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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第二章 境界の地
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平原にて

 森からは、一か月以上も彷徨っていたのが嘘のようにあっさりと出られた。

 イエリが出たのは、のどかな景色の場所だった。一面に青い小麦畑が広がり、風が吹くたびにさらさらと揺れている。日が傾き始めた夕方、オレンジ色に染まる平原は美しい。イエリの村では小麦を育てていなかったため、初めて見る光景だった。畑の向こう側にぽつぽつと家が立っている。

「きれいだな……」

 イエリは思わずほうっと見惚れた。そのせいか、すぐそばに人がいることには気が付いていなかった。

「あら、お客さん?」

 イエリは声を掛けられぎょっと跳ねあがった。完全に油断して立ち尽くしていた。周囲を見渡すと、畑の柵の内側に一人の女性が座っている。土汚れた作業着に、よく日焼けした顔。赤毛は麦わら帽子の中にしまわれて、汗のにじむ首筋を晒していた。女性は四十歳ほどだろうか。穏やかな笑顔を浮かべていたが、イエリを見ると目を見開いた。

「子供? それに……」

 女性の目線が首元へ落ちる。イエリ自身もはっとして首輪に目線を落とした。こんなものをつけてうろうろしていれば、脱走した奴隷だと一目でばれてしまう。どこかへ隠れようにも、あたりは一面開けており畑ばかり。イエリはとにかく逃げ出そうと走り出す。

「待って!」

 しかし、離れる前に女性から鋭く呼び止められる。無視して逃げてもよかったのだが、動揺していたイエリは大人しくその場にとどまった。振り向くと、女性は立ち上がって手招きをした。

「もうすぐこのあたりにも巡回の兵士がくるわ。おいで。見つかりたくないんでしょう?」

 躊躇ったのは一瞬だ。イエリは頷き、女性の傍へ駆け寄った。彼女は微笑むと、イエリの手を引いて遠くの建物へ小走りで向かった。

「兵士は森の近くを見て回っているけれど、家の中までは見ないわ。ここならまず見つからないはず」

 女性はイエリを自宅へ連れていった。小さな家だったが、中には大小様々なものが溢れかえっていた。食料や農作業の道具、洋服などが所せましと置かれている。赤いギンガムチェックのテーブルクロスやカーテン、瓶に活けた花。ものは多いが、散らかっている印象は受けなかった。女性によって計算された配置なのだろう。雑然としつつもどこか洒落た空気を感じられた。

 イエリが室内を見まわしていると、女性は「散らかっていてごめんなさいね」と苦笑いを浮かべた。そして、すぐに外へ出ていこうとする。

「外の片付けだけしてきちゃうわ。少し待っていて」

 それだけ言い残すと、女性は慌ただしく出て行った。ドアを閉めると、蝶番が軋む音が響き渡る。女性が走っていく足音が遠のくと、室内はいよいよ静まり返った。

 知らない家に一人取り残されたイエリは、呆然と立ち尽くした。

「ど、どうしよう……」

 流れに身を任せてここまで来てしまったが、大丈夫だろうか。片付けをしてくると言っていたが、兵士を呼びに行ったのかもしれない。イエリはさーっと血の気が引き、落ち着きなく室内を歩き回った。悪い人間には見えなかったが、見た目では判断できないものである。もし兵士を呼びに行ったのであれば、このまま待っているのは危険だ。しかし……。

 結局、人を疑うのが苦手なイエリは、女性の帰りを待つことにした。イエリを引き留めた時の真剣なまなざしが嘘でないと信じたかったのだ。

 しばらく待っていると、女性はばたばたと帰ってきた。ドアを開けると、所在なく立っているイエリに気が付きほっとした表情を浮かべた。

 イエリは女性の後ろから兵士が出てくるのではと警戒したが、その様子はなかった。女性はただ本当に片付けをしてきただけらしい。

「急に置いて行ってごめんなさい。農具をほったらかしにするのはよくないから」

 女性はそう言うと、こほんと咳払いをしてイエリに目線を合わせる。

「私はフリアナ。ここで小麦を育てているの」

 フリアナと名乗った女性は、顔の皺を深くして笑った。帽子を外すと束ねた赤毛があらわになる。一日働いた後の汗の匂いがかすかにした。

「イエリ」

「貴方の名前?」

 イエリが頷くと、フリアナは笑って「よろしくね」と握手を求めた。握手を求められたのは初めてで、困惑しながらそれに答える。フリアナの手は大きく、とても温かかった。

「その様子だと、主人のところから逃げてきたのかしら……」

 フリアナはイエリを全身観察しながら呟く。イエリはぼろぼろのシャツ一枚で、顔から手足まで泥だらけだ。森の中では時折水浴びをしていたが、外に暮らしている人から見れば汚れてみえるのだろう。フリアナは痛ましそうに顔をしかめた。

「ずいぶん酷い扱いをされていたのね。もう大丈夫よ」

 フリアナはイエリの背中をさすり、安心させるような口調で語りかけてきた。

 イエリは、森の中のことは黙っておこう、と決めた。特に理由はないが、竜たちのことを赤裸々に語ってしまうのは、どこか裏切りのように感じられたのだ。それに、森に滞在していたと説明しても信じてもらえるとは思えない。イエリはフリアナに対して曖昧に頷いた。

「ひとまず体を洗って綺麗にして、服も変えましょう。そうしたらご飯ね」

 フリアナはイエリの背中を押して家の裏手へ向かう。

 庭に出ると、ぼろきれのようなシャツを脱がせ、水桶からすくった水を被せてきた。冷たい水を頭からかぶると、思わず悲鳴がこぼれる。逃げようとするイエリに対し、フリアナは「ちょっと我慢して」と押さえつけてきた。そうして体中の泥が落ちるまで水を浴びせられた。

 濡れ鼠になった後は、乾いたタオルで拭われ、フリアナのシャツを渡された。

「サイズが合わなくても許してね。息子の服なんてもう何年も前に捨てちゃったのよ」

 案の定シャツは大きかった。そのまま着るとワンピースのような丈になるが、他に替えもないため仕方ない。どちらにせよ、世話になっているイエリが文句など言うはずもなかった。

 イエリが着替えを終えて食卓に座るころには、フリアナが料理を始めていた。イエリは特にすることもないため、フリアナの作業を見守る。

 まず、小麦を練った白い生地を薄くのばし、成形する。その生地をフライパンで焼き、焦げ目がつくまで待つ。その間に、棚の上に並んだうちの一つの瓶を選び取る。フリアナはその中身を確認して、一人頷いていた。

 その間に、焼いていた生地もちょうどいい塩梅になったらしい。薄い生地を皿にとると、先ほど選んだ瓶の中にスプーンを入れて中身をすくいとった。濃い紫色をしたなにかを生地にかけ、その皿をイエリに差し出した。

「おまたせ。どうぞ召し上がれ」

 薄い小麦の生地からは香ばしい香りが漂っている。その上にかけられた紫の物体は、イエリの初めて見るものだった。どろっとしており、液体と固体の中間のような姿だ。鼻を近づけると、甘い香りがする。いったいなんなのだろう。

 不思議に思いつつも、イエリは空腹に勝てなかった。朝起きて果実をかじって以降、なにも口にしていないのだ。その後王に花冠を作り、怒られ、森から追い出された。空腹もいよいよ限界だ。イエリは恐る恐る、その食べ物に口をつけた。

 口に入れると、真っ先に爽やかな酸味と甘味が広がる。この紫色のものは、果物だろうか。独特の酸味があるが、疲れた体にはちょうどよい。

「それはチルのジャム。昨日作ったところだったの。甘酸っぱくて美味しいでしょ?」

 イエリは鼻息も荒く頷く。焼いた生地は表面はカリカリしているが、中はもっちりとしていて食べ応えがあった。夢中になり、がつがつと食べ進めた。

 あっという間に食事を終えると、イエリははっと我に返った。空腹に任せるまま、礼も言わずにがっついてしまった。カッと顔を赤くしながら、フリアナに向き直る。

「あの、おいしかった! ありがとう!」

「いいえ。どういたしまして」

 フリアナは気を悪くした様子もなく、にこやかだった。空になった皿を下げると、イエリの前の席に座った。

「さっきまではしおれた花みたいだったけれど、今はいい顔ね。元気になってよかったわ」

 フリアナは善意でイエリを助けてくれたらしい。兵士を呼びに行く様子もない。信じていいのではないだろうか。

 自分の直観を信じ、イエリは口を開いた。

「ここってどこ?」

「ここはタリステリアの端っこ。森との境界地点ね」

「たりす……?」

「あら、知らない?」

 フリアナは目を丸くしながらも、イエリのために優しく説明してくれる。

「タリステリア。平原と森の境目にある場所のことよ。平原の東側は大山脈、西側は竜の大森林。つまり、平原の西側地区のことをタリステリアって呼んでいるの。ほとんどないけれど、竜が飛び出してくる可能性があるから、兵士がいつも見回りをしているわ」

 それを聞いたイエリは驚いた。では、イエリが住んでいた村もタリステリアだったのだろうか。村は森の近くにあったため、フリアナの説明に基づけばイエリの村もタリステリアにあることになる。しかし兵士による見回りなど一度も見たことはない。

 その旨を説明すると、フリアナは首を傾げた。

「兵士がいないなんてあるのかしら……あなたのいた村の名前は?」

「……名前?」

 今度はイエリの頭がクエスチョンで埋め尽くされる。

「イエリの村は、村だよ」

「ええと」

 フリアナははっきりと戸惑っていた。

「平原にもね、村はたくさんあるのよ。その一つ一つを区別するためにそれぞれ名前がつけられているの。だから、あなたの村にも名前があるはずだわ」

 そうは言われても、イエリは一度も聞いたことがない。村から出たのは奴隷として売られた時が初めてで、その時も村の名前など耳にしなかった。村民たちも皆「村」としか言わず、個別に名前があるようには思えなかった。

「覚えていないのかしら。でもそうね、タリステリアにある村はそう多くなかったはず……」

 フリアナは、イエリが幼さゆえに村の名前を覚えていないと考えたようだ。しかし、イエリはそもそも聞いたことがないのだ。覚えていないと思われるのは少しばかり癪だった。

「イエリは、自分の村に帰りたい?」

 フリアナの問いには素直に頷く。村に戻ればシオの安否が掴める。もし森へ捨てられたのなら再び森へ入らねばならないし、そうでなければシオを引き取ってどこかで隠れ住むしかない。

 シオが森に来たら、竜や王さまはどうするかな。なんだかんだみんな優しいから、イエリが迎えに行くまで面倒を見てくれるかも。

 仏頂面の王がシオを抱きかかえている場面を想像してくすりと笑う。王は指先が竜の爪のように尖っているから、シオを傷つけないかだけ心配だが、きと注意して触れてくれるだろう。

 ひとしきり想像を楽しんだ後、イエリは自分が王に嫌われてしまったことを思い出した。そして改めて少し落ち込んだ。

「村に帰るといっても、村の名前が分からないと場所も分からないわね。それに、その首輪……」

 指摘され、反射的に首へ手を伸ばす。冷たい鉄がイエリの細首を覆い、かっちりとはまっていた。人の力では壊せず、奴隷商人の持つ鍵がなければ開かない。そしてこれがついている限り、イエリが脱走奴隷であることは明白だった。

「街道には兵士がいるわ。すぐに捕まって奴隷監督所へ連れていかれるでしょう。それとも、イエリが逃げたことを知って探し回っているかしら……」

 奴隷監督所。奴隷の売買やトラブルの窓口となる機関だ。現在流通している奴隷の全てが奴隷監督所のもとにあり、奴隷が逃げたり問題を起こした際もこちらの機関が対応する。王も奴隷制度については黙認しており、奴隷監督所との繋がりが強い。一介の兵士であっても、見つかれば奴隷監督所へ突き出されるのは目に見えている。しかし、兵士が今もイエリを探し回っているとは考えにくかった。

「兵士に見つからなければ大丈夫だと思うんだ。イエリが逃げたこと、きっとばれてない」

 イエリを移送していた奴隷商人は森を通った。商人や他の奴隷諸共行方不明になっているため、イエリ一人が逃げ出したことはばれていないと信じたい。奴隷監督所が森を通過することを了承していたかは不明だが、把握していたとすれば奴隷は皆竜に食われたと思ってくれるだろう。

 細かい事情を伏せつつもイエリが自信ありげに言えば、フリアナは首を傾げた。深く追及されても困るため、イエリは身を乗り出して続けた。

「イエリ、早く帰りたい。弟が村にいるの」

「そうなの?」

 イエリがシオの話をすると、フリアナの目が一層同情的になった。何とかしてやりたいという気持ちがひしひしと伝わってくるが、どうにもならないのが現状だ。フリアナは酷く言いにくそうに言葉を詰まらせる。

「イエリ、でもね、イエリが村から連れ出されたのは、一か月以上前なのよね」

「うん、多分それくらい」

「貴方の弟……シオは生まれてすぐの赤ちゃん?」

「そうだよ。ほかほかでしっとりしてるの」

「そう……あのね……」

 フリアナは目線を落ち着きなくあたりへ飛ばし、しきりに自分の手の甲をさすっている。唇が薄く開いては閉じ、言葉が出る前に消えていく。突然緊張し始めた彼女に、イエリは疑問を抱いた。

「どうしたの?」

「その……」

 フリアナはしばらく黙り込んだが、やがて諦めたようにうつむいた。

「……いいえ。なんでもないの。どうにかして、村に戻らなくちゃね」

 彼女は弱弱しく微笑んだ。イエリはその理由が分からず、静かに頷いた。

「とにかく、貴方が捕まったら元も子もないから、兵士に見つからないようにしなくちゃいけないわね。タリステリアには兵士が多いし」

 目下の問題はそれだ。

 フリアナ曰く、タリステリアには多くの兵士が常駐している。日に三度は森の近くを巡回し、異常がないか確認する。タリステリアは竜が飛び出してくる可能性が高い危険地帯であり、民家がほとんどない。開けた小麦畑が続き、身を隠す場所も少ないとのことだった。

「夜ならあるいは……とも思うけれど、足元が見えなくて側溝にでも落ちたら事だわ。下手に出ていくのは危険かもしれない」

「そんなあ」

 向かうべき村の場所も分からない上、ここからも動けないなんて。肩を落とすイエリをフリアナが励ます。

「イエリ、一つ提案なのだけど」

 フリアナは人差し指を立てた。

「イエリの村の場所が分かるまで、ここに隠れているのはどう? 住人は少ないけれど、農家の仲間たちにそれらしい村がないか聞いてみるし、その間に兵士から隠れて歩ける方法が見つかるかもしれない」

 どうかしら、とフリアナが言った。その提案はイエリにとって願ってもないものだったが、そこまで世話になってもいいのだろうか。

 迷っているイエリの様子を察したのか、フリアナは芝居がかった口調で続ける。

「旦那が亡くなって、息子も今年は都へ出てしまって……一人で小麦の面倒を見るのが大変だなって思っていたの。少しでもお手伝いしてくれる人がいればうれしいのだけど」

 イエリが口を開けてフリアナを見つめると、彼女は小さくウインクをする。

 こんなに良くしてくれるのに、断るほうが悪いかも。

 イエリはひとまず、彼女の厚意に応えることにした。

「おせわになります」

 イエリがぴょこりとお辞儀をすれば、フリアナの視線が温かくなる。


 こうしてイエリは、打開策が見つかるまでフリアナの元に留まることとなった。

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