19 バイトを始めようと思った
夜になってから合流した父は、バーレンが301号室ではなく私と同じ302号室で寝泊まりすることにしたと知っても、
「そうか」
の一言で、終わりだった。
夕食は食べてきたそうだ。アレンルードが「コレがいいっ、絶対コレッ」と、言い張って買わせた真紅の移動車でやってきた父は、リビングルームのソファでガイドブックを広げているフォリ中尉やバーレン、そして寮監達、ダイニング・キッチンルームの椅子で雑談しているオーバリ中尉やネトシル少尉を見て、少し眉根を寄せていた。
気持ちは分かる。
何の為のアパートメントだって感じだよね。うち、たまり場になってるよ。
「おとなしく寝ているとは思っていなかったが、だからといってフィル、まさか私は娘がバーメイドをしているとは思ってもみなかったよ」
「違うもんっ。ちゃんと食後のコーヒー、淹れようとしたもんっ。だけどみんな、お酒がいいって言うからっ」
父が来たならばこの状況も打開されると信じつつも、今からお湯を沸かしてコーヒーを淹れるのも何か違う気がした私は、食器棚から取り出したグラスに大きな氷とウイスキーを入れて軽く混ぜてから差し出した。
それを受け取った父は、椅子に座って私を膝の上に乗せる。
ロングタンブラーを持っていた私は、皆の目がありすぎていつものように甘えるわけにもいかず、仕方なくそれをこくこくと飲んだ。
「ありがとう、フィル。だけどどうしてこの部屋には冷凍庫と冷蔵庫が二つずつあるんだろうな。しかもリビングルームの棚になんであそこまでの酒が並んでるんだ」
「みんなが一台ずつ、お酒専用で運んできたから。炭酸やライムとか、お酒用に入ってるの」
そう、夜になって到着した父がどうして気の抜けた顔で質問する羽目になったかと言うと、全てはお酒を買いに行ったことから始まったのだろう。
バーレンとの同室は父にとって全く問題ではなかったが、さすがに予定外の男子寮監達が増えて、しかもみんなで酒を楽しんでいたのは問題だったらしい。
(到着時刻が分かっていたら証拠隠滅しといたのに。・・・いやいや、怒られるのは寮監先生達であるべきで、私は悪くないような気がする)
酒屋に私を引っ張っていった寮監達は、きっと自分達の職業を忘れていたのだろう。子供が一人で行ってもお酒を売ってくれないのは分かっていたので、私も文句は言えなかった。
そして子供が酒を選んで購入しても通報されない設定を頑張って考えた。
『あの、あとで父が合流するんです。父は甘くない、辛そうなお酒をよく飲んでいるんですけど、このお酒って、こっちのお酒に比べてどう違いますか?』
値段との折り合いを考えながら、私は父の為に色々なレシピを思い返して酒を購入した。
たとえ父が飲むといったところで子供が買いに来ているなら店員さんもおいおいと思って売ってくれなかっただろうが、成人男性が八人もいると指摘する気にもならなかったらしい。
『こっちのお酒とですか』
『はい。これ、ちょっとスモーキーだけど、コクのある濃いコーヒーと割ると悪くないんですよね。だけどまだこの町でコーヒー豆買ってないから、合うかどうか分からないんです。酸味が強い豆だと合わないですし。それなら氷だけで飲みやすいのかどうかなって思ったんですけど』
『ちょっと待ってください。親父を呼んできます。そのまま飲むんじゃないんですね?』
父親の方が詳しいからと、その店員は店長を呼びに行ってくれた。やはり私の父親への愛情に感じるものがあったのだろう。
『はい。そのまま飲むなら高いお酒がいいんでしょうけど、私にもお小遣いの予算があって・・・。父も、たまには変わった味のお酒を出したなら喜んでくれるんじゃないかなって・・・。父ってばいつも頑張って働いているから、せめてたまには旅行を楽しんでほしくて、私のお小遣いで買えるだけ買ってあげたいなって・・・』
父が合流するまで親戚のお兄さんとそのお友達と一緒にいるのだと言えば、店員の父親だという店長は私のまとめ買いをけっこう値引きしてくれた。
店長は、なるべくお酒はそのままで飲んでほしいというタイプだったらしい。だけど私は知っている。そういう飲み方に固執することが、お酒を楽しむということをいつしか忘れさせてしまうのだと。
ゆえに私は熱く語った。様々な土地における酒の成り立ちを。
『そもそもお酒は酩酊感、鼻に抜ける香り、そしてのどを通るその味わいを楽しむものです。飲み方を固定するのは作り手へのリスペクトと称したただの自己満足です。いくら手塩にかけた野菜だからって、いつもいつも生のサラダで出されるべきだと主張するようなものですね』
『む・・・』
軽く火を通してこそ野菜の甘味を引き出すというテクニック。酒だって同じだ。あえてひと手間かける。だから際立つものがある。
ふらりと入った店で一人酒。気の置けない空気で二人酒。みんなと一緒に賑やかな酒。
その時々に応じてふさわしい酒もまた違ってくる。希少な酒を飲む時には、その酩酊感を引き出す為のちょっとしたテクニックが、その時間を更に特別なものにさせるのだ。
『その証拠に、まず一口は水を飲んで口の中を洗い流し、その上でこれを一口飲む。僅かなモミの木スモークを思わせる香りが鼻を抜けていっても、三口目からはそれも弱まってしまう。そんな時、また水を飲むなんてせせこましいだけ。そこでこのスパイスを軽く潰すか、折ってグラスにポン。すると森林スモークを思わせる香りが一気に広がるのです』
木々の香りが強すぎると思う人もいるだろう。だが、キャンプや木々に囲まれたコテージでどこまでも森の香りに包まれてこそ、その土地に抱かれ育まれた酒を味わえるのだ。
あかりは燃える焚き火だけでいい。音楽は枝葉を渡る風でいい。
その時間を過ごすことのできない都会にあって森の時間を懐かしむならそういう工夫もあるのだと、私は語った。
だらだらと惰性で飲むのではなく、その一口ごとにスピリッツを味わうのだと。
『・・・はあ』
最初の一口が一番美味しい。最初の一杯と三杯目のビールの味が同じではないように。
こだわりある料理店では、時にお代わりを断ることがある。それと同じだ。
スパイスを使うことで、新しい魅力を味わいながら人は酩酊する。
『その飲み方は数百年前の文献にもあるんです。当時、命を懸けて海に船を出し、持ち帰った船長へのリスペクトもあったのでしょう。歴史を感じながら味わう、それこそが今生きる人の贅沢というものなのです』
しかし時代は変わった。今やスパイスも仕入れた物を改めて洗浄してから乾燥させ、汚染を防止する。それゆえに香りが弱い。昔はそれだけ食中毒やお腹を壊すことも多かったが美味さは断トツだったとか。
仕方がないことだろう。時に美食とはリスクと共にある。
そんな話をしていたところ、店主も私の父に対する愛に心を打たれたようだ。もう何も反論しなくなった。
『なるほど。オレンジでは強すぎると』
『そうなんです。そりゃ女の子を酔わせるつもりならそっちがいいでしょうが、お酒は誰もが幸せに楽しめなくちゃ意味ないです。だからここはあえて皮部分を軽くすりおろして香りだけ。そして沈んでいる甘さはチェリーでいきたいですね。だけどうちの父の好みには合わないんです。だからこれは却下なのです。父は辛すぎず甘すぎず、ふくよかに咽喉を軽く焼くような味わいが好みなのです』
私が分かるのはファレンディア国でも流通していた酒だが、サルートス国で出回っている酒の味も店長との会話である程度の目星をつけ、そこそこの値段で悪くないラインナップを揃えてみた。
だって父と二人きりの旅行なのだ。いや、バーレンや他の人達もいるし、ちょくちょくと抜けるとは言われているけれど、そこは気にしない。
(暗い夜空に瞬く星が、ロマンチックな蝋燭の炎に照らされる二人を祝福しちゃうのよ。ふっふっふ、今の内からパピーに色々なお酒の楽しみ方を仕込んでしまうのだ・・・!)
非日常な旅先の時間。父だってちょっと開放的な気分になるだろう。
何を着せて親子デートしようかと考えるだけで、くふふふふと笑いが止まらない。
父だって、娘が作って差し出してくれる美味しいお酒とおつまみ。
もうそれだけでくらくらってきちゃうよね? ここはもう可愛い娘のどんなおねだりだって聞いてあげたくなるよね? それこそ私がこれからどんな動きをしていたところで、可愛い娘のすることは全て好きにしていいよって感じになっちゃうよね?
うふふ、旅先での甲斐甲斐しさって、旅慣れない男の心を射抜いてしまうものなのよ。
『ありがとうございます、店長さん。父も、・・・喜んでくれるかな』
『大丈夫さ。こんな可愛い娘にここまで大事に思われるなんざ、親父さんもうれし泣きしちまうってもんよ』
うむ。酒屋の店主だってそう言っている。
これはもう勝ったも同然。父よ、私のお酒テクニックでメロメロになるがいい。
『あー、店主。すまんが、この子がさっき買うのをやめてた酒って、ナツメグ散らすとか言ってたが、そんなの入れるもんなのか? 酒だろう?』
『あーっと、こっちのお嬢さんはそう言ってましたけどねえ。その親父さん、かなりお酒を楽しまれてんでしょうな。まあ、かなり鼻にくる酒なんで、そういう変化をつけるってのは悪くないかもしれませんがねぇ』
『ふむ。じゃあ、これは俺が買っていこう』
寮監達は私の話を聞いた上で、予算を考えることなく気になる酒を買いまくった。なんか使えるお金の経済格差を感じた。
そうして貿易都市サンリラ一日目の夜、私は彼らの、
「さっぱりとした味がいい。あまり度数が高くない方が」
とか、
「野菜ジュースじゃなくて酒ってのを出してくれないか」
とか、そんな要望を聞きながら、それぞれに適当なカクテルを作って出していたわけだが、ロマンチックな酒があっても口説かれるにふさわしい女性がいないと、彼らはぼやきまくっていた。
勝手に外に行って口説いてこい。
(ルード、来なくて良かったよ。こんなの見たらダメな大人になっちゃうよ)
そんな所へ父が到着したわけだ。
美しい色合いのカクテルやおしゃれっぽく見せかけたおつまみが並んだテーブル、それなのに健全なガイドブック参照というそれに、父は事情を察したようだった。
「フォリ中尉。酒は自分の部屋で飲むものだと思いませんか?」
「その通りですが、ウェスギニー大佐。こちらとてクラセン殿と鍵の掛けられる部屋で二人きりと言われてしまえば心配にもなります。我々といった護衛がいた方が、アレナフィル嬢の名誉の為にも安心でしょう」
「酒を楽しむ男達八人に囲まれているこの状況に、どんな娘の名誉を見出せというのでしょうね」
元々あった冷蔵庫や冷凍庫には買いこんできた冷凍のピザやアイスクリームなども入っているし、ベーコンや野菜などもみっちり詰まっているが、お酒専用の方には氷がどっちゃりとか、カクテル用の果汁とか、つまみになりそうな物とかが入っている。
そりゃ見繕ったのは私だが、彼らは私が気になった食べ物の全てを買ってくれた。
「諦めろ、フェリル。フィルちゃん、みんなの要望聞いて、いろんなカクテル作ってたぞ。俺のは野菜と果物だが。フィルちゃんのこれ、目の疲れが楽になるんだよ」
「レン兄様、おめめ使いすぎ。ずっとご本読んでた。赤いお野菜と緑のお野菜、大事なの」
これだからバーレンは放置できない。ちゃんと監督しておかないと。
私は栄養価の高い野菜と、味を調える為の冷凍果物を足してミキサーにかけたのを飲ませていた。ちょっとシャーベット状になっているから、ガラスの器に盛って蜂蜜とフロストシュガーを振りかけて気分を出したものだ。
試験前とかなら、アイスクリームと混ぜてデザートとしても食べさせるのだが、さすがにここでそこまで手は掛けられなかった。
そういう健康管理をしてあげるから、バーレンは私を気に入っているのかもしれない。
だから同じ部屋なのは自然な流れだったが、なんでこうなったのか。301号室からソファまで運んできて、どこまでも皆が寛いでいる。
オーバリ中尉のお部屋にはテーブルも椅子もソファもなくなっている筈だけどいいのだろうか。まあ、ベッドがあればいいんだろうけど。
私の頭を左手で撫でている父は右手でグラスを持ち上げて、こくりと味わう。
「あのね、それね、ちょっとリンゴの香りがする筈なの。たまにはいいかなって」
父の針葉樹林の深い緑色の瞳が少し揺らいだ。
「そうだな。少し軽やかで、気分が変わる。帰りに買っていってもいいか。で、フィル。お前が飲んでるのは何かな? ちょっと甘そうな香りがしてるね」
「ミルクシェイク。卵1個にお砂糖2杯、ミルクを加えてシェイクしたら出来上がり。甘そうな香りはバニラペーストをちょっとだけ入れたからなの。お父様も飲む? お酒が入ってる方がいいならブランデー入れて作ったげる」
父に喜んでもらえたと知り、私もご機嫌になった。だって父の瞳が、美味しいって言ってる。
今ならお願いすれば、明日の日中には浜辺で波と戯れながら、きゃっきゃと楽しむあれをやってくれるかもしれない。
だって旅先だから恥ずかしいイチャイチャを遠慮なくやれるってことあるよね?
うふふふふと幸せ気分な私の顎を、父の指がすいっと上向かせた。
あれ? なんかさっきまでの美味しいって褒めてくれていたおめめが、なんだかちょっと深く濃い色合いを増してますよ?
「いや、いいよ。全く、我が家の妖精さんは、どうしてお酒を飲まないのにお酒をブレンドできてしまうんだろうね?」
「・・・・・・・・・。レ、レン兄様が飲むからっ」
「なんでここで俺の名を出す」
つまらなそうな顔で、バーレンはさっき私がネトシル少尉に作ってあげたカクテルを、今度はネトシル少尉に作ってもらって飲み始めていた。
どうやらみんな、私の説明する分量をちゃんと覚えていたらしい。縁に塗ったレモン汁で砂糖をまぶしたそれは、次は塩で飲むそうだ。
だけど父よ。その瞳が笑っていないのは何故なんでしょう。
「レ、レン兄様、だっておうち大好きだから、フィルに作らせるんだもんっ。だからフィル、覚えちゃったんだもんっ」
「だからどうして親子のそれに俺の名を出すんだ」
「レン兄様の裏切り者ぉっ」
そこはちゃんと私を庇えよ。さっき栄養たっぷりシャーベットもどき作ってあげたのにっ。
「何故、俺が責められる。まあ、いい。フェリル、そろそろフィルちゃん、寝かした方がいいだろ」
「そうだな。フィル、シャワーを浴びてもう寝なさい。挨拶には来なくていいよ。私達はまだ話しているから」
「はい、お父様。それでは皆様、おやすみなさい」
私は食器洗浄機にタンブラーを入れて、さっさと逃げ出すことにした。
「おやすみ、アレナフィルちゃん」
「おやすみ、アレルちゃん」
「ゆっくりおやすみ」
みんなが口々に声をかけてくれるけれど、なんだかこの人達、まさに今から飲みますって感じに見える。
だが、気にするまい。
部屋それぞれの扉は厚く、閉めてしまえばあまり声も聞こえないのだ。
歯を磨いて、シャワーを浴びて、うさぎパジャマに着替えた私はベッドにもぐりこんだ。
二、三日は一緒にいられるけれど、その後はいなくなるという話だった。ならば父がいる時に観光がてらデートして、そして父がいなくなったらバーレンと共にバイトに行くのだ。
今まで本を買い続けてきた商人に、紹介状も書いてもらった。ファレンディア語とサルートス語、どちらも母国語のように扱えるのであれば十分に需要はあるそうだ。そして私がちょくちょくと本を買っていることも伝えておいてくれるそうだから、それなりにお勉強もしてくれるそうだ。
他の人は朝食と夕食さえ一緒にしておけば問題ないだろう。
(みんなにはぁ、倉庫整理の単純な肉体労働頑張ってますとか言っておいてぇ、実は事務所の中で楽ちん書類作業でがっぽがっぽ稼ぎって寸法さっ)
父の為に買ったお酒も、どうせ自分達がほとんど飲むからと、後から全額、フォリ中尉に払ってもらった。
それは悪いと思ったけれど、こうして実際、次から次へとカクテル作らされておつまみも作らされたから、もういいんじゃないかなって気はしている。
だから私の懐にはとても余裕があるのだ。バイトだって稼ぐつもりである。
明日が楽しみだ。アレンルードもいたらもっと楽しかったのに。
― ◇ – ★ – ◇ ―
眠ってしまったつもりが、なんとなく空気が動いたような気がして目を開ける。するとシャワーを浴びたらしい様子の父がいた。ロングシャツタイプの寝間着は部屋に備え付けられていたものだ。私には大きすぎた。
「ああ、ごめん。起こしてしまったか。もう暗くするよ」
父はもう一つのベッドで寝るつもりだったらしい。だけど私が両手を伸ばせばくすっと笑って、私の体を持ち上げて奥側に寄せたかと思うと、同じベッドに入ってきた。
その際、私を一度抱きしめてからちゅっと頬にキスしてくれる。
ああ、どうしてこの人ってば私の父なのかな。もう一人どこかに血の繋がってない父が落ちていたなら即座にゲットするのに。
私はぎゅっと父にしがみついた。
「パピー、フィル、捨てない?」
「何だそれは。ルードと離れてて心配になったのかい? 結婚して外に出されるんじゃないかとか不安になったかな?」
「だって貴族の人、それが当然、言ってた」
ずっと考えていた。どうしていきなり四人の寮監先生が参加したのか。それはミディタル大公家のご令息を私が誘惑すると思ったからじゃないのかと。
フォリ中尉は国王の甥だ。そしてあのミディタル大公家の軍事力。
高位の貴族令嬢と結婚したら自分の勢力こそが現国王の息子達を脅かしかねないと、フォリ中尉は案じているかもしれない。当事者達が仲良くても、下の者達は暴走するものだ。
第二王子エインレイドを可愛がっているフォリ中尉。彼にとって私はとても都合のいい瑕疵令嬢なのかもしれない。
そして父にとっても私は唯一の娘。アレンルードの未来を考えれば、父だって私をいい所に嫁がせたい事情はあるだろう。
「うちは違うよ。言っただろう? お前は我が家の女主人だと。たしかにお前の婚約者になり得るメンバーだが、あれとて幾らでもひっくり返せる。お前の選択肢として排除はしないが、強制だってしていないし、どちらも自由だ。彼等がいい女に目移りする可能性も高い。それはそれで仕方ないことだ。人なんて巡り合わせだよ、所詮はね」
ああ、やはり私の婚約者候補だったのか。
父はどうでもいいと言わんばかりだけど、それって貴族社会では通らないんじゃないかな。
「だって、フィル、女の子だし」
貴族令嬢が一番に目指すべきは、家の役に立つ相手との結婚。アレンルードの味方になり得る貴族との縁を私は考えなくてはならないそうだ。
古城の所有者ははっきりとそう言った。
役人になるのもいい。だけど他に姉妹がおらず、兄が子爵になるという条件下でフォリ中尉の旅行に同行できるだけの伝手があるならば、そんな甘えたことをぬかすものではないと。
ミディタル大公は本人の資質重視で結婚を決める人だから息子の妃にウェスギニー大佐の娘というのは十分にあり得ると。
私は家の為にフォリ中尉を誘惑して妻にならなくてはならないのだろうか。
(問題はそこまで悲愴感に塗れなくても言えば叶えてくれそうな気もするな、フォリ先生。私からプロポーズしたら面白がって承諾しそう。エインレイドの遊び相手にちょうどいいとかいう理由で。どんだけ従弟を可愛がってんだか)
そんな私の不安を父は鼻でせせら笑った。
結婚なんぞ考えなくていいし、婚約したいならしてもいいが、そもそもウェスギニー家はそれを望んでいないと。
「馬鹿だな。ルードにはレミジェスをつけているが、お前にはいつだって私だっただろう? お前が成人したら、私が夫妻で出席しなくてはならない場には、代わりにお前を連れていくことになる。ルードも婚約者が決まるまではお前の背中に隠れているだろう。フィル、私達はお前が必要だし、何よりルードはお前の結婚話は全て潰してでも一生縛り付けておく気だぞ」
「・・・それはそれでまずい、気がする」
どうしよう。古城の所有者から聞いた話と、父の話が食い違いすぎている。
古城の所有者によると、この旅行に同行しているだけで私はミディタル大公家ご令息の有力婚約者候補ということになるのに、父は私をおうちから出さない気満々だ。
これは父が非常識なのか? もしかしたら父が貴族社会を理解していないという、よく言われていたアレなのか?
困惑していると、父は私の頭を撫でて額にかかっている前髪にちゅっとキスした。
「まさかあんな若僧共に、たかが三日程度で浮気かな? 私は仕事でどれだけの美女に囲まれようと、いつだって可愛くて大切な女の子はフィルだけなのに。娘が薄情すぎて、私は悲しいよ」
「ちっ、違うもんっ」
あれ? 貴族令嬢としての自覚と義務を考えなくてはならないって話だった筈が、私が浮気な女ってことになってる。どうして?
「本当に? 私は外じゃいつだって愛想笑いしかしていないのにね。ここぞとばかりに移り気ウサギさんの楽しそうなフォトを沢山見せられたよ」
移り気ウサギさんって何なの。もしかして私は父がいないところで楽しんでいちゃいけなかったの?
まるで恋人から浮気心を責められているかのようで、私は訳が分からない。
じゃあ、どうして私と現地集合だったの?
侍女やメイドをつけて確実に間違いを防ぐ努力もしていないなんてそういうことだろうと、所有者からは言われたのに。
うちの叔父や兄と仲良しなのはネトシル少尉の方だと言ったら、別にどちらであろうとここまで親密な旅行をしている時点で家と家との縁談はある程度固まっている筈だと、古城所有者は言った。そうでなければ唯一の娘を差し出す筈がないと。
私は差し出されちゃっていたのか。
しかし今、父はあんな青年達に懐くなと言わんばかりで不機嫌だ。
(パピーが貴族としておかしいだけなのかな? だけど私のことはパピーって決まってるって話だったし。ルードはジェス兄様だけど)
どんなに愛されていても私は妻じゃない。あくまで娘だ。
こういう口説くような言葉は違うのではないか、父よ。ああ、だけどうっとりしちゃう。優しく触れてくる指先が、私の頬を赤く染めていくの。
もう意味が分からない。だけどそれでもいい。だってほら、こんなにも近くで私を見つめている針葉樹林の深い緑色の瞳がある。
「楽しかったかい、フィル? なるべくお前が行きたそうな場所を提案したつもりだったが。どこも交通の便が悪い上、ああいった昔のものにルードはあまり興味がないからね」
「うんっ。あのね、パピー。とっても面白かったのっ」
私の背中に腕を回したまま、ころんと父は仰向けになった。だから私は父の上にぺたんと乗っかってしまう。
父の上半身に自分の上半身を重ね、その肌の熱さと鼓動に安堵した。
よくよく考えたらこういう姿勢はまずいような気がするけど、私がまだ種の印が出る年齢に達してないからか、父は全く気にしていない。
「そうか。お前の言葉で聞かせてくれ。あいつらの報告なんてただの羅列だ」
「えっとね、あ、レン兄様は古城の蔵書室がお気に入りになっちゃったんだよ。フィル、あそこの本棚のお掃除もしたの」
ああ、そうだ。いつだって父は私の心を大切にしてくれる。
古城の所有者に貴族としての常識を教えられてしぼんでいた心が、少しずつ膨らんでいった。
だけど所有者が悪いわけじゃない。
私がバーレンのお手伝いもできる子だから、警戒心を持った方がいいとアドバイスしてくれたんだって分かってる。私自身を案じてくれていた。だからあそこまで踏み込んで教えてくれたのだ。
私が邪魔な貴族令嬢の身内は、フォリ中尉と結婚まで進ませないように他の男に襲わせることもあり得るからせめて侍女は三人以上つけておくようにと、オーナーは忠告してくれた。他の男と醜聞を作られてからでは遅いからと。
だけど侍女の方が信用できないって私は思うんだな。
「あそこの城主は、かつて白の騎士と呼ばれたフォーラレイト卿の子孫なんだよ。フィルはあのお話、大好きだっただろう? いつも読んでいた」
「ええっ。そうだったのっ。そんなこと全然言わなかったっ」
な・ん・で・す・と?
私の身分とかを話題にするならそっちを話題にしてほしかった、所有者よ。
「フォーラレイト卿は絵本にも歴史の教科書にも載っている偉人だからね。城主はご先祖様が有名すぎてそれには触れられたくないのさ。だから全く知らないで行った方がいいだろうと思ったんだよ」
ああ、そうか。だからかもしれない。
彼は彼なりに様々な貴族を見てきた人なのだ。彼にとって私はあまりにも危なっかしく見えたのだろう。
「そうかも。フィルも、おじいちゃまのおじいちゃまのおじいちゃまのおじいちゃまが有名人とか言われても分からないし、それで訪ねてこられても困る」
「そうだね。だけどあの城主はこの時代でも馬場を持ち、斧や槍で戦う手段をマスターしてるんだよ。ご先祖様の名前を辱めないようにね」
「なんてストイック。まさに白の騎士様の子孫」
「ルードだとはしゃぎすぎるからね。本棚のお掃除をしてきちゃうフィルで良かったよ」
どうしよう。あの遺跡も古城も面白かったけれど、父が分かった上でゴーサインを出してくれたことが嬉しい。
思えば父は予定が分からない人だ。叔父だって隙間時間をやりくりしてくれるけれど、あんな僻地までわざわざ行くのは躊躇われる人だ。
フォリ中尉とオーバリ中尉、そしてネトシル少尉がいれば安全だと父は思ってくれたのだろう。誰もが政略結婚を常に考えているわけじゃない。
(本当に私の為だったんだ。私が喜びそうで、ジェス兄様もなかなか連れてくのは難しそうな所って)
どうしよう。嬉しすぎて涙が出そうだ。あまりお外に出かけない私だけど、だからこそ父はこの旅行を許可したのかもしれない。
胸の奥がとても熱くなる。だからそれをごまかすように、私は父に甘えてみた。
「ねー、パピー。もうお休み?」
「数日は一緒にいられるよ。どうしても外せない用事はあるが、それ以外では一緒にいる。バーレンもヴェインも当てにならなさすぎる」
「他の人は?」
「お前を私から盗み出そうとする泥棒予備軍だな。もうルードとお前を交換しておこう」
うーむ。古城の所有者からは、男性と距離を置いておきたいならばせめて侍女を三人は伴うように言われたけど、父はバーレンとオーバリ中尉をつけておくから大丈夫という感覚だったらしい。
バーレンはもう数年来の付き合いだし、オーバリ中尉も怪我人ながら私の護衛業務は十分にできるから問題はないと思っていたようだ。
(男と間違いを起こさないように侍女をつけるのが一般的だけど、パピーは侍女がハニートラップされるリスクを考えたってか)
だから心配していなかったのに、合流してみたら娘と自分だけが使うはずの部屋でみんなが酒盛り。父の友と部下に対する信頼は地に落ちた。
もう娘はおうちから出さなくていい。父はそう思ってる。
だけどアレンルードを私と取り換えっこしたら、もっと喜ばれるような気がする。あの人達、アレンルードなら遠慮なく仕込めそうと思っていそうだ。
肝心のアレンルード、サンリラに全く興味を見せなかったけど。
「それだとフィル、ここに来た意味ない」
「もういい。欲しい物は何でも買ってやるし、好きな所へ連れてってやる。あんな奴らに笑顔なんぞ二度と見せるな。全くうちの娘をどこまで欲しがる気だ」
もしかして、父は本当に私を手放すつもりがなかったのかもしれない。
さっきは婚約者になり得るとか言っていたけれど、それすら私が望むのなら我慢するというレベルで、父にとってはとても不本意だったのかもしれない。
(考えてみれば私がフォリ先生の話に乗ったわけで、パピーは私が行きたがったから了承したんだった。パピー、私のおねだりは言えば大抵叶えてくれる人だもん。私が言わなければ却下してたよね)
心がぷわぁっと幸せな気持ちで膨らんでしまう。
父の左腕が私をぐいっと引き寄せたものだから、なんだか本当に気のおけない恋人のような気分になった。
こんなにも女の子は父親に愛されてしまうものなのか。荒々しく抱き寄せられても、それをするのが父ならば許せる。だってとってもロマンチック。
「パピーってば、横暴なのも素敵。あのね、パピー。フィル、あれやりたい。パピーと海辺のデートしてね、砂浜で追いかけっこするの」
「海辺って、ここら辺は大きな港しかないから砂浜はないぞ? 全て係留用にフォーミングされている」
「・・・・・・え」
「港じゃ駄目なのか?」
「港だと、それじゃ捕り物。フィル、犯罪者」
「そうか。難しいな」
「うん」
澄んだ青空と白く波が輝く青い海を背景に、砂浜でうふふふ、あははは、きゃっきゃと、一度はいちゃいちゃ過ごしたかったのに・・・!
白い砂をざりざり歩きながら手を繋いで世界に二人きりのラブタイムを堪能したかったのに・・・!
「それじゃあ可愛い犯罪者さん、代わりにここでデートしよう。父上もレミジェスもルードもいないことだし、たまには私に独占させてもらえるんだろう?」
「うんっ」
私の予定なんていつでもあなたのものよ、パピー。
やっぱり父はおうちで私が待っているのが一番嬉しかったらしい。やんちゃなアレンルードは叔父に預けても、一度は記憶を失った私は塀と柵に守られた家の中にずっと閉じこめておきたかったのか。
束縛されるのも変質的な欲情を向けられるのもお断りだけど、父の独占欲が嬉しいのは私が愛されているからだ。
あんなにも安全な家を用意しておきながら、父は私を自由にしてくれている。だから私はおとなしく家で閉じこもるのかもしれない。だっていつでも出ていけるから。そしてあの家は安全な私の聖域だから。
全ての人間を拒絶する鳥籠のような家は、それでも私と私の愛する人達の出入りを妨げない。
額にキスされれば、この腕の中がどれ程に安全かを実感した。
「さ、おやすみ。私のウサギさん。お前はウェスギニー家の子だ。よその虎にどんなご馳走を見せられても後ろ足で砂をかけてきなさい。全く完全に遮断したら反動が大きいかもしれないとガス抜きさせたつもりが、どこまでお前は食べられそうになってくるんだ」
「はぁい」
えっと、もしかしてそういうことだったのかな。
思えばフォリ中尉は大公家のご令息。そしてネトシル少尉も侯爵家のご令息。
お誕生日会にやってきたのも私との相性を見る為だったのかもしれない。他の令嬢だと常におうちにいるから仕事で訪れた際にも顔を合わせるだろうけど、私は子爵邸で暮らしていないという珍しい子爵家令嬢。
(私は何も聞いていなかった。もしかしたら、私の礼儀知らずなそれを見てあちらに「こいつは駄目だ」と思ってもらおう計画をパピーは立てていたのかもしれない)
この旅行はあちらに気に入られてこいという私を捨てる計画ではなく、あちらに落第点つけられて結婚話は全て潰してこいという私をおうちから一生出さない計画だったのか。
(それもそれで父親としてはダメなのでは・・・。だからお祖父ちゃま、パピーにもう期待しないのかも)
私の好きなように生きなさいと、ずっと父は言ってくれていた。
あれは子供に対してその場しのぎのいい加減な話ではなく、本気で言っていたのかもしれない。思えばうちの父、娘が幼年学校生の時点で成人後にはこの家をあげると言っちゃう人だったよ。
貴族令嬢らしく誰もが羨む貴族令息と結婚したければすればいい、それが娘の選択なら許そうって思ってたのかもしれない。
(そうだよね。女の子なら憧れちゃう人達。私がどういう選択をしてもいいって、だから融通がきくレンさんとオーバリ中尉をつけたわけだ。あの人達ならその場で対応できる)
どうしよう。こんなにも無償の愛を注がれて心が苦しい。
結婚してもしなくても好きにすればいいし、働いても働かなくても自由だと言ってくれる父は、あまりにも私のことを愛しすぎていた。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
浜辺で波と戯れながら父とのデートを堪能するというドリームは、大きな船が入港してくる港だけに水深が深く、浜辺そのものがないから無理だと言われ、潰えた。
ショックだった。
だけど代わりに夜景の綺麗なお店のディナーデートを提案してくれたからいいとしよう。
こういうフラットなおうちが気楽なのか、マーサという女性の目がないからだらしなくなるのか、父もバーレンも、そして何故かバーレンと同じ寝室を使っているオーバリ中尉も、シャワーを浴びた後はバスローブだけで結構うろついている。
他二名の肉体に興味はないが、父のそれは一見の価値があるので機嫌を直すことにした。海辺の街で、ズボンしか穿いていない父には、サファイアウィングの香りがよく似合う。
(他の虎に笑顔なんぞ見せんでいいと言いながら、パピーは私をあの人達とお買い物に行かせる。どう見てもパピー、寮監先生達をサイフ付き番犬だと思ってる)
4階の部屋で寝泊まりしている男子寮監達は、私の貴族令嬢としての認識に色々と思うものがあるようだったが、父との温度差が凄かった。
フォリ中尉を除いた4階の男子寮監達はウェスギニー家が恥をかかないよう貴族令嬢として模範的な行動を私に求めたが、父は別にそんなこと気にしなくていいというスタンスを貫いたのである。
どうやらアニマルパジャマで朝食を作って食べる貴族令嬢はあり得ないらしい。
私の評判が落ちたらウェスギニー家やアレンルードが困ったことになるんじゃないかなと思ったら、父は幻滅させておいて構わないと本気で思っていた。
「いいかい? フィルはウェスギニー家からの持参金、事業との提携、縁戚関係構築によるルード取り込みといった目的の縁談は避けられない。そいつらはフィルが自分達に従順でウェスギニー家から引き出せるものが多ければ多い程、ほくそえむだろう。
そして私は軍での立場もある。私が現役である限りフィルとの結婚にメリットを見出す者は多い。私をライバル視している奴だってフィルを手に入れて意趣返ししたがるだろう。
だからフィル、委縮するな。誰かがお前を枠にはめようとしても蹴散らしていい。お前との結婚があちらにもたらすメリットはあっても、我が家へのメリットは何一つとしてないからね」
「パピー。貴族の結婚、お互いの家に利益をもたらす。だから政略結婚、だよね?」
「うちはルードだけだからね。政略結婚の必要がないんだよ。フィルは自分の幸せだけを追求しなさい。本当に好きになった相手ができたなら道筋は整えよう」
そしてフォリ中尉やネトシル少尉は、エインレイドと一緒にいる私が王子様狙いの令嬢達にいじめられない為の布陣を敷いているのだと、父は説明してきた。フォリ中尉とネトシル少尉の場合、私が傷つけられたらエインレイドも悲しむだろうということで周囲に了解を取り、わざと婚約者候補を匂わせることで私を守ってくれているそうだ。
王子様狙いの子爵家令嬢は攻撃されるけど、王子様の身近な貴族令息との間に婚約が結ばれる「かもしれない」子爵家令嬢を攻撃したら確実に大公家や侯爵家を怒らせることになる。
とはいえ、父にしてみればあくまでそれは「フリ」にすぎない。嘘から出たまことになったら解消するのがかなり厄介なのだとか。
実態がどうであれ、本気で私との婚約を考えられても面倒だから遠慮なく幻滅させておきなさいと、父は言った。だからパジャマで食事しようが、リビングルームのソファでお昼寝しようが父は何も言わない。そして4階で寝泊まりしている男子寮監達はぶつくさと説教してくる。
(どうしよう。私をチェックしている寮監先生達とパピーとの思惑がすれ違いどころか、かすりもしてない)
うちよりも身分の高い令息と娘の縁談があったところでメリットは何一つないと言いきる父が、どこまでも自分勝手で素敵すぎる。
どうせフォリ中尉とネトシル少尉も、今の時点で婚約者候補など十人以上いるから私が悩む必要はないそうだ。
それぞれの家としては政略結婚も考えているだろうが、夏の長期休暇ぐらい個人としての彼等はそんなことに煩わされずに過ごしたいだろうよと、父にかかればそんなものだった。
(多数決でいくならパピーが間違ってることになる。だけど私の置かれている状況、ウェスギニー家の実情を一番理解しているという意味で、誰よりも真実に近いのはパピーとなる)
ちなみに常に人がやってくるおかげで、もう階段から3階の廊下に続く扉そのものを施錠して皆が暗証番号を覚え、そして私の部屋は寝る時まで鍵をかけないことになった。
毎回チャイムを鳴らされて開けに行くのが面倒だったのだ。だから気づくと誰かがリビングルームにいたりする。
それでも私と父が使っている寝室は誰も訪れようとしないので、十分にプライバシーは守られていた。
(お洗濯とお掃除、頼むようにしてよかったのかも)
洗濯物は各自で決められた袋に入れて出しておけば洗って畳んで戻してくれる。そして昼間に清掃に入ってもらい、ベッドメイクもしておいてもらうことにした。どうやらそういった外注でお金を落としておくのも大切らしい。
リストに書いておけば、買い物もしておいてくれる。思ったより至れり尽くせりかもしれない。
(ああ、お昼寝ってどうしてこんなに幸せ気分になるんだろう。
そしてお昼寝から目覚めた私がワンピースに着替えてリビングルームに行けば、ネトシル少尉がいた。
オーバリ中尉もそうだが、休暇に入ってからずっと前髪を下ろしているので、なんか二人共若いなぁって気になる。男の人って前髪下ろすだけで雰囲気変わるよね。
この二人はオーバリ中尉の方が偉いことになるんだろうけど、なんか見てたらどっちもどっちだ。私の前ではいいお兄さんしてるけど、私の目がないところでは、けっこうやんちゃしてる気がする。
だけど男の子なんてそんなものかもね。
だからつい、沢山食べて大きくなるんだよと、大盛りにしてしまうのかもしれない。
二人はどうやら部屋の組み合わせが気に入らなかったようだ。
「何故オーバリ中尉が一緒の部屋なのか、俺にはそれが理解できないんですがね」
「え? だって朝になったら可愛いアライグマさんが起こしに来てくれるんすよ? しかも
『まだ眠いなぁ』
とか言ってみたら、ベッドまでコーヒー持ってきて、
『はい、あーん。ちょっと何か食べたら人は起きたくなる』
って、炙りベーコン、口に放り込んでくんすよ。これはもうここに住むしかないっしょ。ねー、アレナフィルお嬢さん」
「ヴェインお兄さん、手間かかる人。リオンお兄さんはこうなっちゃ駄目」
コーヒーをベッドまで持っていってあげたところで、目も開けないような奴はベッドにこぼすのがオチだ。まずは目を開かせて上半身を起こさせなくてはならない。従って私は、ねぼすけさんの口にベーコンを放り込むのだ。
子供ならチョコレートの欠片でいいものを、大人は手間がかかる。
同じ部屋で寝ているバーレンは、
「レン兄様、バナナミルクだよ」
と、声を掛けたら起き上がるからいいんだけど。バナナミルクをベースに色々な野菜をミキサーにかけたものは私が毎朝飲んでいるので、それをバーレンにも出しているのだ。それなのにオーバリ中尉は、
「それ、女子供が飲むもんっしょ」
とか言いやがった。
よその男を知れば知る程、父の素晴らしさが身に沁みる。
「あのね、アレナフィルちゃん。そういう時はね、起きてこない奴は朝飯抜きって放っておけばいいんだよ」
「だけど一人だけ朝ご飯抜きって可哀想。それにヴェインお兄さん、怪我人だし」
「あんなふざけたフォト撮ってる時点で同情の余地はないと思うんだがなぁ」
女上司に狙われているオーバリ中尉は、着々と「未成年の女の子にメロメロ」という証拠フォトをゲットしている。
たとえばウサギさんの着ぐるみパジャマを着た女の子に「あーん」と何かをスプーンで食べさせてもらっているっぽいフォトとか。女の子はウサ耳で顔がよく分からないけれど、でれでれしているオーバリ中尉の顔はよく分かる角度だ。
どう考えてもこの男ヤバイ趣味だよと、普通の女の人は無言で立ち去る事態だ。そんなフォトを大切そうにサイフとかカバンとか手帳とかに仕込んでおくらしい。
「あのさぁ、アレナフィルちゃん。どうせクラセン殿と一緒の部屋なんだし、いっそ男同士、同じベッドで眠ってるフォトを撮っておいた方がいいんじゃないか?」
「それは私も考えたんですけど、こういう時はぶれたら失敗しちゃうんですよね。もうヴェインお兄さんは子供にしか興味がない変質者路線で嫌われるしかないんです。相手から罵倒されるぐらいに嫌われて、初めて縁は切れるんだと思うんですけど。・・・どうして人は、愛したい人と愛されたい人が上手に嚙み合わないんでしょう」
「そうだねぇ。だけどアレナフィルちゃんはいい子だ。ちゃんと上手に愛すことも愛されることもできるよ」
「えへっ、ありがとうございます。リオンお兄さんもそこは一途っぽい雰囲気ありますよね。きっと幸せになれる人です」
「ははっ、ありがとね。ああ、そうだ。301、どうせ無人だからリビングルームにマットを敷いてもらったんだ。ベッドの上でやらなくても、あそこで伸び伸びと運動できるよ。声かけてくれたら俺も一緒にやろう」
「うわぁ、ありがとうございます。ベッドだとどうしても柔らかすぎたんです。手伝ってくれる人がいると、やっぱり違うんですよね」
ネトシル少尉は、いい人だ。私の柔軟運動を見ても笑わなかった。
フォリ中尉とかオーバリ中尉とかは、廊下にバスタオルを敷いて、ゆっくりしたポーズをとっている私を見てゲラゲラ笑いまくったけれど、
「それならやってみてくださいよ。自信あるんでしょうね」
と、一緒にやらせてみたら、結構、普段はあまり意識していない筋肉を使うというので反省したようだ。
ランニングとかなら分かるけれど、どうしてそんな地味な運動とも言えない運動をしているのかと問われて、正直に「美しいスタイルの為」と、答えたら私の全身を上から下まで二回見直した挙句、フォリ中尉の後ろにいた寮監共は聞かなかったフリをしやがった。
いいのだ。数年後にひれ伏して私に謝罪するがいい。
そんな私にネトシル少尉は尋ねた。
「だけどアレナフィルちゃんは本当に色々なことを知ってるね。誰に教わったんだ?」
「やだぁ、リオンお兄さんったら。女は秘密がある方が魅力的なんですぅ」
うふふと笑ってごまかせば軽く肩をすくめられたけれど、私が語るとは思っていなかったという気配が濃厚だ。
普通の貴族子女は、そういうことを一家の主人や一族の目上の人から尋ねられたら正直に答えるものなのですよと言ったのは、淡紫混じりの桃色の髪に、紫の瞳をしたマシリアン少尉だったっけ。
朝から晩まで行動を共にしてしまうと、男子寮監をしている彼らにとって、父と私の関係は非常識そのものに見えたらしい。
そういうところ、父はかなり鷹揚である。あの寮監共に、
「ウェスギニー大佐。いくら何でも未成年の子供がここまで酒だの変な道具だのに詳しいのはちょっと監督不行き届きでは・・・?」
と、言われても、
「うちの家には様々な分野の本があるし、私の娘にはバーレンと一緒ならどこにでも出かけていいと伝えてある。どれだけ酒の知識を手に入れようと、大人になるまで酒を飲まない理性を有している娘を叱る必要などないな」
と、そんなものだった。
基本的に父は私が何をしていようが何を言い出そうが、危ないことをしない限りまず怒らない。
それは子供と真正面から向き合っていないだけじゃないかと、柔らかな水色の髪をしたドルトリ中尉には言われたけれど、そうではないと思う。
「秘密ねぇ。だけどそういうのは、ウサギさんやキツネさんパジャマを着ないぐらいになって、もっと大人っぽい寝間着を着るようになってから言わないとね」
「ふふーん。そんなことを言っている間に、子供なんてすぐに成長してしまうものなのです。まーさーに、いずれ私のセクシーさに、皆が悩殺されてしまうでしょうっ」
「おーい、アレナフィルお嬢さん? だけどお嬢さん、セクシーさよりは可愛い系だから、妖艶系は捨ててった方がいいんじゃないかなぁ」
オーバリ中尉はまさにボイン、キュッ、バイーンな人が好みだそうで、何かとこういうことを言ってくるのだが、私は正直、女上司というのを本気にさせたのはこの人にも原因がありそうだなって思っていた。
自分にとって意味のない薄っぺらな言葉でも、人によっては情熱的に口説かれているような気になることもあるもんなんだよ。
まあね。それでもお付き合いもしたことない人から結婚を強要されるのは可哀想だって思ってしまうから協力はしてあげるけど。
「そーゆーヴェインお兄さんは誰がどう見ても三枚目ですよ。全くリオンお兄さんを見習ってもっとクールにかっこよく、そしてちらっとホットな一面を覗かせるぐらいの意外性ぐらい持てないんですか」
「・・・パピー離れできないお子さまに言われたくない」
意外なことに、オーバリ中尉は変なところで繊細だった。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
いつものようにふらりと父がいなくなってしまったので、私はバーレンとバイト探しの旅に出ることにした。
白いシャツに紺のスラックス。羽織ったカーディガンは、淡い青色。あまりかっちりしすぎてもどうかなと思ってそんなところにしてみた。倉庫での作業も、エプロンをつければできないこともない。
「というわけで、ちょっと世間の厳しい風に吹かれに行ってきます。私がいなくてもお昼ご飯は食べるんですよ? 寂しいからってお酒かっくらってゴロゴロしてちゃ駄目ですよ?」
「お前はどこのババアだ。ま、いいバイトが見つかるといいな。気をつけて行ってこい」
「はぁい。行こ、レン兄様。その日の募集バイトが貼り出されてるんだって」
「ああ。そんじゃ夕方までには戻るよ」
アパートメントでは朝食と夕食は一緒に食べるけれど、昼食は出かけた先で食べたり、デリバリーフードを頼んだり、冷凍食品を食べたりと好き好きだ。みんなで出かけることもあればバラバラに行動していることもあるし、父とバーレンだけが二人でどこかに出かけて飲んで帰ることもあった。
フォリ中尉やネトシル少尉とデートっぽくおでかけした時にはいいお店に連れて行ってくれるので、おしゃれする甲斐がある。それでいて外国料理の屋台とかで立ち食いしたりするからメリハリが凄かった。
だからだろう。食事の際にどこに行くとか何をするとかお互いに話したりするけれど、いい距離感で楽しく過ごせている。
そして私はバーレンと一緒に、貿易会社が立ち並ぶ区画へと歩いていくことにした。
二人で歩けば、実は大きめ布バッグが入っているポシェットが楽しい。
「うふふふー。どれだけゲットできるかなぁ」
「法律って言っても、抜け穴もあれば厳格さもある。出たとこ勝負だな」
私とバーレンは仲良しだ。恋人にはなれないけれど、共犯者にはなれる。
そして二人で組めば呼吸もばっちりだ。
「先に募集バイト見てから行こうね。大体の時給も知っておきたいし」
「ああ。そういう口裏合わせって大事な作業だよな」
私達が目指しているのは、税関の事務所である。急がば回れというものだ。
募集バイトを見て、幾つかメモをとった私達は、税関事務所に行き、輸出入の際の関税手続きについてさくさくっと学んでしまうことにした。
― ◇ – ★ – ◇ ―
税関事務所は色々な人でごった返していた。外国人もいればサルートス国人もいる。
建物から見える窓の向こう側には検査場があって、更にその向こうにある大きく張り出した桟橋には数えきれない程の船が係留されていた。
「すみませーん。ちょっと輸出入が認められているものと認められていないもの、特にファレンディア国との資料が欲しいんです。実は、これでもファレンディア語には自信があって、だからファレンディア国の商人の所でバイトをしようと思うんですけど、場合によっては書類を見ることにもなるかと思います。知らずに密輸するわけにはいきませんから、許可されているもの、禁止されているものの資料をいただけませんか? できれば本、つまり書物について重点的にお願いします」
「あら。ファレンディア語ができるの? そちらのお兄さんが?」
「兄も私も読み書きができます」
「あらそう。【本よりも違う物が輸入されてくるものだけど】 大丈夫なのかしら」
「そうですね。 【ファレンディアですから製品が多いのは当然です。だからそちらの資料も欲しいのですが、本に関しては内容的に輸入や輸出を認められていないものがありますよね? ですからそちらの資料を頂きたいのです】 いいでしょうか?」
「驚いたわ。本当に得意そうね。じゃあ、こちらが一覧表よ。どこで働くかはもう決まってるの?」
「一応、紹介状はもらってます」
少し時間がかかったが、その人は本に関する輸出入の際の禁止例リストを見つけてきた。
「あまり本の内容までチェックする程、輸入されてこないのよね」
「そうですよね。だけどこれでうちの兄、本が大好きなんです。もしも知らずに法律違反するわけにはいかないので、やはり調べてからと思いまして・・・」
「立派ね。頑張ってちょうだい」
だが、その会話を聞いていた税関職員がいたのである。
「ちょっと君達、ファレンディア語、得意なのかい? これ、読めるかい?」
「・・・あー、悪筆ですね。これ、多分、口語的に書いちゃったんですよ。もしかして内部出身じゃないですかねぇ、これ書いたの。あの辺り、わざとファレンディア国人同士にも閉鎖性見せてこういう書き方するんです。これ、最初にガツンと言った方がいいですよ? ファレンディア共通語じゃないだろって」
私は書かれた内容をちゃんとサルートス語に訳して併記し、更にどうして変に読めるような工夫がされてしまっていたかをガツガツ指摘していった。
ファレンディア共通語に見せかけて、意味の誤解を誘発するやり方だったのである。
「君、子供の割には賢いね。幾つだい? ファレンディア国人かい?」
「14才です。サルートス国人です」
「だが、その年でそこまで詳しいって言うのはちょっとないだろう」
こういう時、頼りになるのがバーレンだ。
「その子はサルートス上等学校の一年生ですよ。ですが、入試でも全教科満点で入学しています」
「・・・あなたは?」
「私、サルートス習得専門学校で言語学の講師をしております」
さらりと自分のカードを出すバーレンは、権威というものをよく知っている。
おやという顔になって、その職員がバーレンの肩書が書かれたカードを見つめた。
「この子は小さな時からファレンディア国の商人から言葉を習いまして、ここまでマスターしてしまったのですよ。旅行がてら肌で輸出入というものを学んでもいいかと思いまして、ちょっと働いてみるつもりで、資料を頂きに来たのです」
「そうでしたか。では、身元は安心ですね」
「はい。何でしたら遠慮なくお問い合わせください」
サルートス上等学校の生徒に関する情報は問い合わせたところでまず教えてくれないが、バーレンは講師をしているのですぐに本人確認ができる。
「貿易会社でバイトするのもいいが、それならちょっと税関でバイトというのはどうかな? ファレンディア国の船はかなり入ってくるのでね」
「やりますっ。ね、レン兄様っ?」
「そうだな。その方が確実な知識を身につけられる」
そうして私達はファレンディア国との輸出入に関する書類をメインに、相談役なんだか、代わりに書くんだか、ファレンディア国人に分かりやすく説明するんだかといった作業をすることになった。
「すみません、クラセンさん。こっちにもヘルプお願いしまーす。レティラッタ語、分かりますか?」
「簡単なレベルしか分かりませんが」
そう言いながらもバーレンはさすがにバーレンだった。
色々な国の人を相手に税関職員と一緒になって何やらまくし立てている。
(あいつ、実は何ヶ国語マスターしてんだろう)
ううん、人と自分を比べても空しいだけ。フィル、ファレンディアの輸出入を却下されて捨てるしかなくなった本を無料でゲットすることに力入れるからいいの。
うふふふ。税関でのバイトだなんて、まさに鴨が葱を背負って来たようなもの。
あまりバイト代としては高くなかったが、低くもない。
「アレナフィルちゃん、今度はこっちの申請書類、チェックしてくれ」
「はーい」
「それが終わったら昼飯に行こう。初日だから奢りだ」
「やったぁっ」
赤いインクを手元に置いて、ちゃっちゃとチェックしていく私だが、どうやらそれはかなり速かったらしく、瞬く間にファレンディア国関係の書類はほとんど私に回され、私が問題点をまとめたり、チェックすべき点を指摘したりするようになっていた。
かつて書類を作成提出する側だったので、書類にひそむものを見抜くことは容易い。
そして奢りと言われても職員食堂はとても福利厚生的にお安い価格だったので気兼ねせずに済んだ。安いと言ってもまずいわけじゃなく、税関職員しか入れないという特別食堂のランチセットはどれも食べ飽きない味だった。
「どんだけの国と貿易してんだよ。マジか」
「ガンバレー。レン兄様、おめでとう。やっと今までの知識を役立てる日がきたんだよ。さあ、飛び立つのだ。あの大空へ」
「空なんてどこにも見えんぞ、おい」
バーレンはあちこち呼ばれてヘトヘトになっていた。バーレンはその場で数ヶ国通訳が可能だから使い勝手が良かったのだろう。
疲れが滲んでいたものの食事を終えればバーレンは再び書類をチェックして、その書類を持って船へと出ていく職員に問題点や書類の不備を伝え、後は見送る流れを確立させていた。
(かつては提出する側だった私が、今や提出される側。税関事務所っていう就職口もあるってことが分かったのは良かったかも)
人生とは不思議なものだ。
そんなことを思いつつ仕事をこなしていれば、夕方の鐘が鳴って、本日の受付時間が終了したことを知らせてくる。
「いやあ、アレナフィルちゃん。本当に助かったよ。明日も来るよね?」
「あ、はい」
私の両肩をがしっと掴まれて、これで断ることのできる人がいるのでしょうか。
「うんうん。バイト代は口座に振り込んだ方がいいのかな? それとも現金渡しかい?」
「えーっと、振り込みでお願いします」
こういう時、現金受け渡しよりもちゃんと口座を持っている方がいい筈だ。サルートス国人であることが確認できるから。
だけどバイトをする前にこういうことを打ち合わせるんじゃないのかなと、私は当たり前の疑問を抱きつつ書類をトントンとまとめて、それぞれの箱に入れていった。
そこへ、違う部署らしい一人の職員が困ったような顔でやってくる。
「おーい、誰がファレンディア語、できる奴いるか? 何かを訊かれているのは分かるんだが、意味が分からん」
その職員の後ろには、淡い金髪の男性がいて・・・。
ちらりと、その薄い緑の瞳が私を映す。
「・・・ウト」
私には分かった。どれ程に長く会っていなくても。
あの子を私が分からない筈がない。どれ程の時間を隔てたとしても。
「どうした、フィルちゃん? ファレンディア語だってよ。・・・行ってやらないのか?」
バーレンの声が遠くに聞こえる。だけど、私はその顔から目が離せなかった。
彼はふいっと興味なさげに違う方向を向いたけれど。
ああ、逃げなくては。でもやっと・・・。
【だから、通訳はどこで雇えるのかと聞きたいのだが】
記憶にある声よりも低くなっている。背も伸びて、顔立ちも大人になっていた。
それなのに表情は硬い。
いいや、そうだった。彼が私に向ける声が少し高かっただけ。私に向ける表情がいつだって笑顔だっただけ。
どうしてこんな所にいるの。通訳? 誰に会おうというの。
(あの手紙、父以外にわたる筈がなかったのに・・・!)
まさか彼が受け取ったなんてこと、考えたくもなかった。
亡くなっている私に向けて出された、外国からの手紙。無視されることだって考えていたのに。
それでもこの子が来たということは・・・。
そうだ、あの子は私に関することだけは譲らない。そういう子だった。そして今や成人したあの子の行動を止められる人はこの国にいないのだ。
ぐらぐらと視界が揺れて暗くなり、頭がぼうっとして揺れていく。
「フィ、フィルちゃんっ? フィルちゃんっ。しっかりしろっ。誰かっ、医師を呼んでくれっ」
「動かすなっ。頭を打ってるかもしれんっ」
「誰か医務室に連絡をっ」
ああ、やっぱり夢じゃなかった。
ファレンディアの思い出も、サルートスでの日々も。
だってあの子がここにいるのだから。あの子はおそらく手紙にあったバーレンの家まで行くのだろう。
隠さなくては。バーレンを会わせてはいけない。
(私を見つけないで。・・・レンさん、彼に会っては駄目)
私の意識は暗い闇の中に沈んでいった。