしたいの?」
「死にたくないよ! でも、竜が……」
イエリが気にかかっているのは、卵泥棒のことだ。
前にやってきた卵泥棒は、竜を外へおびき出すために卵を盗もうとしていた。もし今回も同じだったなら?
「このまま家で隠れてるのは嫌。危なくても行く。止めても行く!」
イエリがキッとフリアナを睨む。彼女もまた恐ろしい形相でこちらを見ていたが、イエリが折れるつもりがないと理解し、頭を抱えた。
「なんて頑固なんでしょう、全く……」
フリアナは帽子をイエリの頭に被せると、自棄になったように首を振った。
「私も行くわ。遠目に少し見るだけよ。危ないと思ったら引きずってでも帰りますからね」
その言葉に、イエリはぱっと表情を和らげた。
「ありがとう、フリアナ!」
大きな咆哮は先ほどの一回のみだったが、小さな鳴き声は断続的に聞こえていた。声は家の北側からだ。兵士が通るたびにイエリたちは体を伏せ、見つからないようやり過ごした。
兵士たちは、竜が出てくると思われるポイント近くで固まって待機していた。彼らは武装しており、皆緊張した面持ちで森を見つめている。近くには、用途が不明の器具が置いてある。
イエリとフリアナは畑の北端近くへ行き、小麦の中に隠れた。日が落ち始めて視界の悪くなっている今、しゃがみ込んでしまえばそう簡単には見つからない。少し距離があるが、兵士の集団の様子は確認できる。それに、これ以上近づくことはフリアナが許さなかった。
「竜が来るぞっ」
兵士の怒号と共に、竜の気配が近寄ってくる。その空気は、離れているイエリの元まで伝わってきた。
竜は怒り、興奮している。木の枝をへし折る音と、荒い呼吸が聞こえてきた。それだけで、身の毛がよだつような恐怖を感じ、イエリは自分の肩を抱く。腕を強く握られたためそちらを見れば、フリアナも顔を真っ青にしていた。竜の森で暮らしていたイエリですら恐ろしいのだ。フリアナの恐怖は筆舌に尽くしがたいものだろう。
一際大きくボキリと音がした瞬間、その竜は飛び出してきた。
紫紺の鱗を持った、体躯の大きな竜だ。黒い瞳がぎらついて薄闇の中をせわしなく見渡す。その瞳が自分を捉えるのではと恐れたが、竜は目の前の兵士たちに気を取られたようだ。牙を剥き出し、獲物に食らいつく瞬間を今か今かと待ち構えている。竜は飛び出してきた勢いのまま、兵士の所へ突っ込んでいった。何人かが弾き飛ばされ、地面を転がっていく。
しかし、兵士にぶつかったためか竜の勢いは削がれていた。突進をやめ、弾き飛ばされなかった者たちを振り返る。
「今だ、やれ!」
一人の兵士が叫ぶと、脇に構えていた者たちが一斉に、謎の器具を作動させた。
瞬間、バン! と大きな破裂音を立て、器具から槍が射出された。その槍は、人の手で投てきするのとは比べ物にならない速度で竜に向かっていく。
竜の鱗は、成竜であればどんな刃も通さない硬さを持つ。見たところ大人と思われるこの竜に、槍の攻撃が効くとは思えない。実際、竜も一瞥するのみで槍を避ける動きは見せなかった。
だが、予想に反して槍は竜の体へ吸い込まれ、深々と突き刺さった。前足、胴、背中、彼らの槍は一本残らず竜に命中していた。イエリは信じられない気持ちでその光景を見つめる。
竜も槍が刺さったことに驚き、体を捩って叫び声をあげる。しかし槍には頑丈そうなロープが括られており、身動きが制限されてしまったようだ。ロープを千切ろうとした竜が暴れると、傷口から赤い鮮血が噴き出した。槍の装置を作動させた者は下がり、次の指令が飛ぶ。
「動きが鈍いうちに逆鱗を狙え!」
兵士たちは恐怖か気合か分からない叫びをあげながら、竜へ向かって矢を放ち始めた。細い矢では、鱗を貫通したとて大したダメージにはならないはずだ。しかし、兵士たちが皆同じ場所を狙っていることに気が付く。
「そうか、逆鱗を」
思わずといった様子で呟いたフリアナを問い詰める。
「逆鱗ってなに?」
「竜の喉にある鱗のことよ。色味が少し違う鱗……そこが竜の弱点なの」
つまり、ロープで拘束して動きが鈍っているうちに、竜の弱点を突こうということか。竜に比べて圧倒的に非力な人が考えた、合理的な作戦に思える。イエリは納得しながらも、竜がなんとか逃げ出せまいかと祈るように見つめてしまった。
竜は逆鱗を狙われていると気が付き、頭を低く下げた。そして兵士たちを睨み、唸り声で威嚇する。兵士はたじろぐが、すぐに違う指示が出された。
「逆鱗がだめなら目を狙え。どこでもいい、とにかく弱らせるんだッ」
竜は尻尾や足で牽制するが、遠くから弓で狙う兵士には届かない。ロープの先は槍を射出した装置に繋がっており、重量のある装置を引きずって俊敏に動くのは難しいようだった。
それでも、竜は大人しくやられてなるものかと一際大きく吠え、矢を放つ兵士へ突撃していく。装置が地面を引きずられ、やがて重みに耐えきれずロープがちぎれていく。
「うわあああああああ」
弓を持っていた兵士は蜘蛛の子を散らすように散開する。その中で、何名かが逃げ遅れて尻もちをついた。
竜は、逃げ遅れた兵士の一人に狙いをつけたようだ。ぐわりと大口をあげ、鋭い牙で男を噛み殺そうとする。狙われた男は情けない悲鳴をあげながら咄嗟に何かを構えた。
「見ちゃ駄目!」
イエリはフリアナから目をふさがれ、その瞬間は見えなかった。最も、フリアナが何もしなかったとしても、自分で目をつぶっていたかもしれない。いくら竜を心配していたとしても、人が食われる場面は見たくない。
「え、あら、え……?」
何か様子がおかしいと気が付いたのは視界が遮られて数秒後だ。フリアナの戸惑うような声だけがして、兵士の悲鳴がやんでいる。イエリは好奇心に負け、フリアナの手を振りほどいた。
「ああ、イエリ!」
フリアナの制止する声は耳に入らなかった。
竜は、大きく口を開けたまま止まっていた。その光景は、かつてイエリを食べようと迫ってきた竜にもどこか似ている。しかし決定的に違うのは、その竜の下顎から、槍が突き出していたところだ。
竜はゆっくりとその体を傾けると、地響きを立てて地面に横たわった。重い竜の体がぐったりと力を失い倒れている。
「う、ああ、あ……」
竜の下から、食われそうになっていた男が後退って出てきた。彼は竜の血を全身に浴びていたが、大きな怪我はないようだ。近くにいた別の兵士が駆け寄り、「大丈夫か」と声をかけている。
どうやら、男は食われそうになった瞬間に槍を構えたらしい。それは見事竜の喉元を直撃し、逆鱗を一突きしたようだった。竜はそれによって絶命していた。圧倒的な強者である竜は、人の一撃で死んでいた。
「やっ、た…………やったぞ、殺した!」
うわあああ、と雄たけびが上がる。歓喜と安堵によるその叫びは、どこか狂気じみていた。兵士たちは皆槍を掲げ、喜び、勝利を祝っている。
「すごいぞ、誰も死んでいないんじゃないか? おい、怪我人の手当急げ!」
「この新しい槍、本当に鱗を貫通した! 竜に通用するんだ!」
「ざまあみろだ」
「本当だぜ、この……騒がせやがって! クソ!」
イエリは奇妙な脱力感に襲われながら、狂喜乱舞する兵士たちを眺めていた。森から出た以上、竜は死ぬ。仕方のないことだった。
「この忌々しい竜め!」
最初に「それ」をやったのは一人の兵士だった。
彼は悪態を突きながら、倒れた竜に向かって槍を突き立てた。まるでパンにナイフを入れた時のように、槍は簡単に刺さった。命の残滓が残っているのか、そこから血が弱弱しく流れ出る。
「俺の爺さん、森へ入って二度と帰ってこなかったんだ。こいつらがいるせいで!」
「この獣が!」
「畜生! くたばれ!」
勝利の歓喜は、兵士たちを奇妙な興奮状態へ陥れた。彼らは口々に竜への恨みを叫びながら槍をふるった。竜は微動だにせず、槍が引き抜かれるたびにわずかに体を揺らすだけだ。
「あ、あ、どうして……もう死んでいるのに……」
竜の目は明後日の方向を向いて光を失っていた。竜の死体が蹂躙される様を見ているうちに、イエリの喉がカッと熱を持つ。
「やめて、や……っ!」
「駄目よ!」
イエリが飛び出して行こうとすると、後ろからフリアナが押さえつけてくる。イエリの口を覆い、暴れる手足を抱きこむ。イエリは唸りながら、無茶苦茶に暴れて泣いていた。
どうして、どうして! 酷い、酷い、酷い!
「ふぐ、ぅ、う……!」
「耐えて。出て行ったら貴方は捕まってしまうわ!」
怒りと悲しみに我を忘れ、イエリはただ呻くことしかできない。泣きながら地面に伏せられるうち、目の前が歪んでいく。酷く胸が悪い。
──こいつアーナの娘か。きたねえ鼠かと思った。
イエリはいつも動けない。何かに押さえつけられて、何か……そう、槍だ。槍がイエリを刺しては抜いて蹂躙する。兵士たちが竜の死体にするように、イエリは何度も刺されて死んだ。
──クソ、ここは女が少なすぎる。なあ……お前名前なんだっけ。まあいいか。おい鼠、しっかりしろよ。死んだら面倒だろ。
イエリは死んだ。死ぬたびに放り出されて、そのうちまた生き返る。大丈夫。どれだけ怖くても、つらくても、外のイエリが覚えていなければ大丈夫。内側のイエリは何回死んでも生き返る。だから大丈夫。イエリには、酷いことは「起こらない」。
イエリはそのまま気絶した。




