2 遠くにありて故郷を思う
とても気分の悪い夢を見た。
聞いてくださいよ、お隣のお姉さん。私ね、社会の為、未来に向かって生きる人々の為、この身を賭して新薬を完成させる為に協力していたんです。
え? そんなの、無料奉仕ですよ。当然じゃないですか。
お金になるとかそういう目先のことを考えるんじゃなくて、皆でより良い社会にする為、私達は力を合わせていくんです。当たり前ですよ。そうやって私達の社会は発展してきたんです。
私も僅かながらその一人として努力させてもらえたこと、とても光栄に思ってます。
それなのに私、とある陰謀に巻き込まれて命を落としてしまったんです。殉職って奴でしょうか。それとも労働災害でしょうか。いえ、哀れな犠牲者ですよね。
そんな私という大きな社会の損失に、葬儀では皆が号泣していました。
もう知人が駆けつけて、自分こそが代わりに死にたかったって、私を惜しみまくりでしたよ。
やれやれ。もう、みんな、私のこと好きすぎて困っちゃいますね。
だけど夢で良かったです。
そんなわけで、私、傷心中なんです。だけどこのフレッシュハーブ入りティー、なかなかいけますよ。どうですか。
いえいえ、そんな。だってこういうハーブって育ててると増え過ぎちゃうんですよ。・・・え、いいんですか。ご飯を作りすぎたって、本当にいつもありがとうございます。ご馳走になります。
うん。そう言って、まずはお隣に今日も窓際で育てたハーブととっておきのお茶をポットに入れて持っていこう。
お隣のお姉さんはお茶を大ポット一杯分持っていくだけで、作りすぎたご飯を食べさせてくれるのだ。なんでも遠くで暮らしている孫娘が私と同い年らしい。
大事だよね、ご近所づきあい。
ここで、料理しないの? とか言い出す坊やには大切なことを教えてあげる。
料理もできるいいオンナなんて、魅力がありすぎて困っちゃうだけなんだってね。料理なんてできない程度でちょうどいいの。
そう思った私は、目を覚ますことにした。
だってお腹が空いたから。
― ◇ – ★ – ◇ ―
目が覚めたら、知らない天井だった。
手を顔の上に持ってきて、わきわきしてみる。大きく深呼吸。
目が覚めた時って手とか足とかバタバタ動かしてみると、少しずつ体も起きていくんだよね。
え? やらない? やるといいよ。別に健康法でも何でもないけど。
それは懐かしい習慣。私にとっては。
そんなことをしていたら、女の人の声がする。
「Fa#a εalr D=rule iioje? Dertt#e k#ppwe tryβut
(目が覚めたの? 看護師さんを呼ぼうね)」
知らない人が意味の分からないことを呟いているっぽいけど、どう考えても意味不明。
やだなぁ、危ない人だったらどうしよう。声そのものは優しいけど。
そう思っていたら、いきなり目の前にぬっと白い服を着た、赤い髪をした女の人の顔が現れた。
「K#frg s§ssp enβgroga GoΩr w=qa
(先生っ、患者さんが目を覚ましましたっ)」
何言ってるのか、意味分からない。
大丈夫か、この人もおかしい。
えーっとですね、まずは落ち着いて普通に言葉を喋ってください。
そう思ったものの、状況が分からない私は、黙って相手の様子を見ることにした。だけどその赤い髪の女の人はどこかに行ってしまった。
寝たまま、左右に顔を動かしてみる。
あれ? なんか私の髪の色がおかしくなってる。まるで黒光りする茄子のようだと褒められていた私の髪が、赤みを帯びた黄色になってる。
なんか変な薬品でもかぶって色がおかしくなってしまったんだろうか。嫌だなぁ、いい髪染めを買ってこないと。
私、あの紫がかった紺色の髪、気に入ってたんだよね。黒かなって思ったら実はよくよく見たら濃い紺色ってまさにって感じでゴージャスでしょ。髪染めなんかであの色が出るかなぁ。
周囲を見れば、窓で揺れているピンクのカーテンに木のベッド。同じ部屋に他にもベッドがあって、女の人が寝ていたり、私の方を見ていたりする。
あれ? 隣のベッドに寝ている人、なんかにこにこして私のこと見てるけど、・・・やだ、私が綺麗だからって恋に落ちないでね、お姉さん。
だけど悪意はないっぽいので、手をふりふりしてみる。あ、あっちも手を振ってくれた。
うん、いい人だ。笑顔が優しい人はいい人だ。そう決めた。
(で、八人部屋ってとこかな。どこだろう、ここ)
なんか病院っぽいけど、どこか素朴だ。
やがて足音がして、廊下から恰幅のいいカビみたいな緑の髪をした男の人と、さっき出ていった赤い髪の女の人が入ってくる。
「Gεoα peγe fβre e=det ku#i? Terr uop nΩyn
(名前は言える? 気分はどうだい?)」
『あ、あの・・・、あなた、誰ですか?』
「・・・・・・」
とりあえず、賢い人には分かるであろう。
まあ、色々あった。
私だって考えるわけだよ。まさに二十代の花も恥じらう淑女だった私が、いきなり小さな手足の女の子になっていたわけだから。それも赤ん坊じゃなくてね。
少なくとも話しかけられたら答えられる程度には、この体も言葉を覚えていたんだろう。
つまり今までどうやって生きてきたのかって話だ。その記憶が私にはなかった。
これはとても大変なことですよ。
普通は誰だってパニックになる。いや、私だって本当はパニックになっていた。
だけど、どうやら記憶をなくす前の私はのんびりとした女の子だったらしいね。後で分かったことだけど。
(どうしよう。何言ってるか分からない。これは難聴の一種だろうか。たしか聞き取りができなくなる難聴ってあったよね)
言葉は分からないけど出された麦がゆとミルク、リンゴみたいな果物をひと切れ食べた私は、小さな手をわきわきさせながら今の状態を考えていた。何度、前髪を引っ張ってみても、私のあの美しいぷりぷり茄子色の髪は戻らない。
すると、ちょっと苦みのある精悍な顔つきの男の人がやってきて、私はがばぁっと抱きしめられ、小さな男の子にもぎゅううっと抱きつかれたのだ。
二人は私と同じ玉蜀黍の黄熟色の髪をしていた。ついでにその二人は、同じ針葉樹林の深い緑色の瞳をしていた。どう見ても親子だ。
もてもてだな、幼女よ。
「Dζeer ko#url fppoe.Errlp fi#r wllain e§teiwr wew quit fimgg s=o.Rttgl foεe ern#gi,fir? Poi#ee fur,feerhog
(目が覚めたんだな。ぼんやりしているとお医者さんには言われたが、お前ならいつものことだ。目を開けたまま寝ていないね、フィル? 怖かっただろう。もう心配いらないよ)」
どうしよう。情熱的に抱きしめられて、そんなに覗きこんでこられると照れる。私を惚れさせてどうする気なのだ、暗い緑の瞳がセクシーすぎるこの人は。うん、いい体してますな、旦那。
なんかもう抱きしめられた感触で、贅肉って単語を知らない体をしてると分かってしまいましたよ? まずはご職業と年収、年齢と結婚しているかどうかを聞いてもいいですか?
いや、分かってるけどね。多分私の家族だろうって。
あーあ、せっかく私に好意を持ってるいい男を見つけたってのに、なんかもう販売終了しましたってところが泣ける。
そして何か私を心配しているのは分かるんだけど、何を言ってるかが分からない。
『えーっと、あなたは・・・?』
「・・・・・・」
「BΩr,pal.Sop fi#r gurru.Da=e h#jk vune§t zzil cuy
(ねえ、パパ。やっぱりフィルおかしいよ。めをあけて、ねごといってる)」
「Rei eγt durli§t.Ai lee ujear#e ff b#ibut ene qen zant
(いつものことだろう。お前はお兄ちゃんなんだからそんな妹の面倒を見てあげなきゃね)」
私が問いかけても、相手はそれを質問だと思っていない。
繰り返すが、私には相手が言っていることが分からないのだ。
だけど同じ色合いを持つ親子っぽい二人がやってきて抱きついている以上、多分、自分の家族だろうなと思いながらも、本当にそうなのかの確証がなかった。
おかげで、「誰、こいつ」って顔をしていたのを見抜かれたのかもしれない。
「Wβei d#aky aeεra ffiy m§uΩo lue.Van xu=t pery
(まさかふたごのボクをわすれたとかいわないよねっ。いくらぼんやりでもっ)」
男の子はいきなり怒り出した。さっきまで私に抱きついて泣いていたのはどうなったのだ、幼児よ。
ここはにっこりと笑ってくれるべきだと思うのに、どうして怒り出すのかが分からない。
だけど二人が何かと私に向かって、フィルフィル言っていたので、私の名前はフィルというらしいことだけは分かった。
なんかもう不安そうに怒っては、悲しそうに涙ぐむ男の子は私が自分達を認識していないことを察しているらしい。これが兄妹の絆だろうか。
反対に恐らくは父親であろう男の人は、私が目を覚ましたことでもう安心しているようだ。全く心配していない。
世間のお母さんがお父さんの育児能力に期待しない筈だよ。ちゃんと見ろ、そして察しろ。
顔と体はいいが、そこはやっぱり男だな。
「Eaγ f=lire chir kok q§ueren fo#a
(あのう、お嬢さん、目覚めた時から心が戻ってない感じでしたよ)」
「Yeβye.Xet a#le fixena
(そうですよ。まるで言葉が分からないかのように)」
「Ur=en pap ne#ren f§oi.PeΩn shane kkfin jev duin daben,saΩn r#evueten aa oint
(ああ、この子はいつもぼんやりしているんです。体を洗って寝間着に着替えさせた後、ベッドに入ってから、そういえばいつお風呂に入ったっけと、言い出すぐらいでして)」
同じ部屋にいた入院患者らしい女性達も一緒になって何か言い出したが、おかげでカオスだ。何を言っているのか、主役の私が分かっていない。
目を覚ましてからのことを、話してくれているのかもしれないけど、このお父さんっぽい人、全く気にしてないよ。
だけど・・・。ねえ、推定お父様。
子供が記憶喪失になっている事実に親なら気づいてほしいです。
私、実はしっかりしてるタイプだと思うんです。だって取り乱してないし。
・・・嘘です。
実はどうやって取り乱せばいいのか、パターンを考えていて、実行し損ねました。
1 ここはどこっ、私は誰っ?
2 失礼ですが、私は誰なのかを教えてください。何も分からないんです。
3 ねえ、あなた誰? どうして私はここにいるの?
やっぱり、ここは相手が「あ、この子、記憶喪失なんだ」って分かってくれるように、質問も王道なものにしておこうって、気遣いの私なら思うじゃないですか。
これで変な尋ね方して「お前、馬鹿?」とか言われたら、記憶喪失なんてそうそう連想してくれませんしね。
気の利かない人って多いんですよねぇ。いや、別にそういう人達に囲まれて苦労したなんて言いませんけど。
(だが、大切な真実がここに立ち塞がる。どれほどに結論を誘導させてみせる優れた質問も、言葉が通じなければ意味はないのだと)
現実の前に、全ては瓦解した。
だから私はしつこく語りかけてみた。私が知っているのはあなた達と違う言語なのだと分かってもらえるように。
『あのう、私、言葉が分からないんです』
「Fl#efu! fir rere§ffi foβ rns
(うわぁあん、フィル、おかしくなっちゃったぁっ)」
「po§l oεmγ oren boo=t chun.V#ipren roαd weyΩn
(おかしいのはいつものことだろう。取り乱すんじゃない、ルード)」
苦労した。元気で自分の感情が全てなお子ちゃまが一人いるだけで、スムーズに進むであろうことも全てはぶち壊されていく。詳細は語るまい。
言えるのは一つだけだ。
私は記憶喪失と診断されたらしい。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
よく分からないけど、私は前世の記憶を持ったまま生まれてしまったのだろうか。いや、それとも前世の記憶を思い出しただけだろうか。
言葉が分からない以上、違う世界なのかなと思ったら、普通に同じ世界だった。
国が違ったのだ。
かつて私が暮らしていたのは島国ファレンディア。
そしてここは大陸にあるサルートス国。
(要は名誉にして非業の死を遂げてしまった私は、この女の子に生まれ変わって、だけどきっと前世の記憶を取り戻したショックで、それまでのことを忘れてしまったのだな。うん、完全にして無欠なる結論だ)
なんということでしょう。以前は普通に一般国民だった私が、今度は子爵家のご令嬢です。
ほーほっほっほ。お嬢様とお呼び。
だけど貴族の位はほとんど名誉的なものらしく、あってもなくてもあまり変わらない気がしている。
ウェスギニー子爵家長女インドウェイ・アレナフィル。
それが私だ。ちなみにインドウェイというのは、母方の姓である。このサルートス国では、父方の姓・母方の姓・自分の名前の順に名乗るのだ。
誰かに名乗る時は、「私はウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルと申します」と言う。うん、覚えた。多分、忘れない。
だけど今、私はファレンディア国が恋しい。あれから大して時代は進んでいないのかもしれないけど、サルートス国はファレンディア国よりいい加減なところがある。
いや、いいんだけどね。のんびりしていて。そして鷹揚だったりするしね。
思えばファレンディア国は、みんな勤勉すぎた。私にはサルートス国の方が合っている。
だが、便利さはファレンディアだ。それを実感している。
離れて故郷を思う。ああ、ファレンディア。我が懐かしき祖国よ。
うん、ファレンディアから出ていった人たちがすぐに戻ってきたわけだよ。
よその国はいい加減すぎる。いや、楽でいいんだけどね。不真面目すぎる。
計量カップの印とか、なんかおかしいなと思ってたけど、メーカーによって思いっきり目盛りの違いが凄すぎた。これを計量カップとは言わない。どう見ても言わない。せめてメーカーが違っても目盛りは統一すべきじゃないのか。ウソ目盛りもいいところだ。
ついでに背の高さを測る印が病院の待合室とかに貼ってあったりするからそこで子供達が背を比べあうんだけど、その印もいい加減だった。
誰か、文句言わんのか。・・・言わないらしい。誰かそれで傷つく人がいるのかい? と、まるでそんな感じだったよ。