葬儀にて
時間をしばし遡る。
ローマ教皇カリストゥス3世は死の床に就いていた。
傍らには3人の身内が居る。
ロドリーゴ枢機卿と教会軍総司令官ペドロ・ルイスは妹イサベルの息子、ルイス・フアン・デ・ミーラ枢機卿は姉カタリーナの息子である。
ペドロ・ルイスが死の床の教皇に懺悔をする。
「其の方、一体何をしてのけた?」
「ナポリやシチリアのサツマン人に布教をするよう命じました」
「それは罪ではないな」
「その時に、悪しき者が居たら使いなさい、と”薬”を渡しました」
「”薬”とは?」
「その者が主の元に召される”薬”です」
「……誰に対しての”薬”なのか、私は知っているが、聞かないでおこう。
だが、私は彼の人が、主の御前に参る事を、今は望んでいないのだが、承知か?」
「知っております。
猊下は彼の人をも主の使徒にしたいとお考えでしょう。
ですが、それは無駄な努力かと思います。
彼の人は教えも救いも必要としておりません。
それどころか、いずれ布教の妨げとなるでしょう。
猊下の御恩で取り立てられた我等、実は長い事待てないのです。
彼の人が禍を為す前に、どうにかしたいのです」
「全て己が一存と申されるか。
では何も言うまい。
それで、その”薬”は使われたのか?」
「いまだ使われてはおりません。
しかし、いずれ使われるでしょう、サツマン人の使徒によって。
彼の人は改宗もしていない、異教徒ならまだしも神も悪魔も信じておらぬ化け物です故」
「其方は教会に対しては全ての責を負うと言った。
もう一つ聞く。
もし、か弱き子羊が”彼の人に禁じられた”薬”を用いた時、其方は彼等に代わりて主の御前で罪を背負う覚悟は有るのですか?」
「勿論です、猊下。
私めは常にか弱き者たちの罪を引き受ける覚悟で行動しています。
たとえ皇帝に対する軍事力が弱まったとしても、彼の人の力は不要です。
弱くなり不利益を被ったとしても、我が身一つで責任を負う事でしょう」
「では、未来に其方が渡した”薬”が使われ、魂が清められた時の事を前もって神に懺悔なさい。
全ての罪は許されるであろう」
彼等の家名はイスパニア読みではボルハ、イタリア読むではボルジア、イスパニアのバレンシアを発祥とする一族であり、秘伝の”薬”を有しているとも噂される。
そのイタリアにおける初代こそこの人、病床の教皇カリストゥス3世であった。
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キリスト教の司教らが島津忠辰にしたのは「許し」である。
島津忠辰は己の野心の根深さを知っていた。
宗家から離れたとこに居たい。
別に島津を裏切りたいのではない。
薩摩や島津から離れたら自分たちは根無し草になってしまう。
そういう恐怖も持っている。
当主はその弱みを家人に見せられない。
だからこそ、説教されるでもなく、慰められるでもなく、肯定して許してくれる存在が居ると脆かった。
だが、彼はその時点でキリスト教に改宗はしていない。
妻(島津義久の娘)や娘は徐々にキリスト教にのめり込んでいたが、男衆はそれ程でも無かった。
島津家久の死が様々なものを変えた。
薩州家は、家久という強力な軍事力の後ろ盾無くしてシチリアを統治しなければならない。
楽なのは「私には無理です、代わりの家臣を送って下さい」と宗家に頼む事だが、それは誇りが許さない。
薩摩の為に田畑を作り、米を送るという義務感も持っている。
だが家久がいないと、もしもイスパニアの連合軍が再度押し寄せて来たなら防げない。
それでも彼はシチリアを管理地ではなく、自領として統治したい。
その欲をキリスト教の司教は認めた。
人は誰でも欲深きものである、と。
一度許され、思考に方向性が出ると、後は速い。
自分たちでシチリアを守り、干渉を受けずに新田開発をすれば島津の為になる。
薩摩の為を思うなら、薩州家は遠隔地になった事もあり、独立させるべきなのだ。
こうしてシシリアン島津はシチリア島に根付こうとし、周辺国との付き合い上キリスト教に改宗する事になる。
それでも彼等は「我々は島津である」という誇りは捨てなかった。
薩州家が半独立勢力になった事で、己もと思う者も現れる。
ナポリ城代肝付兼寛である。
肝付氏もまた、もとは大隅国の領主であり、自立指向がどこかに眠っていた。
彼もまた島津義久に書状を送り、ナポリでの自立を宣言する。
肝付兼寛が大胆なのは、手勢だけでは広いナポリ領を護れない為、ナポリとサレルノ周辺を自領とし、北部のアドリア海沿いのアブルッツォをローマ教皇に寄進した。
他に、長靴のつま先部分、カラブレアをシシリアン島津に、タラントやブリンディジなどの港湾都市のあるサレント半島をスパルタ島津(ギリシャの対岸になる)に割譲した。
そしてミラノ公と同盟を結び、同盟の証としてラツィオの一部をミラノ公に献上する。
この動きについていけないとして、兼寛の弟・肝付兼篤は薩摩に帰り宗家に帰順する。
自らの意思で薩摩を離れたのではない者もいる。
ブルゴーニュ公国に婚礼の為に赴いた島津豊久に、急ぎ帰国の書状を出したが、届いていない。
手紙はジェノヴァ商船に託されたが、それを届ける事をジェノヴァの後ろ盾ミラノ公が止めたのだ。
フランチェスコ・スフォルツァにしたら、イタリアで家久が、ブルゴーニュで豊久が挟み撃つ形でフランスを睨んでくれたら都合が良かった。
だが家久は死んでしまった。
フランチェスコ・スフォルツァには大きな計算違いである。
せめてブルゴーニュ公国にはフランスを牽制したままでいて欲しく、それには島津豊久という猛将がブルゴーニュに居た方が都合が良い。
そこでジェノヴァ商船には、難破したとか、船荷を奪われたとして、なるべく島津豊久が帰国するのを遅らせるように手を打つ。
もっとも、島津豊久はフランチェスコ・スフォルツァの手に負える男で無い事が判明するのだが……。
フランチェスコ・スフォルツァは、島津家久の急死はローマ教皇関係者の仕業と見ている。
彼等にしたら、いくら強くても異教徒を頼りにするような体制ではよろしく無い。
家久を除き、シチリアの島津忠辰とナポリの肝付兼寛が家久の遺した強力な騎士や傭兵を持ったまま、キリスト教に帰依しそうになっているのは、教会軍総司令官スポレート公ペドロ・ルイスには丁度良いのだろう。
おそらくそうなるよう、思考誘導を仕向けたのだろう。
宗教とはその辺便利である。
「イェヒ公は死んだが、その兄であるスパルタ公オーガ・シマンシュも強い将軍と聞いた。
彼がタラントを領有したから、我々に味方してくれるなら心強いが、果たして……」
鬼島津は考えが読めないと、専らの評判なのだ。
騎士道精神溢れる人物とも聞くが、果てさて??
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、島津家久の死で最も得をした人物である。
ドイツを壊滅に追いやった悪魔が死に、相対的に皇帝の価値が上がった。
ハプスブルグ家の家の力を使って、島津によって衰退した家を吸収していっている。
そして家久の名に脅えて進まなかったイタリア政策もこれでどうにかなる。
だというのに、暗殺の主犯として名が挙がらないとこに、この人物の無能さが垣間見られる。
それでも、主体的に何かをせずとも、受動的にいるのに最大の利を貪るところが不気味であろう。
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西暦1458年12月、島津家久の葬儀が鹿児島大乗院で行われる。
結局、嫡男の島津豊久とは連絡が取れない。
次男の大久保忠仍が代行を務める。
この時、島津義久の命で養子先の姓から島津に復姓させられ、島津忠直もしくは元の島津忠仍を名乗る事になった。
(養父東郷重尚は薩摩転移直後に病死している)
不幸は重なる。
上井兼覚もまた、家久の手勢を率いて薩摩に引き揚げた後に死亡した。
毒殺を疑われたが、薬師や錬金術奉行佐奈田与八の見立てで過労によるものと判断された。
(錬金術師ヨハン・フォン・ブランデブルグ氏は、「然れば何でも出すべし」より然何出の姓を与えられたが、宛字を誰も読めなかった為、佐奈田もしくは真田と改められた)
葬儀はしめやかに行われた。
次兄島津義弘が啼く。
「あやつこそ俺いさえも使いこなしてくれる将にもなろうと、楽しみにしておったものを……」
(兵庫様、中務様には散々反発し、厭味を言っちょらんかったか?)
(島津家の愛情表現じゃ、分かれ!)
(そう言えば、中務様のお子も、拳や太刀で可愛がられていたからな)
葬儀が終わり、参列者にはお斎が振る舞われた。
その席上、島津義久が皆に語る。
「まずは我が弟、長策梅天大禅定門の葬儀に参列いただき忝う思いもす。
礼バ申し上げっとじゃ。
そいで、皆には今後の我等薩人の事について話がある。
我が弟、皆が愛してくれた定門は死んだ、何故だ?
如何に采配の良か者と言えど、一人で遠くにやってしもたのを俺いは悔やむ。
そして、島津の家にも問題が有っど。
戦に勝っている時は良か。
じゃっどん、戦が無く、田畑に出ている時に纏まりに欠ける。
祖父、日新斎(島津忠良)の頃に家督争いが起こり、父の伯囿(島津貴久)がどうにか纏めて今に至る。
薩州家にせよ肝付家にせよ、元々我等と同等の家柄であり、何かが有れば直ぐに綻びる。
だが、そいではいかん!
宗家の得として言うのでは無か。
我等纏まりを無くしては、個々にヨーロッパの化け物に食われんで。
俺いたちはワラキアのヴラドを化け物じゃ思うちょった。
じゃっどん、ヴラドはまだ日ノ本の武将に近か。
食わせ者はローマ教皇、ミラノ公、豪商メディチ家等イタリアに居る。
戦に強か定門(家久)と言えど、奴等と渡り合い、米を得る戦いを続けて、疲れて果てた。
こん島津を使いまくった者たちは、ぬくぬくと生き永らえておる!!」
薩摩隼人の頭では、今一つ伝わらなかった。
そこで義久は例える。
「定門(家久)は九郎判官義経公と思え。
そしてローマ教皇は後白河院。
我等が鎌倉の頼朝公の立場なれば、遠国で一人戦い、良い様に使われ、やがて死んでしもうたと思えば、定門(家久)が哀れじゃ」
「そうか! 中務様は院に良いように使われた九郎判官殿のようなものか!
己れ、院め、許さぬ!」
「そうか、御館様の言われた事が分かったど。
如何に名将の九郎判官と言えど、一人京にあっては運命を狂わされた。
そいだけじゃなか、木曾の冠者(木曾義仲)も、新宮十郎(源行家)も院に良いように弄ばれて死に追いやられた。
島津の御祖・頼朝公は武家を纏めて院と渡り合った。
そうじゃ、俺いたちは纏まらんといかんのじゃ!」
「そうじゃそうじゃ! いざ鎌倉たい!」
「うんにゃ、こん場合は後鳥羽院の謀反において、尼御台や執権殿が武家を纏めたのに近かろう」
「いずれにしても、纏まらずして食われてたまるか!」
「そうじゃ、チェスト!!」
「ナポリの事は良い教訓になった。
我等はもう切り崩されんぞ!」
「そうじゃ、チェスト・ナポリタンじゃ!」
「タンは何処から来たんじゃ?」
「語呂が良かけん、どうでも良か事じゃ!
議バ言うな」
「そいもそうじゃ!
チェスト・ナポリタン!」
「チェスト・ナポリタン!」
「ナポリの屈辱を忘れるな!」
「チェスト!!」
「チェスト!!」
意気上がる中、黙っていた三兄島津歳久が口を開いた。
「そいでも、このまま薩摩に固まっておると、我々は滅亡すんで」
一同が黙り込む。
歳久は持参した掛け軸を皆に披露する。
『薩人滅亡まであと三百と五十四日』
そして、肉片が散りばめられた、血で色付けされたかのような真っ赤なパスタが生まれる。
チェスト・ナポリタン!!




