スパルタの島津義弘
「モレアス専制公ち、何じゃ?
又六、教えったもんせ」
島津義弘は単にどんな国かを聞いただけである。
島津歳久は、この世界に転移してからの自分たちの立ち位置を知るべく、寝る間も惜しんで宣教師や、捕虜から情報を仕入れていた。
モレアス専制公とは、ビザンツ帝国の子分のようなもの、と義弘に説明する。
かつてこの世界一帯を支配していたローマ帝国が、その広さ故に皇帝一人の手に余り、最終的に東西に分裂した。
その片割れが東ローマ帝国で、旧地名からビザンツ帝国とも呼ばれる。
「足利将軍が京都と坂東に分かれて武家を纏め、坂東の方を鎌倉公方言うのと似てごわすの」
歳久は肯く。
似ている。
だからモレアス専制公の話も、足利将軍家に擬えてする事にした。
「我が国に南朝が在ったように、こん世界では西ローマじゃった地域と、東ローマは別物ごわす。
ある時、西ローマの方の大名に多くの土地を奪われもした。
そいでん、東ローマの帝は部下を出して、奪い返させたばってん、その部下が自立してもした。
左様、懷良親王に奪われた鎮西を奪い返すべく今川了俊を出したら、今川了俊が自立したち事っじゃ」
「分かった。
モレアス専制公とは今川了俊か。
そいでそん子らぁが喧嘩おっ始めたとじゃな」
「うむ」
背後関係から分かった島津義弘は、兄の命に従ってペロポネソス半島を南下する。
今回は乱取り(略奪)はしない。
援軍要請な為、全てをディミドリオス・パレオロゴスに出させている。
……もし必要な食糧や物資を出さないと現地調達すると言われた為、ディミドリオスも必死に補給した。
悪名も使い方次第である。
ディミドリオスは、元々親オスマン帝国のカトリック嫌いであった。
東ローマの後裔国家には、こういうカトリック嫌いは多い。
あの四角い司祭帽を見るくらいなら、イスラム教のターバンの方がマシとまで言う。
共同統治者のソマス・パレオロゴスは逆に親カトリックであり、東西のキリスト教の合一、それも西主導を認めていた。
先日、オスマン帝国スルタンのメフメト2世が、謎の勢力に側近、大臣諸共討ち取られる事件が起きた。
これをソマスと彼を支持する貴族たちは見逃さず、後ろ盾を失ったディミドリオスに宣戦布告したのだ。
この時、謎の勢力こと島津家は、旧ギリシャ世界に支配圏を拡めていた。
島津忠長と伊集院忠棟が一万程の兵を率いてセルビアと呼ばれる地を攻める。
島津義弘と歳久は五千程の兵で、ギリシャ北部、かつてのマケドニアやテッサリアと言われた地方に進出する。
そして島津家久・忠豊父子はボスポラス海峡を渡り、アナトリア半島に陣を張り、その地の様子を探る。
「もし、我々に攻め取られる前に、自ら島津家に下るなら、自治を認める。
税は今回のみ収穫の半分とし、以降は従来と同じ、そして人頭税は取らない。
返事が遅れたら、攻め取って島津直轄領とし、ブルガリアと同じ税制とする」
この布告を出したのは島津歳久である。
ブルガリアの「反乱する気力まで奪われる」苛政の噂はバルカン半島南部には広まっていて、オスマン帝国支配下の旧ギリシャ都市は競って島津家に帰順した。
歳久は約束を守り、ギリシャ諸都市の自治を認め、更に軍役に応じるなら税の更なる引き下げを告げた為、諸都市は喜んだ。
歳久にしたら、隣接するブルガリアはいくらでも搾取出来るが、比較的遠い地域は無理を言うより、属国化した方が統治しやすい、それだけの話なのだが。
この一度だけ収穫の半分を取り、代わりに掠奪はしないというやり方も、日本でやっていた半済を応用しただけである(半分にする対象は違うが)。
こうして隣接するようになった島津家に、ディミドリオスは援軍を求めた。
島津義久は、領土の一部割譲を条件に援軍を出す。
その援軍に、腹違いの弟・家久にばかり手柄を立てられ不満な次兄・義弘が名乗りを挙げたという訳だ。
島津義弘率いる五百の軍勢は、ディミドリオス軍と合流し、ソマス軍と対峙する。
合戦において、義弘の陣に居た薬丸兼成と東郷重位という男の活躍は見事であった。
この時期の欧州は、基本傭兵頼みの戦争である。
必要な時に兵を募る。
十年程前に、フランス王国のリュッシモン大元帥が常備軍を作り、軍事力を強化したのが特徴的である。
国民軍というのは、概念すら無い。
いや、かつてはこのギリシャとローマで存在したのだが、廃れてしまった。
そんな中に、国民皆狂兵な薩摩が転移した訳で、舐めてかかったメフメト2世を始め、勝てない訳である。
数でも質でも士気でも金で雇われた傭兵とは差が有る。
そして狂気は比べ物にならない。
薬丸と東郷は、長大な刀、野太刀とか大太刀とか言うものを天高く振り上げ、狂ったような喚き声を上げながら突っ込んで来る。
東郷はタイ捨流という剣術を学んだ。
「タイ」は体、態、待、対と様々に解釈させるよう、漢字にしなかった。
故に、命を顧みず、相手の動きを待たず、如何なる態勢からでも、相手と対峙すらせず、只管叫びながら斬りまくる。
斬りまくる。
斬りまくる。
硬い鎧でも力で破壊する。
野太刀や太刀が折れたら、敵の持つ長剣を奪い、それで戦えば良い。
極端な話、棒きれでも人を殺せる剛剣なので、得物を選ばない。
「やってられない。
こんな狂人と戦うには、俺の給金は安過ぎる」
傭兵たちは、同僚の首が宙に飛ぶのを見て、迫る不愉快な叫び声を聞いて、全身を朱に染めながら疲れる様子も見せずに走り回る悪鬼を見て、戦意を失った。
更に島津義弘の指揮も冴え、ソマス軍を蹴散らす。
「どいが大将首ごわんどか?」
ズラリ並んだ生首の列を見せられ、ディミドリオスは吐き気を催す。
その中に、敵対したとは言え、弟の首を見た時は流石に居た堪れなかった。
大体、ソマスの首は単体ではなく、袈裟懸けに斬られた為に、まだ右胸と右手が繋がっていた。
(この矮小どもが、どうやって馬上の鎧を纏った騎士をこんな風に破壊出来るのか?)
短躯ながら、何度も何度も刀を振って鍛えた武士の膂力は桁外れである。
常識で考えてはいけない、感じるのだ。
(こんなに貴族たちを殺したら、私の支配にも影響が出るではないか!)
援軍を頼んだ立場だから文句は言えないが、ディミドリオスは領内の貴族の半数が首になった事に頭を痛めた。
降伏したら捕虜とし、身代金を得て解放すれば良い。
だがこの蛮人たちは、言葉が通じない。
それ以上に、言葉が通じないのを口実に、首を狩る事を楽しんでいるようにも見える。
噂に聞くサツマン人の恐ろしさを何となく飲み込む。
そして、現実から目を背けながら、援軍の将に鷹揚に告げた。
「其方を共同統治者とし、ミュケナイ公の称号を授ける」
称号と名誉で、実際には土地を与えないつもりであった。
だが眼前の将は首を振り
「こん地は貴方様が治めなされ。
俺いはスパルタとか言う町が欲しか」
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出陣より前に、島津義弘は弟から興味深い話を聞いていた。
かつてこの地には、300人という寡兵で10万の大軍を食い止めた都市国家が在った事。
その都市では、男児は七歳にして母親から切り離され、軍事教育を受ける。
男子は十三歳になると、一人で郊外に短剣一振りを持たされるだけで追い出され、一年間人を殺し、物資を奪いながら生き延びる事を強要される。
「素晴らしか! 薩摩にも取り入れたかど!」
「……やめたもんせ。
俺いは、こん薩摩より強烈な国が海の彼方にはまだ在ったかと、頭バ打たれた思いごした。
じゃっど、流石ん薩摩でん、こん教育は無理たい」
「やってみんば、分からんじゃろ」
(兄サァは血の気バ多か薩摩っぽを、更に獣ん如くしたかとか?)
こんな都市に期待していた義弘はスパルタを所望した。
ディミドリオスは現状を知っている。
内心笑いながら
「よろしい。
其方をスパルタ公に任じ、統治権を与える」
と宣告した。
この時期、スパルタという町は既に無い。
と言うより、古来自らスパルタと名乗った都市そのものが無い。
古代の彼等は自らの都市を「ラケダイモン」と称し、現在は古代名に因んだラケデモニアと呼んでいた。
しかもキリスト教正教会の府主教の治める地となっていた。
古代スパルタ教育の名残り等何処にも無い。
そんな土地を得た義弘は、最初は落ち込んだものの、すぐに古のスパルタ教育を復活させる。
昔程は厳しくないが、郷中という少年組織を作って親から自立させ、二歳(青年)を混ぜて教育し、絶えず軍事訓練を課した。
薬丸兼成は、自分が得意とする野太刀操法を改良する。
戦闘用の戦斧を知った薬丸は、それを天高く掲げ、気合と共に叩き下ろす必殺の闘法をスパルタ人たちに叩き込む。
「何度も何度も叩き込む事じゃ。
馬の首が邪魔なら、馬の首ごと敵の首を叩き斬る。
煮炊きする薪を割る際に、一人でも修練可能じゃ。
何度でん、何度でん、修業すっとじゃ!」
さらに薬丸は、日々の生活と訓練を統一した。
薪を切る時も、農具で土を耕す時も、全てを修業に繋げた。
この猿叫を上げながら真っ向振り下ろす命知らずの戦斧術は、後にスパルタの外部にも拡がり、バルカン自顕流と呼ばれるようになる。
古代スパルタでは軍人に成れない赤子は殺されたが、義弘は殺さず、税率九割で許した。
代わりに戦士となれる男児を育てた家は税を免除とした。
男子を3人以上産んだ家は、遡ってその母親を産んだ家をも讃えた。
スパルタおごじょと呼ばれる女傑には、この時代では珍しく村落自治への参政権が与えられる。
また、討ち死にや負傷退役には家庭に年金、無事退役なら上士として逆に禄高と政治への関与権を与えられる。
これにより、キリスト教的な農村都市は、徐々にだが戦闘民族国家に先祖返りを始める。
やがて先祖返りを果たしたスパルタ人は、島津義弘と共に暴れ回る事になるが、それは十数年後の話。
この地の統治について、島津宗家の承認も得られる。
ここにスパルタ島津家が誕生した。




