62 可愛いウサギと呼ばれても
ミディタル大公家はとても大きい。隣接しているミディタル大公軍の寮で暮らしている人達も朝から晩まで鍛錬に励んでいるから広くないと騒音迷惑なんだね。
おうちではいつも裏庭で遊んでいたし、ミディタル大公邸でも私なりの秘密スペースを確保しようと思った私は敷地内を探検するのが日課だ。
「何かあったらこのラッパを吹き鳴らすんですよ。それから通行路付近で遊んじゃ駄目ですよ」
「せめて本物の楽器で」
「アレルちゃんのレベルにあった素敵なラッパですよ。ほら、とっても元気なオレンジ色で可愛いでしょう」
ここまで広いとホイッスルでは頼りないとかで、首からさげられる幅広ベルトがついた玩具のラッパをローゼンゴットは渡してきた。
私の護衛をしてくれている二人のお姉さんがローゼンゴットの後ろにいるが、二人共口パクで笑い転げている。
――― ネ、ネトシル様、絶対に空回りしてるっ。
――― いい、のよ、ぷぷっ。やっぱり男兄弟ばかりだからよね。
対象年齢4才から8才のオレンジ色をした樹脂製ラッパは軽くて壊れにくいので、山岳における合図でも使われている立派な道具だと彼は言った。
悪気はないのかもしれない。あるのかもしれない。そこが分からない。
みんなは私が可愛がられているのだと言う。
「ローゼンお兄さん。まさに幼女のように愛らしい私に可愛いものをプレゼントしたくなる気持ちは理解しますが、やはり年齢に相応しい高級トランペットとかホルンとかをくれるべきだと思うのです」
金色に輝く高級管楽器を吹き鳴らす愛の天使。やっぱりこっちだよ。
オレンジ色の樹脂製ラッパなんて、絵本の中の道化役。幼年学校生ならともかく、上等学校生になってまで何故にそんな安物を喜んで吹いとらにゃならんの。
それなのにみんなは、あの自分の技術追求しか考えていなかったネトシル侯爵家のローゼンゴットがこんなにもカラフルな物を買い求めて与えるのは気に入ったからだと言う。私のことをとても可愛がっているとまで言う。
「あはは、性悪ウサギの分際で何言ってるのかな。アレルちゃんに相応しく仕事をしている私の隣で檻に入っているのと、玩具のラッパだけ持っていけば自由にしていい散策とどっちがいい?」
可愛がっている相手を檻に入れるという思考を、人は持つものだろうか。サルートス王国人だけは分からない。分かりたくもない。
ミディタル大公夫妻のどちらかがいればまだ私の意見も通るのだが、不在の時はローゼンゴットが私に関する保護責任者となっている。人選ミスだ。
「お散歩に行ってきます」
「フード付きの上着をちゃんと着ていくんですよ。あなたはすぐに葉っぱを頭にくっつけてきますからね」
「はぁい」
私のおかげで少し強くなれたというのに、彼には感謝の心がない。護衛のお姉さん達も、あまりいつもくっついていると気づまりだろうからと、大公邸内では程々に距離を置いてくれていた。
遊んでもらいたい時は遊んでもらうが、今の私は一人で探検気分だ。
(覚えておくべきは階段数、段差のある場所。何度でも歩いて、体で覚えろって和おじさんは言ってた。どこの場所でも生死を分けるのはいざという時の判断力)
やはり自分のテリトリー内は自分の体でどこまでも確認しておきたい。
ミディタル大公邸の敷地も広いが、隣の演習用の敷地はもっと広い。あちこちに障害物みたいな設備があって、中には忘れ去られているような物もあるのだ。
これはもう私の秘密基地を作るべきだ。
お天気のいい日はバスケットに入れたパンとチーズとフルーツ、そしてポットに入ったレモネード。爽やかな風に吹かれつつ、のんびりと寛ぐ時間があってもいい。
やっぱり人生に余裕と喜びを忘れたらいけないと思うの。だって生活に追われるようになると、べっぴんさん因子がぽろぽろと落っこちちゃうもの。
化粧水や乳液のように、心穏やかにリラックスできる時間は女の子の必須アイテム。
たまにエインレイドも来ているんだし、その時は一緒にブランコを作ったら楽しいかもしれない。護衛のお姉さん達もロープを縛るのは得意そうだ。
楽しい気持ちは女の子を素敵に輝かせるって決まってるしね。
だけど虫が多い所はイヤだから、先に過ごしやすく防虫仕様にしておきたい。
草ぼうぼうの所だって、ほんのちょっとの手間で素敵に生まれ変わる筈だ。
そう思って木々が植えられているところをうろうろしながら穴場を捜していたけど、そんな私の愛らしい姿は人の目を惹きつけていたようだ。
「おい。あんな所に迷子がいるぞ」
「ありゃタマ落とし宣言した例のあの子だよ」
「お。あれが実物か。なんでこんな所にいるんだ?」
「聞いてねえのかよ。あまりにも目立ちすぎたからここで預かってるんだって」
「ああん? もしかしてウェスギニー家の子か」
「ウェスギニー子爵家の令嬢って言えよ。お父上は子爵だぞ」
なんか離れた所でがやがや言ってると思ったら、なんということか。
あっという間に訓練を終えたばかりの練習用武器や取り外した防具を持ったむさい小父さん達に囲まれた。十人以上いそうだ。
私の周り、いきなり肉の壁がにょきにょきっと群生中。
私の三倍の太さはありそうな腕をむき出しにして、流れる汗を首に掛けたタオルで拭きながら前後左右斜めも全て取り囲んできた。
「て言われてもな。これがウェスギニー子爵の娘かよ。思ったよりチビだな」
「んー、実物はなんか平和顔だな。あの宣言した時にゃもっときりっとしてたと思ったが」
「そうだな。ここまで垂れ目には見えんかったが、やっぱり怒ってると違うんかな。可愛いけどよ」
「まだ子供だからだろ。お嬢さん、幾つだ?」
「14才です。上等学校一年生です」
「なんだ、まだ一年か」
「エインレイド様と同い年なんだから一年に決まってるだろが」
「エリー王子も一年生か。月日が流れるのは早いもんだなぁ。こないだまで小さな足でよたよたかけっこしては転んでたのに」
「いつの話だよ、おっさん。で、お嬢さん。こんな所で何してるんだ?」
まさに珍獣になった気分だ。
「えっと、お散歩コースになりそうなところを探してました。あと邪魔にならずに遊べる場所も」
「お散歩ねえ。それはお屋敷の敷地で探した方がいいだろうな。こっちは訓練用の敷地だからあまり手入れもされてねえ」
「だな。花壇もねえし、女の子にゃ不向きだろ。あっちの方なら花壇もベンチもあるし、散策も考えられてる筈だぞ」
「それともアレか? 本当はタマ取り宣言した相手の下見とか」
「遊び場所を探しているフリで偵察か? へえ、根性あるじゃねえか」
「お。実は大公軍の中にいるのか? よし、内緒にしといてやるからこっそり教えてくれ。誰だ?」
「違います違います。あっちの庭園だと、いつどんなお客様がいらっしゃるか分からないから、こっちのあまり使ってないスペースにお気に入りスペースを作ろうと思ったのです。お昼とか、シート敷いてピクニックとかできるとこ」
「うん、ねえな」
「そりゃ無茶ってもんだ」
「スペースってのはいつも早い者勝ちだぞ」
たまにエインレイドも大公邸まで体を動かしに来ているから、その時は一緒にシート敷いてピクニックできそうな場所がないかと思って秘密基地を作りたいのだと、私は打ち明けた。子供らしくブランコも作りたい。
「ブランコねえ。エインレイド様、ブランコの乗り方知っとるんかな」
「健全だなぁ」
「微笑ましくて結構だが、そんなの切られてロープだけ使われちまうぞ」
「あー。だな」
「罠づくりに転用されるのがオチだろ」
草ぼうぼうになっているスペースも、いきなりそういう場所を通過する訓練とかに使うとかで、私の秘密基地造りはやめておけと言われた。
気づいたら壊されているだけだから邸の庭師に相談した方がいいと。
「そこ! 何してるっ、終わったらさっさと行かんかっ!」
ふむふむと聞いてたら、いきなり大声で厳しい声が飛んでくる。
皆の背筋がぴっと伸びた。そして反射的なものなのか、この場を離れるべく体を建物の方へと向ける。
おかげで肉の壁に隙間ができて、怒鳴りつけてきた人の姿が見えた。あちらも私を見つける。
「ん? んんー? なんだ、ウェスギニー家の娘か。こんな所で何してるんだ。男漁りならよそへ行け」
「そんなことしてません」
それは四十代か五十代くらいのしゃがれ声で怒鳴りつけるように話す人だった。憎々し気に私を睨みつけてくる。
誰が男漁りだ。私の好みに合致する男はとても限られる。なんという侮辱。
「はっ。どうだかな。取り入るのは慣れたものじゃないか。父親に似てそういうところは如才ないと見える。エインレイド王子の次は国王陛下、そして大公家にもすり寄っていて恥ずかしいと思わんのか」
「・・・・・・」
「図星か。お前達もさっさと行け。子供だからと油断させる手合いは多い。そこの小娘もさっさと泣きつきに行くがいい。泣けば誰かが助けてくれるお嬢様もどきは苦労知らずで結構だな」
こういう手合いは反論したところで逆恨みを募らせるだけだ。
おとなしく拝聴して、さりげなく遠ざかった方がいい。私は争いごとを望まない、そして人生経験豊かな上等学校一年生だった。
「自分の病気にも気づかない人に馬鹿にされたくないもんっ。頭の中の血管が詰まってることにも気づいてないくせにっ。ばーかばーか。その内ソレ破裂しちゃってぶっ倒れて体が動かなくなって、タレ流しになるんだからねっ」
「なっ・・・!?」
「その時に今までの人間関係反省したって誰も戻ってきてくれないんだからぁっ」
私は言い捨てて、さっと全速力で逃げた。これでも私の足はとても速い。あんな防具等を持った人達では追いつけまい。
ふっ、怖くなって病院に駆け込むがいいのさ。ああいう人って自分のことを言われると弱いんだよね。
けっこう怒りっぽい人とか、性格の問題もあるけど、実はそういうことも疑った方が良かったりする。
(逆恨みされないよう、実は有り難いのかもと思える情報でありながら、恐怖を与えるところがミソだ。見ただけで分かるような何かがあったのかと怯えるがいい・・・! 全くこんな可愛い地上に降りた天使に向かって何たる暴言)
そして十分に離れたところで、私は探検を再開することにした。
偏屈そうな意地悪おっさんはお断りだけど、好奇心旺盛で親切な人も多そうだ。優しそうな人を見つけて穴場情報を聞き出してみよう。
大公邸の庭師に相談するのは最後の手段でいいよね。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ミディタル大公邸に隣接しているミディタル軍の兵士達の鍛錬場は色々な人がいる。私を見かけても無視する人や、気づかなかったフリをしながらちらちら観察する人や、声を掛けてくる人や、お喋り相手になってくれる人といった具合だ。
さっきみたいに悪意のある人だっている。
私は気づかないフリで行きすぎようとしていた作業服を着た二十代後半っぽい人の腕をがしっと捕まえて、遊べる場所や楽しめそうな何かがないかを尋ねた。
「ああ、遊具ね」
そして私は、かなり高い位置から垂らされたロープの結び目に足を乗せて手でロープを掴んで行ったり来たりする遊具の所へ案内された。
「遊具・・・?」
「うん、そう。子供が遊ぶ奴ならこれだろう?」
遊具とは、子供が遊ぶために作られた道具や設備のことである。
(これ、反対側からロープに括り付けられた丸太が次々に襲ってくる奴・・・! 私にそれを蹴り飛ばせと言うのか、叩き折れとでも言うのか)
パピー、フィル、おうちに帰りたい。ここにいると、愛の天使さえむくつけき男共と一緒くたにされてしまうの。
フィル、フィルに優しくない人キライなのに、男漁りしてるとか言われるの。漁る価値もない人から。
それなのにおうちに帰ったら変な人達に囲まれるだけだから駄目って、お祖父ちゃまもジェス兄様も許してくれないの。しかも和おじさん、大公妃様という高貴な人妻との密会を満喫中なの。
フィルも将来有望な若者に囲まれてるじゃないかって?
ダメダメ。ネトシル侯爵家の次男が一番有望株とか言われたけど、あの人、フィルがちょっと寛いでるだけで、令嬢は手の先まで気を抜いてはいけません、常にドレス姿で気を抜かないようにしなさい、あまりぐでぐでしてると背中に物差し入れますよ、風程度で乱れるような髪型など言語道断です、令嬢の自覚もないんですかって、お茶会レッスンでも何でもない時間にまで口出ししてくるの。
そのくせ、フィルを小脇に抱えて移動するの。フィル、貴族令嬢であって荷物じゃないの。両手両足ぶらりん状態で運ばれている時点で何かが間違ってるの。
「あれ? もしかして広くてびっくりしてる? ふふ、アレルちゃん一人でここ使っていいからね」
爽やかそうな笑顔でも、地面には理由を考えたくない凹凸があちこちにあった。
誰だって胡乱気な眼差しになるってもんだよ。
(この人、別に悪意も善意もないって感じだったんだけど)
思った通り雑用に慣れている人で、子爵家程度の娘が図々しく居座ってんじゃねえよとか言いそうな怖い大人がいない場所へと案内してくれた。
問題は子供のレベルが分かってないことだ。私は貴族の令嬢であって、女兵士の見習いではない。
「お兄さん。私は子供なのでお外でかけっこしたりお散歩したりできる広いところか、子供らしくきゃいきゃいと遊べる場所を知りたかったのです。子供は大人と違って安全な物しか使っちゃいけません。これは鍛錬用設備です。か弱い私ではついていけません。大怪我して入院してしまいます」
子供という言葉に力を込めてみた。
この鈍いお兄さんに伝わってちょうだい、私の思い・・・!
「そうかなぁ。そりゃ手を離したら駄目だよ? そんなことしたら落ちて体を打ち付けちゃうからね。それに他の人がいる所へ突っ込んでいくのも駄目だけど、周りをよく確認して一人で安全に使う分には大丈夫」
「あちこちから丸太が襲ってくるのは攻撃です。私の全身、ボコボコ乱れ打ちで生肉みじん切り料理になってしまいます」
「あははは、煮ても焼いても食べられそうにないから生で食べるって? 鍛錬じゃないんだからアレを動かすわけないだろう。ちゃんと括っておくし、これならブラブラ揺れて楽しいよ。この時間は誰も使わないからね」
上から垂れ下がっているロープは、使う人が重心を傾ければ不安定にもなるが、それゆえにどの位置からどういう方向に向けて飛び出すかによって攻撃してくる方向が単一にはならないものだ。その接近してくるロープの存在に気づかなかったら大怪我をする。この円形スペースは、かなりしっかりした壁で覆われていた。
恐らく決まりきった攻撃とは違う攻撃に反応する為の訓練場だ。
「あんな高い位置からロープ掴んでジャンプする時点で普通に危険です」
通常の建物の二階よりも高い位置にロープ掴んでジャンプする台が設置されている。手が滑って落ちたら大怪我だ。うちの裏庭なら落下防止ネットがあるけど、ここは何もない。地面に叩きつけられる。
「本当にお転婆な子だなあ。子供があんな高い位置に上がっちゃ駄目に決まってるだろう。いい子だから足の着く位置でやろうね。できるだけ地面に近くなるような長さでロープを調節してあげるから少し待っておいで」
「あれ? なんで私が窘められてるの?」
「え? ウェスギニー家のアレルちゃんは1ナルの栄養補給バーでミディタル大公への造反を買収できると思ってるミニ悪女だから可愛らしい笑顔で近づいてきても騙されるなってネトシル殿から通達が出てるよ。しかもエインレイド様の学友する見返りに、ネトシル殿の弟に半裸フォトモデルするよう迫り、いずれそれを売りさばくつもりなんだって? 世の中には変質者も多いんだからお悪戯も程々にしておこうね」
ぽんぽんと私の頭を撫でてからロープの強度を確認している彼の姿に、私への信頼は欠片もなかった。だけど軍手で撫でられても髪が汚れるだけだからやめてほしい。
「なんてことでしょう。微妙に違う話がまかり通ってます。そんな話が大公様の耳に入ったら私のイメージがガタガタ」
「もうとっくにご存じだよ。最初からそのイメージなんだから崩れようがないって」
いいように転がせそうな純朴青年を見つけたつもりが、口から出てくる言葉がパンチの効いたシュワシュワパチパチ炭酸ドリンク仕様だ。人選を誤ったかもしれない。
ロープに問題がないかどうかを確かめてから、ここにいることは護衛担当者に伝えておくから夕食の時間になったら一緒に戻ってくるんだよと言って、その人はいなくなった。
実は私の情報ってかなり回っているんだろうか。
(イタズラな子だと思われているのもちょっと小悪魔風なら可愛いけど、なんかどうしようもない子扱いされた気がしてならない)
しばらくすると見覚えのある人がやってきた。
ヴェラストール行きの夜行列車、そしてヴェラストール要塞で変装していた護衛の人だ。たしかゲルロイゼって呼ばれていた。
変装していた時はおなかがでっぷりしていたけど、今はすっきり。ローゼンゴットより少し年上らしいけど、彼の補佐をしているそうだ。
「あ、いたいた。そんな上まで登っちゃ駄目ですよ、アレルちゃん。落ちたら危ないでしょう」
「ロープが太かったので、つい天辺まで登ってただけなんです」
壁際の階段は危ないから登っちゃ駄目だと言われたので、ロープよじ登りをしてみた。ロープ登りはいい。無心になれる。
何も考えず上へ上へとよじ登っている内に、下界のことがどうでもよくなる。
私はロープが垂れ下がっている一番上の位置で、ロープを握ったまま悟りの領域へ到達していた。和臣が作ってくれたローズピンクの薔薇チョーカーを使って太ももにある装置を発動させておいたので、落ちても怪我はしない。安全対策は万全だ。
「普通は怖くてそこまで登れないんだけどね。さ、ゆっくり降りておいで。下を見ちゃ駄目だよ。しっかりロープを握ったままでね。怖いなら迎えに行ってあげるからそのまましがみついてなさい」
「別に下を見ても怖くて手を離したりはしないですよ?」
仕方がない。彼が来たので、私は小さな声で解除する。
そうなると気をつけて降りなくては。誰もいない状況なら、手を離して落っこちても浮遊できたんだけどね。
死因が死因だったから実は高所に恐怖心を抱いてるんじゃないかと和臣に尋ねられたけど、私にそういうトラウマはなかった。
「そんな気はするけど、一応言ってみた。女の護衛がついてなかったかい? どこに行ったんだか」
「敷地から出ないなら危なくないからお仕事しててくださいってお願いしました。なんと言っても一緒にいるとローゼンお兄さんに私のしていたことが全て報告されてしまうのです。それぐらいならお仕事しててもらう方がいいかなって」
するすると降りていった私は、着地と同時にすたっと両手を上に伸ばしてポーズを取った。
「お。音も立てないなんてすごいじゃないか。綺麗な着地だ」
「えへっ」
ゲルロイゼがにこにこしながら褒めてくる。ネトシル侯爵家次男と違って、そこは分かっている人だ。
「報告されてまずいことをするのがいけないんだと思うんだが、まあいいか。さ、今日は大公様方がいないから私達と食べよう。あの学者さんはお客さんと話が弾んでるから、先にすませた方がいい。大人はどうしても酒に流れるからね。ところでリードする?」
「お客様? 道理でニシナさん、いないと思いました。リードはしません」
ポケットからちらっとピンクの引き綱を見せてきたゲルロイゼだが、私は毅然として却下した。
何を考えているのか、ネトシル侯爵家の次男ローゼンゴットは、私の手首にぴったりサイズなピンクのペット用首輪と引き綱を幾つも買ってきたのである。ウェストサイズに合わせた安全胴輪は、髪の色に合わせた玉蜀黍の黄熟色だ。
それをプレゼントされた和臣はゲラゲラ笑っていた。大公夫妻も笑いながら受け取っていた。
私の味方はどこにもいなかった。
首につけて絞まったりしたら大変だから手首とウェストらしい。それで気を遣ったつもりでいるのだからどうしようもない。
何があろうと、人間様の誇りにかけて私はそんなものをつけたりはしないと宣言したが、やはりプレゼントされたフォリ中尉がまじまじと見ていたのが気にかかる。
アレンルードとエインレイドは、普通に手を繋ぐからいらないと断った。子供だけが立派だ。
「昼前からやってきた人とずっと通訳を交えながら話してるよ。外国人だし、一時滞在なのか永住なのかがはっきりしないから手続きも煩雑らしいね。居住実態の問題もあるし、アレルちゃんちから詳しい人を寄越すとかいう話だよ」
「そういえば外国人って収入の税率も違うんでしたっけ。輸出入の時点では統一されてましたけど」
「この国にどこまで結びついているかで国民と同じ扱いにもなったりするから一概には言えないな。サルートス人と結婚したり養子縁組したりしたら国民と同じ扱いになる。外国人でもうちの貴族と縁戚関係のある貴族とかだと国民としての権利を与えられたこともあった筈だ」
「へー」
大公夫妻が在宅の時は一緒に食べるけど、不在の時は護衛の人達や使用人達が使っている広い食堂へ行くことにしている。和臣もいるし、一人の食事も平気なんだけど、子供だから賑やかな方がいいだろうと思われているようだ。
立場の違いがあるせいか、食堂でもそれぞれ同じ立場の人達で固まっている時が多いけど、同じ職場で働く者同士、情報交換しながら食べている人もいるから、そこは見ていて楽しい。
食堂はセルフサービスだけど、和臣や私の分は専用のトレイが用意されていてメニューが微妙に違う。
他の人からそれで妬まれたりしないのは、私のトレイは緑黄色野菜が多めでお肉は薄切り、お魚も一口サイズ、ソースは甘口仕様で味付けが薄味だからだろうなって思う。そして和臣の場合はサルートス語での説明カードがつけられているのだ。
和臣は食事をしながらカードに書かれていることを私に尋ね、私はファレンディア語とサルートス語での説明をする。周囲の人はそれを聞いて補足してくるから、実はどんどんと私もサルートス料理に詳しくなっていた。
(和おじさんの場合、大公様とも意気投合してるもんなぁ。お祖父ちゃまとも仲良くなったみたいだし、なんであそこまでマイペースな人を皆は受け入れるのか)
祖父母と仲良くなった和臣は、一緒に旅行する計画を本気で実行する気である。自分の船でサルートス王国までやってきた和臣はどこにでも行ける。他の国に行くにせよ、自家用船で行くのであれば気楽なものだと誘ったらしく、祖父母もかなりその気だ。
センターの船と違って和臣が操る船となれば、操船も見学させてもらえる。きっと楽しいだろう。
祖父がミディタル大公邸にいる私に会いに来た時、和臣の船について聞かれたから、通常の旅客船より居心地がいいことだけは保証しておいた。それ以上のことは乗ってから口止めされて欲しい。
あれから私には何も言わないから、今まで通り祖父と会った時は全力で甘えているけど、それでいいらしい。
(そりゃ和おじさんなら安心だけど、その時の私は学校ではないのだろーか。つまり私は置いていかれるのではなかろーか。何故、人間は青春時代にお金も時間もないのであろーか)
私がいなくてもバーレンを通訳にして和臣はウェスギニー子爵邸に溶け込んでしまった。今、私と同じミディタル大公家にいるのは、祖父母に頼まれたからだ。和臣は頭と顔と体が揃ったパーフェクトダンディ。
ミディタル大公邸にも強い人は多いけど、いざとなれば私さえ助かればいいと割りきる和臣とでは優先順位が違う。
祖父母は和臣がいれば私に何かあっても守ってもらえると考えたのである。
だけどそんな和臣、私を放置して情報収集と人脈作りに励んでいた。その合間にミディタル大公妃と二人きりの時間。何かが間違ってる。
ミディタル大公も少しは浮気を疑うべきだ。そりゃ大公妃が和臣に教わっているのは体調メンテナンスのやり方だけど。
「あの学者さんも臨時講演とかなら問題なかったらしいんだが、そうじゃない場合は色々と違ってくるとか、なんかごちゃごちゃ言ってたね。だけどアレルちゃん、外国の珍しい物に夢中になっていつの間にか取りこまれてたって事件もなかったわけじゃない。アレルちゃんは賢い子だけど、そこは注意しておこうね」
「・・・ありがとうございます。ただニシナさんにとって私は取りこむ価値もないんじゃないかなって」
「さて、価値は自分だけが決めるものじゃないからね」
ファレンディア人の婚約者を持つ私。かつて私の亡き母リンデリーナが旅行で訪れた際には娘のように可愛がっていたという触れ込みのファレンディア人の学者がやってきたことで、何人かはウェスギニー子爵家が外国から取りこまれる工作を受けているのではないかと、そんなことを口にし始めた。
そこには純然たる危惧もあれば、妬心ゆえの発言もある。
ゲルロイゼの本心がどこにあるのか分からないけど、その心配は的外れもいいところだ。和臣も優斗も目的は私一人、ウェスギニー家やサルートス王国など目に入っていない。
「うーん。今までのニシナさんの女性遍歴を知ったら、私なんて価値無しだってみんな納得すると思いますよ。あの人、世界中の頭のいい女性ばかりとお付き合いしてきましたから。所詮、私は学校のテストはどうにかなっても、それ止まりです」
「そうなのかい?」
「世界にお金や権力で女性を買う人は多くても、彼は自分の魅力だけでハーレム築いていた人です。たとえばここも男の人は多いですよね。だけど、生活の世話は全て私達がさせていただきますから好きに生きてくださいって女性達が協力して尽くしてくれるような男性、一人でもいます? その女性達もそこらの男性より稼ぐ人達ばかりでした」
そんな和臣の奥さんや恋人達に私が可愛がられたのは、和臣と一緒に暮らすことのできなかった実子だと思われていたからだ。大人になって何かの際に、そんな話を立ち聞きしてしまった。
和臣は否定したけど、私は母にそっくりだったから遺伝子データを解析しないと真実は分からない。かつての父に距離を置かれていたのはそれがあったのかもしれないと思った。
真実はどうであれ、父は私を娘と思っていないからこそ息子だけを子供として公表していた。
だからもう他人だと思って諦めた。父は父ではなかったのだと。そして私はあの人を父と呼べなくなった。
「そんなにいい男かねえ。ヒモならではの色気はなかったが」
「ヒモは女の人を惚れさせなきゃいけないけど、ニシナさん、別に惚れられたいって思ってないし」
「ムカつく話だねえ」
「同感。どうして誰も彼もがいい女ばかりなの。ふざけてますね」
「そういえば何かと大公妃様とお喋りしてるな」
「それそれ。大公妃様は私のなのに、みんなが横取りしてくんです」
「大公殿下の前で言ってみたら?」
「言ったら自分に勝てる男になってから出直せと言われました」
ゲルロイゼは黙ってしまった。
私も悲しくなって黙る。大公の補佐もしなくちゃいけない大公妃はかなり激務だ。
おかげで夜になったらミディタル大公妃に寝る前のお茶を運ぶようになった。そのついでにきゅっと抱きしめることで、少しでも気を楽にしてもらう。
たまにそのまま寝てしまって、起こされたらミディタル大公夫妻に挟まれた状態だったこともあった。もしかしてこれはウェスギニー子爵家令嬢がミディタル大公と一夜を明かしたことになるのだろうかと悩んだこともあったが、大公も私と一緒に眠ることで疲れが取れたらしい。
だけど早朝から起こしに来たフォリ中尉にお持ち帰りされた私は、寝ぼけたまま二度寝し、フォリ中尉の寝室で目を覚ました。
大公は隣に大公妃がいたからいいとして、こっちの方がかなり問題じゃないかなって思った。
侍女や護衛達は、ミディタル大公妃と私が寝室でお喋りしているのはいつものことなので邪魔しなかったが、帰宅した大公が寝室に入っていっても私が戻ってこないというのでどうしようと悩み、そしてフォリ中尉に連絡したらしい。
フォリ中尉は夜明け前に帰宅し、大公夫妻の寝室へと直行した。
そこで見たのが私を挟んで寝ている両親だったわけで、自分の居場所が盗られたショックで私を親のベッドから引きはがして自分の寝室へお持ち帰りしたのである。
いい年して親を盗られた恨みなんぞで、まだ寝ぼけてる子供を引き離さないでほしい。
(大体、和おじさんが私を引き取りに来てくれれば一番問題なかったんだよ。他人の、それも男が大公夫妻の寝室になど一歩も足を踏み入れていいわけないだろって、そりゃそうなんだけど)
大公邸において、使用人は全て大公夫妻が許すまで寝室への立ち入り禁止が徹底づけられている。あの時、寝室に入っても許されるのが実子であるフォリ中尉しかいなかったということらしい。
依存してはまずいからと私に触れないようにしていたフォリ中尉だが、親を盗られた恨みでその自制心も吹っ飛んだのか。
寝ぼけていてもとても疲れているのが伝わってきたので、フォリ中尉にも優しい気持ちを分けてあげた。眠かったからちょっと配分を間違えたかもしれないけど、多分大した問題じゃない。
(問題は優斗なんだよねぇ。センターの優斗直通アドレスはさすがによその邸宅から繋ぐわけにはいかない。ジェス兄様に通信入れておいてもらったから大丈夫とは思うんだけど。和臣さえ優斗を嫌ってなければ・・・、いや、今は嫌ってないみたいだけど、それでも親しいとは言えないしなぁ)
和臣に来客中で私に声がかからなかったということは、バーレンが通訳で来ているのかもしれない。特別講演の依頼か、研究者としてのスカウトか。謝礼が発生するものは法律が絡み始める。
ゴーストフィルムみたいな玩具の個人的な売買程度なら目こぼしされても、経費が発生するものは正規の法的手続きが必要になるのだ。通訳は他にもいるだろうが、習得専門学校にいることと、顔見知りであることと、多少の行き違いがあってもフォローしやすいということから、バーレンがよく声をかけられている。
(和おじさんの秘書業務は休みの日にやってきたお姉さん達がやってくれてたもんなぁ。優秀すぎる人って本当に優秀だからそれで回ってたし)
そう考えると和臣には秘書が必要だ。だけど和臣はまだサルートス王国の法や権利等について分かっていない状態だから、今すぐに決める気はないと言っていた。
私に何かあったら、和臣にとってこの国は何の価値もない。和臣は私がファレンディアに戻るという選択肢もあるのではないかと、そんなことも考えている。
「ところでアレルちゃん。あの特別許可、お父さんが誰に働きかけて取ったのか聞き出せないかい?」
「えー。私は子供だから大人の裏側は聞いちゃダメなんです。父は大切なお仕事してるからワガママも言っちゃいけないし、質問もしちゃいけないの。だからごめんなさい。それに大公様ならもう把握していそうです」
ゲルロイゼはいい人だけど、私は父の持ってるカードを明かすような愚か者ではない。どうやってあんなものを手にいれることができたのか分からないけど、簡単ではないことだけは分かる。
国王のサインまでもらえたのだ。その手段を父が明かしていない以上、私も変な言質を取られるわけにはいかなかった。
そういう点で一番フォリ中尉が付き合いやすい。私が困るような質問はしないからだ。
私に聞くまでもなくフォリ中尉専用の情報網があるだけかもしれないけど。なんと言っても国王の甥だし。大公の息子だし。
「そっちの情報はここまで下りてこないんだよね。お兄ちゃんの方なら分かるけど、なんでアレルちゃんが許可されたのかな」
「うちの兄は男子寮にいるからじゃないですか? 寮でエインレイド様に何かあったら兄よりも先に警備の人達が動きます。兄に許可は不要というか、兄はその指示に従って動く程度です」
「ああ、そっか」
「それに兄にそんな権限与えたら何をやるか分からないですよね」
ゲルロイゼはまたもや考えこんでしまった。
ローグやマーサと共にミディタル大公邸へとやってきたアレンルードは、見た目だけならぎゅうっと抱きしめたくなるラブリーボーイだが、その中身ときたら生意気さと身の軽さと思い切りの良さがピカ一の悪ガキだ。
女の子のフリをして油断を誘うテクニックまでマスターしている。
(アレナフィルちゃんと声をかけられてハイと答えるアレンルード。問題はそこだ)
ミディタル大公邸内で私と間違われたアレンルードは、私を誘拐した人達の友人らしい人についていき、何があったのかは分からないが、ネトシル家の次男ローゼンゴットが見つけた時にはその人を縛り上げて調教していたらしい。
私はその場面を見ていないが、見ちゃいけないものを見たとかで、誰も詳細を教えてくれない。このゲルロイゼも知っている筈だが沈黙している。
(それって和おじさん仕込みじゃないよね。あの人は調教するぐらいなら精神を壊す。パピーはやるかやらないか、それは生きるか死ぬかだって感じ。だけどここまでみんなに沈黙されると、しゃれにならないレベルだったんじゃないかって心配になるよ)
燃え盛る建物から救助された双子の妹に、全国からの応援レターや告白レター、そして口説き文句付きのお見舞いが子爵邸へ届いたからと、妹になりすましてあんな映像を全国放送で流す兄だ。
みんなは妹を案じるあまり女装してまで妹を守ろうとしたんだねと、アレンルードを高く評価しているけれど、私は気づいている。
(私の恋愛に繋がりかねないルートを全て叩き折っただけだよ。妹が一番好きなのは自分じゃないと許せないって奴だよ。中には私好みのタイプがいたかもしれないのにっ)
救助直後は男性からのお見舞いレターが多かったのに、あの放送後は女性からの共感レターに取って代わられたらしい。しかも私には一枚も見せてくれない。
クラブメンバーの保護者達には私がわざと誘拐されたと知られてしまったが、おかげで三人が男子寮で生活することにどの親も納得したそうだ。自宅から通わせたなら厄介な客からの頼み事もあり得るが、男子寮にいれば警備棟が変な接触にも対応してくれる。
それだけに一人で有事の際に備えていたアレンルードに感心したらしい。
他の貴族を出し抜いて男子寮に入っていたばかりか、王子と妹がトラブルに巻き込まれたと知った途端、妹になりすましてあんな映像まで撮ってみせたウェスギニー子爵家の跡取り息子。その支援をしていた叔父。
(お茶会に招かれてもルードが女装して参加すればいいだけなんだもんなぁ。それもそれでルードが女の子に夢を持てなくなったら困る)
今後、王子と親しくなる貴族令嬢がいても、今までのようにわざと怪我させられたりする事件は減るだろうと、もっぱらの評判である。
一番親しい貴族令嬢が私だからだ。そして私は国王公認で仕返しする人間だと全国に知られてしまった。私にできない嫌がらせを、他の令嬢にする理由がない。
何故、こんなでたらめばかりの悪評が真実の姿として世間に流布されてしまうのだろう。
「アレルちゃんも見た目は可愛いウサギさんなんだけどねえ。アレルちゃんのお兄ちゃんも見た目だけは可愛らしいお嬢様だったんだけどねぇ」
「兄にガールフレンドができるかどうかを本気で心配しなくてはならない難問直面中」
「お兄ちゃん、ドレス姿が似合いすぎるとねえ。一緒に踊る女の子が困っちゃうよね」
「既に経験者。小さい時は丸っこくて更に可愛かったうちの兄、ちょっと叔父の真似して紳士な言動していて小さな淑女達をたらしこんだ挙句、いきなりドレス姿で周囲の大人達から可愛いねの賛辞を一人占め。おめかししてきた女の子達の立つ瀬がないですよアレは」
「よく男の子がドレスなんて着るの、子爵が許したね」
「父は何かと不在です。着せたのは私」
「おい」
嫉妬深い弟も厄介だったが、独占欲激しい兄も困りものだ。おかげで私は慰謝料ふんだくり予定をぶち壊されたというのに、アレンルードを刺激したらどう出るか分からないから責められない。
この流れを分かってて、フォリ中尉はアレンルードを好きにやらせたのだろう。いくら何でも国王が子爵家長女と言いきった上での録画、なりすますことに国王の許可も下りてなかったらアレは無理だ。
そんな許可を取れるのはアレンルードの性格と行動パターンを知り、私の状況も把握していたフォリ中尉しかいない。ネトシル少尉は私を甘やかしたい人だからやらない。
(なんて男だ。可愛いフィルちゃんが素敵な女性になることを見越してお手付きしてるフリして、実は目をかけているのはルードの方ときた。リオンお兄さんもルードのことお気に入りだけど、私には激甘。問題は私に甘そうでいながら土壇場ではレイド最優先でルード贔屓なフォリ先生だよ)
まあね。気持ちは分からないでもないけどさ。
そう、私は分かってしまう。性別が違っても彼のしていることは私と同じだからだ。
かつての私だって仮にいいなと思う男性がいたとして、それでも可愛い優斗と天秤にかけたらあの子を取っただろう。
(恋や愛なんて続かないもの。所詮はね)
恋は愛に変わらなければ思い出になるだけ。別れてしまえば、ふとすれ違っても立ち話すらしなくなるものだ。
その点、あの子との絆は一生変わらない。どれ程に別離の時間が長くても、会えばまず抱きしめるだろう。死んだ私の為にあの子が動いたように、そこらの恋愛感情よりも深い感情が存在する。
たとえ行方をくらませても、ずっとあの子の様子を気にかけていた。あの子のクラスメイトのお姉さんとも仲良くなって、さりげなくお友達になってもらうように働きかけもした。
本当の弟じゃなくても、見守り導いてあげられるのは自分だけだと知っていたから。
「お兄ちゃんなのにねぇ」
「ねえ」
どんな思いがこめられているのか、ゲルロイゼは「なのにねぇ」で終わらせた。
私達の間に、沈黙という名前の時間が流れる。
そしてゲルロイゼは話題を変えることでその流れをなかったことにした。
「今日はね、特製クロケットらしいよ」
「もしかして一昨日とっても美味しかった中のチーズがびよーんと伸びる奴?」
「どうかな。パン粉じゃなくてクラッカーで更にカリカリにするとか言ってたからね」
「わぁ」
和臣はサルートスの家庭料理に興味津々だし、私は作ってくれるものは有り難くいただくので、厨房もあれこれ出してくる。これが来客として貴族令嬢を迎えているのならば盛り付けや材料にもこだわったご馳走でなくてはならないが、外国人にとってはサルートス国の人達が普通に食べているものこそが興味深くて食べたいものだ。
改めてどこの家でも食べられている、ありふれたものを作って和臣や私に出してもらっていたら、ちょっとノスタルジックな思いにとらわれてしまった人達が続出し、サルートス家庭料理がちょくちょく食堂にも出始めていた。
美味しくて簡単に作れるものならクラブでも作りたいので、たまにレシピを聞いたりもする。最近は学校のクラブでみんなと一緒に食べるおやつを料理長が持たせてくれるようになった。
チーズが伸びるクロケットは美味しかったけれど、冷えたら伸びないし美味しくなくなるので学校へは持っていけない。男子寮の食事はちゃんと美味しいので、栄養価のあるおやつや剥かなくていいフルーツ、そして夜食や間食に良さそうなものを、ミディタル大公邸の厨房は考えてくれていた。
「このまま平和に過ぎてほしいですねぇ」
「そう思ってくれるなら、あまり刺激しないでほしいですねえ」
「私は何もしてないです。ローゼンお兄さんが被害妄想なのです」
「そういうことにしておいてもいいけど、誰も信じないんじゃないかな」
私の護衛はほとんどが女性で構成されているが、ヴェラストールで護衛していた男の人達もたまに入る。
ネトシル侯爵家の次男ローゼンゴットが私の送迎を行っているのは、そういう時にこそ他の人からの接触が入りかねないからだ。このゲルロイゼも時々送迎に入る。だから外出はあまりしないようにしていた。その度に護衛の選定が行われるからだ。
ミディタル大公邸は体を動かす場所もあるし、和臣も一緒にいてくれるし、祖父母や叔父も会いに来てくれる。だけどよそのおうちは気が張るものだ。おかげで休日のパジャマ朝ごはんができない。
早くほとぼりが冷めてほしい。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ミディタル大公を三回見ると強くなるらしい。
三回はとっくに過ぎたけど、強くなった気がしない。
「ウソ情報の拡散はいけません。あれは誰が犯人なんでしょう」
「あらまあ、アレナフィルお嬢様ったら。ほほ、・・・そうですわ、私、お嬢様のリボンのことで声をかけられていましたの。持ってまいりますわね。ちょっと失礼いたします」
「貴族出身の人はとてもプライドが高いのに、アレナフィルお嬢様は本当に可愛いですわ。もっと強くなりたいんですのね。・・・あ、私、ちょっとこの後の予定を見てきます」
「乱暴なことは私達がいたしますからね。もう危ないことはしないでくださいね。・・・そうそう、私も隊長に確認を入れることがありましたので、ちょっと行ってまいりますね」
虚偽広告の苦情をどこに入れればいいのだろうと、侍女や護衛のお姉さん達に相談してみたら、最初はあらあらと笑顔で受け答えしてくれていたのに、途中からぎこちない笑顔になって、あれ、様子が変だぞと思ったら、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
護衛が護衛対象を放置していなくなるってダメだと思う。
「これ、知ってる。逃げたって奴」
なんだかなぁと思いつつ振り返ったら、にやにやしているミディタル大公が窓の外にいた。その後ろには軽く肩をすくめているフォリ中尉もいた。
ここは三階で隣のベランダとはかなり距離もあった筈なんだけどと眉根を寄せる私に頓着せず、二人は勝手に窓枠を乗り越えて室内へと入ってくる。
そしてミディタル大公は、軍用犬を一頭、遊び相手にしていいと言った。
「一緒に遊んでいれば少しは運動になって強くなるだろう。アレナフィルちゃんも身が軽いのはいいが、どうも諦めるのが早すぎるのが欠点だ。石にかじりついてでも勝ちに行く気概がない。少しは軍用犬を見習うといい」
「これでも勝ちに行く根性はそれなりにあるつもりです。だけどみんなが止めるのです」
「あのな、ウェスギニー。そりゃお前が卑怯な作戦しか考えつかない性悪ウサギだからだろ。ローゼンだって止めるだろうよ。子供の内は正々堂々とやれ」
貴族の人達がいる所ではアレナフィル嬢と呼ぶが、学校や人の目がない所では苗字を呼び捨ててくるフォリ中尉は、きっと自分が偉い先生だと思っているに違いない。
「いいじゃないか、勝てるなら。まだ一度も勝てとらんがな」
ミディタル大公が手を伸ばしてきたので私も手を伸ばして抱っこしてもらう。虎の種の印を持つ者は、私に眠気を呼び起こすのだ。だから力を抜いても問題ないスタイルがいい。
「大公様。息子さんに教えてあげてください。大人になってから卑怯なやり方をしようとして、善悪との折り合いに苦しむより、今の内から精神的にも勝つことだけを優先したやり方に慣れておく必要があるのだと」
ミディタル大公妃もそうだが、ミディタル大公も人目がなければ私を抱っこして頭を撫でてくる。ちょうど一息つくのにいいそうだ。
反対にフォリ中尉はこの間までそこをセーブしていた。
何故ならミディタル大公邸へやってきた和臣から、恋人や配偶者という錨がない状態で私に癒されるのが当たり前だと体が覚え始めたら、いずれ依存すると指摘されたからだ。
――― アレナフィルが母親ならばそれもよかろうが、よその女の子、それも自制心も何もない少女というのはまずかろうな。たとえ妻や恋人だったとしても、その意見に振り回されるようになるぞ。
私に触れて優しい気持ちを受け取るそれは、時に重圧に耐えて生きている人にとってはかけがえのない救済となる。だけど私の感情によって質がころころ変わるそれはとても不安定だ。
常に癒されたいと思ってしまえば、私の機嫌取りをしなくてはならなくなる。
――― 時に占い師だの宗教家だのに権力者がのめりこむのと同じことだ。女が権力者を意のままにし始めるそれを辿りかねん。アレナフィルにそのつもりはなかろうが、そんな弱みを作るものではない。特に結婚もしてない若僧はな。
さすがに厳しい表情となったフォリ中尉だったが、ミディタル大公夫妻はあまり気にしていなかった。
――― 心が癒されるとしても、本物のペットか人間の形をしたウサギかの違い程度だろう。
――― 似たようなことをフェリルド様も言っていらしたわね。ニッシーナ様はどうですの?
――― 私の愛した蝶は既に他界しましたからね。依存とは唯一だからこそ溺れるのですよ。
虎の種の印を持つ和臣と一緒に他人事感を出しまくっていた。
少し考えていた様子のフォリ中尉はそれから私にあまり触れないように自分を律し始めた。だけどミディタル大公夫妻と同じの寝室で寝ていた私を見つけて以来、その自制心をゴミ箱に捨ててしまった。
短い距離感だった。
そうして今に至っている。
「言われてるぞ、ガルディアス」
「どんな卑怯な作戦を練ったところで離れた場所にいた兄に壊滅させられる脆いレベル。それならまだ正々堂々としていた方が、後日検証されても心の在り方を評価されるだけマシってものでしょう」
「ひどい。大公様、何の権力も持たない幼気な少女がせめてもと反撃しようとしたそれを潰した方が偉そうなこと言ってます」
あまり私に触れていると依存すると和臣は言ったけれど、依存も何もフォリ中尉は全然ご機嫌取りしてくれない。ご褒美や配慮はしてくれるけど、それは以前からだし、ヴェラストールでの事件以来、全てにおいて決定事項を告げるだけ。
ミディタル大公邸でしばらく暮らすことが決まって、王族でもある大公家で寝泊まりするのだからと素敵なシルクのネグリジェタイプ寝間着をマーサが持ってきてくれたのに、フォリ中尉はウサギパジャマでいいと、そっちに変更させた。
ミディタル大公邸は男所帯ともいえる兵士達の寮が隣接しているからその気も失せるあの子供パジャマでちょうどいい、万に一つの間違いもあってはならないからと。
何も私に言わず、フォリ中尉はマーサと勝手に決めてしまった。
――― 邸に相応しい恰好なんて無視してください。アレナフィル嬢の安全こそが一番大事ですから。
マーサは、相変わらずなんて理解のある方でしょうと感動していたけれど、おかげで夜にウサギパジャマな私を見かけた使用人達がプッと噴き出すのをこらえてばかりだ。
お嬢様扱いが遠すぎる。
せっかくミディタル大公軍の参謀本部の人と世間話しながらお金が一番もらえるやり方を計画したのに、そっちもフォリ中尉がローゼンゴットと一緒になって潰してしまった。
「ふむ。欲望に負けて勝負に負けたって奴だな。自由になる金のない奴順で仕返ししようと考えてた時点で腰が引けてるのだよ、アレナフィルちゃん。だから全力で勝ちを狙っていったアレンルード君に出し抜かれたのだ。それはガルディアスが味方しようがしまいが同じことだっただろう。人は自分が味方したい奴に味方する」
ミディタル大公は私の弱さを見抜いている。私が理性の制限を外していないことまでも。
何でも鷹揚に許しているようだが、決してそうではない人だ。
「そんなことないです。じわじわと自分に迫ってくるという恐怖。お金持ちを後に残しておけばおく程、お金で片をつけようと財布の紐は緩くなります。これぞ頭脳の勝利だった筈なのです。うちの兄が何もしなければ」
「結果が全てだぞ、アレナフィルちゃん。ほれ、やる」
大公が抱っこしていた私をぽんっとフォリ中尉に投げる。
投げられている時点でお嬢様扱いじゃないんだけど、ミディタル大公ってばよその令嬢をこんな扱いしていて今まで人間関係大丈夫だったんだろうか。
息抜きに私を抱っこして、疲労がすっきりしたら誰かにポン。私もなんだかなぁと思いつつ、宿泊費みたいなものかなと思っている。
「きっと今の私、他人が見たら大公家の隠し子騒動」
「堂々と養女にしてやってもいいぞ。実子がよければ書類そのものを改竄してやろう」
「遠慮いたします」
ミディタル大公夫妻の子供になった日には戦場まで連れていかれると私は確信していた。この大公は自分の体調維持の為、花に囲まれて微笑んでいるべき愛の妖精を容赦なく血と汗と埃が舞う前線へ連れていくに違いない。
その点、息子のフォリ中尉はエインレイドの小さい頃を思い出すみたいで、私を抱っこするよりは高い高いをしてくることが多かった。それもそれでどうかと思うが、小脇に抱えられて運ばれるよりは丁寧だ。歩く時はまだ片腕抱っこしてくれる。それならいいか。
私の価値観はとある侯爵家の次男により崩壊寸前だった。アレよりはマシという奴だ。
「頭でっかちな人間がとろとろしている間に全ては終わっているものだ。アレンがどれだけ急いで人材と情報を集めて反撃したと思ってる。普段からクラブ活動で勝ちも負けも経験しているアレンだからこそ攻めるべき時を見逃さなかった。勝っても負けてもどうでもいいと思ってる怠け者の妹は諦めてワンコと遊んでろ」
「どうでもよくないのに・・・」
決めつけはよくない。それなのに聞く耳を持たないのだ、フォリ中尉。命令するのがお仕事とか言うだけあって、人の意見を聞かない。父親ほどではないが。
軍用犬はトレーニング設備が王国軍にあって、そこから譲り受けているそうだ。気性も荒いので、まずは相性のいい子を選べと言われた。
「話は通してある。アレナフィルちゃんは誰にでも懐くが犬の方が信頼できよう」
ミディタル大公がここまで気を遣ってくれること自体が異例らしいが、よその父親を知ることで私は自分の父親に感動する。やっぱりうちのパピーが世界で一番素敵な父親だと思う。
「どれも賢い犬だ。アレナフィルちゃんのペースに合わせてくれる。トフィナーデもそうであったが、女の子とは本当にとろとろしたものだ」
「言っておきますが私が遅いわけじゃなくて、大公様やニシナさんが速いだけなんです。あれはズルです。ジャンプの能力そのものが違うじゃないですか」
「仕方あるまい。大人になって虎の種の印を出せ」
「そんな無茶な」
私の体重ぐらいなら背中に乗せて動ける大型犬がいいだろうと言われた。遭難しても背に乗せて連れて帰ってくれるらしい。
「何故、邸内で遭難することになってるんでしょう」
「ウサギと一緒で小さな隙間からどこに入りこむか分からん子だとローゼンが言ってたぞ。犬が一緒なら、変な隙間にはまったりもしまい。この間は男子更衣室に秘密基地を作ろうとしていたと言うではないか」
「ぅぐっ。あれはっ、そういう部屋だって知らなかったからで・・・!」
普通の更衣室なら気づいただろうが、普段は使われていない更衣室だった。そして普段の更衣室と違ってそれなりの礼装をする為の更衣室だったから、広さもあって片付いていたのである。
痴女扱いされた恨みを私は誰に晴らせばいいのだろう。
ローゼンゴットも、報告は正しくあげるべきだ。
そんな私の頭をフォリ中尉がよしよしと撫でていく。
「楽しく過ごしてるならいいさ。普段が一人で楽しく過ごしていると聞いているからなるべく一人の時間を作るようにしている筈だが、出かけたい時は絶対に護衛に声をかけろ。何があろうと一人で出かけるなよ、ウェスギニー。どんな便利な道具も、お前がそれを使う前に意識を落とされたら終わりだ」
「・・・はい」
それを言われると何も言えない。
年下の男に言い聞かされるとなんだか悔しいが、今の体ではおとなしく首肯する以外の選択肢がなかった。
私のお金ざくざく計画を潰した実行犯だが、フォリ中尉はかなり私の安全に気を配っている。和臣がいて私が絶好調な以上、そこまで気にしないでくれても大丈夫なんだけど。
そんなことより私のおねだりを全て叶えるぐらいの甘さを見せてほしい。
(やっぱり子供の体がいかんのだろうか。女に生まれた以上、年下の男を私の思い通りに動くいい男に育ててこそと思うのになかなか思い通りにいかない。やっぱり弟で失敗した最初が悪かったんだろうか)
和臣は男なんて自分でいい男に育つものだと言って鼻で笑うが、私はこの国で私に傅くいい男を育て上げ、その実績を持ってかつての弟をしっかりと自分の人生を歩む男へと矯正したい。
人は養父の為に奴隷人生を歩むものじゃないと叩き込みたいのだ。
この国の身勝手な王族や貴族を見ていると、こういう緩さがあの子には必要だと思う。
「犬は持って帰っていいからな。人間よりも侵入者にいち早く気づく。お前がいい主人になれずに犬になめられてもアレンが頑張るさ」
「犬は餌をくれる私を一番偉い人だと認識する予定です」
「頑張れ。たとえここの奴であろうと危険だと思ったら即座に反撃しろ」
「はぁい」
ピンクのガラス製に見せかけた薔薇のチョーカーはいつも私の首で輝いていた。




