4 一年生デビュー
貴族の爵位を持っていても特にメリットはないけれど、素性がはっきりしているという意味では尊重される。
叔父のレミジェスはそう教えてくれた。
何より貴族というだけで、国立サルートス上等学校に簡単な試験で入学できる。国立サルートス上等学校は、隣の敷地に国立サルートス修得専門学校があり、成績がよければそちらに進学できる。
(ジェス兄様ってば、柔らかそうな雰囲気があるのに、そういうところは辛辣だからなぁ。現実を教えてくれるという意味では有り難いけどさ。パピーが男の色気が漂う人なら、ジェス兄様は爽やか系。性格はパピーが淡泊系で、ジェス兄様はじわじわ系かもだけど)
国名であるサルートスの名をつけられた学校だけに、どちらの教師陣も優れた人達が集められているのだ。男女混合の共学だけに、制服も女子だからといってスカートを強制されたりはしない。
特に経済軍事部は、ほとんどが軍に入ることもあり、動きやすい格好の方がいいということもあるだろう。
(シャツは白ければ好きなシャツを着ていいし、制服は金の校章刺繍入りの灰色ブレザー、ベスト、スカートかスラックスという組み合わせを気温に応じて好きに着ておけばいい。なんと合理的なのだ)
ファレンディア国では季節などによって制服の組み合わせも決まっていたのだが、サルートス国では、服も暑がりや寒がり、汗かきや肌質などもあるだろうと、かなり自由が認められているのだ。上半身もきっちりとベストとブレザーを着ている生徒もいれば、白いシャツだけですませている生徒もいる。
(一年生は基本的にブレザーとスラックス、もしくはスカートって感じだね。やっぱり慣れてから着崩していくのか。自由度が高い分、いずれおしゃれもかなりレベルの違いが出てきそう)
一般の部に進んだ私はアレンルードとは校舎も全く違ったので、学内ではなかなか顔も合わせない。だからスカートではなくスラックスを選んで着ていたけれど、間違えられることはなかった。
母親の遺伝子が強かったのか、アレンルードと私は顔がそっくりだ。
だけど校舎が違って、しかもアレンルードは男子寮生活しているものだから、校内でも顔を合わせることはまずない。
おかげで双子の兄が同学年にいることを誰も知らないまま、私は普通に上等学校生活を始めていた。
(そこで問題が発生しました。誰か、私に友達の作り方を教えてください)
いや、これでも私、普通にコミュニケーション能力はあるつもりだ。だけど、考えてほしい。周囲には13才の子供ばかりなんだよ? 私、亡くなった時点で永遠の二十代なんだよ?
ここでアレナフィルとして生き直した分を足したら三十代か、記憶にないアレナフィル人生分も足したら四十代じゃないのかとかいう反論は認めない。
だって私は可愛い女の子として生まれ変わったわけだから、誰はばかることなく13才。それでも年上のお姉さんとしての記憶があるから、まあ、永遠の二十代ということで容赦してあげるわけだ。
それでも周囲の同級生の二倍の人生年数経験者なんだけど。
そう、周囲にいる同級生達は私の半分しか生きていないのである。
いくら保護者に向けて愛らしい子供のフリをしたところで、それはあくまで演技。つまりフリ。
幼年学校にいたクソ生意気なだけの男子児童にウキウキで甘酸っぱい初恋をする筈がないし、可愛い小物にきゃっきゃとはしゃげるわけもなかった。それが上等学校一年生になったところで何が変わるのか。
13才の女の子が、5才や6才の幼児達と同じレベルではしゃげるかってことだよ。どうしても年長者として冷めたものは出てくる。
(いつか大人になった時に分かるだろう、少女達よ。可愛いと思う物と似合う物は全く違うのだということを)
そう、私は自分のスタイルを十分に知る永遠の二十代。
仕方ないので、私はやはりお友達ができないおとなしい女の子達に声をかけて、仲の良いお友達になってもらうことにした。
「あのね、あなたとあなたとあなた、お友達になって」
「え? あ、・・・うん」
「えっと、・・・はい」
「うん。いい、・・・けど」
要求はストレートに、そして誤解されない言葉であるべきだ。
断られなかった。だから私達はもう友達だ。
(子供だもんなあ。お互いに愚痴を言い合って、恨み骨髄な奴を罵り合って、でもってお互いの泥を吐き出しあって、
「あー、結構うちら気が合うよね」
「だな。ところでこーゆーの興味ある?」
「それはない。自分はこっち派だ」
「それもいいな」
「うん。お宅もなかなかいい趣味だ」
みたいな互いの領域を尊重しあうノリには早かろう)
私の世代の友達作りなど、小さな料理屋で舌鼓を打ちながらやはり一人で来店していた人とひと時のお喋りを楽しむというものだ。その場限りで終わる関係の場合は。
趣味で繋がることから始まる関係の場合はもう少し長持ちする。どちらにしてもその場のフィーリングと、お互いのノリが全てだ。だからニックネームしか知らない友人ネットワークが広がっていく。
だけどここは学校。
ヤバいと思ったら偽名と嘘連絡先だけ残してトンズラするには早すぎる。
たしかお子様のお友達作りなんて「さあ、皆さん。仲良くしましょうね」「はーい」だった筈だ。だからこれでいい筈だ。そうと信じる。だから私は三人の友達を作って全ては解決したのである。
そんな感じで友達になった三日後に、ピンクがかったベージュ髪の子から文句を言われた。
「ねえ、どうして名前を教えてくれないの? そしてどうして私達の名前も聞いてくれないの?」
「・・・名乗られなかったから、それでいいかなと思って」
だって昼食とか、一人で食べているよりも何人かで食べていたら仲良いって感じがするよね? そうしたら教師も、「ああ、問題ないな」って思うよね? 大事だよ、成績評価表。
するとピンク混じりなベージュ頭がキレた。明るい淡水色頭と淡いオレンジ頭まで一緒だ。
「聞いてよっ、私達の名前ぐらいっ」
「これでもずっと待ってたのにっ」
「名前呼ばなきゃいけないようにしてみたら、指差すだけで終わらせるしっ」
三人がかりでしこたま怒られた。複数対一人とは、卑怯ではなかろうか。
おとなしいと思っていた女の子達だったけど、そうでもなかったらしい。
「えーっと、じゃあ、私、ウェスギニー・インドウェイ・アレナフィル。ウェスって呼んでくれればいいよ」
察してくれるのを待つとか、名前を言わざるを得ない状況に話を持っていくとか、ねちねちすぎないだろうか。要求があるならまずは言いたまえ。
そういったことに不満はあったが、私は永遠の二十代。つまり大人だ。この程度のことで怒る程、狭量ではない。
ゆえに要求通り名乗ってみた。
「男の子じゃないんだからぁっ。なんで苗字っ」
「スカートもはかないし、それで苗字って何なのっ」
淡いオレンジ頭とピンクベージュ頭が机に両手をついて主張する。
二人とも差別はいけない。苗字だって大切な名前の構成物だ。
「普通、友達は、名前の方を呼ぶと思う」
だが、明るい淡水色頭が真面目に言っているところをみると、そうなのかもしれない。
だけどさぁ、本当にそれ、私が悪いの?
だってアレナフィルなら、アレナって呼ぶよね? 自宅ではアレンルードとごっちゃになるから、フィルって呼ばれてるけど。
アレナって可愛らしすぎない? そういうのは可愛い女の子が呼ばれて似合う名前だよ。私にはシンプルな感じが似合うと思うんだよね。ゴージャスで妖艶な私だからこそ、シンプルで颯爽とした名前が似合うと思うんだ。
いや、今の私の外見は可愛い系だった。
「ウェスって方がカッコイイかなって思ったんだけど」
「幼年学校ではなんて呼ばれてたの?」
「アレナかな」
ピンクベージュ頭も落ち着いたのか、茶色い目を瞬かせて聞いてくるので、そう答えてみたら、彼女達は顔を見合わせると、何やら頷き合う。
知らなかった。サルートス国では瞳で会話できるのか。
私の驚きをよそに、少女達は何やら納得したようだ。
「そっか。悪気があったわけじゃなくて、分からなかったんだ」
まるで幼児預かり保育園のお姉さん達みたいな声で、淡いオレンジ頭が私に語りかけてくる。いつかお友達として進路相談されたらそっち分野を勧めてあげよう。
「あのね、・・・上等学校デビューは諦めた方がいいと思う」
おずおずと上目遣いが可愛らしい明るい淡水色頭だが、何気に痛いところを突いてきた。
「ごめんね。もしかしてアレナって呼ばれたくなかったの?」
「そういえば可愛い小物とか、鞄につけてないね。えーっと、・・・かっこいいのが好きなんだ?」
その通りだ。かつて紫がかった瑠璃色が濃すぎて黒に見えていた髪、そして薔薇色の瞳をしていた私は、セクシーなお色気路線だと決めつけられることが多かった。会話する度にその幻想を打ち砕いてやったが、むなしい戦いだったと言えるだろう。
その反動が、今、ついに来たのだ。
もう女の子らしさなんて要らない、保護者達の前を除いて。
切れ味鋭い颯爽としたクールビューティを私は生きる。
(今こそっ、私はゾウのようにたくましくっ、イノシシのように貪欲に生きるのだっ)
ちなみにスカートではなくスラックスで通学していることは、
「男の人とか、なんかチカンとか、・・・怖い。フィル、ルードのフリして学校行く」
と、愛らしく保護者を見上げながら言ってみたら、
「そうだな。フィルは可愛いんだし、スカートで足を見せる必要はない」
「そうですわね。スカートであまりの可愛らしさに変な男に目をつけられてからじゃ遅いですわ」
と、父とマーサから即座に了承された。
保護者達は恥ずかしがり屋な女の子なのでスラックスだと思われているが、その実際は肩で風を切って元気に登下校しているのである。
「うん」
こくんと頷いた私に対して、少女達は優しかった。最初の文句が嘘のように微笑みかけてくる。
なんだか保健治療室の先生を思い出す、まさに作られた優しさスマイルだ。
「だけど女の子でね、苗字で呼ぶのってなんか仲間外れっぽいでしょ。それなら、・・・アレルってのはどう?」
「そうだね。アレルならカッコイイし、雰囲気的にも似合ってる」
ピンクベージュ頭は何やら責任を感じているのか、アレルという名前を出してきた。淡いオレンジ頭もうんうんと頷いている。
「うん、アレルなら女の子女の子って感じしないよ? とっても似合ってる。ね?」
「ん」
そうして私の愛称はアレルと決まった。双子の兄の愛称と似ていない方がいいんじゃないかなという思いもあったが、いいことにした。
どうせアレンルードとは校舎も違うし、一般の部は貴族も少なくて、ほとんどが通学だ。お互いの友人がかち合うこともないだろう。
― ◇ – ★ – ◇ ―
ちゃんと友人もできた私はりっぱな新入生だ。そして通学生だが、男子寮にも顔を出す。
男子寮は男子のみだが、ちゃんと面会手続きをすれば女子だって部屋に入ることもできるのだ。
「こんにちは、寮監先生。いつも兄がお世話になっています。今まで自宅で甘やかされてきたものですから、一人では起きられずに先生にご迷惑をおかけしているようなら叱って来いと、父から言われまして参りました。ですが呼び出してもらったところ、部屋にいないようですので、洗濯物とかチェックして必要なら持ち帰ろうと思います。すみませんが部屋を開けていただけますか?」
「双子でもこっちはしっかりしてるもんだ。ちょっと待て。鍵、鍵っと」
礼儀正しい子はウケがいい。
自宅ではおっとり頼りない演技を爆裂させてみせるが、真実の私は社会を知る一人前のできる女だ。どういう子供がこういう場所では特別待遇されるか、よく分かっている。
(パピー、別に何も言ってなかったけどね。心配してるのはマーシャママだけで。だが、こういう時はそういうことにしておいた方がいいのだ)
甘ったれた女の子など、男子寮では醜聞を起こしかねない騒乱の種だ。
王族や貴族というお金持ちで特別待遇をなんとも思わない子供達を長く見てきた寮監達は、面会に来る人間の資質もチェックしていることだろう。
ゆえに私は、絶対に問題を起こさないという人間性をアピールするのである。気分は色気のない眼鏡をかけて髪を一つにまとめた厳しい女教師、もしくは学内の風紀を取り締まる身だしなみに全く隙の無い優等生だ。
「ありがとうございます」
「いやいや、女子寮には入らないのか? 二人とも通学にしておけばよかっただろうに大変だな」
寮監室には一人しかいなかったが、恐らく他の人は見回りや点検に行っているのだろう。
青林檎の黄緑色の髪をした寮監は、二十代だろうとは思うが、年が分からない。
けっこう国が違うと、年齢って当てにくくなるのだ。大体、この年代かなぁとは思うのだが、もう自己申告してもらった方が早い。
(ファレンディアだと私みたいな青紫系の髪ってそれなりに珍しい感じだったけど、こっちはそこまで珍しくない感じだなぁ。別にどうでもいいけどさ)
ワインレッドの瞳が、暗い所で見たかつての私の瞳を思わせてちょっと懐かしい。私の色はもう少し明るく柔らかく華やかなローズレッドだった。
「いえ。父は軍にいるのですが、初めて野営とか行軍とかすると、それだけで心が折れる人が出てくるそうなんです。こういった集団生活を体験しておいた方が、働き始めてから皆に迷惑をかけないだろうと」
「ああ。なるほどな。うん、それはある。たしかにまだ戦ってもいないのに、雑魚寝だけでダメージ受ける奴がいるんだ」
私の前に立って歩く寮監は、ついてきなと言わんばかりに顎をしゃくって歩き出した。
別に気にしないが、よく考えたら私は子爵家のご令嬢。
けっこうぞんざいな扱いだな、別に気にしないけど。
別に気にしないけどね、これでも魂は大人だから。
「先生は、そういったことも詳しいのですか? 寮監はそういった心構えも教えるのですか?」
どうしてここで踏みこんで私が尋ねたか。それは自分の手を抜く為だ。
あのアレンルードの甘ったれた根性を鍛えなおしてもらえば、私がこうして見に来る必要もない。
(できれば貴族令息として起床から就寝までスペシャル生活指導してくれないかな。そして双子の妹には絶対服従精神も植え付けておいてくれるとベスト)
マーサがアレンルードを心配していなければ私だって、
「大丈夫、マーシャママ。フィル、見てきてあげる。そんなに心配しちゃダメ」
なんて言わなかった。
いじめられて帰りたがっているんじゃないか、心細くて泣いてるんじゃないかと、マーサは毎日アレンルードを案じていたのだ。
おとなしいタイプならともかく、あのやんちゃ坊主だ。不満があったら勝手に逃げ帰ってくるから心配する必要なんてないし、双子の妹が同じ学校に通ってるんだから、いざとなれば私を通じてウェスギニー子爵家に泣きつくことだって可能だ。
だから心配する必要なんてないって私は思っていたけど、マーサにとってアレンルードはどこまでも世間知らずな箱入りお坊ちゃま。そして私は言葉も舌足らずな怖がりお嬢ちゃま。
それゆえに正論バリバリなセリフなど私は言えなかった。
(多分マーシャママ、私のこと、まだ幼児だと思ってる。いや、それ家族全員かも)
はああ、愛される子供を演じるのも大変。
どうせなら自分のことは自分でやるように、遠慮なくビシバシゲシガシ鍛え直しておいてくれないかな。アレンルードはあれでとっても手がかかるのだ。
「いやいや、そうじゃねえ。ここの寮監は、期間を決めて軍から派遣されてくるのさ。どうしても血気盛んなお年頃のお子様を預かるわけだからな。現役じゃないと、爺さんじゃきついだろ」
「よく分かりませんが、大変ですね」
つまり問題行動を起こさせない程度のことしかできない、と。礼儀作法や身の回りのあれこれは期待できなさそうだ。
言われてみれば男子寮の寮監は、どれも筋骨たくましいタイプばかりだ。
男子寮には寮監が5人いる。私はどの先生にも菓子折りをもってご挨拶済みだった。同じ顔なので、素性を怪しまれることもない。
(これがもっと年上になってくると、女の子を連れこんだり、脱走したり、色々とやらかしそうだもんねぇ。そりゃ現役の人達じゃないと対応できないか。だけど男子寮より女子寮の方が、男子生徒が忍びこんだりしそう)
食堂の調理や洗濯、掃除といった外注もあるので、男子寮といっても女性の出入りはそれなりにある。廊下や食堂、共用シャワー室には清掃も入る。
だが、個室は自分で管理するのが当然。洗濯は自分で所定の袋に入れて決まった時刻に出さねばならないし、その時に利用料を支払うシステムだ。
部屋を掃除してもらうなら代金を払わなくてはならないし、その時には立ち会いが必要だ。盗難といったトラブルを防ぐ為である。
「あー、そうだな。お前さんの年で理解しちまう方が怖いか。やってることが普通の奥さんよかしっかりしているんで、つい・・・。兄貴よりしっかりしてるぞ、ホント」
ぽりぽりと青林檎の黄緑色の髪を掻いた後、寮監は私の頭をぽんぽんと撫でた。
(ええ、しっかりしてますよ。あのルードがちゃんと生活できる筈がないから、諦めて見に来てますとも。ルード、埃があっても気にしない性格だし、マーシャママ、甘やかしてたからなぁ)
マーサは国立サルートス上等学校みたいなエリート校に通わなかったそうで、父兄として訪れるには自信がないのだ。こんなおばあちゃんが行ってもアレンルードが恥ずかしいだろうと、そんなことを考えている。
いや、だって地方で暮らしてたんだもん。通えるわけないよ。気にしなくていいのに。
だけど可愛いアレンルードに恥ずかしい思いをさせたくないと心が挫けているマーサを、私が来させる筈もない。
(年齢なんて関係ないけどね。マーシャママは本当に素敵なお母さんだよ)
寮でも自分で洗濯や掃除をする生徒はちゃんといて、そちらは無料だ。アレンルードは新入生なので二階の一番狭い部屋だが、学年が上がる度、上階の少し広めの部屋に移れるらしい。
そんなことをぽつりぽつりと語りながら、その寮監は私を208号室まで案内してくれた。部屋番号がわかっていれば勝手に行くと言いたいけど、やはり女の子に何かあっては責任問題も発生するのだろう。
「ウェスギニー、来客だ。・・・入るぞ」
一応はトントンとノックをしてから鍵を開けてくれた寮監だが、やはり室内は無人だった。
そして私が回れ右して帰りたくなる室内でもあった。
入学して数日。どうしてベッドや床に泥汚れが付いているの? どうして汚れた服が散乱してるの? これを誰がいつ片付けるというの?
「うーん。やっぱりか。ま、どこの部屋もこんなもんだぞ」
慰めるような声は、私のいたたまれなさを考えてのことか。
机の上もベッドの上も滅茶苦茶に散らかっていて、クローゼットは開けっ放しだった。引き出しも開けっ放しで荒らした痕跡が凄すぎる。
「散らかってるのはともかく、どうしてシーツが泥まみれ。・・・泥棒?」
「あー。そういえば昨夜、新入生歓迎会で外でちょっとしたパーティをしてたんだ。きっと泥汚れをはたかずにそのまま寝てしまったんだろう」
外で汚れたらまずはシャワーを浴び、服を着替えてからベッドに入るものだ。そんなのが理由になると思ってる奴は泥汚れを落とす手間を知らんお子様だと言ったも同然。
双子の兄を庇ってくれた気持ちは嬉しく受け取っておくが、この泥汚れは見過ごせない。
「持って帰るにも、ちょっとこれはひどすぎます。・・・先生、たしかここ、自分で洗える場所があるんですよね? 私の持ってきた鞄に入らない気がします」
「ああ。えーっと、じゃあ、そっちも案内しよう。合鍵はそのまま持っておいて、終わったら返しに来るといい」
「ありがとうございます。いきなりシーツが消えていたら驚くと思うので、メモだけ書いておきます」
机にあった紙に、「洗濯しておくよ。フィル」というメッセージを書くと、私はその泥だらけのシーツをベッドから剥いでそこにあった籠に入れた。ついでに勝手に発掘した洗濯物も見つけて籠にぽんぽん放りこむ。
アレンルードの脱いだ服の置き場所ぐらい私にはお見通しだ。ぐしゃぐしゃにして部屋の隅に押し込んでおけば誰かが片付けてくれるとアレンルードは信じてる。
ちゃちゃっと私は積み上げられた箱をどかして洗濯物を回収した。ついでに泥汚れをどうにかしなくてはと、ドアの手前にあるスペースのところに置かれている箒とちりとりをチェックする。
「全くもうっ。ちゃんと換気しないからっ。着たものは全部洗わないとダメって、今度帰ってきたら言い聞かせなきゃ」
窓を開けて持っていた鞄を机の上に置いた私が腕まくりしていると、寮監はくくっと笑った。
「そうだな。最初の週末は家が恋しくなるのか、帰宅願いを出す生徒が多い。しっかり教えこんでやれ。お前さんなら洗濯室を使っていても、兄貴と思われるだけだろ」
「そうします」
私は制服をスカートではなくスラックスにしているので、アレンルードと瓜二つ状態だ。もう少し育ったら性差も出てくるだろうが、王族や貴族の少年は髪を長く伸ばす慣習があるので、今しばらくは入れ替わりも可能だったりする。声でばれるからやらないけど。
「せっかくだ。寮内を案内しておこう。迷子にならんように」
「ありがとうございます」
忍び込む予定はないが、アレンルードがみんなが知らないと思って大嘘をかます前に情報収集しておいてもいい。
何かと双子の妹に対してアレンルードは自分の方が偉いんだぞとアピールするお子様だ。
「いや、たまに体調を崩したりすると、家族が世話しに来たりするのさ。だから食堂とか調理室とか知っておいた方がいい。どうやらウェスギニーはお前さんがやってきそうな気がする」
どうだろう。アレンルードが風邪を引いたりしたならマーサも駆けつけそうだ。
だけどそれぐらいなら自宅に引き取った方がいい。他の寮生と違ってうちは寮に入る必要もない程に自宅が近いのだ。
「そうですね。うちの家族は忙しいので、私が来ると思います」
ま、私が来る時は、どうせお腹を出して寝ていたとか、そんなレベルだろう。
実はけっこう紳士だったのか。その寮監が洗濯物の籠を持ってくれて、色々と口頭で案内してくれた。
うちのアレンルードは2階だが、4階には王子の部屋があるらしい。
「つまり、このフロア毎に表示されている数字を見て、絶対に2階よりも上には行くなということですね」
「おいおい。迷子になったフリして上に行ったなら、運が良ければ王子様に会えるぞって教えてやったんだが」
営業関係がよくやらかす手だ。そして運が良ければ偶然の出会いでどうにかなるけど、大抵はまともなアポイントメントも取れないのかと軽蔑される手合いでもある。
「ああ、そういう・・・。王子様も在学して入寮していらしたんですね。大丈夫ですよ、先生。そうやって反応を見なくても。どうせ私、数年後とか、何かの祭典で手をお振りになるのを遠くから眺めさせていただくからそれでいいんです」
「興味なしか、何ともまあ」
寮監はくくっと苦笑しているが、よくあることだ。馬の鼻先に人参を吊り下げてみて、その反応を見ようとしたのだろう。
そう思った私はわざわざ徒労に励むことはないと、寮監にきっちり説明しておくことにした。
別にここには王子へ偶然の出会いを仕掛けるのが目的で来たわけではない。私は双子の兄の為だけに来たのである。
「それでもまかり間違って何か私が行動を起こした時、責任を問われるのは、先生、あなたです。だからそういうことは言わない方がいいと思います。こういう時はシンプルに、
『学年別で色々と権限も違ってくるから上階には行くな』
だけでいいんです。どんな高貴なお方であろうとも、学生の時ぐらい気楽な日々を過ごす権利があります。お気の毒ではないですか」
いくら私が世界で一番信頼できる乙女の鑑であろうと、どんな機密情報を手にしたとしても悪用しない天の御使いであろうと、寮監という責任者が漏らしていいことと悪いことはあって、この寮監は女の子を見る目はあるが、職務上はあまりにも不出来すぎた。
心の底から恥じて反省するがいい。
「どうせ寮生からみんな王子の部屋位置ぐらい聞き出してるさ」
私の正義感は、素晴らしい説得力で片付けられた。
「言われてみればそれもそうですね。じゃあ、いっか」
「おい。それで終わりか。しかも敬語が一気に崩れたな」
王子の情報一つ守れない男が出世する筈もない。敬うべき相手かどうか、私は見抜いてしまった。
「学生の情報を売る寮監に払う敬意の持ち合わせが品切れしました。
これでも我が家は父の職業的に、王族の方々には敬意と忠誠を捧げて生きているのです。部外者に王子様の部屋がある場所を教えるだなんて、とんでもないことですよ。もうここに投書箱があったら密告するところです。
だけど先生は鍵を開けてくれたし、案内もしてくれたので、そこは目をつぶります。何より先生の情報が本当のこととは限りません。わざと嘘情報を流した可能性の方が高いと私は見抜きました」
どうだ、私の洞察力に感動するがいい。そして遠慮なくうちの父のファンとなれ。
そういう思いをこめて威張った顔で横を歩く寮監を見上げてみせたが、ワインレッドの瞳にあったのは不憫そうな光だった。
どうしてそんな目で私を見るのだ。なんで意味不明と言わんばかりの顔をしているのだ。
「いや、そこは自分だけ特別扱いされて感激するところじゃないのか?」
「え? ・・・そういうものなんですか? 感激というか、感謝はしています。洗濯籠持ってくれていますから」
私はちょいちょいと、目の前の寮監が持ってくれている洗濯籠を指差した。
特別扱いと言われても、兄の部屋の合鍵を洗濯が終わるまで借りていいという事ぐらいだ。
何をせせこましいことで恩着せがましい。この寮監の財布は1ナルすら減ってないというのに。
文化の違いは難しいな、サルートス国。
「そうじゃなくてな。手が届くところにいる王子様だ。もっと気になるもんじゃないのか?」
「そんな無茶な・・・。王子様に気になるところですか? うーん、全くお会いしたことないお方ですから気にしようがないです」
本心だったが、なんだか寮監は物足りないような顔だ。
他に何を言えというのか。生憎と永遠の二十代である私は、その男の身分と財産がいかにあろうと、その男が自分にその地位と財産を駆使して貢いでくれないのならばなんの価値もないと知っている。
仕方ないので心優しい私は、少し明るい口調で言ってみた。
「だけど大変ですよね、こうして王子様なばかりにみんなから注目されてしまうと。露出狂みたいな人ならそれも快感だと思いますけど」
「なんでここで露出狂との比較だよ」
いやいや、比較じゃないよ。単にそれだけ気の毒だよねって言ってるだけだって。
面倒くさいな、サルートス人。可愛い女の子の精一杯な思いやりさえ理解しないとは。
どんな国であろうと心優しい人間だけが苦労するんだねって、私は改めて思った。
「どの王族の方か知りませんけど、とても真面目で禁欲的な方だと聞いた覚えがあるんですよ。それならストレスたまるだけじゃないんですか? 人に囲まれてちやほやされるのもうざいと思い続けて毎日を生きていそうです。知りませんけど」
社交的で常に人に囲まれてあれこれ賑やかにやっているのであればお世辞やおべっかも意味があるだろう。
だけど己の義務を見据えて生きているなら、そんな囀りなど何の役にも立たない騒音だ。
「そーか。で、その真面目で禁欲的な王族を語ってたのって誰だ?」
「祖父です」
「世代が違い過ぎるわっ」
文句あんのか。祖父と孫とのほのぼのとした語らいに、何を他人のお前が文句を言うのだ。
まさかこいつも祖父母と親子っぽく過ごしている子供を見たら、
「あいつのお父さんとお母さん、年よりなんだぜぇ」
とか言うクチか。最低だね。
「なんで先生が怒るんですか。祖父の世代でそういう王族の方がいらしたなら、その子供世代も孫世代も同じように真面目で禁欲的な方ですよ、きっと」
「なんつー決めつけだよ。お前の父親はそういう話をしないのか」
うちの父が語ること・・・。私がとても可愛いとか?
ウェスギニー子爵フェリルドは軍で働いている。帰宅が遅いのはいつものことだし、留守にする時は一週間とか一ヶ月とかそんなペースで帰ってこない。
だから帰宅した時にはアレンルードと私をどこかに連れて行ってくれたり、一緒に遊んでくれたり、いい子だねと甘やかしてくれる。私を見つけたら抱き上げて、可愛い私の子リスさんと頬にキスするのがお約束だ。
「うちの父は、家庭に仕事を持ちこまないのです。それにうちの父は軍で働いていますから基地の所属です。王族の方なんてお会いしませんよ?」
「お前んち、貴族だろうが」
「うちは祖父がまだ健在でして」
病院で目覚めてから、どうにかこうにか1年で言葉をマスターし、なんとか幼年学校の入学に間に合い、しかしまともな人間関係も築けなかった私は、王室の情報などほとんど知らなかった。
王子や王女がいるらしいのは知っている。だけど、それだけだ。人数も年齢も知らない。
(母親が平民だったから、私はあまり貴族社会に出ない方がいいだろうって話してたしなぁ。ルードはともかく、私は嫁いだらそれを理由にいびられるだろうか私を社交界に出す気ないんだよね、パピーってば)
そういう意味で父はとても思考がクールだ。成人した私自身が毎日を幸せに過ごせる相手として考えるなら、そこそこ裕福な平民と恋愛結婚した方がいいだろうと割り切っている。そして私を情報源として変な野望を持って近づく男が出ないよう、王侯貴族関係や軍の情報をシャットアウトした。
(普通なら貴族令嬢として自分はそんなにダメダメなのかと傷つくところなんだけど、私にはとても有り難かったしね)
だって言葉の学習から始めて、いきなり幼年学校だったんだよ。小さな子供の反応を、周囲を見ながら頑張ってマスターすることに神経を集中させていたに決まっている。お子様のフリを大人がするって大変なんだぞ。しかも赤ちゃん言葉を教えやがった大人のおかげで言語習得は回り道。
ここに至るまでの私の苦労を正しく知ることが出来たなら、きっとこの寮監も私を尊敬するだろうに、無理解とは悲しいものだ。
だけど仕方がない。人は与えられた環境で適応していくしかないのだから。
貴族の家に生まれておきながら王子様にキャーキャー言わない私に対して不満そうだった寮監だが、こちらにもこちらの事情がある。
そして一階にある洗濯室はそこそこ広さがあって、幾つもの洗浄機が並んでいた。洗濯室には扉がなく、窓も開いていて通気性がいい。
「ほら、ここが洗濯室だ。洗濯物を干すときは自室の洗濯物干しスペースか、屋上か、裏庭だ。ただし盗難は自己責任だから、自室を勧める」
「ありがとうございます。兄は取りに行くのを忘れそうなので部屋に干すことにします。・・・それでは後程、寮監室に鍵を返しに行きます」
早く乾くのは屋外だけど、そうなるとやめておいた方がいいだろうなと、私にも分かった。
誰もいないから貸し切り状態で使える。
「ああ。そういえばウェスギニー、・・・なんていう名だ?」
「ウェスギニー・インドウェイ・アレンルードです。208号室です」
「いや、お前だよ。なんでここで寮生の部屋番号と名前だよ」
ホント、面倒な男だ。
鍵の貸し出し手続きでもあるのかと思って、寮生の部屋番号と名前を教えてやった親切な私に対してどうしてさっきから突っかかるのだ。
「ウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルです」
「そうか。じゃあ、何かあったらこの笛を思いっきり吹け。ここからなら寮監室まで聞こえる」
「あ、はい」
ぽんぽんと頭を撫でてから、紐のついた笛を渡して寮監はいなくなった。
(実はいい人なのかも。何があるとも思えないけど、閉ざされた集団では何かと目をつけられた誰かがいじめられたり暴行されたりするのも事実)
思うに寮生はまだ授業中なのだ。寮に入っている生徒で、一般の部はまずいない。わざわざ高い寮費を払ってまで地方から進学させている場合、一般の部に行かせてもあまり価値はないからだ。それならば地元の学校でいい。
何にしてもあの寮監。口は悪いが、魅力的な可愛い乙女に対する気遣いはあったと言えるであろう。いざという時、悲鳴など人はそうそうあげられるものではないのだから。
(ローゥパパ、色々と考えてくれているんだよね。言葉も忘れてしまっていた私の方が同じ部門でいい成績をとったりすると、ルードが荒れることになるかもしれないって。私の方が当事者だけど、ルードだって子供。母親がいきなり亡くなったことが心の傷になっていない筈がない。ルードは母親が殺されたことを知っているんだろうか。亡くなったとしか聞かされていない可能性もある。あの頃、私は皆が何を話しているか、全く理解できなかった)
私が同じ役人でも上層部を狙っていくのならまた違った進路だっただろう。だけど私は生活に困らない程度に稼いで過ごせるのんびりした役人生活を希望していた。だからローグも私に一般部を勧めたのだ。
私の成績は悪くなかったので、どうせならエリート高官への道を狙っても良かったかもしれないが、そうなれば周囲もまた貴族出身のエリート層。
ローグは可愛い私が子爵家の娘であることも考え、かえってエリートが集まるところでは逆らいにくい立場の貴族もいるかもしれないが、平民が多くを占める役所であれば貴族令嬢ということで無茶なことも言われないだろうと、そこまで考えてくれた。
アレンルードは何かと正義感の強い少年だが、それゆえに正義を貫きたくても相手が高位の貴族なら悪くなくても自分が悪いことにされることもあるのだと、これから貴族社会の現実を知っていくことだろう。だからこそ双子の妹はそんな世界から離れていた方がいいと、ローグは私に教えてくれた。
おかげでぼんやりしている女の子スタイルを貫くしかない。その家でのストレスを、こうして無関係な寮監に対し、発揮してしまったのだろう。
(ああ、久しぶりに年齢相応な会話をしてしまった。レンさんとじゃないと、大人の会話もできやしないんだよねぇ。だけどルード、これはないでしょ。どこまで汚してんの)
困った兄だと思いながら、私は洗浄機と脱水機とを交互に使い、汚れていたシーツと服とタオルを綺麗に洗いあげた。
せめて双子の兄だけは私が守らなくては。まだアレンルードは13才の子供だ。
父にしても、私が言葉も分からなくなっていたから壊れることもできなかったのだろう。
私なら耐えられない。愛していた存在が殺されたなら。
だけど、当事者でありながら私は部外者だ。誰よりも近くにいて家族と寄り添いながら、それまでのことを知らないがゆえに、その悲しみを他人のこととしか思えずにいる。
(ルードは母親が病死したと信じてる。私もそう信じてることになってる。だけどあの時、あの人は刺されていた。そして亡くなったのだ)
そんなことを考えながら、私は籠に洗いあげた洗濯物を軽く畳んで入れ、部屋に戻った。
窓を全開にしておくと風が入りすぎて室内が滅茶苦茶になりそうだから、少し開けた状態で固定しておく。この乾いた風なら、明日の夜までには洗濯物も乾くだろう。
「お年頃になったら私も来るわけにいかないんだから、しっかりしてもらわないとね」
今はまだ兄も子供だけど、数年したら勝手に部屋に入られたら困るようになる。
クローゼットや引き出しの中も、下着は下着、上着は上着と、種類別に分けておけばいいのに、滅茶苦茶な仕舞い方だった。
きちんと畳んでから分かりやすいようにして部屋を出る。
(ふふっ、ルード驚くだろうな。いきなりお部屋が片付いてるんだもん。このお礼は出世払いでよろしくてよ、ほほほほほ)
ちょうど階段を降りていたところで、上から凄いスピードで降りてくる寮生がいた。抜いたかと思うと、私を振り返る。白いシャツと灰色のスラックス。そのシャツの一番上のボタンは外されていた。
(不審人物と思われたかな。『見ない顔だな、名を名乗れ』って奴? あれ? だけど私の顔はルードと一緒。不審人物扱いはないか。というか、寮生が入ってきたばかりで、まだみんな、顔覚えてないんじゃないかな)
しかも私は制服の上着とスラックスだから、まさにアレンルードと同じ格好だ。少し髪の長さは異なるが、大した違いではない。
「おい。君の名前は?」
どうやら私がアレンルードではないと一目で見破ったようだ。できるな、こ奴。
「すみません。自分は寮生じゃありませんが、きちんと面会届は出しています。寮監先生にも許可は取っています。不審人物ではありません」
「いや、そういうことを疑っているわけではない。・・・君の名前を聞いているんだが?」
私よりも背は高い。亡くなった母リンデリーナによく似た淡い紫色の髪をしていたが、まあ、髪の色なんて千差万別。だけどその少年は薔薇を思わせる赤みがかったピンクの瞳をしていた。つまり、前世の私とよく似た色の瞳だ。
目の前にいた少年が邪魔だったというのもあるが、私は足を止め、驚きにその顔をまじまじと見つめずにはいられなかった。
(なんで私の名前が知りたいわけ? おかしくない、普通? 大体、寮に知らない人がいるって言っても、私、学生服着てるよね? 別に小汚い浮浪者が入りこんだわけじゃないよね?)
熱い眼差しは、何を語ろうとしているのか。
いい加減、口で語ってほしいぞ。国立サルートス上等学校生。
だが、私は真実を見通してしまった。伊達に社会人経験があるわけではないのだ。
「ま、まさか、これが路上接触っ? 街中じゃなくて階段だけどっ」
「・・・は?」
「なんて怖いっ。寮生だと思って立場を利用して近づこうと思ったら、部外者と知って名前を知ることから始めてるわけ!? 恋愛感情無しに見境なく毒牙にかけるという変質者に、こんな子供の頃からっ!? なんて恐ろしい国なのっ」
どうしよう、兄が危険だ。
私の顔が気に入ったなら、兄の顔も同様だ。寮生同士なんてまさに理想の環境ではないか。しかも私は自宅通学だから安全だが、ここは皆が個室。つまり密室だ。
い、今すぐ、今すぐ私はアレンルードの退寮手続きをしないと、あの子の貞操の危機が・・・!
「ちっ、・・・違うっ」
「騙されませんよっ。そうでなければ部外者の名前を聞くどんな理由があるとっ!? この顔が気に入ったということは、あなたっ、うちの兄にも手を出す気ですねっ」
「そっ、そんなわけないだろうっ」
私の名推理に、その少年は言い当てられたが故の動揺を隠しきれない。
ふっ、やはりか。いいだろう。あの小生意気な兄が欲しくば私を倒してみせろ、話はそれからだ。
不在がちな父を心配させない為にも、私は危険な芽を全て摘んでみせる。13才の愛らしい天使は愛らしさだけではないのだ。
「いいでしょうっ、兄は私が守ってみせますっ。まずはあなたの名前を名乗りなさいっ。性的犯罪者の恐れ有りとして報告しますっ」
「だから違うんだぁっ」
その叫びが聞こえたのか。
先程、私を案内してくれた寮監が、なんだかとても疲れた顔で階段を降りてきた。
「何をやってるんだ、お前らは」
「あ、先生。ちょうどよかった。この人、いきなり私の名前を聞いてきたんです。私、寮生じゃないって言っているのにっ。面会手続きをしたから泥棒でもないのにっ。私の顔を気に入ったなら、兄に手を出す可能性がありますっ。うちの兄が襲われてからじゃ遅いんですっ。この人の名前を教えてくださいっ。兄に注意しておかないとっ」
「・・・いや、そういう場合、連れて帰りますって言うんじゃないのか? お前さんち、通学できるんだろ?」
なんだかもう呆れ果てたという声だが、呆れるのはこっちだ。連れて帰るにしても本人がいないのだからどうしようもないって分からんのか。
前世の私よりも年上っぽい顔のくせに、実は年下なのか。この頼りなさは年下だな、うん。
仕方がない。世間というものが分かっていない軍からの新米出向者に、心優しき私は現実を教えてあげることにした。
全くどいつもこいつも頼りなさすぎてやってらんないよね。
「いいですか、先生? 世の中には男女問わず、狙われる時は狙われるんです。しかし犯罪者を見抜くのはとても難しい。だからこそ、それを潜り抜ける技能を身につけて人は強くなるのです。
共同シャワー室で変な目で友人の体を物色している人がいたら、被害者が出る前に皆で情報共有し合う。その要注意人物には近づかない。
被害者を出さない、それが大事なんです。徒党を組まれることを考えて、自分達でも集団で自衛しなくてはなりません。
同時にまだ10代。未成年ならば、言い聞かせることで正しい道に戻れる可能性もあるのです。実は家族の愛に飢えていて、変な方向へ向かっているだけかもしれません。正しい愛情を教われば、更生は可能です」
「・・・それはそれでもっともだ。だが、そいつがお前の名前を聞いたのは、単に興味がわいたからだろう」
なんて物分かりの悪い寮監だろう。
私はだからこそ告発しているのである。兄を守れるのは私だけだ。
「だから危険なんじゃないですかっ。世の中、どれだけの少年がそんな善人の皮をかぶった狼に襲われていると思ってるんですっ」
「いや、それなら少女の方が襲われると思うぞ。そしてお前こそ少女の皮をかぶったババアだろう」
はああっと大きな溜め息をついたかと思うと、私より数段上の位置で立ち止まった寮監は、しゃがみこんだ。
誰がババアだ、この新米出向者。
「何してるんですか、先生。立ちくらみですか? 階段は危険ですから廊下の方で休んだ方がいいです。そんなでかい図体で落ちてこられたら、か弱い私が骨折します」
すすっと、私は横によけた。彼が落ちてきても当たらないようにだ。
人をババア呼ばわりするようなガサツな男など、誰も助けてはくれないことを彼は学ぶべきだろう。私が守るのは、私を愛してくれている家族だけなのである。
「そいつ、聞いてたんだよ」
「何を?」
「・・・さっきのお前との会話。階段の話し声は上下によく響く。そいつ、下に降りにくくてずっと上の階で聞いてたんだ」
私はすぐにピンときた。寮監と私との会話を盗み聞きし、更には後で私だけに因縁をつけてきた理由を。
何故ならそれはよくあることだったからだ。
誰からも美人と言われたかつての私。私に恋人が心変わりするのではないかと怯えた女性からは、何かとこっちに苦情が入れられた。
いや、それは自分の恋人に言いなよ。私は関係ないよ。そもそも顔も名前も覚えてないよ。
そう言っただけで私が悪者にされるのだ。全く不条理すぎた。
「ふむ。つまり彼は先生のボーイフレンドで、二人でいた私は恋敵と勘違いされたわけですか? そういうのは二人の世界でやってください。私は自分に関係なければ、他人の愛を普通に祝福できる人間です」
「は?」
あのな、「は」じゃないよ。大人なんだからそこのところは自分を律して生きるべきでしょ。なんで私がこんな分かりやすいことまで教えてあげなきゃいけないの。
だけどなぁなぁにしたら余計に面倒なことになるのも分かっていた。男女のそういう勝手に人を巻きこんだ恋愛トラブルはその場できっちりと引導を渡しておかないと厄介なことになる。
「ですが、未成年にいい年した社会人が手を出すのは感心しません。そして立場上、踏みとどまらなくてはならない一線があるのです。寮監の契約期間が終わった後なら恋愛は自由だとは思いますが、せめて成人するまで待つべきだと私見を述べさせていただきます」
「違うわっ。そいつが王子だって言ってんだっ。お前は王子の顔も特徴も知らんのかっ」
「知りませんよっ。・・・・・・え?」
その場に沈黙の天使が舞い降りた。
そろーりと私は、下の段にいる人へと向き直る。こてっと首を傾げて表情だけで尋ねれば、こくんと彼は頷いた。
この少年が王子様。王子様と言うと王様の息子。
そして私はそこの寮監と王子様と露出狂について話していたような記憶がある。
(たしか王族、公爵家、侯爵家、伯爵家、子爵家、男爵家というランクだった筈)
やばい。本気でやばい。心の底からやばい。
「申し訳っ、ありませんでしたーっ」
だだだっと彼よりも下の段に三段飛ばしで駆け下りてから、私はこれ以上ない程に平謝りした。
「い、いや、・・・いいんだ」
聞けば、なんとこの王子様、偉そうに声をかけてきたのも理由があったらしい。
初対面のアレンルードに、少しは偉そうにしろよと言われたからそうなのかなと思って、相手が双子の妹ならちょうどいいかとちょっと偉そうな感じで声をかけてみたそうだ。
王子様にもっと偉そうにしろよと言い放ったのはアレンルードが初めてらしくて、だからこれでいいのかなと思いながら、ちょっとお喋りしてみたかっただけだとか。
普段はぽやぽやと穏やかに話すタイプらしく、王子様のその偉そうなメッキはすぐに剥げた。
(ルードーッ! あなたって子はぁっ!)
なんかお互いに謝って、その上で自分が悪かったのだからと言って許してくれた彼はいい王子様だと思う。
そして帰宅してから仕方なく父に報告した私は、・・・とても呆れられ、ちょこっと叱られた。そんな父も私が悪いとはあまり思っていない様子だった。