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北アフリカの乱始末

鹿児島・内城にて。

島津義久は宝物庫を見て腰を抜かしていた。

「頼朝公の太刀はどこじゃぁーーーーーーー!!!!」

 後の世のニコロ・マキャヴェリという学者の評である。

『最近、ちまたではチェスト主義イズムという、理性より野性や蛮性に重きを置く思想が流行っている。

 しかし、そのチェスト主義のサツマン人の皇帝であるイェヒ2世は蛮性と知性を両立させている。

 彼が政敵と一族の敵を粛清し、ナポリとシチリアを併合し、ボン岬半島を占領した際に流された血は数十人分だけであり、しかも一方的に負けた側からのものだけである。

 味方の犠牲は1人もいない。

 彼の父親がチェスト主義の真髄という蛮性に任せてワラキアと戦争をし、双方で三千人以上の犠牲を出しながら、勝ち負けは有耶無耶で終わり、国境が1エルも移動しなかった事に比べれば、兵を指揮する司令官はチェスト主義に囚われず、知性も合わせ持った方が良い事が分かるだろう。


……だが世間は多大な犠牲を出したチェスト主義を称賛し、イェヒ2世はイル・マーレと評判が悪いのだ……。』




------------------------------




 権謀術数の模範とされる島津家久の策略は、全裸土下座の時点から既に始まっていた。

 彼は山潜やまくぐりを放ち、この話を吹聴して回らせた。

 いつしか「皇帝家久は大した事無い」という空気が作られていた。

 硬い土壌に種は芽吹かない。

 一度柔らかく耕す必要がある。


 皇帝家久とナポリ公島津忠隣は、ローマやマグリブを調略していた。

 そしてローマに居るアンドレアスの耳に入る話、アンドレアスが同志に話した内容全てを掴んでいた。

 それどころか、伊集院忠真を利用して、内戦を長引かせてサツマンの力を削げと思考誘導すらしていた。

 要は、アンドレアスのサツマン撃退戦略とは、大枠を皇帝家久が考え、島津歳久がアンドレアスが思いつき易い形に思考の種を植え、島津忠隣が教会関係者を通じて煽て上げて発芽させたのだ。

 陰謀後の後始末まで計画したアンドレアスは、自分はコジモ・デ・メディチにも匹敵する陰謀家のように錯覚したが、そうなるよう島津家で仕込んだのである。

 14歳くらい、後世中二病と言われるくらいの年頃の貴族育ちの坊ちゃんを、自分は選ばれた存在だ、他人よりも秀でた存在だと自意識を肥大化させ、手玉に取る事等、海千山千の戦国武将には容易い事だ。

(日本の戦国武将の中には逆に、手玉に取られぬよう八歳くらいから虚気者うつけものや臆病者を装って敵味方を欺いていた者すら居る、尾張とか相模とか備前とか土佐とかに)




 皇帝家久は、薩摩隼人どもより先にビザンツ帝国政界を掌握する。

 ぶっちゃけて言うと、我儘で面倒臭い鎮西武士どもは義父の島津義久や実父の島津義弘に任せておいて良い。

 古老たちには、まだ子世代はナメられる。

 それよりも、ギリシャ、ブルガリア、アナトリア、ナポリ、シチリアの統制の為に、東ローマの国体を形作る方が先決である。


 S.P.Q.R.のSはSatumanusサツマンたちのだが、元々はSenatus(元老院)である。

 皇帝家久は、東ローマでは形骸化していた元老院を活用した。

 軍事と経済政策は皇帝独裁だが、行政や司法、地方の問題等は元老院との協議で決める。

 家久が民主的な思考をしたからでは無い。

 日本では鎌倉幕府が評定衆、足利幕府が三管領四職という合議制をしていた為、必然的に軍事と商業や開発系の経済政策以外は合議制で良い、と考えたまでだ。

 自分は伝説の名執権北条泰時公に及ばない。

 北条泰時は十数人の評定衆を纏め、裁判も可能な限り同座し、あらゆる行政に関わった。

 それに対し、子の北条経時は評定衆を三交代制とし、裁判も効率化させて吏僚に任せた。

 皇帝家久もそれに倣う。

 なんでも抱え込まない方が後々の為だ。


 こうして実権を与えられたビザンツ帝国の貴族や商人、数少ないが軍人は家久を支持する。

 更に家久は、国の大事な式典には病床のコンスタンティノス11世上皇を引っ張り出す。

 病床といっても、中風で半身不随にはなったものの、意識はしっかりしているし、今風に言えばリハビリも兼ねて外を歩くのも良いとされた。

 家久が大分調整して殺伐としなくなった第二回オリンピック(開催地コンスタンティノープル、第三回はワラキアが立候補中)とか建国祭等で、呂律が回らず、杖を突かねば歩けない上皇を、皇帝が肩を貸して上座に座らせる。

 これは上皇、皇帝両方にメリットがある。

 上皇はいまだ健在である事を示せ、民や貴族からの忠誠も得られるし、国の実権の一部でも握っている事で代々の東ローマ皇帝に恥じる事無く生きられる。

 皇帝は、先帝の家系を大事にする事で寛大さを示せ、かつ東洋人とされる薩摩人に支配される事を良しとしない貴族たちからも支持される。

 しかもこの二人は、帝位継承法について密約を交わしており、利用し合う関係であるが、決して敵対はしない。

 一部、コンスタンティノス11世現在時から居た皇弟ソマス公派というのもあるが、彼等はソマスの子・アンドレアス帰国時の言動で失望してしまった。

 簒奪者である家久が大事に扱っている先帝を、邪魔だと見捨てる少年の器量は小さい。


 皇帝家久が調略を仕掛けたのは、先帝派とアンドレアス派である。

 自派閥は切り崩されなければそれで良い。

 アンドレアス派には、彼の陰謀を先んじて知らせておく。

 つまり「こちらはとっくの昔にお見通しだ」と見せる。

 そう答えるよう仕込んでいたのは自分たちなのだから、アンドレアスが言い出す事を知っていて当然だ。

 それを知らず、踏ん反り返って策を披露するアンドレアスを見て、彼等は

(ダメだ、この少年は踊らされている)

 となるが、彼等は見限る事が出来ない。

 そういう連中に家久は中立・日和見で良いと言う。

 一旦転ぶ者は、時間を掛ければ自分に靡く。

 今はこれでよい。

 どうしても考えを変えそうにない頑固者、これには情報は一切漏らさず、アンドレアスが命じる蜂起に参加して貰う。

 この鎮圧は、上皇/先帝派にして貰う。

 アンドレアスは上皇排除も口にしていた。

 元々コンスタンティノス11世とアンドレアスの父ソマスは政敵で、権力闘争の末に地方で自立し、子供たちはローマ教皇領に亡命したのだ。

 彼が先帝陛下を殺しに来るなら、我等は先帝陛下を守らねばならぬ。

 皇帝家久は、アンドレアス派諸侯を倒した後、その財産は倒した者にそのまま与えるとした。

 歳久が唱える「共犯に巻き込む」事に成功する。

 アンドレアス派は、アンドレアスや伊集院忠真が皇帝家久を暗殺する予定日に蜂起し、上皇派貴族とその傭兵によって鎮圧された。

 上皇派の力は増したが、恐くはないし、邪魔でも無い。


 元老院に欠員が生じた事で、皇帝家久はここに歳久、豊久、忠隣、忠長等、島津家の人間を入れる。

 さらに、ヴラド3世やスカンデルベグの名前まで加えた。

 懐柔目的であるが、彼等には意味が分からないようだった。

 スカンデルベグは東ローマ元老院議員の称号を与えられた時には既に体調を崩していて、翌年死亡する。


 家久は、鎌倉幕府と足利幕府と初期帝政ローマと東ローマ帝国を併せた政治体制を考えた。

 元老院は、身分は終身であるが、議会への参加人数は制限し、交代制とした。

 余り人数が多いと意見が纏まらず、多数派工作が主な仕事になるからである。

 少ない人数で意見を語るのだから、その者の価値は上がる。

 更に東ローマでは過去に廃止された執政官コンスル護民官プレブスを復活させ、執政官2名は

行政の責任者で月番式とした。

 片方が表に立っている間に、もう片方は書類仕事を片付けるやり方である。

 護民官は、何かと問題を起こす鎮西武士やスパルタ人から帝国臣民を守る役目である。

 皇帝、上皇、執政官二名、護民官、元老院議長と軍最高司令官代理(最高司令官は皇帝で、この職は貴族が就く軍政職)で帝国最高会議となる。


 元老院改革と並び、家久は軍区テマも改革した。

 地元の兵を使う為、担当区域を決める軍区テマ

 自前の軍団と共に赴任する属州と違い、完全にその地で生まれ育った軍の将兵。

 東ローマ帝国も時代が進むに連れて細かくなり過ぎて、役に立たなくなった。

 家久は、ローマ皇帝アウグストゥスの統治に倣い、軍区を皇帝管理区と元老院管理区に分けた。

 軍事上重要な地域は皇帝管理区とし、平穏な地域を元老院管理区とした。

 議会に出ない元老院議員は軍区司令官とする。

 家久がアテナイで試し、持ち込んだ代官と法務官制度が此処でも生き、議員は帝都や自邸に居ながら司令官という名誉職になり、実際の指揮官は軍人がなるが、司令官とは個人契約となる。

 その司令官と司令官代理の契約を管理し、軍区において契約通りの仕事をしているか監視すると共に、軍区における問題を共に考え、時に帝都の司令官に報告して処理するのが法務官となる。

 法務官は一人ではこなせない量の仕事を抱える為、チームで作業する事になる。

 皇帝家久が知ってる、足利幕府における守護(在京)と守護代(土着)の形であり、守護代がよく下克上を起こした事から、契約式で監視役を置く形とした。




 このように政府機構を掌握しつつある皇帝家久だけに、「敵地と接している」北アフリカ・ボン岬半島地域は皇帝管理区となった。

 皇帝家久が伊集院忠真とアンドレアスを暗殺するとすぐ、ハフス朝の軍が陸から、島津忠清・忠栄の薩州家軍が海から伊集院家を攻め落とす。

 司令官不在の伊集院家は呆気なく降伏した。

 マキャヴェリが絶賛するように「降伏したら手出ししない、抗戦派を倒してくれたら領主にもする、自分たちはそうやって助けられたのだから、信用して良い」と、実際にそのまま領主となった薩州家が言った為、伊集院家残党は客将白石永仙を切腹させ、降った。

 皇帝はハフス朝と交渉し、ボン岬半島と、ビゼルト及びタバルカの二都市と周辺地域を交換した。

 面積から言えば大幅に減少するし、何よりボン岬半島はシチリア島からすぐ近く、連絡もしやすい場所であったのに、あえて皇帝家久は更に遠い地を望む。

 更に言えば、忠恒時代の皇帝家久が焼き討ちをした為、「薩摩ダゴン」を恐れ、憎んでいる地域に近い。

「皇帝は何故あんな街を求めたのか?」

 多くの者は訝る。

 皇帝家久は、島津忠長をカルタゴ鎮守府将軍に任じる。

 ビゼルトとのその周囲の領主として認められた伊集院家残党は、タバルカの島津忠長配下に入る。

 忠長父子には直接、ナポリの歳久・忠隣義父子、カラブレアとシチリアの忠清・忠栄兄弟、そしてタラントの肝付兼篤には手紙で家久の構想が伝えられる。


「ハフス朝の西にあるアルジェリアのザイヤーン朝とモロッコのマリーン朝を滅亡させる。

 これを持って領土拡大の為の軍事行動は終了としたい。

 彼の地は砂漠で、何の旨みも無い土地に見えるだろう。

 しかし、あの地はイスパニアの対岸に在る。

 それが最も大事な事だ。

 外交で有利に出られるよう、最後のひと頑張りをお願いしたい」

 大旨、こういった内容であった。


 この書状を受け取った晴簑入道島津歳久は、家久の敵が見えて来た。

「又八郎はアラゴン、カスティーリャ、ナバラ、ポルトガル、ナスル朝といった国を敵または交易相手と見据えておるようじゃの。

 そいで、イベリア半島の南岸を抑え、西地中海の交易にも手を出すつもりじゃな。

 しかし、ないごてじゃ?

 ないごて彼奴はそうまでイスパニアを警戒しよる?

 そいが俺いには分からん。

 三郎次郎、おはんは知っちょるか?」

「父上に分からん事が、俺いに分かる訳ごわはん。

 ただ、又八サァはイグナトゥスから、色々聞かされ眉を顰めちょりもした。

 あん国は危険じゃち」

「あん国?

 どこじゃろ?」

 それは皇帝家久にも今は言えない。

 その国は西暦1467年(薩摩暦天正二十九年)現在まだ誕生していない。

 未登場の国を脅威と見ている家久は、その時が来るまで真意を話す事が出来ずにいるのだった。

おまけ:

東郷重位はシャルル公子に切紙、中目録、目録、免許、印加を授けてブルゴーニュ公国を辞す。

示現流免許皆伝第一号はブルゴーニュ公子シャルルであり、これは後に島津家の面々を悔しがらせる事になる。


フランドルからフランスを経て、東郷はイベリア半島に入る。

ナバラ王国からカスティーリャ王国を通り、ポルトガル王国に入国した。

途中、カスティーリャで先に行われたスパルタオリンピックの剣術の部で優勝した騎士と立ち合い、勝利した事で名声が広がっていた為、東郷はポルトガルで歓迎される。


ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを占領していた。

そこから探検をしていた為、様々な話を聞くことが出来た。

東郷はポルトガル国王アフォンソ1世に頼み、北アフリカに渡らせて貰う。


やがて単身放浪する東郷に、様々な者が襲い掛かって来た。

「こいは珍しか刀じゃ」

アラブ人の湾刀の他、ベルベル人のフリッサ、西アフリカのヨルバ人のアダという、日本刀や長剣とは違う刀、そしてその使い手と渡り合い、技を磨き続ける。


やがて、砂漠の剣士トーゴーの名が知れ渡る事になる。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] かなり前の作品なのですが一応。護民官の正式名称はトリブヌス・プレビスですが、トリブヌスの方が官名で、プレビスは「平民の」という意味の形容詞です。なので、護民官を略するのならトリブヌスが…
[気になる点] 重位どんは史実のように善吉和尚に師事していないから本作の示現流は体捨流ベースの剣術かな? 欧州中を武者修行しているから自然に雲耀の極意は会得済? 薬丸自顕流も気になりますなw
[良い点] 権謀術数の話好きです。 逆にこういう腹芸があったからこそ豊臣も徳川も薩摩を生かしたんだなと。
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