5.黄土色
リブラは一人、遠くを見つめて座り込んでいた。
凍った球体と溶けた白い球体は、オリオと出会った場所に置いてきていた。オリオが去った後、少年はその場所にいるのが耐えられなくなり、青い球体だけを拾って移動した。段々と歩調が遅くなっては座り込み、しばらく休んではまた歩くのを何度か繰り返して、彼はずいぶん前に今いる場所にたどり着いた。
リブラがそこに座っている間、いくつかの球体が彼の側を通り過ぎていった。手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいてきたものもあったが、少年はそちらの方を見ようともしなかった。彼はむしろ球体たちが見えないように、ずっとひざの間の暗闇を覗き込んでいた。彼は時々思い出したように青色の球体をポケットから取り出し、手で包んだり、胸元に入れてみたりした。しかしそれは相変わらず、冷たく角張っているままだった。
リブラは白い球体が溶けた時のことをよく覚えていなかった。その時のことを思い出そうとしたが、球体の中の一面真っ白になった景色を思い浮かべると、ひどいめまいがした。彼は諦めて、もう一度球体をポケットにしまい込み、さらに背中を丸めた。
リブラはしばらくの間、座ったまま眠りこんだり意識を取り戻したりを繰り返していた。やがて、うとうととした意識の中に、ゆっくりとしたリズムで何かを引きずるような音が聞こえてきた。
少年は相変わらずうつむいたまま、身動きしようとしなかった。彼はもう、何もかもがどうでもよく感じていた。音は段々とリブラの方へ近づいてきて、彼の正面まで来て止まった。しばらく待っても、それが動く気配はない。痺れを切らしたリブラがうっすらと目を開けると、彼の目の前の暗闇がほのかな茶色の光で照らされていた。
「どうしたんだい? 具合でも悪いのかい?」
少年の頭上からゆっくりとした声が降ってきた。その響きは温かく、一言一言が耳から沁み込んでくるような感覚がした。リブラは少し頭が軽くなったような気がして、ゆっくりと顔を上げた。
そこには腰の曲がった老女が立っていた。彼女の顔には幾筋もの深いしわが刻まれ、腰の下まで伸びた白い髪と、白い着物がゆったりと垂れていた。彼女の胸あたりの高さには、黄土色をした球体がふわふわと漂っていた。
「私はカッセと呼ばれている者だ。あんた、時々その辺りを駆け回っていた子だろう。あんまり元気だったから、よく覚えているよ。」
球体の光に照らされた老女の顔は、目尻や口元に穏やかな笑みを浮かべていた。カッセの瞳は優しい光をたたえ、また同時にしっかりとした眼差しでリブラの顔をとらえていた。彼女は心地よい抑揚をもった声で続けた。
「今は元気がないみたいだねえ。何かあったのかい?」
「……なんだか、もう何もしたくないんだ……何をしたらいいのか、分からなくなって……」
リブラは無意識のうちに口を開いていた。彼の声は力なくかすれ、全部言い終わらないうちに目と鼻の奥が熱くなった。リブラは慌てて下を向き、溢れそうになった何かをやっと堪えた。
「そうかい……それなら、ひとまず楽しいことをしたらどうだい? あんた、これを追いかけるのが好きだっただろう。」
カッセは黄土色の球体の方へ手を伸ばし、愛おしいものをなでるように光に手をかざした。リブラは目をぎゅっとつぶって顔を背けた。
「今は見たくない……前は好きだったけど、今はそれを見るのが怖いんだ……」
カッセはふうん、と鼻を鳴らした。彼女は縮こまっている少年をしげしげと眺め回した。
突然、老女がリブラの隣にどっかりと座り込んだ。リブラは驚いて体をのけぞらせた。彼女は少年の方に目を向けようともせず、ゆったりとした声で言った。
「これは私のお気に入りの“泡”でねぇ。もうずっと長いこと後をついて来ているのさ。これがちょうど止まりそうだから、私もここで見ることにするよ。あんたは見たくなければあっちを向いていたらいいさ。」
カッセは球体の方へ身を乗り出して、中の様子を覗き始めた。リブラはまたもとのようにひざの間を覗き込んだ。カッセは彼に構うことなく、ふふん、ほう、と声を上げて球体の中を見つめている。リブラは彼女の声を聞きながら、再び眠気が戻ってくるのを感じていた。
少年がふと気づくと、いつの間にか老女の声が途切れて沈黙が訪れている。リブラはつい振り返って、彼女とその向こう側にある球体の方へ目を向けた。カッセは先ほどと同じようにそこに座り、リブラの方を覗き込んでいた。彼女は微笑んで、球体が少年に見えるように体を少し動かした。
リブラは黄土色の中に動くものを見つけ、首をぐっと伸ばした――
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黄土色のこじんまりとした部屋があった。その中には大きな椅子と、それに深く腰掛ける一人の男と、彼の正面にある壁を埋め尽くす大きな画面だけがあった。男は傾けた椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じて眠っているようだった。
徐に画面が明るくなり、穏やかな音楽が流れ始めた。それと同時に部屋の照明が点き、椅子の背もたれが自動的に起こされた。男は薄目を開けて伸びをした。
男があくびをしながら椅子のひじ掛けについているボタンを押すと、彼の左側にある壁がぱかりと開き、大きな透明の箱が現れた。彼が少し腰を浮かせると、背もたれの裏側から金属製の腕と透明の膜が飛び出した。膜は一瞬で椅子全体を覆い、腕は自然な動きで男が身に着けている布を取り去った。
椅子が男を乗せたまま透明の箱の中へ入ると、その天井から温かい水と湯気が噴き出した。椅子の腕が忙しく動き回り、少しすると今度は温かい風が箱の中に吹き付ける。男がわずか一呼吸ほどの間で箱から出てくると、腕はどこからか取り出してきた新しい布を彼にまとわせた。
男は反対側のひじ掛けについているボタンを二つ押した。今度は彼の右側にある壁がぱかりと開き、湯気の立つ料理が数品現れた。また同時に正面の画面が点滅し、一面の鮮やかな色をした花の映像で埋め尽くされた。
彼がボタンの横のつまみをひねると、涼しげな林の木陰や、波が打ち寄せる砂浜、細長い乗り物の窓を流れていく風景など、次々と場面が移り変わった。男は山の頂上から野原を見下ろす風景になったところで映像を止め、スープの器を持ち上げてすすった。画面内の木がそよぐ様子に合わせて、部屋の中にも穏やかな風が吹き始めた。
一つ上の階の部屋にも、男が一人住んでいた。その部屋は階下のものと全く同じ大きさで、全く同じ椅子と画面が置かれていた。彼はじっと椅子に座って画面を見つめていた。
画面には、たくさんの人が一列に並んでいる様子が映っていた。彼らは一方向に流れていく床の両側に並び、同じ形をした無数の小さな機械を順番に組み立てていた。映像は白黒で時折乱れたり止まったりした。男は前のめりになり、食い入るようにそれを見つめていた。
またある所では、若い女性と高齢の女性が隣り合った部屋に住んでいた。二人は目の前の画面に映ったお互いに向かって会話をしていた。
「お母さん、最近はどうしてるの? ちゃんと毎日検診プログラムを受けてる?」
「ちゃんとやってるよ。お前こそ、毎日栄養のあるものを食べてるかい?」
彼女たちは画面の向こう側とこちら側で、また同じ様子をした黄土色の部屋に座ってそれぞれ一人でしゃべっている。若い女性が画面の端に映っている衣服の絵に触れると、高齢の女性が座る椅子の下から厚手のセーターが現れた。高齢の女性が同じように画面の料理の絵に触れると、若い女性の椅子から野菜が大盛りになった皿が飛び出した。二人はそれぞれに贈られたものを手に取り、画面越しに笑いあった。
その隣の部屋も、また隣の部屋も、同じように一人が過ごしている部屋が集まって高層建てのビルとなっていた。辺りにはまたいくつものビルがあり、数えきれないほどの小さな部屋があった。地上の道路では荷物を載せた無人の車が行きかっているが、人は一人も見当たらない。建物の間に張り巡らされた筒の中には荷物を移動させる小さな箱が行き来しているが、ここにも人影は見当たらない。
見渡す限り、人が存在しているのは小さな黄土色の部屋の中だけだった。そこが彼らの世界の全てであるようだった。
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「……みんな、一人だ」
リブラは小さく呟き、顔をあげてカッセの方を見た。彼女は相変わらず満足そうに黄土色の世界を見つめている。少年は老女に問いかけた。
「これがお気に入りなの? 便利だけど……寂しそうだ」
カッセは少年に笑いかけ、また愛でるような手つきで球体に手をかざした。彼女は、ずっと遠くの方を見るような目つきで球体を見つめて言った。
「この“泡”は、ずっとこんな調子だったわけじゃないんだよ。……このくすんだ色になる前にはいろんな時期があってね。大きな者から小さい者までみんな働いて、緑色の平野に建物を作ったり。誰もかれもが争って、真っ赤な炎が絶えなかった時もあった。……今はとても穏やかな時なんだ。この中の者にとっちゃ、これはこれで幸せだろうよ。」
カッセは熱のこもった目で、それらのことが今目の前で起こっているかのように話した。リブラは彼女に自分と似た部分を感じた。やり方は違ったが、彼女も心の底からこの球体が好きなんだと思った。
カッセは再びリブラに視線を戻して言った。
「あんた、今までいくつくらいの“泡”を見た?」
「うーん……千か、それに少し足りないくらいかな。」
「私はあんたより何倍も長くここにいるけどね、これでちょうど百さ。私は長いこと一つの“泡”の傍にいて、変わっていく様子を見ているのが好きでね。こいつらが新しく生まれたり最後に消えたりするのも、何回も見てきたよ。」
カッセは半分リブラに語り掛けるように、半分は自分で振り返るように生き生きと喋った。それとは裏腹に、少年の顔はさっと暗くなった。
「そう……。やっぱり、消える……んだね」
リブラは再び球体から目を反らした。カッセは少年の方を向いたが、何も言わずに待っていた。
リブラは何回か深呼吸を繰り返し、目の前の暗闇を見つめたままぽつりぽつりと話し始めた。オリオのこと、凍った球体のこと、自分がそれを溶かしたこと、今も持っている青い球体のこと――。カッセはリブラが話している間、ただ黙ってそれを聞いていた。
「……分からないんだ。凍ったこれのことも、ピーチがいる青い丸いものも、どうしたらいいのか分からない……。カッセは、この丸いものが消えたら、悲しくならない?」
リブラは独り言をつぶやくように言い終えて、老女の方をちらりと見やった。カッセは目の前の暗闇を見つめたまま、低く落ち着いた声で答えた。
「そりゃあ寂しいさ。でも私は、それが“泡”の本当の姿なんだと思ってるからねえ。」
カッセは頭上を見上げた。二人の頭上には、数えきれないほどの小さな灯りが瞬きながら光りを放っている。彼女は静かに続けた。
「そのオリオっていう子も知らないことを教えてあげよう。この“泡”だけじゃない……私たちだって、最初は何もない暗いところから生まれてきたし、いつかまた闇の中に消えていくんだよ。あの上の方で光ってる灯りや“泡”よりは、ずっと長くかかるけどね。あんたも私も、ずっとここにいられるわけじゃない。」
リブラは目を丸くして老女を見つめた。彼はもう一度聞き返そうと口を開きかけたが、カッセが少しも顔色を変えずに話しているのを見て黙り込んだ。少年は少し考えて、彼女に尋ねた。
「その時……消えてしまう時は、いつ来るの?」
「さてねえ。私には自分のその時がうっすら分かるだけさ。あんたも、私くらい長くここにいたら分かるかもねえ。」
リブラは急に言いようのない不安に駆られた。カッセはずっと同じ微笑みを浮かべて灯りを見上げている。彼は、彼女が今にも暗闇に溶け込んで消えてしまうのではないかという感覚に襲われた。
「……消えるのは……怖い?」
少年は絞り出したような声でやっと聞いた。カッセは彼の顔を見て、今までと同じように穏やかに、しかし芯のある声で言った。
「私は、それが私らの本当の姿なんだと思ってるからねえ。」
リブラは彼女の微笑みの奥に何かが隠れているような気がしたが、それが何かはついに分からなかった。ただ、その頬のしわが少しだけ深く見えた。
老女がゆっくりと立ち上がった。リブラが見上げると、黄土色の球体がかすかに動き始めようとしていた。
「この“泡”は不思議なもんだよ……私らに羨ましがる心や入りたいっていう気持ちがあれば、すごい力であっち側へ引き込んじまう。……私らの方にも、強く望めば不思議な力が沸いてくることがある。オリオっていう子はこれを凍らせることができるし、あんたはそれを溶かすことができるんだろう。」
球体が移動し始めた。リブラも慌ててその場に立ち上がり、老女に向き直った。カッセは今までで一番明るい笑顔と声で、少年に言った。
「いつかは消えちまうんだから、何をやったらいいかなんて、自分が信じたことをやるしかないのさ。時間はあるんだから、あんたはゆっくり考えて決めるといい。」
じゃあね、とつぶやいて、老女は球体が向かう方へ踏み出した。丸まったその背中が小さく見えた。
「カッセ、また――」
リブラはその後を続けることができなかった。老女は振り返ることなく軽やかに片手を振り、ゆっくりと少年から遠ざかっていった。リブラはその背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。




