とりあえず、映画に行こうか
終業後の建設課は、静まり返っていた。
ほとんどのパソコンは閉じられているけれど、お目当ての岡田さんのパソコンは起動したままで、まだ帰宅していないと確認ができる。
『岡田秋彦さんへ お疲れさまです! いつもの映画館で、今日のレイトショー、星々の子たち、を見に行きます。お待ちしています! 春野喜以子より』
岡田さんのパソコンの画面に、恋心を込めた付箋を貼り、拝み倒す。
パソコンの右下の時刻は、ちょうど十八時を刻んだ。今から車を飛ばして帰宅して、おしゃれをしても映画の時間には余裕で間に合う。
逃げるようにパンプスを鳴らして、建設課から抜けた。
「あ、岡田さん、お疲れ様です!」
ちょうど、廊下で岡田さんとすれ違う。
終業後の草臥れた雰囲気は滲ませているけれど、きりっとした目元は端正なままだ。
長い脚で大股気味に歩いた岡田さんは、私と目を一瞬だけ合わせて、すぐに視線を逸らした。
「はーい、お疲れさまでした」
意識が完全に飛んだ素っ気ない返事をしながら、岡田さんは部署のほうへと戻っていく。
岡田さんの手には携帯が握られていて、チラチラと確認をしているようだった。
私からのメッセージは二日間以上も放置するくせに――と唇を尖らせた。
最初の頃は相手にされなさすぎて落ち込んでいたけれど、今はすっかりと慣れてしまった。岡田さんから距離を置くように、小走りで廊下を抜けて会社から出る。
夜の気配が濃くなった空を仰ぎながら、鼻から大きく空気を吸う。
「どうせ、来ないとはわかっているけれどさ」
子供みたいに、石を蹴る仕草でつま先を浮かせた。
報われない恋心を乗せた付箋が、今頃は岡田さんの目に留まっているだろうか。
夜闇に溶けつつある会社を、振り返る。
建設課のブラインドの隙間から、電気が漏れている。
岡田さんは、どんな顔をして付箋を見ているのだろう。気持ち悪がっているだろうか。
マイナスへと流れる感情を心の奥へと仕舞い込み、私は車を飛ばした。
ショッピングモールに併設された映画館に到着し、作業的にチケットを買う。
平日のレイトショーは、閑散としていた。話題に上った作品でもないから、指で数えるほどの客しかいない。
軽く客席を見回した後で、息を吐いた。
他の映画予告が終わり、スクリーンが狭まる。
暗闇に沈んだ館内に、オルゴールの音色が可愛らしく響いた。
座席に浅めに座り、前屈みになる。
わかってはいたけれど、岡田さんはやはり、現れてはくれなかった。
映画では、小学生の男女が学校の屋上で天体観測をして楽しんでいる。演技とはいえ、眼を輝かせながら笑い合う子たちとは対照的に、私の表情は虚無となっているに違いない。
『また、天体観測をしようね。何年先でも。約束だよ』
一人の女の子が可憐に笑って、他の子が同意の声を上げる。
「いいな、次の約束ができて」
私が岡田さんを映画に誘うには、理由が二つある。
一つは、岡田さんが極度の映画好きだと知っているからだ。映画ばかり行っているから彼女を作る暇がない、と社内でも噂をされている。
それから、もう一つの理由が重要だった。
一度だけ、ダメ元で映画に誘ったら岡田さんは来てくれた。感想を言い合うこともなく解散したけれど、ほぼデートだったと、思っている。
つまり、私は味を占めた。
岡田さんが気まぐれを起こして来てくれたから、同じように誘ったらいつかは根負けしてくれると期待を募らせた。
積みまくった期待は、砕かれる。砕かれても、やっぱり期待を積む。
『いつまで、期待してるの? 何度誘われても、行かないってば。学習しなよ』
映画の場面は子供時代から、高校生へと変わった。思春期を迎えた元親友の子が、軽蔑の眼差しをヒロインに向けて吐き捨てる。
「そうだよねぇ、自覚はしてる」
映画の台詞が、自分の環境にも当てはまり、痛烈に刺さってくる。
『あんた、また来たの?』
「あれ、また来た」
ほぼ同じ言葉をつぶやきながら、私は入り口に眼を凝らした。
そっと侵入してきた人影は、足音を消しながら段差を上る。徐々に私の席に近づき、当然のように、私から一個飛ばした席に沈んだ。
盗み見た横顔は、美人だった。
美人さんがワンピースから伸びた長い脚を優雅に組むと、艶やかなハイヒールが揺れる。
『君は謎めいた人だね』
ヒロインへの評価は、そっくりそのまま美人さんにも当てはまる。
美人さんは、いつも映画の途中でやってくる謎の人物だ。
暗い映画館で顔の判別は難しいのだけれど、すらりとした身体にシャープな輪郭、凛とした瞳の印象から、私は美人だと断定している。
私の一個飛ばしの席に座るのも、お決まりだ。私は後ろ寄りが見やすいからいつも同じ席を選ぶし、美人さんも同じ理由で席を固定しているように思う。
オルゴールの音色で彩られた静かな映画は、淡々と進む。
一度は美人さんに意識を持って行かれたけれど、だんだんと映画に魅入られた。
『とりあえず、天体観測に行こうか』
元親友とヒロインのわだかまりが解け、自然と涙が浮き上がる。
不器用な言い方で元親友が天体観測に誘ったシーンで、エンドロールが流れた。
「良い話だった」
美人さんは一言だけ漏らして、席を立つ。
簡単な感想を漏らしてエンドロール中にさっさと出ていくのも、いつものパターンだ。
「今回も、岡田さんは来なかったな。仕事だよね。忙しいはずだし」
自分自身を虚しくフォローしたけれど、私の脳裏には岡田さんが携帯を大事に握っている姿が浮かんだ。
誰と、連絡を取っていたのだろう。
明るさを取り戻した館内とは対照的に、私の心には靄が残って暗く沈んだ。
独りぼっちの映画鑑賞を終えた次の日も、仕事はたんまりとやってくる。
「うちが資料を配布する意味が、わかんねぇっス。これ、企画課の仕事でしょ」
後輩の杉下君が不満たらたらで、面倒そうに歩く。
押し付けられた全社員用の資料を二人で抱えながら、朝から各部署をぐるぐると回る。
「しょうがないよね。総務課は雑務全般だから」
仕事を無理に捻出しなくても岡田さんに遭遇できるチャンスだから、私は理解のある先輩のふりをしながら胸を躍らせていた。
でも、建設課に近づくほどに、映画に来なかった事実に落ち込み、不安が押し寄せる。
パンプスを大袈裟に鳴らし、気合いを入れ、「失礼します!」と大き目の声で入室した。
「春野ちゃん、おはよう。忙しそうだね」
企画課の岸部さんが、建設課の屈強な男数名に囲まれて談笑をしていた。珍しく、岡田さんも輪の中にいた。
岸部さんは私の姿を見るなり、人懐こい笑顔で手を振ってくれる。昔、ちょっと関わっただけなのに、覚えてくれて嬉しかった。
「お久しぶりです! 今日は、企画課に押し付けられた資料を持ってきました」
冗談めかしで笑うと、岸部さんは手を叩いて豪快に笑う。
「あっはっは、ごめんねぇ。課長が総務課に持って行け、て聞かなくてさ」
岸部さんと話していると、一瞬だけ岡田さんと目が合ったものの、すぐに逸らされた。
相変わらずの塩対応だと心を無にしていたところで、岸部さんが「あら」と声を上げる。
「ねえ、秋彦さん。携帯の光が付きっぱなしよ」
「ん、はは、本当だ、ごめん」
「この前も、してたよ。じゃ、私は自分の仕事に戻るかなぁ」
「そっか。じゃあ、またね」
岸部さんが踵を返しているのに、岡田さんは身を乗り出して笑顔で手を振る。
頭に岩がぶつかったみたいに、衝撃だった。
目の前が真っ白になりながら、私は資料をなんとか掴んでいた。
「岡田さん、おはようございます。これ、皆さんに配布をお願いします」
「あ、はい、りょーかいです」
挨拶もなく、昨日の付箋にも何も触れず、それどころか目も合わせない。
岡田さんは私の手から資料を受け取り、パソコンに淡々と向かう。
失礼しますと、言ったか言っていないかも覚えていない。
「えーと、春野さん。あとは、どの課に行けば良いんでしたっけ」
「秋彦さんって、呼んでた。それに、あの岡田さんが、自分から手まで振ってた」
死体の第一発見者になったみたいな震えた声で、私は心の動揺を零してしまった。
「それ、俺も吃驚しました。岸部さん、他の人は苗字で呼んでるのに、岡田さんだけ下の名前で呼ぶんだぁ、て。それに、岡田さんって、通常は超塩対応なのに、あんなに笑顔になるんですね」
杉下君は私の気持ちを知らないから、べらべらと追い打ちをかけてくる。
「春野さん、俺の勘ですけど、あの距離感は、付き合ってますよ」
杉下君はにやつきながら、私に聞きたくもない現実を突きつける。
「だよね、私も、そう思う。あと、ごめん。残りの配布は、お願いするね」
返事を貰ったかどうかも覚えないまま、私は速足でパンプスを繰り出していた。
映画館で遭遇する美人さんみたいに、優雅に歩けない。
早歩きから小走りへと変えて、近くのトイレに駆け込んだ。
便座に腰掛け、前屈みになる。
眩暈と吐き気と頭痛と胃の痙攣を、同時に感じた。
『何歳になっても、わからんよ。人の気持ちなんて』
昨日見た映画のワンシーンが、蘇る。
かつての親友に冷たくあしらわれて泣いたヒロインに、祖母役の老婆が優しく紡いだ台詞だ。
ずっと、岡田さんの気持ちがわからなかった。
どんなに誘っても、音沙汰がない。
行けなくてごめんねもなく、もう誘わないでとも言われない。
恋が叶う見込みがないとは自覚していたけれど、静かに失恋していくものだと思い込んでいた。
昨日、大事そうに携帯を握っていた光景が蘇る。
私が独りぼっちで映画鑑賞をしていた間に、岸部さんと出かけていたのかもしれない。
「あんだけ親しいんだもん。恋人同士なんだろうな」
片想いの一年間を思うと、自分が哀れでしょうがない。
ずっと、勉強や仕事を頑張ってきた。このまま恋もせずに死ぬのかな、とヘラヘラ笑っていたら、一年前に岡田さんが途中入社でやってきた。
完全な、一目惚れだった。
最初は中華美人みたいな顔つきに惹かれたけれど、ミステリアスな人柄や、黙々と仕事をこなす背中に憧れるようになった。
運命の人がやってきた、仕事を頑張り続けた私にご褒美だ、と舞い上がっていた。
でも、現実は冷たく、運命論なんて鼻で嗤われて吹き飛ばされてしまった。
泣かないように、歯をグッと食いしばる。
携帯がぽこん、と間抜けな音を出す。
『いつも当映画館をご利用いただき、ありがとうございます。当店の利用が三十回となりましたので、一回分の無料鑑賞券のクーポンをプレゼントさせていただきます』
絵文字だらけのメールが、やけに切なく目に映る。
私が映画を楽しんでいたのは、岡田さんとのデートを目論んだからだ。
それまでは、映画とは無縁だった。
「はは、二十九回も振られてたんだ、私」
一回だけ、岡田さんは来てくれた。
裏を返せば、残りの二十九回はすっぽかされていた。
「ごめん、もう、行かない」
映画に行く理由が、無くなってしまった。
誰もいないトイレでそっと呟き、私は残酷な形で砕かれた恋心と共に、映画館からのメッセージを、ゴミ箱に移動させた。
神様はとことん私を虐めたいようだ。
午前中に失恋をして、満身創痍なメンタルで仕事に励んでいたのに、建設課から呼び出しの電話があった。
いつもであれば浮かれながら向かうけれど、ほぼ失恋状態だから吐きそうだ。
建設課の用事は、前に渡した書類の書き方がわからない、の類で大したものではない。
「あとはここに印鑑を押して、終わりです」
失礼しますと言いかけた矢先、建設課の社員が岡田さんの傍に立った。
「岡田、おススメの映画ある?」
「何で俺に聞くんですか。好きなのを見たらいいでしょ」
岡田さんは部署の人にも塩対応のようで、パソコンを凝視しながら冷たくあしらう。
失恋気味とはいっても、すぐに心の整理が付くものではないらしく、私の耳は自然と岡田さんの声を追う。
「よく映画に、行ってるんだろ」
「そうですけど」
私の誘いには乗らず、映画はちゃっかり行っているらしい。
悲しさから吐き気が込み上げ、喉をグッと絞る。
「デートにおススメの映画があったら、教えてくれよ」
岡田さんの塩対応に慣れっこの同僚は、にやけ顔で質問を重ねる。
「映画は一人で行くんで、わかんないでーす。まあ、とりあえず、洋画でもいいと思いますよ。昨日から上映が始まったガンアクションとか」
「デートに不向きじゃん。あ、ちょうど良いところに、女の子が。春野さんは映画、好き?」
突然に話を振られて面食らったものの、私は控え目に笑顔を作る。
「あんまり、です。でも、ガンアクション作品、人気みたいですよ。岡田さん、派手なのが好きなんですね」
腹を括って話しかけたけれど、岡田さんは「うーん」と素っ気なく喉を唸らせながらマウスを操作する。
「映画は満遍なく好きだからなぁ」
知ってる、と心で反応しながら、下手な笑顔を浮かべ続ける。
一瞬だけ岡田さんの瞳が私を捉えたけれど、無表情のまま、すぐにパソコンに戻った。
「ガンアクション、いつ、見に行くんですか」
「いつだろ。今日のレイトショーで行くかな、たぶん」
目が疲れたのか、岡田さんは瞼を揉みながら背もたれに深々と座り込み、仰け反った。
一人で映画に行く、今日見に行く――の情報が降ってきた。
昨日までの私だったら喜んでいたけれど、今は虚しさしかない。
「そうなんですね。せっかくだし、私も、行っちゃおうかな、あはは」
ヤケクソと意地と強気を練り混ぜて、私は笑ってみせた。
岡田さんは唇をムスッとへの字に曲げるばかりで、何の反応もしない。
岸部さんに向けた笑顔のうちの、ほんの一欠片だけでいい。
私にも、笑いかけて欲しかった。
映画のタイトル『馬鹿に付ける薬はない』が、私に重く圧し掛かる。
「ほら、だって、無料鑑賞券を貰ったから」
メールのゴミ箱から蘇生させた無料鑑賞券を使い、私は映画館に来ていた。
誰にともなく言い訳を連ねて座席に収まり、忙しなく他の席を見渡す。
人気作とあって、レイトショーでも半分ぐらいの席が埋まっていた。
岡田さんの姿を探したけれど、めぼしい人は見当たらない。
トイレに行くふりをして、いったんシアターから退出して、少し時間を置いて戻る。
満遍なく客席を観察したけれど、やはり岡田さんの姿はない。
代わりと言ってはだけれど、珍しく美人さんが到着していた。スクリーンからは地元企業の宣伝が流れている。
美人さんは、面白くなさそうな表情で漫然と鑑賞していた。
席も、私の一個飛ばしのいつもの席だ。
近づくほどに、瞳の凛々しさが浮き彫りになる。
中華風のメイクも美しく、悔しいほどに魅力的な人だ。
「ごめんなさい、通ります」
私が近づくと、身体を斜め向きにして通れるように配慮してくれた。
ワンピースの裾から伸びた脚は細く、赤いヒールも似合っている。
真っ赤な口紅が微かに動いたけれど、声は聞こえなかった。
席に戻るなり、他映画の予告が始まる。最後だ、とぐるりと客席を見渡したけれど、岡田さんは確認できなかった。
「そんなに、避けなくていいじゃん」
私も行こうかな、なんて言ったものだから、警戒されたのかもしれない。
これで、振られた回数は三十回目になった。ただでさえ落ち込む記念なのに、職場で恋人らしき存在を目の当たりにして、頭が悲しみで重くなる。
思えば、岡田さんはずっと私に冷たかった。
いや、と考え直す。
むしろ、興味がなかったといっていい。
笑顔で話されたことも、手も振って貰ったこともない。付箋を貼っても無視をされ、話しかけても仏頂面だ。
友達からは不毛な恋愛だからやめろ、と何度も忠告された。
誰がどう聞いても明らかに脈無しだし、私も失恋確定だからと笑い続けてきた。
振られるだけなら、まだ心の整理がついたかもしれない。
でも、知らないうちに恋人らしき人がいて、それが知った人なんて酷いにも程がある。
奪われた、なんていうのはお門違いだとは理解している。
それでも、私は一年以上も片想いを募らせていたのに、横から攫われたという思いは強い。
「うっ、ひぐぅ、ぅ」
情けなくて、悔しくて、悲しい。
映画では、初っ端から派手なガンアクションが繰り広げられている。音を聞いているだけで火薬の臭いを感じるほどの、怒涛の銃撃戦だ。
『のこのこと、来やがって。そんなに自分を痛めつけてぇのかよ。もう、ボロボロな身体のくせに。まったく、馬鹿に付ける薬はねぇな!』
挑発する口調に、顔を上げる。
「私だって、好きで来たわけじゃない。でも、もしかしたら、最後の思い出で一緒に観れるかもって、期待して。わかってるよ、馬鹿だって」
岡田さんが来なかったら自分がさらに傷つく可能性だって、ちゃんと考えた。
でも、もしかしたら、来てくれるかもしれないと期待した。最後の最後に、一緒の空間で映画を見て、それでこの恋を終えたらいいや、とヤケクソになっていた。
映画の台詞が自分に浴びせられたようで、さらに傷ついた。
ぐちゃぐちゃになった感情のまま、映画を睨みつける。
涙は溢れて止まらないし、嗚咽も断続的に生まれる。鼻水が喉の奥に詰まって、脳に酸素が行き届かない。
何もかもが、私を追い詰める。
視界の端に、角のある物体が見えた。ゆっくりと物体を涙で濡れた目で追うと、ハンカチだった。
美人さんが、顔をスクリーンに向けながら、ハンカチを私に差し出していた。
「あ、ありぎゃとう、ごじゃいま、ふ」
鼻水を喉に詰まらせて、ハンカチを受け取る。
ハンカチからは、シトラスの爽やかな匂いが漂った。
瞼に、何度もハンカチを押し付ける。涙で化粧が崩れ、布にはマスカラの黒やアイシャドウのラメが水分と一緒に付着する。
「泣くような映画じゃ、あるまいし」
腹の底から呆れているような吐息を漏らし、美人さんは大きく背もたれに仰け反った。
今日は、散々な日だ。
ほぼ失恋状態で、最後の最後とヤケクソで来た映画には好きな人は来ず、挙句の果てに会話をまともにした経歴もない美人さんに呆れられる。
『泣くな、心配するな、そんな顔をするな。俺は傍にいるからよ』
力強い台詞で締め括られ、映画はエンドロールに入る。
「ハンカチ、あげる。だから、泣かないの、女の子でしょ」
英語の文字とハイテンションな音楽が流れる中で、美人さんが唐突に話しかけてきた。
映画の光を横顔に受けながら、美人さんの視線は真っ直ぐ私を捉えていた。
真っ赤な口紅が気難しそうに引き結ばれているけれど、凛とした目からは優しさを感じる。心のうちから安堵感が、ポツポツと沸いてくるようだ。
「女の子でも、泣いちゃうんです。ありがとうございます、ハンカチ、貰います」
喉に詰まった鼻水を飲み込めば、滑らかに喋れた。
打ちひしがれていたのが、嘘のように気持ちが軽くなる。
ハンカチから漂う爽快な匂いが、美人さんの優しい視線が、私の心を優しく包んでくれているようだ。
「映画はね、楽しんで見るものだよ。誰かとの待ち合わせの場所にしちゃ、駄目」
美人さんの唇が、への字から綺麗な笑みへと変わる。
「何で、わかったんですか」
自分の邪な気持ちを言い当てられて、驚きで瞬きすら忘れそうだった。
「いつも、忙しなく客席を見渡しているんだもの。待ち人来ず、だろうなって」
美人さんは笑い飛ばすわけではなかったけれど、唇は柔らかく微笑んだままだ。
「ごめんなさい」
上映前は忙しなく確認しているけれど、映画はきちんと見ているつもりだった。無自覚の行動が恥ずかしくて、素直に頭を下げる。
美人さんは「うん」と簡単な返事をして立ち上がった。
もう、微笑みは消えていた。
「いつまでも来ない待ち人よりも、こうやって一緒の空間にいる人たちを大切にしたらいいんだよ。そうしたら、孤独ではないよ」
ずっと、独りぼっちで映画を鑑賞しているつもりだった。
目から鱗、かもしれない。
私が独りぼっちの事実は変わらないけれど、皆で楽しんでいると考えたら、ほんの少しだけ、寂しさは埋まっていく気がする。
「あの、じゃあ、また私と一緒に映画を見てくれますか」
ハンカチをぎゅっと握りしめて、勇気を総動員した。
「いいよ」
仏頂面で頷いた美人さんに、脳が鋭く刺激された。
美人さんが去った後も、私の唇は「あ」の形を崩せなかった。
翌朝、泣いた影響で身体は悲鳴を上げていた。それでも律儀に出社して、自分の椅子に座る。
「春野ちゃん、話があるの」
誰もいない部署に、岸部さんが現れた。岡田さんの恋人疑惑のある岸部さんが朝から現れ、精神的な苦痛が増す。
「私と岡田さん、良い雰囲気なの。春野ちゃんは、申し訳ないけれど、脈無しだよ」
唐突な切り出しに、私は呆気に取られて口を何度も開閉させる。
「私だけが知っている、岡田さんの秘密があります」
動揺のあまり、パソコンを開く指が震えた。
「付き合ったら私も知るだろうから、嫉妬はしないなぁ。春野ちゃん、脈無しすぎて、可哀想。あ、これ、親切心だからね」
親切の毛皮を着た岸部さんは、私の精神を土足で踏み荒らす。
睨む気力もなく、口内で「はい」と二文字だけ転がした。
それ以降は、ほぼ無視を決め込んだ。
岸部さんは私の反応に満足したのか、耳障りな足音を残して去った。
「え、岸部さん、ヤベェ人じゃん」
岸部さんと入れ違いに出社した杉下君が、出口の方角をチラ見しながら、感想を漏らす。
「今、聞いた内容は内緒でお願い」
「了解っス。でも、岸部さんと岡田さんが付き合っていない、と判明しましたね」
杉下君の台詞に、私はハッとさせられる。
「そうだよね。杉下君、天才!」
「あざっス。あと、もう一個、わかりましたよ」
人懐こい笑顔を浮かべた杉下君が、人差し指を魔法のように振る。
「岸部さんにとって、春野さんは脅威です。だから、牽制に来たんですよ」
「そっか。煽った甲斐があったね」
今頃、私だけが知っている岡田さんの秘密に、岸部さんも悶々としているはずだ。
杉下君の推理に、荒れた心が慰められる。
事実か否かはさておいても、今の私は救われた。
「ところで、岡田さんの秘密って何ですか?」
好奇心の塊の目を避けつつ、私は机からいつもの付箋を取り出した。
映画館が併設されたショッピングモールの廊下で、立ち止まった。行きかう人からは邪魔そうな顔をされたけれど、私の両目はワイン色のワンピースを優雅に揺らす美人さんを捉えている。
美人さんは、私を見るなり瞬きをした。
「こんばんは、岡田さん」
中国風に彩られたアイシャドウが、ぴくりと動く。紅色の口紅が、僅かに開いては閉じてを繰り返した後で、観念したようにうっすらと開いた。
「よくわかったね。身内にすら、バレないんだ」
ロングスカートから伸びる脚をずらすと、口紅に負けない真っ赤なヒールが、蛍光灯を受けて艶やかに光る。
美しい女装を認めた岡田さんの、髪の毛からつま先まで見下ろす。岡田さんの人差し指と中指には、私が書いた付箋が挟まっていた。
『岡田秋彦さんへ。今日のレイトショー、その恋の行方、を見ます。お待ちしています。春野喜以子より』
また目線を合わせた瞬間に、私の眼に涙が込み上げてきた。
じんわりと熱くなった瞼に、しみじみと水滴が沸く。
涙を自覚すると、止められなかった。
溢れて次々と流れゆく涙を、私は拭いもせずに放置した。
岡田さんの唇が、お決まりのように、への字に曲がる。
いつもそうだ。
私と会う時は、岡田さんの唇は冷たく曲がる。その度に私は拒絶された気がして、悲しかった。
でも、これは、岡田さんの癖で、なんの意図もなかった。
被害妄想を膨らませて、私が勝手に傷ついていただけだ。
「ちょっと、やめてよ。俺が泣かせたみたいじゃん」
岡田さんなりに、私の涙に動揺しているらしい。
ハンカチを出したりひっこめたりと、意味のない行動を繰り返す岡田さんを見て、ようやく笑顔を浮かべられそうだ。
「昨日、わかりました。好きなのに、時間が掛かっちゃった」
声も、仕草も、顔の筋肉も――ずっと、見つめてきたのにね、と私は唇を引き攣らせながら、笑った。
「俺は、人が苦手で、恋愛に不向きだよ。最近、岸部さんと噂になっているけれどさ、その気はない。ちょっと親しいだけで、恋愛に結び付けられるのは苦痛だ」
岸部さんも、私と同じく哀れだったわけだ。
「恋愛下手というのは、わかります。私も同じです」
人と関りを持たない岡田さんと、思い込みが激しくてすぐに傷つく私。
あまりにも、恋愛に不向きすぎる。
それでも、岡田さんはちゃんと、私と映画を見てくれていた。三十回もすっぽかされたと思っていたけれど、岡田さんはいつも私の傍にいた。
私も、どんなに傷ついても諦めなかった。決して前向きな気持ちではなかったけれど、根気強く続けたから、岡田さんの正体に気づけた。
「どうしますか。時間、そろそろ」
アナウンスで、もうすぐで映画が始まると知らされる。音声を辿るように二人で天井を見上げ、それからまた目を合わせる。
岡田さんは艶やかに彩られた唇を開き、「あー」と声を漏らす。
「とりあえず、映画に行こうか」
岡田さんの笑顔は、優しく、美しかった。