第19話 楽園の守護者
「魔王様は、ずっと会議や勇者軍の相手、他の大宗教の魔王たちとの会合、治水工事の見直し、魔王城の警備の様子……など、とてもお忙しくていられます」
バルドルが、パレットと筆を置いて、俺たちの側に歩み寄る。
俺は、膝の上の、魔王の頬をそっと撫でた。
心なしか、目の下にはクマが浮き出ており、肌も水気がない。
初めて見たときはあんなに美形だと思っていたのに、その姿は、明らかに衰えていた。
「……バルドル。あなた、絵を描く気なんてなかったのね」
俺は、魔王を起こさないように、囁くように言う。
バルドルは、少しだけ、視線を宙に泳がせた。
「……最初は、本当に、絵でも始めようとして、色々なものを模写していました。僕は、戦闘狂でしたからね。勇者軍に、魔界に封印されてから、不思議なことに地上にいたときよりも、戦闘する機会が減ったのです」
バルドルは、俺にしなだれかかるように、そっと後ろから抱きしめてきた。
「皮肉ですね。魔界人たちは封印されて、一通りの治水工事を終えると、初めて平和を感じられたのです。今では、町の民などは、『魔王不要論』まで出てきているそうですよ」
クスクス、と、バルドルの笑う声が俺の耳を撫でる。
しかし、急に、バルドルは声を低くした。
「……何も知らない愚か者どもが。魔王様が、どれほど身と精神を削ってこの魔界都市を維持しているかも知らず……! 」
俺は、その硬質な声に、ぞくっと背中を怖気が走り抜けるのを感じる。
バルドル……この女は、戦闘狂であり、魔王の本物の信奉者だ。
そして、決して馬鹿ではない。
「地上に出たがっているのも、多くの民が望んでいることです。しかし、僕は見ました。地上は、楽園ではありません。今や、地上は2大勢力が争う戦場と化しています」
「……勇者はどっちに付いていると……? 」
俺がそう問うと、バルドルはそっと、自分の唇に手を当てる。
「どっちでも同じことです。勇者は、今は中立の立場にあり、やはり中立を保つ国家に保護されています。しかし、その中で中立を保つためには、膨大な軍事力が必要です。そのため、国家は勇者を保護するが、代わりに勇者は国家を守るためにその力を使わなくてはならない」
俺は、喉を鳴らして唾を飲み下した。
そんな、凄惨な場所に、峰岸は転生したのだ。
最初こそ、単純に「勇者の娘」という肩書きに惹かれて、峰岸を羨ましく思っていた俺だったが、徐々に、この魔界での何不自由ない生活が貴重なものに思えてきた。
「じゃあ……その勇者軍が魔界を攻めようとしているのは……? 」
「はっ! 当然です。魔王様の指揮により、魔界はもはや『地上の楽園』ではなく、『地下の楽園』です。自分たちの立場が弱くなったので、楽園に見える魔界が欲しくなったのですよ。全く、人間共というものは、『楽園は自らが作るもの』ではなく、『楽園は奪えば手に入るもの』だと思っています。……吐き気がする……! 」
「…………」
俺は、黙り込んでしまった。
元人間としては、非常に身につまされるものがあったのだ。
「魔王……お父様は……本当に良い為政者なのね……」
俺は、魔王のクマの跡を指先でなぞる。
これは、苦労と努力のたまものなのだ。
俺が魔王に感じているカリスマ性も、決して嘘ではなかった。
嘘ではなかったのだが、それが全てではなかった。
魔王は、本当の、楽園の守護者だ。
「……僕が絵を描き始めた時も、栽培所でフルーツを模写している僕を見て、魔王様がおっしゃったのです。『私を描いて欲しい』と。しかし、それは、休息を取るための口実でした。僕も、それを理解して、魔王様が安らげるように、こうして魔王様の絵を描く時間を取るようになったのです」
きっと、俺には考えもつかないほどの時間と、知恵と、体力を使って、魔王は『魔界を統べる者』でいられている。
そして、その重圧もまた、俺には考えもつかない。
「……お父様……」
俺は、そっと、魔王の、まぶたに隠されたブルーグレーの瞳を思い、手で彼の視界を塞いだ。
少しでも、快適に眠って欲しい、と思ったのだった。
「……ニーニア姫。僕はあなたの剣ではあるけれど、あなたには、魔王様の一番の理解者であり、唯一の血縁者として寄り添う人であって欲しい」
「……お母様? そうよ、お母様は、どこにいるの? お父様がいるのなら、お母様もいるはずだわ」
ぱっと顔を上げて、そう言うと、バルドルは俺にもたれかかっていた体を起こす。
「ニーニア姫、あなたの母親は、未だにわかっていません」
「え……? 」
「一番古株のジョクトが言うには、『知らぬ方が良い事実もあるのだ』だそうです。それ以上、誰がどう聞いても、また、魔王様自身も、その話題は好まないので、誰も口にしません。だから、魔王様の近親者は、ニーニア姫、あなただけなのです」
俺は、とんでもない試験を受ける前日のような、吐き気とプレッシャーを感じ始めていた。
俺は、俺は、とんでもない人の元に転生したのではないだろうか?
知らずのうちに、カタカタと震える体を、俺は自分自身でそっと抱きしめた。




