S.P.Q.R:Satumanus Populus Que Romanus
※本当の意味
Senates :元老院
Populous :人民
Que
Romanus :ローマ
実際の表記は
Senatus Populusque Romanus
古代ローマの事。
島津家次期当主陸奥守忠恒と、現当主修理大夫義久の三女・亀寿との仲は、三人の父が気の毒に思う程悪かった。
実子が暮らすようになった帝都コンスタンティノープルには、偶に島津兵庫頭義弘が遊びに来る。
島津家では、錬金術奉行佐奈田余八の改良により、米焼酎と麦焼酎が極めて良質の蒸留酒に変わった。
今は蕎麦焼酎を開発中である。
この酒を持って、義弘は皇帝コンスタンティノス11世と一杯飲みに来る。
島津家とビザンツ帝国の関係は現状最良となっていた。
転移当時は、バルカン半島の徴税権を島津家が握って、それで薩摩飢饉と呼ばれる食糧危機を引き起こした。
今は、薩摩飢饉や戦乱で所有者が失われた土地を、島津家家士や一緒に転移した肥後者や日向者、更に島津家に味方したスパルタ等のギリシャ諸都市が領有し、戦乱で発生した流民を農奴として入れている。
徴税を逆に、計算やこの地の農作物について知っているビザンツ帝国やアテナイの官吏に任せ、領主はそれを受け取る。
官吏は帝国やアテナイ市が登録した者で、それを派遣し、領主と契約を結ばせて代官とする。
いつ刀を抜いて癇癪を爆発させるか分からない侍相手に悪事を働く者はそう多くないが、やはり契約問題とか年貢貢納でトラブルが発生する。
それを処理する法務官を、学が有る者を試した上で人種を問わず採用する。
このやり方は、アテナイで始めた島津忠恒の帝都入りからバルカン半島一帯に広がり、対岸のアナトリア半島沿岸部の島津領も含め、法理の学がある者はアテナイの専門学校に、経理の学がある者は帝都の官吏養成学校に進むようになる。
バルカン半島及びアナトリア半島とは異なる統治体制を取る地域もある。
シチリア島、ナポリ領、タラント、そして北アフリカ・ボン岬半島の南方サツマン連邦である。
マムルーク朝の内戦に際し、反乱したザーヒル・フシュカダムと手を組んだ伊集院忠棟は、内戦終結後にアレキサンドリアを返還すると共にマムルーク朝と正式に同盟を結ぶ。
やがて交渉して、海賊被害からシチリアを守る名目で、チュニジアのボン岬半島一帯を属領として得る。
そこに駐屯する伊集院家は、マムルーク朝やハフス朝と共に北アフリカ支配の一翼を担う。
イスラム勢力にしても、装備や兵力で見れば大した事は無いのに、戦うと異常な強さのシマンシュとは戦いたくない。
彼等の望みは食糧と航路の安全だけなので、ごく小さな領土の割譲を認めた。
伊集院家が居る事で、確かに海賊警備も出来るし、改めてシマンシュが北アフリカに侵略して来る事も無い。
ここが安全確保し、シチリアや最近ではナポリの麦といった農作物を本国に送れていれば、北アフリカは平和なのだ。
と、このように地中海中央部に進出したサツマン人たちは、本国に食糧を送る役目を担っているが、何にしても本国から遠い。
半独立で領国経営をしていて、周辺国と協調する為に宗教的には改宗をしている。
現地化していく彼等は、ただ薩摩や大隅国が出自である事だけが絆である為、養子を入れたり、婚姻したりで周辺国と独自の結び付きを強めている。
タラントはそんな南方サツマン連邦(薩州家、肝付家、伊集院家)の監視役であるが、ここの統治責任者は島津忠恒である為、今のところは特に口出しをせず、タラントもギリシャ式自治のまま、物資や船舶の集積地として栄えていた。
周辺では、相変わらずオスマン帝国に侵攻して来る白羊朝や黒羊朝との国境争いがあるし、薩州家や伊集院家による海賊との戦い、北方でのワラキア公との小競り合いがあるものの、三年は平和な日々が続いた。
ビザンツ帝国は往年の勢力を取り戻しつつある。
ビザンツ皇帝はサツマン人の嫡男たちを人質として確保しているが、どうもそれ無しでも、彼等は不思議と皇帝や貴族を立てて、国を乗っ取ろうとしない事が分かって来た。
人的交流も活発になり、銀を持ち始めたサツマン人との交易も盛んになる。
経済はジェノヴァ、ヴェネツィアが担当し、軍事はサツマニアが担当する。
皇帝も、スパルタオリンピックを後援し、久々に楽しい政治をし、民衆から喝采を浴びた。
大会が成功し、島津義弘・忠恒父子も皇帝に感謝の意を示した事で、皇帝の権威も更に高まる。
領土はバルカン半島一帯と南イタリア、アナトリア半島の沿岸部にシチリア島と北アフリカの一部。
まるでヘラクレイオス朝(ムハンマドがイスラム教を興した時期の王朝で、イスラム帝国と衝突するまではそこそこ良かった)当時くらいには、東ローマ帝国が戻ったような感じなのだ。
とりあえずビザンツ帝国に従うとしているワラキア、アルバニア、セルビアと、島津家の保護国であるオスマン帝国、そのオスマン帝国の属国クリミア・ハン国を計算すると、最盛期の一つであるマケドニア朝(最盛期の一つ)時代にも匹敵する。
そんな素晴らしい時期だけに、島津忠恒、亀寿夫妻の関係だけが、コンスタンティノス11世(亀寿の養父)、島津義久(忠恒の義父で亀寿の実父)、島津義弘(忠恒の実父)を悩ませていた。
島津歳久は、娘の寝所に婿養子・忠隣を放り投げると、娘の部屋を半座敷牢とし、夫婦が外出も出来ない状態を作って子作りに専念させた結果、嫡男菊丸の後に二人の男児(双子)、一人の女児が産まれた。
「もうこいで良か。
日置島津家はおはんに任せた」
歳久は分家日置島津家の家督一切を忠隣に譲り、自らは隠居、出家して晴蓑入道と名乗り始めた。
この出家に際し、カトリック、正教会ともに自分の宗派でと働きかけたが、歳久は無視して曹洞宗を貫き、最近は福昌寺で坐禅三昧の日々を送っている。
出水島津家でも、豊久とシャルロットの子が生まれている。
最初の男子・釈瑠々丸を抱いて、気が済んだのか、ジャンヌ・ダルクはロレーヌに帰って行った。
次男の琉偉丸妊娠時にはまたやって来るのだが。
豊久は相変わらず、バヤズィド2世と共に東方国境で戦っている。
「俺いは未だ父に及ばん」
と、白羊朝や黒羊朝相手の釣り野伏は度々失敗しているが、突撃して敵将の首を取る力は衰えない。
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安定期に入った転移後の島津家だが、甘く見ていない男がいた。
島津忠恒である。
彼は、ローマ・カトリックが東ローマ帝国復活を喜んでいないと知っている。
彼は彼で、コジモ・デ・メディチやフランチェスコ・スフォルツァといった者と親しくし、独自の情報網を持っていた。
教皇庁のナポリやシチリアへの浸透は凄まじい。
彼等は今や、ミドルネームに日本風官職でなく、洗礼名を使い始めている。
薩州家というより当主島津忠辰だが、彼はドン・ジュリアーノ・忠辰・シシリアン・シマンシュなんて名乗っている。
また、教皇庁はイベリア半島への関与を強めている。
イベリア半島には、キリスト教勢力のカスティーリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国が在って、国土復帰戦争を続けてイスラム教のナスル朝を追い詰めている。
その過程でキリスト教に改宗したイスラム教徒やユダヤ教徒が現れた。
彼等は見た目改宗しただけで、裏では元の宗教を守っていた。
それでも今までは黙認されていた。
最近、ローマ教皇庁のイベリア半島への関与が強まると、次第に彼等は疑われ始める。
キリスト教の支配が増している。
次第にキリスト教徒は先鋭化していき、己以外を認めなくなり出している。
問題は、それが聞く限りヨーロッパ最強のカスティーリャ、アラゴン、ポルトガルで起こりつつある事だ。
島津忠恒の目には、狂信的になったイスパニア連合諸国軍と、同胞よりも宗教を選んだナポリ肝付家、シチリア島津家が手を組んで、異教の島津本家を攻めに来る未来が映った。
平和ボケなんてしてはいられない。
ここで島津家の”親”世代の限界が見える。
義久は薩摩の武士と民が安定して暮らせるようになって満足している。
義弘は、己の望む戦が出来たらそれで十分だ。
数年後にワラキアとの休戦条約が切れる為、特に理由は無いが、思う存分戦が出来ると喜んでいる。
歳久は、あれだけ苦しんだ薩摩半島の窮乏化、地力低下、食糧不足がシチリアからの輸入と農政改革、金銀採掘による購入力増大で解決した為、安心して隠居生活に入った。
親世代が内篭りを始めたせいか、イスラム諸国の後ろ盾を得たせいか、最近は伊集院忠棟が島津家家老として政治に口出ししている。
島津分家である東郷、新納、伊集院、樺山、川上、北郷、喜入といった衆の合議政治だが、北アフリカ一帯に影響力を持つ伊集院忠棟が牛耳ろうとする姿が目につく。
ハンマメットからの書状指示じゃ不安なのか、交易も兼ねてしばしば本人がやって来て、義久と遊んだ後は、談合に参加する。
一向宗の信仰強化とか、逆布教とか、周辺の宗教の脅威に対抗したいのかもしれないが、悪目立ちして反感を買いかねない。
島津忠長、以久、新納忠元は反論するが、最近では勢力を背景に伊集院忠棟が意を押し通そうと傲慢になって来ている。
分家衆の統制が緩んで来ている。
(もしかしたら、島津の将来の不安を感じ取り、武器開発を促したり、自分だけが外征して他の者は可能な限り国内に留め置こうとした定門様(家久の戒名)だけが、俺いと同じような未来が見えていたやもしれん)
忠恒は亡き家久を密かに崇拝し始め、その遺志を継ごうと思い始める。
忠恒は、同じ若い世代の者たちと語り合い、準備を進めていた。
自分と同格の元肥後国人吉の大名相良長誠が、同じような危機感を覚えていた。
彼の場合もっと危惧は深刻で、ひとまず彼の元に纏った肥後者が、生活の安定と共に再び離散し始め、個々にキリスト教に改宗し出していた。
やがて肥後者は、自己立位置を失うのでは無いか?
ナポリ肝付家の兼三は、教皇ベッタリでキリスト教を大事にしている。
そのナポリ肝付家自立時に、彼等から離れて帰国していた兼篤は事態を不安視している。
宮之城島津家島津忠長嫡男の忠倍も帝都に詰めているが、宮之城家は全体的に島津家の弛緩を不安視している。
戦時態勢にあり、付け入る隙が無いのは出水島津家だけだ。
忠恒は同志や、弛緩とは縁遠い豊久らと相談し、島津家建て直しを考えていた。
そんな中、偶然が二つ重なる。
まず、伊集院忠棟が、久々に帝都に立ち寄り、忠恒に挨拶しに来るという。
その帝都で、皇帝が倒れた。
命は取り留めたが、中風のようで呂律が回らず、身体の自由が利かなくなった。
皇帝には三度目の結婚で生まれたヨハネスという男子が一人いるだけである。
忠恒は豊久に手紙を送り、密かに兵を送って貰う。
そして伊集院忠棟が到着した日、クーデターを起こす。
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今までのビザンツ帝国、島津家の良好な関係から、忠恒の挙兵は誰も予想出来なかった。
宿舎で伊集院忠棟は忠恒に斬り殺され、薩州家の人質である忠辰の妻子は相良長誠に殺される。
決起部隊は、騎士団駐屯地を先んじて抑え、傭兵部隊も動く前に制圧し、そして皇帝の病室に入る。
島津忠恒は皇帝に跪いて宣言する。
「陛下、この国と皇帝位を頂きもす。
俺いには必要ごわす。
俺いは陛下の養女の婿で、俺いには相続権が有りもす。
じゃっで安心なされ。
陛下は上皇とし、決して害しもはん。
どの道、動けぬ御身、ローマ教皇が策を弄されても、今迄のように太刀打ち出来ますまい。
ヨハネス皇子は、我が養子とし、帝位を継がせもす。
今は、島津の当主と東ローマ皇帝が一つとなり、迫り来る脅威に先んじて手を打たねばなりもはん。
悪い事にはならんで、譲位遊ばしますよう」
コンスタンティノス11世は拒否出来なかった。
手を打とうとにも既に手遅れである。
忠恒が皇帝自身と一族の身の安全を保障した。
皇帝としては素直に信じる他は無かった。
こうしてクーデターは成功し、東ローマ皇帝位に島津忠恒が就いた。
それと同時に、彼は名乗りを改めた。
「我は東ローマ皇帝イェヒ2世なるぞ」
「ハンニバルの再来」と崇められ、島津の将来を見据えていた叔父・家久の名を貰う。
ここに、Satumanus Populus Que Romania(サツマンとローマの民)、またはサツマン朝と呼ばれる帝国が誕生した。
旗印は丸に十字紋、その四隅にSPQR。
イェヒ2世こと皇帝家久の最初の命令は、北アフリカ・ハンマメットの伊集院家討伐であった。
おまけ:
省略したスパルタオリンピック結果
拳闘はブルゴーニュ公国が派遣したヴァロア兄弟が5階級で優勝。
5人の兄弟は、まるでカマイタチのような鋭い拳を放っていた。
レスリングはイングランドからやって来た「ロビンフッドの子孫」を名乗る鉄仮面が無差別級で優勝。
・円は直線を包む
・いなす時は柳の如く
・相手のパワーは最大限に利用せよ
という理詰めなレスリングに付け入る隙は無い。
長弓部門もイングランド圧倒的。
ただし短弓部門と騎射部門ではクリミア・ハン国の代表が優勝しまくり、
「サツマニアよ、参ったか!!」
と恨みの一部を晴らして帰っていく。
鷹狩もオスマン帝国とマムルーク朝が優勝で、
「イスラム教に有利なんじゃないか?」
と参加した騎士たちが不満を漏らす。
しかし、別に特定の国や地域に有利なルールは無し。
槍術で優勝候補のブルゴーニュ代表とフランス代表を破ったのは、ノーマークのスイス盟約者団という連中だった。
古代オリンピック復興の旗振り役、薩摩が活躍したのは甲冑水泳や駅伝(他は参加者無し)くらいである。
ほとんどが「反則負け」で、島津義弘は大笑いし、島津忠恒は苦虫を噛み潰した表情となっていた。
「拳闘で組み打ちしようとするな!
失敗した鷹をいじめるな!
得意の剣術で、何故目潰しの砂とか投げてあえて反則する?」
「そいは薩摩隼人だから仕方なか。
そいより又八、馬上競技がまるで振るわん。
俺いたちの馬術や馬は劣るんじゃなかか?」
「蹴鞠!
繋げば良いのに、何故奇抜な技に走るか!」
「……そいは又八、おはんの影響じゃろ」
ケマリ優勝はナポリ・ローマ・ミラノ・シチリア連合。
基本重視、体幹を鍛え、ガチガチに基礎技だけで失点をしない技法で相手の自滅を待つ。
立ち上げた忠恒は嬉しいやら薩摩が勝てず悔しいやら複雑だった。
おまけの2:
S.P.Q.R.のSが薩摩のSになると予想出来なかった人、申告して下さい!
Sは島津のSでも可です。
家久(忠恒)のドSのSという可能性も無きにしも非ず。
とりあえず、S.P.Q.R.のネタバラシを早くしたかったので、引っ張らず毎日更新にしました。
話のストックの関係から、また隔日更新に戻します。
次回は12日17時です。
※作者ラテン語の格変化はさっぱり分かりません。
間違いはガンガン指摘して下さい。
大スキピオの如く勉強します。




