島津包囲網
島津家がかつて居た日本では、反信長包囲網というのが形成された。
それは足利義昭という中心があったり、武田信玄や上杉謙信、毛利輝元という頼みとなる戦力が有っての包囲網だった。
それでも織田信長によって、包囲網は各個撃破された。
転移から7年、薩摩による暴政で飢饉が起きたヨーロッパでは、薩摩への恨みが蓄積されていた。
王侯ではない。
彼等は「島津と関われば首を取られる」と恐れている。
例え「ハンニバルの再来」が死んだとしても、関わり合いになりたくない。
恨みが溜まっているのは、故郷から逃げ出さざるを得ない状況に追い込まれたバルカン半島の農民や、彼等が流民となって流れて来た事で迷惑を受けた周辺国民、そして当主は殺されるわ従者は農奴として奪われるわで散々な中欧の小領主たちである。
サツマン人の猛威がひと段落し、各地に兵を分散させていると知った為、故郷復帰の動きが起こる。
中世末期のヨーロッパ人は、フスの宗教改革で役人を庁舎から投げ下ろすように、大人しい聖人君子では無い。
サツマニアへの報復を掲げ、十字架を旗印にバルカン半島に民族移動規模で戻りつつあった。
一方東方では奇跡が起きていた。
キリスト教国トレビゾンド帝国皇帝ダヴィドが中立ちとなり、ティムール帝国、黒羊朝、白羊朝を一時停戦させると、クリミア・ハン国も加えた打倒オスマン帝国及びサツマニアの連合軍が作られたのだ。
出水滞在時の島津歳久が危険を感じ、ナポリ遠征中のバヤズィド皇子とイェニチェリをトルコに戻すよう頼んだオスマン帝国大宰相イスハク・パシャの危惧が、最悪の形となって顕れた。
更に家久存命中にシチリアを襲ったマグリブ海賊。
仲間を皆殺しにした島津家久の死を知った彼等は、恨みを晴らす為と、元来の窮乏からシチリアを略奪すべく動き出した。
更にエジプトのイスラム帝国マムルーク朝も薩摩同盟国オスマン帝国の領土のシリアやパレスチナを目指して動き始めた。
こういった勢力が有機的に連携を取ったなら、島津家は苦境に陥っただろう。
だが、彼等はたまたま同じ時期に動き出しただけで、お互いの存在すら知らなかった。
全てを赤塚休遺斎ら隠密の報せで知った島津家では対策を立てる。
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唐突だが、島津歳久はバルカン探題を解任された。
統治に失敗したからだ。
島津義弘と島津豊久は統治に失敗していない。
最初から統治等していないのだから。
根っからの軍司令官である彼等は、城に兵糧を納め、時々の軍事工事等で手伝ってくれたら、他に特に何も求めなかった。
家久の佐土原衆は城に駐屯するだけ、島津義弘は郷中教育でスパルタ人を訓練するだけで、難しい事はしていない。
島津歳久だけが、税収不足や穀物の生産性や農作物の向き不向きを知り、慌てて様々な手を打っていた。
そして、ほとんどが裏目に出た。
ジタバタすればする程、状況は悪化していった。
特に最近では肥後衆との関係が最悪である。
歳久は可能な限り冷静に、抜身の刃片手に話すのだが、意地っ張りの肥後衆は、言えば言う程反抗する。
肥後衆は自分たちの農業が上手くいっていないのを知ってる癖に、指摘されると意地を張る。
薩摩でただ一人危機感を持ってる歳久は
「三族皆殺しにされたく無ければ、俺いの指示に従えと、礼を尽くして言うちょるのに、何処が面白くなかで逆らいよるか!
年貢は二公一民で良かと、譲歩しちょるが、まだ不満か!」
背後に火縄着火状態の鉄砲足軽を並べてそう迫るが、肥後衆は
「不満しか無かばい!!」
と激昂する。
ついに島津義久が
「右衛門、俺いが悪かった。
おはん、内政は向いちょらん。
肥後衆の事は俺いに任せよ」
と歳久を解任した。
島津家には人質が居た。
肥後国人吉の大名相良家の藤千代、元服して相良長誠と名乗る者である。
転移時は僅か九歳で、今も十六歳でしか無いが、義久は肥後衆の多く入植したブルガリア中部に、東ローマ皇帝の任命という形で相良家を置いた。
薩州家よりも遥かに独立心旺盛な肥後衆の神輿となる為、ブルガリアが離反する危険もある。
だが、歳久では上手く行かない事と、何はともあれ同じ肥後国人ならば、薩摩人からの命令でないという形式にすれば、という事で賭けてみた。
賭けは成功した。
意地を張り通して島津歳久を解任させて溜飲を下げた事と、彼等も意地を張ってただけで自分たちが危機的な状況に在るのは分かっていたからだ。
ブルガリア相良家に肥後衆を結束させる事に成功させると、義久は家中で農政・財政の専門家を探す。
徴税方の下士・調所恒林と郡役人の迫田太次右衛門が抜擢され、農業指導や財務管理に当たる事になる。
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とりあえずブルガリアを安定させ、島津歳久を軍司令官に戻した島津家では軍議に入る。
敵は連携が取れていない。
しかし、こちらも早く命令を出さないと、スパルタ島津と出水島津は自分の判断で勝手に動いてしまう。
「案外それで良かかもしれん」
歳久が義久に意見を言う。
「北から迫る一揆勢は三十五万と聞き、あの箱車も持って来ておる。
そいは兵庫の兄上(義弘)に任せもんそ。
対処の仕方バ知っておりもそ。
東は出水の中務少輔(豊久)に任せもんそ。
こちらも二十万の兵と聞き及ぶ。
下手に枠に嵌めない方が良かかと。
回教徒とは、相対して戦うも、味方として戦うも、中務少輔は慣れておるで。
海賊には薩州家と肝付衆、それにタラントの又八郎(忠恒)に任せもそ。
三軍とも敵の支度が整わぬ内に、外で戦うべし。
内に入れてしまうと、近づいた敵同士が手を組む可能性がありもす。
我等持久戦をする余裕も無かで、速戦速決が肝要ごわす。
そん為にも、特に兵庫の兄と中務少輔は枠に嵌めないのが良か。
新しか相手、マムルークとやらは、この俺いが当たりもす。
図書頭殿(島津忠長)、掃部助殿(伊集院忠棟)、俺いの副将を務めてくれんか」
統治より生き生きとしている歳久である。
「一つ気になっとは、ワラキアのヴラド、アルバニアのスカンデルベグごわす。
あん連中まで攻めて来たら手に負えもはん」
「そこは俺いが何とかすっと」
歳久の危惧に対し、義久が請け負った。
こうして島津各軍に伝令が飛んだ。
余計な制約が無いのを義弘と豊久は喜び、一方面の大将を任せられた事をシチリア島津家当主忠辰は誇りとした。
島津義久は、ヴラドとスカンデルベグに対して島津家の味方をする、出来ないとしても中立を守るよう命じる勅を出すよう、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世に依頼する。
しかし、皇帝は島津の危機に自己を優越させようと、政略を仕掛けて来た。
島津家嫡男の久保を人質として帝都コンスタンティノープルに住まわせるよう命じて来た。
同様に人質を出せと、薩州家、肝付家にも伝え、さらに相良家には当主自ら帝都に住まわせるよう命じた。
代わりに、海軍戦力の不足している島津各軍に帝国艦隊を貸し出す、と。
(皇帝も食えない男じゃ)
義久は久保と娘の亀寿姫を帝都に送る一方で、半独立の薩州、肝付、相良家を説得せねばならなくなった。
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皇帝が政争を仕掛けて来た頃、ブルガリア北方では早速戦闘が始まる。
島津義弘率いるスパルタ軍。
それに薩摩本国よりの援軍新納忠元勢。
合計で一万にしかならない。
島津義弘は全軍に激を飛ばす。
「一人辺り三十五人倒せば勝てる!」
(そりゃそうだが)
とツッコミたい新納忠元を他所に、妙に盛り上がるスパルタ衆。
「スパルタの兵児よ!
おはんらの奴隷が山ほど居るど!
捕まえた分だけ、褒美で呉れてやる!」
かつては村の小さい教会で神に祈っていた10~18歳の少年も、薩摩にどっぷり浸かった7年を過ごせば、立派なスパルタン隼人に変わってしまう。
スパルタの兵士たちは舌舐めずりをし、欲望剥き出しの目で、近く農民一揆軍を見ていた。
「突撃!!」
義弘の命令で一万の軍が、35万の一揆軍に襲い掛かった。
一揆軍は望郷の念強く、士気も低くない。
密かにハンガリーのマーチャーシュ1世とワラキアのヴラド3世から武器の支援も受けていた。
だが、四六時中訓練しまくり、農場で働く農奴が欲しいなと飢えていたスパルタ軍相手では分が悪過ぎた。
相手は野獣の速度で襲い掛かり、首に縄を掛けて
「俺の奴隷じゃぁぁぁぁ!
家族が楽を出来るぞ!
死ぬまで働かせてやる!!」
と狂喜している。
島津への恨みを晴らす軍の筈が、スパルタ人には奴隷が家族子連れてやって来たようなもので、捕まえ放題取り放題であった。
やっと一揆軍は、自分たちは対等な敵ではなく、狼の群れの中の羊の集団、単なる奪い放題の戦利品なんだと気付くと、算を乱し北に向けて逃げ出した。
だが、北に逃げるよりはスパルタ人に捕まった方がマシだっただろう。
スパルタ人やマケドニア人、コリントス人、アルゴス人は島津義弘に積極的に味方した恩賞で、ブルガリア南部の農場を与えられていた。
バルカン半島最南端ギリシャ、そこからコリントス地峡を渡ったペロポネソス半島に生きる彼等は、代官を雇ってブルガリアの自領から徴税するが、雇われ代官はどんなに酷い「お代官様」な奴でもサツマンよりはずっとマシだし、少ない戦闘系ギリシャ人に対して与えた農場は広く、大規模農場で生産性が上昇した事で一人辺りの負担は軽くなっている。
(代わりに、スパルタン隼人の成人式である『短刀一振り渡すから、周辺に行って人一人殺して生き肝奪って来い』の標的にされても文句言えない)
つまり、奴隷に堕ちるとは言え、彼等は故郷に戻れるし、そこそこの生活に戻れたのである。
北に逃げた一揆軍約15万人は、ワラキア公に保護される。
だが
「貸した軍資金、食糧、武器の代金を払って頂こう」
と言われ、払えないと伝えると、ここでも有無を言わさず農奴にされた。
ワラキアも拡大した領土の割に人口が少なく、労働力が不足していたのだ。
ヴラド3世は
「シマンシュには義弘が居る。
家久が死んだとは言え、一揆軍等が勝てる筈無い」
と、最初から敗軍の弱みにつけ込んで奴隷にするつもりでいたのだった。
そして労働力の一部はハンガリーに売られる。
こうしてハンガリー、ワラキア、ブルガリア、ギリシャ辺りでは少数の地主が広大な土地と流民を吸収した農奴を持った「大規模農園」に進化していき、零細農家が多かった従来より生産効率が上がるようになった。
ようやく中欧、東欧に穀物が戻り、島津歳久の失政も無くなった為、薩摩飢饉は終わる事になる。
農奴争奪戦とは別に、小領主、つまり騎士階級の戦いもあった。
この武人同士の戦いで、新納忠元は名を上げた。
彼は名乗りを武蔵守に改めていた。
もう最近は、京都が無い事もあり、好き勝手に官位を僭称している。
新納武蔵守忠元は、この戦いで10個の首を取った。
新納勢全体でも一人辺り平均3個の首を取るも被害ほぼ無しという、恐ろしいキルレシオを叩き出す。
彼はこの戦い以降、鬼武蔵の二つ名で呼ばれるようになる。
この戦いは、丁度太陽暦の12月25日(未だに太陰暦と「天正」の年号を使っている島津家では特にどうでも良い日)に発生した為、世の人は
「血のクリスマス」
と呼ぶ。
そしてヨーロッパは三度サツマンの恐ろしさを知ったのである。
おまけ:
後にヨーロッパでは子供たちを躾る御伽話が生まれた。
「いいかい、子供たちよ。
良い子にしていたら、クリスマスの日には黒い法衣を纏った聖ニコラオス様が祝福のプレゼントをくれる。
だが悪い子だと、クリスマスの日に血で真っ赤に染まった服を着た薩摩十字がやって来て、袋に悪い子を入れて、何処かに運び去ってしまい、死ぬまで硫黄を掘らせられるんだ。
サツマン・クロスは他の妖怪と違って、銀の弾丸も十字架もニンニクも太陽の光も弱点にならない、恐ろしい妖怪なんだ。
悪い子の所にだけ、『首をよこせ!』ってやって来るんだ。
怖かったら、良い子にしてるんだよ」
サツマン・クロスの袋とは、戦場で風に靡く母衣の事であろう。
やがてプレゼントをくれるセント・ニコラオスと、赤い服を着て袋を持ったサツマン・クロスは、サンタクロースとして合流してしまう……。
丁度東ローマの領域での話であった。




