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オデッサ追撃戦

「教皇猊下!

 ヴェネツィアがフェラーラ公領に攻め込みましたぞ!」

ロドリーゴ・ボルジャ枢機卿が報告する。

まさか、本当にけしかけたとは……。

「あ、けしかけたんじゃないぞ。

 フェラーラ公領で製塩業始めたのを、今まで塩業やってたヴェネツィアが問題視したから力になっただけじゃ」

(だとにしても理由が俗過ぎる……)

「では教皇領は戦争とは無関係ですな」

「え? 何言ってんの?

 イモラ領主である儂の子のジローラモを出動させたんだけど」

(また縁故主義(ネポティズム)で軍を動かしたのか……)


(クックックック……。

 そう来たかシクズ。

 だが、俺の事を忘れちゃいないか?

 こっちを見ろよ、つれないなぁ、シクズ)

ロレンツォ・デ・メディチが動き出す。


「教皇猊下!

 フィレンツェ軍にチッタ・ディ・カステロ市を奪われました!!」


こちらはこちらで、麻雀対決の如くまだまだ戦い続けていた……。

シクズ対ロレンツォ、伝説の対戦は終わらない……。

 菱刈の戦いは、世界史上初の広域同時包囲攻撃であった。

 一戦場に限れば、如何に広かろうが同時攻撃は可能である。

 規模でいえば、もっと多い人数のぶつかり合いもあっただろう。

 だが、ワラキア側戦場、薩摩側戦場、ブルガリア側戦場で同時に朝駆け攻撃をし、包囲を縮める作戦行動に則ったものは初である。

 この攻撃が可能になるのは、通信技術の発展と正確な時を刻む時計の誕生を待たねばならない。

 後世の戦史研究家は、伝書鳩による頻繁な連絡、徹底した暗号管理、不完全ながら「猫の目時計」でのタイミング合わせという、初歩的ながら広域での一斉攻勢をする条件を整えていた事を知り、感嘆した。

 後世のみならず、当世においても島津豊久の采配は高い評価を得た。

 これはかつて神聖ローマ帝国や中欧の諸侯軍を壊滅させた先代家久によるソフィア郊外会戦を上回る大勝であった。

 数の問題だけでなく、陸海軍共同作戦といい、島津家に従属していないワラキア公国との共同作戦であった事も併せ、「先代家久公に勝る名将」「父を超えた」と薩摩の者は褒め称えた。

 ワラキア公ヴラド3世すら

「親父も恐ろしい男だったが、倅は下手をしたらもっと凄いのではないか?」

 と島津義弘に語ったと言う。

 だが、当の本人はまだ気を抜いていない。

 七割近い敵兵を討ち取り、敵皇帝の首を取ったとは言え、残兵がまだ多いのだ。




------------------------------




 菱刈の戦いは、菱刈周辺だけで行われた訳ではない。

 類を見ない広域での包囲殲滅戦となった。

 包囲と言っても、東ローマ及びワラキア軍だけで12万のモスクワ軍を完全に封鎖した訳では無い。

 幾つか突破口があり、そこから少なからぬ兵が脱出した。

 しかし、皇帝家久は抜かりない。

 脱出した先で彼等は悪夢を見る。


 西に逃げた兵士たちは、木造戦車ターボルの城壁を見た。

 この方面にはハンガリー王マーチャーシュ1世が出て来ていた。

 此方に逃げた兵は幸せである。

 降伏した後、農奴として再雇用されたのだから。


 北に逃げた兵士たちの前に、完全武装の騎士団が立ちはだかった。

 この方面にはポーランド王カジミェシュ4世が出て来ていた。

 此方に逃げた兵は悲惨である。

 ノヴゴルドの守護者であるリトアニア大公も兼ねるカジミェシュ4世によって、降伏した兵士はノヴゴルドに駐屯する味方を討つ為に投入される。


 北西に逃げた兵士たちの前に、弓矢や鉄砲で武装した軽騎兵が現れ、包囲する。

 この方面にはワラキア公の弟、ヴラド僧公が出て来ていた。

 此方に逃げた兵は無惨である。

「何処へ行かれるのですか(ドミネ・クォ・ヴァディス)?

 お前は『磔刑』だーーーッ!!」

 と串刺しか磔かで処刑されてしまった。


 南西に逃げた兵士たちの前に、重装歩兵ファランクスの隊列と、日向武士が槍先を揃える。

 此方に逃げた兵は、個々の運で生死が分かれた。

 スパルタ兵に捕われた兵は、郊外に奴隷として住まわされ、普段は農業に、成人式の時は狩人プレデターに殺される標的エイリアンとされた。

 日向武士に捕われた兵は、怒りに燃える彼等によって、柑橘類の代わりに収穫された。

 収穫され山積みになって出荷される筈だった馬車に、檸檬や蜜柑の代わりに首を山積みにして彼等は戻って来た。

 近隣のギリシャ人もブルガリア人も

(穏やかで柑橘類の為に働く彼等も、一皮剥けば蛮人だった……)

 と改めて恐怖を抱いた。


 南及び南東に逃げた兵は、居ない、物理的に。

 既に全て骸となって野山に転がる。

 皇帝家久は、彼等を一人とて生かしておく気は無かった。

 タイ捨、野太刀薬丸流、示現流、介者剣術、あらゆる武芸で斬り殺されるのはまだマシな方。

 キリスト教徒の悪夢、復活の日を迎えられない「火刑による消滅」をさせられた兵も相当数居た。


 東に逃げた者は、運次第である。

 そこは黒海なのだ。

 東ローマ帝国艦隊からの射撃を潜り抜け、泳いで抜けられたら儲け物。

 だがルース人はそれ程泳ぎは上手くない。


 こうして12万を数えたモスクワ大公国軍は、唯一の脱出路、北東のオデッサ方面に逃げられた3万以外は消滅した。

 だがイヴァン皇子と2万人の兵がオデッサに残っている上に、負傷者も多いとはいえ約3万の敗残兵が合流し、戦場に到着しなかった遅参兵約1万を糾合すると6万程の兵力となる。

 薩摩全軍に匹敵する兵力であり、油断出来ない。


「追って、追って、叩かにゃならんど!」

 皇帝家久は各種情報から、豊久は直感からそう判断する。

 改めて兵を編制し、遠征と時間をかければ、島津義弘が負けた時と同じになる。

 オデッサからモスクワに退かれてしまっては追えない。

 まだモスクワ軍がオデッサに居て、傷が癒えぬ内に叩く。

 豊久の手勢一万、島津義弘の手勢千二百、川上党や伊勢党の二千、弟・忠仍の四千(日向衆やブルガリア傭兵は解散)、島津義弘の子・忠清率いるスパルタ島津家の日本人部隊約八百で一万八千。

 要は島津義弘と豊久の家臣団が合流した、島津家精鋭部隊である。

 モスクワ軍の三分の一に過ぎないが、今すぐ動かせる兵力はこんなものだ。

 鎮西武士、ブルガリア傭兵、スパルタ兵、東ローマ傭兵、ワラキア兵等、全戦場合わせれば一万五千という損害を出している。

 討ち死にこそ千人未満で少ないが、敵兵は10万を超えているし、勇猛なルース・スラブ人の必死の抵抗に遭い、負傷者は相当に出ていた。




------------------------------




 かつて豊久等島津家若手は、皇帝家久と語らった事がある。

 もう十八年以上前の事で、当時家久はまだ忠恒と名乗っていた。

 家久と言えば、亡き豊久の父、中務大輔家久の事である。

 中務大輔家久は部屋住み身分の時、京都まで旅行をしている。

 復路、平戸に立ち寄っている。

 そこでは南蛮船に乗り込み、南蛮人が大友宗麟に献上する虎の子を見物した。

 中務大輔家久は、ただ南蛮人のもたらす文物の珍しさに驚くだけではなかった。

(日ノ本にまで商いに来る彼等は、一体どれだけの軍事力を持っているのだろう?)

 全てを軍事力で計算する家久には、南蛮船一隻であれ、その戦力は計り知れなかった。

 そして謎の転移。

 中務大輔家久はついに南蛮人の本拠地を肌で知る。

 彼等は日ノ本の大名たちと変わらない。

 強欲で土地を強奪し、そこから利益を貪る。

 それを地球の反対側に来てまで行うのだ。

 中務大輔家久は、機会があれば徹底的に叩き潰しておかねば、転移した薩摩が危ういと危機感を持った。


 島津歳久もまた、天正三年(1575年)に上洛をしている。

 歌道を学ぶという名目だが、実際には情報収集であった。

 軍事的に物を見る家久と違い、歳久は織田家と接触し、島津の出自である近衛家とも交わった。

 家久上洛時は、長篠の戦い直前であった。

 歳久上洛時は、長篠合戦は既に終わっている。

 鉄砲の脅威を改めて知り、それを得る南蛮貿易についても調べる。


 歳久、家久の報告は、島津家の軍事力強化に繋がるが、その一方で兄弟二人は西洋について警戒心を持つ。

 転移後、軍事の家久は各地で戦い続けるが、歳久はそもそもの西洋の根幹、キリスト教について調べ、この時期のキリスト教も次の百年のキリスト教も相当に危険と悟る。

 島津忠恒はこの叔父二人から話を聞いた後、島津家次期当主に勝手にさせられ、コンスタンティノープルに人質に出された。

 忠恒が実父と義父には一言では割り切れない感情を有しているのに対し、叔父二人には割と従順なのもこの辺にある。

 コンスタンティノープルという商業都市で、忠恒は自分なりに情報を仕入れた。

 キリスト教の司祭や他国の者ともよく会った。

 その上で出した結論が「今は小さいイスパニアという国を潰さねばならない」という事と「ローマ教皇が信仰だけでなく、世俗でも権威を持ち、寄進を受ける事は危険」という事であった。

 キリスト教の異論を認めない傲慢さも危険だ。

 彼は織田信長が仏教の牙を圧し折ったように、キリスト教の牙を抜こうと考える。


 島津家若手衆は忠恒の考えに賛同している。

 血の気の多い彼等の事、敵が強ければ戦い甲斐が有ると考えている部分は否めない。

 だがいずれは忠恒(家久)の先兵として、イスパニアと戦い、彼等を潰して薩摩を安泰にせんと忠誠を誓っている。

 その一人、豊久だが、彼は忠恒から東方戦線を任された。

 東方を見て来た彼には、イスラム教は案外問題視すべき存在でないように映る。

 戒律に煩く、禁忌が多いが、他人には強要しないし、約束は守る。

 約束をする迄の過程が面倒臭く、豊久は何度も拳と刃で会話していたが。

 豊久が脅威に感じ始めたのは、そのイスラム教国の北にあるモスクワ大公国だった。

 その在り方が自分たちと似ている。

 勢力拡大が並ではない。

 ここを放置してイスパニアは攻められまい。

 後顧の憂いを払う意味でも、モスクワ大公国は叩き潰さねばなるまい、それが豊久の考えである。

 皇帝家久にもその考えは伝え、両者同じ戦略を持っていた。

 だからこそ豊久は追撃し、家久はそれを追認し、支援している。




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 島津軍は菱刈の合戦後、一旦兵を集結させて再編成し、それから追撃を開始した。

 明らかに準備不足である。

 それでも良い面に働いた部分もあった。

 ノロノロ撤退していた菱刈からの敗残部隊、及び遅刻して戦場に間に合わず、そのままオデッサに進路を変えたモスクワ軍に追いつけた。

 薩摩軍は背後から襲い掛かり、五日程の戦闘で4万の敵兵の内、半数を野戦で討ち果たす。


 島津豊久は世界初の同時広域包囲作戦を指揮した古今の名将である。

 それ程の画期的な戦闘をしていながら、彼は「アレキサンダー大王、ピュロス大王、ハンニバル」といった名将、名戦術家には数えられない。

 このオデッサの戦いが、必要ではあったが、余りに拙速だったからだ。


 イヴァン皇子と合流したアンドレイ・メンショイ将軍は、皇子をモスクワに逃がすべくオデッサで籠城戦に出る。

 そして、無傷の2万の兵が城に拠って戦う。

 ルース人が防御陣地に拠って戦うという事の危険性は、この時期はまだ知られていない。

 彼等は頑強に抵抗した。

 島津軍より旧式ながら、火砲をもって反撃して来る。

 島津豊久も、父と義母(ジャンヌ・ダルク)譲りの砲兵があるが、今回の追撃戦では置いて来た。

 速度こそ重要と思ったからである。

 確かに2万の敵兵を駆逐した裏には、準備もそこそこに急追した事が功を奏している。

 しかし攻城戦となれば話は別だ。

 途端に苦戦を始める島津軍。


「中務少殿、どげんする?」

 伯父ながら指揮権を委ねた島津義弘が尋ねる。

「ここに至ってはしょうが無か。

 力押しに押して、城を穿ち抜く」


 オデッサ、この時期はまだハジベイという集落の城は、コンスタンティノープルのような大層なものではない。

 クリミア・ハン国の領域にあったこの地を、薩摩への侵攻の最中に占領し、中々立地が良かったから物資集積基地にした為、急ごしらえの砦でしか無かった。

 それ故に力押しでも落とせた。


 だが、結果として薩摩軍は取り返しのつかない犠牲を出す。

 まず、スパルタ兵を指揮していた島津義弘五男・忠清が銃弾に当たり、討死。

 従兄弟たちが各地で大戦果を挙げている中、病弱な彼は手柄を挙げられないのを嘆いていた。

 従兄弟たちにも、父親に恥じぬよう戦うべし。

 その戦意が裏目に出た。

 前に出過ぎた彼に砲撃が集中する。

 忠清は戦死したが、彼が死んだその場所はどうやら突破口のようだ。

「久四郎様の死を無駄にすんな!

 あそこが攻め口ぞ!!」

 そう言って突撃した豊久の家老・伊集院久治勢も、激しいモスクワ兵の銃撃に晒される。

 伊集院久治も討ち死にしたが、彼の手勢は橋頭保を守り抜き、そこから城内に雪崩れ込む。


「皇子殿下は既に遠くに逃げただろうな。

 それにここにあった物資も全てモスクワに送った。

 あの物資がある限り、モスクワは10年戦える」

 そう言って自らも退こうとしたアンドレイ・メンショイ将軍に、一騎の武者が突っ込んで来る。

「おはんが此処の将と見た!

 そん首貰うた!!」

 島津豊久が大太刀を構えて襲い掛かる。

「蛮族が!

 負ける訳にはいかぬ!」

 メンショイも騎兵槍を構えて打ち合う。

 数合打ち合った後、豊久の脇腹に激痛が走る。

 一騎打ちを華と思わぬルースの農民兵士、彼等が銃撃した。

「敵地にたった一人で突っ込んだお前の誤りだ!」

 槍を突き出すメンショイだったが、豊久はそれをかわし、右手の膂力だけで重い大太刀を横一閃する。

 アンドレイ・メンショイの首は胴から離れた。


「何を言うたか分からんが、おはんの言う通りじゃ。

 兵児が鉄砲を持てば撃つもの。

 そこに何の不思議も無か。

 一騎打ちにかまけて周りを見ん俺いが悪か」

 周囲の銃を持った兵士を一通り首にして、豊久はメンショイの死体に語りかける。

 銃を持った兵との戦いで、豊久の身体には何個も孔が空き、血が噴き出ている。


(さて、俺いは親父殿(おやっどん)に追いつけたじゃろうか?)

 遠くなる意識の中、豊久は述懐する。

(まあ、良か。

 モスクワ大公国はこれで当分立ち直れん。

 戦餓鬼が、戦の中で敵将を討って死ぬる……有り難い、良か死じゃ)

 島津中務少輔豊久、享年四十五歳、奇しくも父島津家久と同じ年齢であった。


 オデッサの戦いで島津家の損害は全軍一万八千の内三千程、しかし討死は千五百と菱刈の戦いよりも甚大である。

 代わりにモスクワ大公国軍6万の内、生きてモスクワまで戻れたのは僅かに2千人。

 菱刈の戦いの犠牲者と合わせ、モスクワ大公国は皇帝と将軍、そして14万以上の兵を失った。

 島津軍の大勝利である。


 だが、勝者に歓喜は無かった……。

おまけ:

レオナルド・ダ・ヴィンチが竹崎弥五郎に

「儂がモスクワ大公に矢を当てたとこを描け!」

と、射た人も射られた人も場所も見た事無いのに依頼されて困った、ちょっと前の話である。

ダ・ヴィンチのパトロンはルドヴィーゴ・スフォルツァである。

フランチェスコの四男で、外道・ガレアッツォ・マリアの弟であり、色黒な事をムーア人(北アフリカのベルベル人)のようだと「イル・モーロ」と呼ばれる男である。

イル・モーロはスイス人傭兵を抱え、神聖ローマ帝国を後ろ盾としていた。

それに対し、当主ジャン・ガレアッツォ(ガレアッツォ・マリアの子)の生母ボナ・ディ・サヴォイアは、姉の嫁ぎ先フランス王国を後ろ盾とする。

彼女は剛直なチコ・シモネッタと組んで、イル・モーロと対立した。


英傑フランチェスコ以来の補佐役で、島津豊久からも一目置かれるシモネッタは、イル・モーロを弾劾して一度はミラノから追放する。

イル・モーロは

(ボナ王太后は大した事は無い。

 シモネッタを倒さねば勝ち目が無い)

と悟り、作戦を立てる。


シモネッタはボナ王太后の愛人アントニオ・タッシーノと対立していた。

先代ガレアッツォが死んだとはいえ、王太后は貞淑であれとシモネッタは言う。

そしてタッシーノには、愛人如きが国政に口を出すな!と一喝する。

イル・モーロはこれに目をつけた。

タッシーノを通じてボナ王太后と和解。

逆にシモネッタを失脚させ、彼を処刑台に追いやる。


ここで急使が来る。

ラグサ共和国経由でダルマチア公島津豊久が

「殺すくらいなら俺いにくれ!

 くれねば俺いがおはん等を殺す」

と言う物騒な手紙の為、シモネッタは九死に一生を得た。

彼は島津豊久に引き取られ、彼の推薦で皇帝家久の顧問官となる。

家久は剛直なシモネッタを大層気に入った。


ミラノ公国に話を戻す。

シモネッタが居なくなった以上、後は簡単だった。

ボナ王太后は国外に追放され、イル・モーロがミラノの宰相となり、まだ11歳のミラノ公に代わって国を支配した。


この政変で外交が変化する。

イル・モーロの姪で、皇帝家久に奪われた美女ルクレーツィアの娘カテリーナ・スフォルツァがイル・モーロを批判する。

カテリーナの夫は教皇シクストゥス4世の庶子ジローラモであった。

教皇庁からの攻撃に対抗すべく、イル・モーロはフェラーリ公の娘(15歳)と婚約する。


(狙い目だな……)

フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチも動く。

彼は抱えていた芸術家の一人、レオナルド・ダ・ヴィンチをイル・モーロの元に派遣した。

ダ・ヴィンチに造らせた菱刈銀の竪琴リラを手土産に、和平条約の手紙を渡す。

ダ・ヴィンチは既に名声を得ていて、彼がミラノに移る事を条件にミラノとフィレンツェは同盟を組んだ。

ダ・ヴィンチとは、一国を動かし得る、それ程の価値の有る人物であった。



知らぬは

「儂の手柄を描いた絵巻物はまだ出来ぬか!!」

と騒いでる東方の蛮人たちであった。

(イル・モーロ曰く「あいつ等何仕出かすか分かんないから、さっさと仕上げて渡してやりなさい」)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 豊久の評価のようにはっちゃけているようで、抑えのきいている所。 [一言] ついに豊久も逝ったか…。義弘より後から逝くのはないですよね。 家久(2世)のストレスがやばそう…。
[一言] 血を分けた家族であり、偉大な父親を超えるという目標を持つ同志であった豊久が死んで、家久もこれから一人で決断をしなければならない時が来るわけだ。
[一言] そんな絵巻なんか人の顔が書けなくて建物の絵ばっかり描いてるようなレベルのやつに描かせればいいんですよ
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