混迷の両大陸
新大陸にて
「なんじゃこりゃぁぁぁ!!」
ある入植者が大事にしていたハナミズキの木が壊滅的な被害を受けていた。
近くには斧が落ちていた。
「やったのは誰じゃ?」
「俺いごわす」
息子が名乗り出る。
「ないごてこがいな事した?」
「良か切れ味の斧が有ったで、立木打ちしもした」
父親は息子を捕まえると、ブンブン振り回して
「桜島おろしぃぃぃぃ!!」
と叫んで投げる。
受身に失敗し、息が出来ない息子に父親は
「立木打ちは木刀でせんか!!
そいと、立木打ちすっなら、あの木でやれ!」
指差した先にはアカシアの木(かなり硬い)が在った。
だがやがて新大陸新世代サツマン人は、アカシアの木も木刀で立ち枯れさせる程、強力な斬撃を放つ戦士に育つのだった。
新大陸が流行病休戦となっている間、島津家久はヨーロッパ情勢の処理から手が離せなかった。
まずワラキア継承戦争が長引いている。
ハンガリーの支援が受けられないバサラブ4世は、各地の小領主たちに籠城を命じ、長期戦を選ぶ。
ミフネア、ヴラド僧公、ミルチャにスパルタ島津家と、決戦になればとても敵わない。
そこで中央集権化を進めていたヴラド3世に反発していた小領主たちに命じ、消耗戦を仕掛ける。
一方、ヴラド3世が進めた政策、農業の大規模化で恩恵を受けた大地主たちはドレクシュティ家に着く。
この戦争に参加した島津義弘が中々戻って来ない。
軍事的空白を気にした家久だが、それはダルマチア島津家が領地に戻って来た事で解消する。
プロヴァンスでジャンヌ・ダルク(ジャンヌ・デ・ザルモアーズ)が死亡する。
イングランドを叩き、異端審問を叩きのめし、愛する「乙女」ジャンヌの仇を討ったと、満足した顔で死出の旅に着いた。
祖母を葬った後、島津忠偉、忠安兄弟と一万の将兵はダルマチアに戻った。
バルカン半島の軍事的空白が解消されたと思ったら、イベリア半島でそれが発生した。
いつの間にかカトリック両王国の将軍に昇進していたチェーザレ・ボルジャが、ナポリ島津家支配するバレンシア地方に攻撃を仕掛けて来たのだ。
既にゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバとアストゥリアス公ファンの軍は、奪われたア・コルーニャ近辺を回復し、イスパニアは大西洋への出口を回復した。
イスパニア全軍はゴンサロのコロネリア戦術を学ぶ。
植え付けられた隣人への憎悪から来る内紛は絶え間無かったが、国軍は強さを回復した。
このようなイスパニア軍を天性の軍才を持つチェーザレ・ボルジャが指揮する。
ナポリ島津家にとっても侮れない相手である。
ダルマチア島津軍及びスパルタ島津軍が居れば、チェーザレ・ボルジャとてここまで戦えないだろう。
だがナポリ島津軍だけなら、強さを回復したイスパニア軍は十分に戦えるのだ。
島津忠隣はナポリから兵を呼び寄せ、対抗する。
イタリア半島で島津家の軍が減る。
この機にフランスのシャルル8世がミラノを拠点に「ローマ教皇領の回復」を名目に侵攻して来た。
イタリア戦争と呼ばれる戦役が始まった。
フランスに対抗すべく、神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン(フリードリヒ3世の実子でシャルル突進公の婿養子)もイタリアに兵を進める。
この事態に右往左往するばかりで何も出来ない、ロレンツォの後継者ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチは、フィレンツェをフランス軍に無血開城し、市民の怒りを買う。
彼は「愚か者」と呼ばれ、フィレンツェを追放される。
これにより、ロレンツォの父のピエロは「痛風持ちのピエロ」、息子のピエロは「愚か者のピエロ」と区別しやすくなる。
なお、フランス王国はブルターニュ半島でフランドル王国・ブルターニュ公国連合と戦い、神聖ローマ帝国の方も嫡男無く死亡したハンガリー国王マーチャーシュ1世の後継者ボヘミア王ヴラジスラフと対戦し、ウィーンを奪還し、版図を回復する戦争を同時に行っていた。
両国とも人口が多い。
多数の人口は二正面作戦を可能とする。
神聖ローマ帝国も、流石に40年前のソフィア郊外会戦の傷から回復していた。
------------------------------
「俺が見るに、サツマニアは既に国力の限界を超えて領土を持っている」
ロレンツォ・デ・メディチが言い遺した言葉が家久の心に突き刺さる。
既に島津と東ローマ帝国が維持出来る限界に達していたのだ。
家久は無闇に拡大した己の計算違いを悔やむと共に、今回の事態の引き金を引いた父・島津義弘を恨んだ。
父親が勝手に兵を動かした事で、連鎖的に戦力の空白地帯が出来て、それに対処する度にどこかで戦争が起こるといった具合であった。
もっと兵力が、人口が欲しい。
「いっそ、新大陸の兵を引き上げるか」
とも思ったが、彼等は全部で二千人程で、しかも薩摩の中で格別強い集団でも無い、単なる犯罪者か犯罪予備軍なだけで。
先日亡くなった補佐官チコ・シモネッタが指摘したように、国家予算はともかくサツマニア大公として家久が動かせる予算はまだ回復し切っていない。
新大陸行きは食料を得る開拓でもある。
食料が足りなければ人口も増えない。
薩摩は戦役から帰還した兵が、生存本能を刺激され、子作りしまくるので人口はまた増えるが、子供が成長する迄には時間が掛かる。
(縺れた糸は、地道に解く他ない)
家久は、薩摩人からは最も遠い思考で事態に挑んだ。
一般の薩摩人は、ごく自然にゴルディアスの結び目に対するアレクサンドロス大王の解放に辿り着く、否、それしか思いつかないのに。
家久は第四次薔薇戦争を終わらせる事を考える。
シャルル・ド・ヴァロア=シマンシュこと豊久長男島津忠釈をイングランドから引き揚げ、ブルターニュ戦線に戻せばフランスはイタリア戦争にかける兵力を減らさざるを得ず、ナポリ島津家の負担が減る。
家久はヘンリー7世の要請に応じた。
シャルル突進公に手紙を出し、シャルル・シマンシュとエドワード5世をイングランドから撤退させる。
突進公は、初期こそフランス軍を撃破出来たものの、天敵スイス傭兵が前線に出て来た事で苦戦する。
流石に以前のようなボロ負けはしなくなったが、苦手意識は拭えない。
そこでサツマン兵・モッコス兵・ヒャッハー兵を呼び戻した方が戦える。
その計算もあり、突進公はイングランド戦線を放棄した。
ここは島津家久の外交手腕の見せ所である。
家久は、イングランド側にフランドルの航路利用と港湾使用を再開させる。
一方で突進公には、派遣軍の撤退とエドワードの王位継承放棄を約束させる。
両王はそれで納得せざるを得なかった。
なお、第四次薔薇戦争は、薔薇戦争に数えない史家も多い。
テューダー朝軍は島津の恐ろしさが骨身に染みている為、シャルル・シマンシュ軍に対し防御一辺倒、畑や民家も先に焼いて住民は城内に避難させ、城壁の上からの長弓と大砲で長距離戦しかしない方針で挑んだ。
攻めても損害が大きいと見たシャルル・シマンシュは、ロンドンには向かわず、手薄なシェフィールド、リーズ、マンチェスター、リヴァプールを破壊した。
一方でテューダー朝軍は、呼応して挙兵した旧ヨーク家派の貴族や野心のある貴族を叩き、より一層中央集権化を進める一方、攻め込んで来たスコットランドのジェームズ4世に娘を嫁がして、逆に味方につける等、何もしなかった訳では無い。
しかしテューダー軍とヨーク軍の直接対決はついに起こらないまま、シャルル・シマンシュは義父と一族惣領の命を受け、渋々イングランドを去った。
戦利品と称し、多数の捕虜を引き連れて。
なお、シェークスピアの故郷ウォリックシャーは、シャルル・シマンシュ軍の通路にあり、特に理由も無く略奪と破壊と拉致と、その後に謎の植物繁茂(父親追悼で何やら植えていった)という被害を受けている。
イングランドから撤退したシャルル・シマンシュはブルターニュの前線に出る。
戦が朝晩の食事より好きなシャルル・シマンシュはそれで良い。
復位の可能性を断たれたエドワード5世に対し、突進公は別な領土を与えて慰める他無い。
婿養子マクシミリアンが神聖ローマ皇帝となる事で、突進公は「皇帝の父になる」夢を叶えた。
その皇帝マクシミリアン1世と話し、エドワード5世は次期フランドル王エドゥアルト1世とする事にした。
これで突進公はローマ皇帝、フランドル王、レオン王の義父となった。
これにブルターニュ公というものも加えたい。
ブルターニュ戦線が危うくなった事で、ローマ教皇領に居座っていたシャルル8世も撤退せざるを得なくなった。
その上で、浪費を覚悟で上皇家久直属軍がタラントに渡り、ローマ教皇領目指して北上した。
シャルル8世の父・ルイ11世は島津の恐怖を脳震盪と共に記憶していた。
彼も火遊びはしょっちゅう仕掛けて来たが、引き際は弁えていた。
シャルルの小僧にも教えてやらねば……。
家久軍は、ダルマチア島津家や薩摩本国からも借りて、とにかく鉄砲装備率を上昇させた軍となっていた。
フランス軍の強さの源・スイス傭兵を徹底的に分析し
「槍よりも遠くから攻撃すれば良か」
と、薩摩チェスト主義から最も遠い戦術を採る。
大体家久直属軍はアテナイやテッサロニキといったギリシャ人部隊、ブルガリア人の傭兵と僅かな日本人馬廻衆であって、決して島津の精鋭部隊ではない。
島津の中では弱兵部隊である。
それだけに家久は、常に勝ち方を考えて、間違い無く勝てると思ったら動く。
ローマ北東70kmのトラーノでフランス軍と家久軍は激突。
「サツマンは包囲か突撃」
と防御に回ったフランス軍は、島津の車撃ち(歩きながら装填、発射する薩摩の砲術)に大敗する。
チェストしないから犠牲こそ少ないが、シャルル8世もまた島津への恐怖を刷り込まれた。
かくしてシャルル8世はイタリアから一時手を引く。
フランスがブルターニュ半島に戦力を集中させた事で、ナポリ島津家、フランドル王国、そして神聖ローマ帝国の戦力分布も変わる。
神聖ローマ帝国はフランスに対抗して派遣した兵力をイタリアから引き揚げ、ハンガリーに投入した。
ハンガリーは防戦いっぱいとなる。
これを知ったワラキア公国ドレクシュティ家は、ハンガリー国境付近の兵を攻撃に使えるようになる。
ナポリ島津家は、フランスの脅威が無くなった事で、安心してローマ教皇領方面の兵力もイベリア半島に投入した。
フランドル王国のシャルル突進公は、フランス軍の戦力増強を受け、新大陸に居た戦力も急遽呼び戻す。
これが運命の転換点となった。
------------------------------
シャルル突進公の勢力下のナバラ王国から新大陸に行っていたフーゴという兵士が咳き込んだのが始まりだった。
瞬く間に病気が陣中で流行り始める。
この直前、新大陸ヌーベル・ブルゴーニュは、アパッチ族を味方に引き入れた。
そのアパッチ族の中に、咳をしている男たちが多数いた。
フーゴはアパッチ族に、ヨーロッパ式武器の使い方を教えていて、濃厚接触をしていた。
彼から始まった、「サツマン風邪」と呼ばれるパンデミック。
今回は薩摩のせいではないのだが、今までの多数のやらかしから、風評被害も仕方ない所である。
方陣を組み、密集隊形で戦っていた軍隊から感染拡大する。
兵営に物を売ったり、見世物をする流浪の民は感染地から逃げ出す、病原体を身に宿して……。
こうして彼等が移った地で、また感染が発生する。
次第に感染は西から東に広まる。
父ヴラド3世がジプシー虐殺をしたのを知っているミフネア悪公は
「あいつら、見つけ次第焼き殺しましょう」
とワラキアでの感染を「結果として」阻止した。
だが、ヴラド3世に反対していた勢力は、そういう悪行をしない為に感染する。
籠城しているだけに感染爆発したら、一気に戦力が低下した。
「神仏に祈りたい気分ちゅうのは、こういう事なんじゃな……」
人事を尽くして様々な手を打った後、それらが良くも悪くも帳消しになる疫病に、島津家久は天を仰いだ。
薩摩も他人事では無い。
日本という国は古くから、手水、口のゆすぎ、斎戒、禊という風習がある為、接触感染分には強い。
しかし空気感染には脆い。
誰かが
「桜島が灰を吹いてた時の口覆いしていれば流行り病に冒されんど」
と言って、噂が拡大した事もあり、「他国よりはマシ」だが、それでも連日死者が出る。
家久の幼い子も罹患して死んだ。
薩州家当主で、ナポリ島津家の忠隣の副官として働いていた島津忠清も感染し、死亡が報告された。
「そうじゃ、こういう時の為にあ奴を生かしておいたのじゃ」
家久は正帝コンスタンティノス12世に手紙を書かせ、そのままタラントからローマに移動する。
上皇となり、行動が以前より速くなった。
教皇ピウス3世に会い、依頼を承諾させる。
かくして正教会の守護者コンスタンティノス12世、正教会のコンスタンティノープル大司教、カトリックのローマ教皇連名で
「この度の流行病は天の警告と思い、これより5年間の戦争停止を考えて欲しい」
という声明を出させた。
教皇の権威は相当に低下している。
だからと言って、一旦滅亡しかけた東ローマ皇帝パレオロゴス家や、ブルガリア正教やモスクワ正教も在る中でのギリシャ正教会コンスタンティノープル大司教の権威が高まった訳でも無い。
それでも各国は、手を引く口実を得た。
示し合わせたかのように、各地の戦争が休戦になる。
そしてフランドル王国のシャルル・シマンシュは、停戦成立でイングランドの捕虜を本国に送り返した。
病原体と一緒に……。
(イングランドの被害はこれから始まる)
おまけ:
シェークスピア「分かっただろ!
だから私はサツマンが大嫌いなんだ!!」
おまけの2:
ネズ・パース族はこんな感じである。
「なんでも、東の方では酷い病気が流行しているそうだ」
「なんで俺たち大丈夫なんだろ?」
「やっぱり神様守ってくれてるな」
彼等はアマビヱトーテムの下で語らっていた。




