トゥルゴヴィシュテの屈辱
問い:十字軍の時の義弘公とヴラド3世の和平条約は読んだのですか?
家久「いや、知らん、見せてみよ。
………………。
何じゃこいは!?
こいのどこが和睦か?
第四条『お互い再戦まで死ぬ事を許さない』
第六条『第三者による攻撃を受けた場合、第四条適用で両軍共同して第三者を殲滅する』
こいか!!!」
「ここは? 俺は確かシマンシュと戦っていた筈?」
鉄砲で撃たれたヴラド3世が目覚めた。
柔らかい黄金とはいえ、鎧に守られた身体の傷は軽く、脳の付近を掠めた弾丸の衝撃波で気を失っていただけであった。
「おお、気が付いたかヴラド!」
「鬼の顔が見える。
という事は、俺は負けたのか?」
どうも、よく覚えていないようだった。
しかし、次第に思い出し始める。
「公、彼は我々に投降しました」
「何?」
「一騎打ちの最中に、飛び道具等は俺いの本意で無か。
じゃっどん、あいは俺いの倅が為した事。
まっこて、もっさけなか。
償いに俺いの生命をおはんに預けもす」
「……と申されています」
「おかしな奴だ。
戦場で鉄砲を食らったのは俺の責任だ。
鉄砲が卑怯とか……、生命のやり取りに卑怯もクソも無いだろ」
「まったくおはんの言う通りじゃっど。
そいでも、俺いは俺いの勝負を穢した倅を許せん。
俺い以外がおはんを殺す資格は無かど。
同様に俺いを殺す資格もおはん以外に無か。
此度は俺いに負い目が有いでな、俺いが命おはんに預けることにした」
(理屈がよく分からん)
「そうか、ならばお前の身柄は預かった。
我が居城でゆっくりしていくが良い。
俺に鉄砲を当てた奴への対策はそれからしよう」
(何故か公には通じた!!)
ワラキア人もトランシルヴァニア人もモルダヴィア人も、理解不能な形で戦争は終わる。
逆に薩摩陣営は理解者が多数居た。
------------------------------
皇帝家久への薩摩での評価は酷いものとなっていた。
統制云々はどうでも良い。
「ないごて、チェスト・ナポリタンをしなかった?!」
理由は、島津歳久・忠隣親子に統治を委ね、彼等の拠点とするのに、焼き討ちとかしたら困るからである。
焼き討ち・大虐殺をやった後に復興となると、薩摩から財貨を持ち出して行う事になる。
それにシチリア島の薩州家を根切りにし、島で撫で斬りをしたら、折角薩摩に送っている米の生産は誰がするのか?
反骨精神旺盛で、独立心が強い島津忠辰を他の一族が殺し、それでケジメをつけたら薩州家で問題無い。
忠清や忠栄といった弟たちは、教皇や神よりも家久への忠誠を優先すると誓った。
肝付貫篤も元々肝付兼寛の行動には反対で、早期に島津宗家に忠誠を誓っていた為、兄や義甥の事は捨てて命令に従う。
徹底抗戦は北アフリカ・ハンマメットの伊集院忠真くらいだ。
伊集院党は客将・白石永仙の進言に従って都市であるハンマメットを放棄し、領国ボン岬半島先端部にあるケリビア要塞を修復し、そこに立て籠もっている。
シチリアを食糧生産地とし、ナポリを後方基地にする予定の皇帝家久は、チェスト・ナポリタン等無意味なだけでなく、自分たちに不利になると考えていた。
薩摩人の不満はまだある。
「ないごてローマ教皇を捕らえ、亡き定山公(家久)の墓前で謝罪させなかった?」
今有るのは薩州家家人の証言くらいである。
状況証拠と証言だけでは脅迫するのがやっとだ。
逮捕・連行となると、流石に向こうも
「確たる証拠を出せ」
と開き直ってしまう。
まあこの件は
「俺いがイングランドで送り火して来たで、親父もそいで良かと言うじゃろ。
親父ン事はもう俺いの中では決着が着いた話ぞ。
今回の戦は、フランス国王を捕らえて来たで、そいで俺いらぁの勝ちぞ」
と息子の豊久が言って回っている以上、それ以上の文句は出なかった。
だが今回の
「あげな事したら兵庫様(義弘)は怒って当然。
兵庫様を敵に回す等と、若殿は本に莫迦殿じゃ!」
だけはどうにも出来ない。
スパルタ島津が、義弘に付いてごっそりと敵に回った。
ただし、対島津家ではなく、対島津家久であり対サツマン朝東ローマ帝国である。
島津義弘相手でも島津総軍でかからねば勝ち目は薄い。
加えてヴラド3世が義弘に加担する。
いまや薩摩人と並ぶ強兵となったスパルタ人たちも義弘に付き従う。
さらに、基本的には薩摩人と同じ精神の肥後人が
「戦になると恩賞が出るから、どちらかに味方して戦おう」
と勝手に戦準備をして参陣し始めた。
その比率は義弘軍九に対し皇帝家久軍一である。
------------------------------
「どがいしたら良かじゃろか?」
弱い者にはとことん強いが、強い者には戦いを挑みたがらない皇帝家久は、信頼のおける者たちだけを集めて相談する。
基本、そういう者に従う者はイエスマン、おべっか使いばかりになるのだが、そうはならないのが島津家のおかしいところ。
「腹切って謝ればそれで良かどが」
島津豊久がそう言う。
「腹切っても、手当が早ければ死なんど。
兵庫の伯父御じゃと、そいでんせねば納得せんじゃろ」
家久は考え込む。
多分それだけじゃ足りない。
義弘は忠恒と名乗っていた時代から、家久には異常に厳しかった。
そして、一々義弘の理屈が家久の合理的思考では理解出来なかった。
勝ち易きに勝たない、万の敵に百で立ち向かう事を好む、謀略も自分は平気で使う癖に、誰かがやると激怒する。
激怒しても、大概は拳固一発(ただし一発で殺傷力を持つ)で許してくれた筈。
「兵庫様は、六十を超えて随分と意固地になりもした。
稚児や童と遊んでいる内にはお優しかごわんど、二歳や大人に対しては、上手く口が回らんのか、細かか話はせんようになりもした」
そう言うのは、当主島津義久、スパルタ公島津義弘、日置城主島津歳久、皇帝島津家久の四人から信頼され、仲を取り持っている新納忠元である。
「つまりは、老いられたチ事ごわすか?」
「俺いの口からは言いもはん。
ご自身で確かめられあれ」
新納が信頼されるのはこの辺で、言わない事は決して言わない。
例え義久に、今の打ち合わせの事を聞かれても、肝心なところは言わないという安心感が有る。
聞かれた事で、相手にとって大事な事は話しても、秘密を漏らすような事はしない。
「では、廃嫡を申し出、退位した方が良かか?
ローマ帝国を学習した俺いには、退位は余り意味を持たんしな」
ローマ帝国初代皇帝は、何度も権威ある地位を辞任し、元老院に政権を返上していた。
だが、皇帝にとって役職は意味を持つものではなく、「元」という肩書さえあれば良かった。
そうすれば、現職は「元」の自分にも意見を聞いてくる。
このやり方は、島津家が先祖だと言い張る源頼朝のやり方と似ている。
彼も官職を受けるが、在京義務を嫌ってすぐに辞任する。
しかし、その官職を受けるに相応しい官位には昇進する為、最終的には征夷大将軍という「在京義務を負わずに、軍の指揮権を持つ」役を辞任した正二位という高位の公家となり、ただ「鎌倉殿」の称号で勝負した。
京の公家は、四位や五位相当官の征夷大将軍ではなく、高位の公家が就任する右近衛大将の方を重視し、頼朝を「鎌倉右大将」と呼んだ。
島津家久という、島津家では珍しい古典の教養人には、院政の過去もあるし、先立って最も天下人に近かった織田信長も右大臣という顕職を辞任している事も併せ、一回「皇帝だった」事で十分と言えば十分なのだ。
「ヴラド公はそれで納まるでしょうが、兵庫様に理屈が通じぬのは、息子であるおはんが一番知っちょるだろ?」
島津忠長は、島津義弘にとって重要なのは役とか位でなく、肉体である事を学んでいる。
辞任なんてどうでもいいから、一発ぶん殴らせろ、という思考なのだ。
その一発で、確実に殺しにかかる。
それでいて
「兵庫様は情に脆い。
直接土下座でんして、懇切丁寧に謝った方が、切腹だけで許してくれよう。
中務少殿が言ったように、腹切っても死ぬとは限らんでな」
おかしな事に、既に皇帝が腹を切る事前提で話が進んでいる。
となると、薩摩的「普通の」切腹程度で義弘が納得するだろうか?
「意表を突く事じゃな」
豊久も同じ事を考えたのか、おもむろに発言した。
「意表……じゃと? 中務少殿」
「伯父御は相手の思いも寄らぬ事をし、間を作り、そいを勝機に繋げちょっで。
同じように伯父御の意表を衝けば良かチ思うがの」
様々な意見を聞いて、皇帝家久は皇帝家久らしい方法で解決を図った。
その案を聞いて、豊久は爆笑し、新納忠元は呆れた表情になったが何も言わず、忠長は「賭けじゃな」と評した。
------------------------------
ワラキア国トゥルゴヴィシュテ城。
島津義弘は、意外な事にヴラド3世から歓待を受けていた。
ヴラドは正直な相手は好きだった。
また、倒れた自分を手当てしたのは義弘だと聞かされ、その分を恩にも感じていた。
だから
「貴様を殺すのは戦場での事だ。
しばらくは賓客としてゆるりとして行け」
ともてなしていた。
そんなトゥルゴヴィシュテ城に使者が来る。
皇帝が単身謝罪に来るというのだ。
「ヴラドどん、おはんは決して表に姿を現さん事だ。
あ奴、また鉄砲で狙って来るかも知れぬ」
義弘はそう言い
「俺い自ら、莫迦息子の首刎ねてくれん」
と愛刀を握った。
謝罪に来るという日、トゥルゴヴィシュテ城付近には将兵の他、農民や商人も集まり、人だかりが出来た。
その中、誰も近づきづらい剣呑な空気を纏い、島津義弘が椅子に座って待っている。
今より4百年程前、ローマ教皇と対立し破門を言い渡された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、教皇滞在中のカノッサ城外に裸足で参り、雪の中4日間許しを乞うたという。
所謂「カノッサの屈辱」である。
今度もまた皇帝が謝りに来る。
一体どのような姿であろうか?
そこに現れた皇帝家久の姿に、周囲は目を背けた。
(なんで全裸なんだよ!!)
身に寸鉄も帯びず、風も無いのにブーラブラしながら皇帝が胸を張って歩いて来る。
「キャー!」
女性が悲鳴を挙げる。
「君! 待ちたまえ! そんな格好で!!」
聖職者が咎めるも
「親父とヴラド公が俺いの謝罪を待っちょっでな」
と歩みを止めない。
周囲が唖然とするか、目を背ける中、皇帝は大音声で
「戦場でヴラド公を狙撃した件、謝罪しに参った。
もっさけなか!!」
と言って全裸土下座をする。
(え? 戦場で敵を撃って謝罪?
なにそれ?
間違ってないだろ?)
近頃は増えた薩摩弁通訳(誤訳相当に多し)から意味を教えて貰った民衆がざわつき始める。
「又八郎、首はよう洗って来たか?」
義弘は全裸慣れしてるので、慌てない。
「はっ」
「殊勝じゃ。
言い残したか事は有っか?」
「脇差を」
「ほお? 腹でも切るからそいで許せとでも言うか?
そんなんで足りっか!!」
「いえ、男らしく無か振る舞いバした罰ごある。
こん男の一物を切り落としもんそ」
(は??????)
民衆も城兵もヴラド3世すら、何を言ってるのかよく分からず、ポカーンとした。
一瞬だが、島津義弘も唖然とする。
しかし、彼はその意味が分かってしまう。
「ならーーーーん、そいだけはならん!」
義弘は大慌てで止めた。
「おはん、亀寿との間に子はおらんじゃろ」
「無論」
「何が無論じゃ!
亀寿に子を産ませねば、俺いは兄サァに対し顔向けが出来ん。
又一郎を婿に出して早死にさせ、おはんまで死なせたら、俺いはどん面下げて兄サァに見えようぞ」
周囲の人間は全く理解が出来ない。
首を斬るつもり満々の人間が、早死には許さんとかどういう意味だ?
「薩摩の者は、首を斬っても腹を裂いても、しばらくは動き回れる」
(生きの良いニワトリと一緒かよ!!)
「じゃっどん、一物が無くなったら、どねいして子を作るんじゃ!」
(そういう意味か? そういう意味だったのか!?)
「首は斬ったら、柄杓の柄で繋げばそれで良か。
一物は何で繋いだら良かか、俺いは知らんど!」
(俺はこんな医学知識の奴に治療されたのかよ……)
城壁の上で話を聞いていたヴラドは、頭が痛くなった。
そして、このおかしなやり取りをさっさと終えたくなる。
「イェヒ2世よ、俺がお前が殺そうとしたヴラドだ。
一個貸しを作ろう。
俺は貴様を許してやる。
それで良いな。
良ければ、その粗末なモノを仕舞って、さっさと帰れ!
オーガは暫く俺の領地に滞在して貰うが、それで良いな」
要は義弘を暫く人質代わりにする事で、おかしなやり取りはお終いとしたのだ。
「又八郎」
「はっ」
「ヴラド殿の仰せじゃ、此度はそれで終わりにしよう。
じゃから、さっさと亀寿と子を作れ。
子が産まれたら、おはんの願い通り首も一物も刎ねてやっからな」
これで終わった。
島津義弘がワラキアの人質になったが、スパルタ島津の離反は防ぐ事が出来た。
皇帝が謝った事が全土に広まり、戦の機運は遠のく。
集まっていた兵たちは各地に帰って行った。
義弘がひとまず許した事で、薩摩人も「まあ、兵庫様が許したなら仕方なか」と家久を許す。
島津宗家分裂の危機は去った。
これは賭けだった。
自分には異常に厳しく、官職的な責任の取り方より肉体を痛めつけるのを重視し、息子だろうが命が異常に軽い義弘の弱点は、兄への義理と姪への負い目、そして島津家督の重要性だ。
自分が死ねば結局子なんて作れないのだが、それを口にすると臍を曲げて「じゃあ、五男の忠清を婿に出す」とか言いかねない。
そこで言葉少なに「一物を切り落とす」と言えば、それが何を意味するかを瞬時に悟る。
いわば、姪に子を産ませてやりたい、兄への義理を果たしたいという義弘の気持ちを人質に取ったハッタリであった。
家久は端から死ぬ気なんて無い。
相手の最も弱いとこをついたに過ぎない。
そして島津家久が父の義弘を理解していないように、
島津義弘もまた、息子の島津家久を理解していない。
家久の発想からすれば
(じゃあ、亀寿と子を作らなければ、俺いはずっと生きていけるな)
となるのだ。
かくして、亀寿は一層皇帝家久から冷遇される事になった。
ちなみに、家久が皇帝になった以上、当然就くべき皇后の座に、亀寿は就いていません。
それどころか
「養父、上皇陛下の病が治るよう、祈っとけ」
と修道院に押し込められています。
家久のデフォルトの行動です。




