島津海軍の戦い
シチリア島カターニャに拠点を置いた島津薩州家は、独立心や宗家に対する意地こそ強いが、他は島津の中ではまともな類だった為、領国経営は上手くやっていた。
元々薩州家の本領は三万二千石に過ぎず、宗家のような無茶な支配も出来ない。
薩摩時代から自分を殺して周囲と上手く付き合ってもいた。
だからこそ鬱屈も溜まったし、それが後ろめたさとなり、宗教が入り込む余地ともなった。
それでも、バルカン半島東部の薩摩本国から遠く離れた土地で、キリスト教国に囲まれている以上、改宗するのは悪い手ではない。
半独立とは言え、ヨーロッパの中の孤独な薩摩人であり、同胞と敵対もしたくない。
意地を張りつつも、米や特産物を優先的に薩摩本国に送っている。
あまり儲けにならないこの海運は、島津忠恒が治めるアテナイ人が行っていた。
ギリシャは、コリントス地峡を境界に、西のスパルタ地域を島津義弘が、東のアテナイ地域を息子の島津忠恒が治めている。
奴隷制大規模農園のスパルタ地域に対し、ノリが全く違うアテナイ人を支配する忠恒は
「商業を自由にさせ、海軍力を提供させるから、年貢は免除して欲しい。
代わりに運上銭を納める」
と義久に提案して認めさせ、住民の支持を得た。
代官として任されたイタリア半島南部のタラントも、元々アテナイ人の通商圏。
島津家久暗殺に関わった疑いを持たれている薩州家やナポリの肝付家だったが、忠恒はまるで無かったかのように彼等と接し、アテナイ人を通じて沿岸交易をさせていた。
(器量人だ! 二歳ながら中々の男よ)
そう高く評価していた、とりあえず今の所は。
その忠恒がアテナイ海軍を率いてシチリアに駆け付けた。
ナポリからも肝付の水軍が来ている。
シチリアには家久の置き土産とも言える、イスパニア連合から鹵獲したガレー船部隊がいる。
これで海戦を挑む。
(しかし、斬込跳橋だらけだな)
忠恒がアテナイ海軍に造らせた船は、簡易型(方向転換の出来ない固定式)も含めて4基のコルウスが搭載されている。
斬り込み大好き薩摩人仕様のガレー船であり、コルウスを考えた古代ローマ人もビックリするだろう。
だが、実戦は上手くいかなかった。
島津艦隊は停泊し、沿岸の村を寇掠中のマグリブ海賊を発見する。
だが、海賊もまた沖合の艦隊を見つけ、上陸部隊を収容して抜錨。
両艦隊はトラパニ沖でぶつかる。
斬込羽橋を古代ローマでは艦首に一基しか積まなかったのは、重いからだ。
古代ローマ自体、海戦に慣れて来ると、重くて邪魔だから取り外している。
大体、コルウスの積み過ぎで人員が減るという本末転倒な事が起きていた。
海軍の素人・島津家の新造艦隊は動きが鈍重で、逆に海賊艦隊から接舷攻撃を受ける。
マグリブ海賊は湾刀を振り回し、接近戦に強い。
日本刀の島津武士と中々良い勝負である。
軍船は、海賊艦隊の衝角攻撃で傷つき、不利と見た海賊船が一旦離れたなら追撃出来ない。
こうして海賊船の一撃離脱攻撃に島津軍は苦しむ。
焦れた薩摩軍は、本来敵船を破壊する斧や木槌で、重くて邪魔なコルウスをぶっ壊して海に捨てる。
だが、転換点は意外なとこから発生する。
とある島津武士が、敵を抱き抱えたまま海に落ちる。
暫くして、その武士は敵の首を持って浮き上がり、叫んだ。
「此奴等、泳げんど!!」
北アフリカ・マグリブの住民は、泳げない事はない。
しかし、武器を持ち、甲冑まではいかずとも防御装備を纏って泳ぐ訓練等していない。
甲冑水練等と変態な軍事訓練をする国等、そう多くは無い。
勝ち目を見出した薩摩人の目の色が変わった。
熊手や投げ縄等で海賊の体を絡めると、共に海に飛び込む。
短刀をくわえ、甲冑を脱ぐと、軽くなった身体で八艘跳びをして敵船に乗り移ったりし、敵を捕まえては海に引きずり込む。
コルウスを積んでいた大型船でなく、手漕ぎの小型船から棒を振り回して相手を海に叩き落とそうとする。
先程壊して海に捨てたコルウスの残骸が、いい具合に海賊船の足を止めたり、薩摩人が乗る足場になったりしている。
相手が海に落ちたら、兵たちは潜水し、足を引っ張って海中勝負をかける。
このサツマンだらけの水泳大会は、海賊たちが首をポロリして終わる。
「衝角に跳橋、接舷斬り込み、焼き玉や鉄球の投擲、ギリシャ火や油壺による焼討ち、海戦に様々な形はあったが、海中で白兵戦やる連中は初めて見た」
援軍に来ていたビザンツ帝国艦隊を率いるルカス・ノタラス大公は呆れていた。
島津家では、多数の接舷橋や板を渡して大量に斬り込みをかける「海上チェスト」とか、投擲機に人間を乗せて飛ばす「強制八艘跳び」とか、接舷時に火薬樽を背負った兵士が飛び移る「爆弾勇士」とか、コルウスに刃物を付けて敵船を切断する「船のタイ捨流」等様々な海戦技を試そうとしたのだが、奇抜な戦い方は古来より確立された正統的な戦い方に勝てなかったのだ。
その為、たった一つ勝っている水泳技術での戦いに持ち込んだから勝っただけで、島津の将たちには喜べるものでは無い。
この苛立ちは、マグリブ海賊の拠点に殴り込みを掛けた時に爆発した。
マグリブ海賊と言っても、飢えた漁民や痩せた土地の農民が食う為にやっているだけで、城や砦等は無い。
漁村、農村に押し寄せたのは、北アフリカのアラブ人やヌビア人、マグリブ人が思わず「蛮族だ!」と感じる、殺気立った謎の民族である。
「焼き討ちじゃ!」
「根切りじゃ!」
「女、子供、犬猫に至るまで生かしておくな!」
「首は要らん! 打ち捨てよ!」
島津忠恒は、ギリシャ人たちから名宰相と敬われる一方、かつての戦いの苛烈さから「死を司る神」の異名も受けている。
死は北アフリカの沿岸を、掠奪すらせず、虐殺と焼き討ちして回った。
忠恒にしてみれば、マグリブ海賊は島津から何の攻撃も受けていないのに、いきなり攻めて来た訳だから、報いを受けるのが当然と思っている。
バルカン半島の住民は圧政を敷かれ、ドイツやハンガリーの住民はソフィア郊外会戦で包囲殲滅され、クリミアやウクライナの農民は意味不明な略奪をされたから、島津を恨んでも仕方ない。
攻めて来たら迎え撃つが、理由については理解出来る。
情けを掛けて農奴化で許してやれよう。
だが、島津に非が無いのに向こうから攻めた場合、忠恒は島津家の誰よりも情け容赦しない。
蹴鞠を好み、和歌や茶の湯を嗜む面と、死の化身たる面、この二面性はまだ知られていない。
そのまま、ヨーロッパ世界で言うカルタゴ、実はもう破壊されてチュニスに拠点が移っていたのだが、忠恒はそのチュニスをも攻撃しようとする。
だが、その地を支配するハフス朝の王ウスマーンが謝罪を申し入れて来た為、忠恒はそれを受け入れた。
忠恒には、アテナイから連れて来た部隊だけで王朝と対決しても勝てないという計算が有り、情け容赦の無さや残虐さを計算で抑え込む事が出来る。
海賊の出た漁村だけを焼き払って、島津海軍は北アフリカを離れた。
北アフリカに「海の悪魔」は実在したと言う伝承を置き土産に……。
北アフリカには恐怖をもたらした忠恒だが、シチリアの島津忠辰やナポリの肝付兼三らの評価は違う。
「流石は大隅守殿(忠恒)、無闇に戦を拡大させずに切り上げもしたな」
「血気に逸らず、報いは確かに呉れる。
若いに似合わず出来人ごわすな」
称賛を受ける忠恒だが、反省点が多数有り、浮かれてはいない。
何より海軍力の不足。
弱い海賊相手ですら、思うように戦えなかった。
名将島津家久とは言え、その構想が必ずしも正しいとは限らない。
忠恒はもっと、アテナイやジェノヴァ、ヴェネツィア、ビザンツやオスマンの海軍軍人の意見を聞こうと決意した。
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そんな忠恒と入れ替わりに北アフリカに来た軍がある。
島津歳久率いる部隊である。
知将と名高い島津歳久は、オスマン帝国のシリア領を脅かすマムルーク朝に対し「囲魏救趙の計」を仕掛けた。
明国の遥か昔、古の中国の戦国時代、魏の将軍龐涓が趙を攻め、趙から救援を求められた斉の軍師孫臏は、直接趙に向かわず、敵の本国魏を攻めた。
龐涓は趙攻撃を諦め、魏に引き返す。
これが「魏を囲んで趙を救う」囲魏救趙の計である。
歳久はアレキサンドリアに上陸し、占領を宣言する。
アレキサンドリアはイスラム帝国マムルーク朝の支配都市とは言え、ジェノヴァやヴェネツィア商人が多く滞在している為、歳久は焼き討ち等しない。
だが、敵が経済都市を占領したと聞いたマムルーク朝スルタン、アシュラフ・イーナールは兵をシリアから呼び戻した。
つい最近、黒人奴隷の反乱である『ジャルバーンの乱』を鎮圧し、やっと訪れた勢力拡大の機会であった為、小癪な敵は叩き潰さねば気が済まなかった。
敵を釣り出した以上、島津歳久はアレキサンドリアを放棄を決める。
そのまま撤退しようとした歳久だったが、島津忠長が反対する。
一戦交えよう。
伊集院忠棟も戦いを主張した為、歳久も西ではなく東に軍を進める。
そして島津忠長は、それまでの不遇を晴らす活躍をする。
これまで他国衆を率いて思うように戦えず、ワラキアではヴラド3世に敗れ、アルバニアではスカンデルベグに勝てず、セルビアではジャンヌ・ダルクに翻弄された。
十字軍戦争終了後、暫く本拠地宮之城で兵を休め、この戦いに参加した。
手持ちの精兵だけだと兵力は二千人になる。
更にこの戦いで忠長は千二百人しか連れて来ていない。
その中の偵察部隊として百騎を率いてナイル川に向かった忠長は、渡河中のマムルーク朝軍1万を発見する。
忠長は百騎に対し攻撃を命じた。
渡河中を完全な奇襲を受けたマムルーク朝軍は、叩きのめされる。
アシュラフ・イーナールは、僅か百騎に自軍が撃破された報を聞くと卒倒してしまい、そのまま帰らぬ人となってしまった。
マムルーク朝のスルタン位は息子のムアイヤド・アフマドが継ぐが、それを良しとしない他のマムルーク軍人が反乱を起こす。
カイロに於いて内乱となったマムルーク朝は、シリア攻撃どころか、五千人程度の島津軍と戦う余裕も無くなった。
スルタンも反乱軍も島津歳久に停戦を申し込む。
「此度は図書殿(忠長)のお手柄じゃな」
歳久は素直に図書頭忠長を称賛し、マムルーク朝の停戦を受け入れて撤兵する事にした。
伊集院忠棟を再びアレキサンドリアに入れ、城代として三千の兵を預ける。
歳久と忠長はバルカン半島に撤退した。
まだ何処から敵が現れるか分からず、地中海の対岸に留まっていられない。
「掃部助殿(伊集院忠棟)も、無理をなさらないように。
マムルーク朝の後継争いが収まったら、大軍を向けてアレキサンドリアを奪還しに来っじゃろ。
そん時は無理をせず、街バ棄てやんせ。
戦うにせよ、退くにせよ、街を守る必要は無か。
明け渡した後の仔細は掃部助殿に任せもそう」
「では、後継争いが長引く事を願いもんそ。
此処は肥沃な土地じゃ。
米も採れっかもしれもはんな」
「確かにのお。
じゃっどん、此処は薩摩からは遠か。
もそっと水軍が強くならねば、維持は出来んじゃろの」
島津歳久もまた、海軍力の充実が大事という考えに到った。
(一方で敬虔な一向門徒である伊集院忠棟はエジプト本願寺を夢見た)
だが、島津家は海軍力を増強するより先に、マムルーク朝と同じ後継問題を抱える事になる。
「島津忠長」「泗川の戦い」で調べると、この人実際に百騎で一万を撃破してます。
島津はこんなのばっかりです。




