2.灰色
少年の名前はリブラといった。誰かにもらった名前ではなかったが、自分がリブラだということは最初から知っていた。彼は生まれた時から暗闇の中で暮らしていた。誰かと一緒にいる時もあったが、一人でいる時の方が多かった。
リブラは、今までに暗闇の中でどれくらいの時間を過ごしたかを覚えていなかった――彼は覚えていられない程果てしない時間を過ごしていた。彼の周りで時間が流れていることを示すものは、頭上にある点のような灯りが弱まって消えたり、真っ暗だったところに新しい灯りが現れたりすることくらいだった。
リブラはまた、この暗い空間がどこまで続いているのかも知らなかった。彼は頭上のわずかな灯りで周囲を見渡すことができたが、どの方向を向いても平坦な暗闇がどこまでも続いているだけだった。
リブラはいつも球体を探して暗闇を歩き回っていた。球体は見つかる時も見つからない時もあり、熱心に探して一つきりの時もあれば、向こうからたくさんやってくる時もあった。彼は球体を見つけると長い間そこに留まって眺め、それがふわふわと移動し始めるとまた次の球体を探しに行った。彼は住処を持っておらず、球体を見つけたところが彼の住処だった。
ある時、リブラは運よく球体の群れに出会うことができた。彼はいつものように色とりどりの球体を見渡し、どれから覗いてみようかと品定めをしていた。
その時、ある一つが彼の目に留まった。その球体は灰色をもっと薄くしたような色をしていて、まるで色がないかのように見えた。たくさんの鮮やかな色をした球体の中でその薄灰色が目立ち、少年はなぜかその球体に惹きつけられた。近づいてよく見ると、それは時折うっすらと赤や緑に光っている。その中ではたくさんの小さな何かが動いていたが、灰色でぼやけてよく見えなかった。
リブラはぐっと顔を近づけた――
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たくさんの灰色の男と女が立っていた。彼らは全員同じような服を着て、全員が写し取ったようにぼんやりと無表情な顔をしていた。彼らはものさしで引いた線のようにまっすぐな列に並び、みんな一様に背中を曲げている。その後ろでは彼らと全く見分けがつかない格好の者たちが、絶え間なくどこからかやって来て列へ加わっていく。灰色の列はどんどん長くなっていった。
そこへ四角い箱のような乗り物がスピードを落として滑り込んできた。やはり同じ灰色をしたその乗り物に、何本もの灰色の列が乗り込んでいく。箱の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれ押しつぶされても、灰色の顔たちは相変わらずうつろな目で空を見つめ、ぴくりとも表情を変えることはない。溢れんばかりの人々を乗せた乗り物はまた滑るようにスピードをあげて、すぐに遠ざかり見えなくなった。箱に乗れなかった者たちはまた整然と列をつくり、その後ろには途切れることなく新しい灰色が加わった。
箱がやってきて大量の灰色が詰め込まれ、満杯になった箱が走り去る。また次の灰色たちが列を作る。詰め込まれ、運ばれる。また列が並び、詰め込まれる――その一連の流れが淡々と繰り返されていく。
灰色の人々で満杯の箱は、巨大な建物が立ち並ぶ一帯にたどり着いた。灰色の者たちは箱から吐き出され、四方八方へいっせいに進んでいく。せかせかとした足取りで目指す場所へ近づくにつれて、彼らの灰色は段々と濃くなっていくようだった。
彼らは建物へなだれ込み、一人一人がそれぞれの場所に整然と収まっていった。一階、二階、三階。大きな机、小さな机。――よく見ると、大きな机にたどり着いた者は他の大勢より少しだけ薄い灰色をしていたが、部屋の隅の小さい机に座る者はほとんど黒に近い濃いグレーだった。何にしろ、どの建物のどの部屋もくすんだ灰色で埋め尽くされていた。
全ての建物がいっぱいになった頃、どこからかけたたましいベルの音が鳴り響いた。その瞬間、灰色の者たちは競うように机にかじりつき、一心不乱にそれぞれの作業を始めた。
灰色の男と女たちは、先ほどまでとはうって変わって活発に働いた。しかし、その表情は相変わらずうつろで生気がなかった。彼らの首から上と下の様子を見比べると、別の生き物のようだった。
時折、小さい机の者が大きな机の者に呼びつけられて、大きな声で何かを叫ばれる。大きな机の者はそれまでより少し明るい灰色になり、少しばかり生き生きと表情を動かした。小さい机の者はさらに暗い灰色になり、一段と表情を固める。周りの者たちは、何も行われていないかのように自分の作業を淡々と続けている。
彼らはみんな、等しく同じ見た目をしていた。
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リブラは顔をあげ、目を瞬いた。はずれだったかもしれない、と彼は思った。この球体の中の者たちは均一で色がない。彼は今までいろいろな球体を覗いてきたが、こんなに無表情なものを見たのは初めてだった。
「さっき見えた色は、見間違いだったのかなあ……」
リブラはため息をつき、この場を離れるため腰をあげようとした。
その時、リブラは誰かが近づいてくる気配を感じた。彼は素早く立ち上がり、右斜め前の方向に顔を向けた。じっと目を凝らすと、小さな影が二つ、軽やかにこちらへ向かって来る。リブラはいつでも走り出せるよう身構えた――近づいて来た二人はにこやかに微笑んでいた。彼は脚に込めていた力を抜いた。
現れたのは、リブラよりも体が一回り小さい少年たちだった。二人は背丈、顔かたち、服装の全てが互いにそっくりな見た目をしていた。リブラが立ち去るべきか迷っているうちに、彼らはすぐ傍までやってきた。少年のうちの一人が、目を輝かせて親しげに話しかけてきた。
「やあ、僕はトール! こっちはポール。双子なの! 君は誰? 何をしてるの?」
リブラは二人をじっと見つめた。頭から足の先まで観察しても、彼らは目の下のほくろの位置が反転していること以外は全く見分けがつかなかった。二人はちょこちょこと動き回りながら、好奇心がこもった目で彼を見つめていて、敵意を持っているようには感じられなかった。
「僕はリブラ。今はこれを見ていたんだ。もう行くところだけど」
リブラはそう言って足元の灰色の球体を指さした。双子はふーん、と言って球体の傍にしゃがみこんだ。彼らは球体を物珍しそうに眺め、それがふわりと揺れたり中で何かが動くのが見えたりすると、そろって歓声をあげた。リブラは二人を見ていると自然と頬がほころんだ。しかし、彼は次の球体を探すため、そっとその場を離れようとした。
『あっ。光ったよ!』
双子が声をそろえて叫んだ。リブラがその声につられて振り返ると、先ほどまで灰色一色だった球体が、今度は確かに黄色や青の光を放っていた。リブラは急いで彼らの隣に戻り、もう一度球体をのぞき込んだ。
「ほら、ここ!」
「いいや、こっちだよ!」
三人は灰色の奥から射してくる光の正体を見極めようと、じっと目を細めた――
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灰色の者たちは相変わらずうつろな顔で机に向かっていた。しかし、その手の動きは少し鈍くなっていた。先ほどまでは一心不乱に働いていた者たちが、今はまばらに手を止めたり周りを見回したりしている。彼らは何かを待っているようだった。
林立する全ての建物に、二度目のベルが響き渡った。灰色たちは動きを止めた。――そして、今までで一番素早い動きで机の上を片付け始めた。片付け終えた者たちは続々と席を立ち、部屋から出ていく。まだ作業を続ける数人の者たちは、一瞬動きを止め、出ていく者たちをじっと見つめた。
無数の灰色の者たちは、来た時と同じように何本もの列を作って進んでいく。彼らはまたある場所に整然と並び、ゆっくりと到着した四角い乗り物に詰め込まれた。
箱に乗り込んだ彼らは、いつの間にか明るい白色に近づいていた。彼らはむしろ光っているようにも見えた。そして並んでいるたくさんの顔には、少しずつ違いが現れ始めていた。ある者は眠そうに小さくあくびをし、ある者はわずかに口元を緩めている。相変わらずぼんやりとしている者も瞳の奥には光が宿り、遠くの何かを見つめているようだった。
彼らを乗せた箱の窓からは、うっすらと赤く色づいた空が見えた。窓から差し込む光が映り、それぞれの頬にも赤みがさしているように見えた。
乗り物は止まりそうになりながら、最初の場所にたどり着いた。たくさんの男と女たちが箱から降り、ゆったりとした足取りでそれぞれの方向へ帰っていく。
今はもう、彼らは灰色一色ではなくなっていた。ある男は薄い緑に色づき、自分の家へと足早に帰っていく。彼の緑色は、通り過ぎる家々から漂う匂い――夕飯の支度をしている匂いや、風呂を沸かす湯気の匂い――を吸い込む度に濃くなった。家に帰り着く頃には、彼はすっかり鮮やかな緑に染まり、扉の中へ入っていった。またある女は淡い赤色をまとい、道端の店に入って店主に親しげに挨拶をした。流れる音楽に耳を傾け、一杯、二杯と飲み物をあおるうちに、彼女は頬から足先までどんどん鮮やかな赤に染まっていった。
灰色だったたくさんの者たちは、それぞれにうっすらと色を宿し、自分の場所へ戻っていった。ある者は家へ、ある者は暗くなった街へ、ある者は誰かのもとへ。そこへ近づくにつれて彼らはよりはっきりと色づき、自分が持つ色の光を放った。部屋で着替えを済ませソファーに腰かけた時、温かい食べ物に口をつけた時、親しい人と言葉を交わした時、彼らの光は生き生きとして鮮やかに輝いた。
辺りが暗闇に包まれる頃、そこはもう灰色の世界ではなかった。あちこちで無数の色の灯りがともり、それらが思い思いにちかちかと光っていた。
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『わぁ、何これ、きれいーーー‼』
「きれいだね……。」
双子はそろって声をあげた。リブラもつい言葉がこぼれた。球体から時折のぞいていた光の正体は、無表情な灰色の者たちのもう一つの姿だった。一つ一つの色はそれだけで美しかったが、灰色一色の姿がその鮮やかさを際立たせていた。きっと色とりどりに光っている時の方が彼らの本当の姿なんだ、とリブラは思った。
リブラは球体からこぼれ出る鮮やかな光を探すのに夢中になった。彼の隣にいる双子も、新しい色を見つけては口々に言いあっていた。リブラが球体を覗き込んでいる間にも彼らの興奮はどんどん高まり、手足をばたばたと動かして騒ぎ始めていた。
「赤も!緑も!紫も!」
「きれいだね!とってもきれいだね‼」
「この中はどうなってるんだろう?」
「この続きはどうなってるんだろう⁇」
「もっと見たい、近くで見たい‼」
「もっと知りたい、一緒にやってみたい‼」
『この中に行ってみたい‼‼』
リブラがはっと顔を上げた時には遅かった。彼らは叫ぶような大声で騒ぎ立て、飛び跳ねたり辺りをぐるぐる走り回ったりしていた。そして突然動きを止め、互いに顔を見合わせて満面の笑みでうなずいた。
「待って―――」
リブラが叫ぶと同時に、双子は勢いよく球体に飛びかかった。リブラは精一杯腕を伸ばしたが、小さな二つの体はそれをすり抜けて宙に弧を描いた。
双子の手のひらが球体に触れた。次の瞬間、彼らの手は引っ張られるようにその表面に吸い込まれた。リブラの目の前で、二人の腕が、腹が、足が、どんどん縮んで、小さな灰色の中へ引き込まれていく。彼らの熱に浮かされたような顔もあっという間に縮んで見えなくなった。――そしてそこに残ったのは、先ほどまでと変わりのないひとつの灰色の球体だけだった。
リブラは身を乗り出して球体を覗き込んだ。たくさんの鮮やかな灯りたちの中へ、明るい黄色の光が二つ混ざっていくのが見えた。二つの黄色はちょこちょこと動き、互いに寄り添ったり活発に跳ね回ったりしていた。耳を澄ますと、先ほどまで隣にいた双子たちの声が聞こえてくるような気がした。
少年はその場に膝をついた。彼は以前にも球体の中へ入るものを見たことがあった。一度球体の中へ行った者は、二度とこちらへ戻ってくることはない。球体の中へ入ることはできるものの、反対にそこから出てきた者はいなかった。リブラは目の前の球体の中の黄色い点をぼんやりと眺めた。もうあの双子に会うことはない。
まただ、と彼はつぶやいた。
「また、行っちゃった……」
リブラはしばらくの間座り込み、呆然と球体の向こう側の暗闇に目をやっていた。どれくらいの時間が過ぎた頃か、球体は再びふわりと揺れ、少年から遠ざかるように漂い始めた。少年はゆっくりと視線を戻して球体を一瞥し、徐に立ち上がった。彼は耳のあたりまでマントを引き寄せ、球体に背を向けた。裾が空を切るわずかな風が、球体をふわりと反対の方向へ押しやった。
最初は一歩ずつ踏みしめて、次第に駆け足となって、リブラはその場を後にした。今起きてしまったことを、そして暗闇の孤独を忘れるために、彼はまた新しい球体を探しに行く。少年の後ろ姿が見えなくなった頃には、灰色の球体もどこかへ漂っていってしまった。
そこには再び、ただの暗闇だけが広がっていた。




