1 鎖に繋がれている七人とそれらの中央で眠る竜
目を覚ますと、ぼくは見も知らぬ巨大なホールの中にいた。
ホール――と表現したのは、この空間が一言に部屋と言うのにはあまりに広すぎるからだ。
ぼくの今いるこの部屋の中心からは、四方の壁はあまりに遼遠で、そして天井はあまりに高い。
見る限り窓もなく、扉すらも存在しない。
東京ドーム等と比較しても余り有るほどに広大な一室――その中央にて、ものものしくそびえ立っている六本の柱に囲まれるようにして、ぼくは右腕を繋がれていた。
――鎖で。
恐ろしく太い頑丈そうな鎖にて、右腕をがんじがらめにされ、その先端がぼくの横にある何ものかに結びつけられている。
ぼくはその何ものかを確認するべく、視線を横に向ける。
室内が薄暗いせいなのか、はじめはそれが何なのかわからなかった。ただ黒いなにかに思えた。
しかし、次の瞬間、
「――――ッ!」
はるか上空にて存在している天井――そこにある天窓から月光が降り注いだ。月がちょうど雲間から顔を出したらしい。
月が、視界を照らす。
それにより、ぼくはいよいよ『それ』の姿を確認した。『それ』が何だったのかを、認識することができた。
そしてそれと同時、思わず叫んでしまいそうになったのだ。
「ぁ――――ッ!」
「騒がないで――、目を覚ましてしまう」
そんなぼくに向かって、低く、静かに、それでいてはっきりとぼくに届く重い声音で、誰かが制する。
「…………ぅ」
ぼくは懸命に喉まで出かかっていた叫びをのみ込み、ゆっくりとその声の方に目を向ける。
その声の主は、女の子だった。
ぼくと同様に鎖にて拘束されていた。ただし、ぼくとは違い、鎖の伸びる先は柱である。この部屋の中央にてそびえ立つ六本のうちの一本に、その子は拘束されている。
目を見張るほどに煌びやかな金色の長い髪と、透き通るほどに白く滑らかな肌に、恐ろしく深遠な青色の瞳をもつ、見たこともないほどの美少女。十代半ばくらいに見えるので、同い年かもしれない。
しかしその振る舞いからは、同年代とは思えない、おそらくは生まれからして別格なのであろうほどの圧倒的な品位と育ちの良さを醸し出している。
「いい……? 落ち着いて。息を大きく吸って、ゆっくりと吐くの。それであなたは落ち着ける」
まるで時限爆弾でも解除しているといった、慎重な態度で彼女。
ぼくはその言葉に従い、息を吸って、吐く。気休めにしては、ことのほか効果があった。ぼくは正気を保てていた。
なのでゆっくりと、今度こそ取り乱すまいとして、顔を上げて、目の前のそれを見据える。
「……なんだこれは」
ぼくの目と鼻の先――距離にして一メートルもないすぐ真横に、『それ』はいた。
化け物である。
いや、というか、猛獣――否、モンスターと言った方がいいだろうか?
見るからに獰猛で、ぼくらのような生命を食料にしていそうな、獅子のような三本の角をもつ獣。
全身をエメラルドのような深い緑色の針のように鋭い体毛で覆われており、体長は十メートルを優に超えているだろう。そのたたずまいからは、歴戦の勇者のような、勇猛さや、むしろどこか神秘的な、神がかったものすら感じられる。
そんな見るからにヤバそうな生き物の口から生える長大な牙に、ぼくを拘束している鎖の一端は結ばれていた。
まるで、馬の頭にぶら下げられたニンジンのよう。
つまりぼくは餌だ。
再度、悍しいほどの恐怖が、全身を駆け抜けた。
しかし――やがてぼくはもうひとつの事実にも気がつく。
「こいつ、眠っている……、のか?」
そう、眠っている。幸か不幸か、それからはかすかな寝息が規則正しく奏でられていた。
「そうよ。だから絶対に起こしてはダメ。わかるでしょ? こいつが目を覚ませば、私たちは終わりよ」
先ほどの声の主が同様の押し殺された声音で言った。
ぼくは頷く。すると彼女は僅かに安堵して、次にこう告げる。
「それにしても、ずいぶんとよく眠っていたわね。あなたが最後だったのよ?」
「最後?」
どういう意味だろうと一瞬訝ったが、すぐに理解できた。
ここにいるのは、ぼくと彼女だけではなかった。
彼女が繋がれている柱は――まだ、この部屋に五本ある。
部屋の中央で眠るこの巨大なモンスター――それを取り囲むようにして、六本の柱はそれぞれ天井高く立っている。そしてその一本一本に、もれなく、一人ずつ、繋ぎ止められているようだ。
人が。まるでこのモンスターへの贄のように。
獣が横たわっている関係で、背後の三本については確認できそうにないのだが、少なくとも前の三本には人がいて、その者たちがそう言っているのだから間違いはないのだろう。
「男と女がちょうど三名ずつ。そのうちエルフが二名、獣人が二名、ヒトが二名。それにあなた――ヒト族の男の子……よね? を足して、計七名」
女の子がそう言う。
エルフ、獣人、ヒト――彼女はそう口にした。どうやらここは、そういう世界であるらしい。人間が、いくつもの亜種に分類されている世界。ファンタジー世界。
言われてみると彼女は、ぼくのよく知る『人間』とは少し異なっており、耳の先が僅かに尖っている。もしかすると、彼女はエルフというやつなのかもしれない。
彼女の右隣の柱――そこに繋がれている女性に目を向けると、その者もまた、通常の人間とは違う。おそらくは獣人なのだろう。まるで猫のような三角の耳と、長い尾を生やしていた。
「私の名前はリーレ=ミスゼリア。リゼって呼んでくれていいわ。……あなたは?」
「…………ぼくは、」
記憶を探る――が、恐ろしいことに、自分の名前がわからなかった。
いや、名前どころの話ではない。
自身の年齢はわかるが、生い立ちはわからない。頭に浮かぶ名詞の意味は理解しているが、それについての詳細な記憶は持ち合わせがない。
具体的には、先ほどぼくはこの部屋を東京ドームと表現したが、東京ドームというものの形や詳細は思い浮かんでも、それが具体的にどこにあって、ぼくとどのような繋がりがあったのかは定かではない。東京にあるものなのかもしれないが、しかし東京とは何なのかはわからない。日本の首都であるらしいのだが、情報としてそれらが相応しているだけで、具体的な記憶には結びついてくれていない。
「…………そっちなのね」
ぼくの様子にてリゼは察したらしく、疲れたようにそう言い落とした。
けれど、『そっち』とは……?
「覚えていないのね」
「……ああ。すまない」
彼女は首を振る。
「安心していいわ。みんな似たようなものだから」
「……、そうなのか?」
「ええ。私も名前以外のことはほとんど覚えていないの。ふと目を覚ますと、ここでこうして繋がれていた。他のみんなもそう。……それでも、名前すら忘れてしまっているあたり、あなたが一番重症ではあるみたい」
リゼはため息をついた。それも吐いた息がぼくの横で眠っている化け物に万が一にも届くことがないように、更に吐くことで音が響かないように、細く、長く、ゆっくりとだ。
「でもそうなると、困ったわね」
「……というと?」
「私たちは、あなたが目覚めるのを待っていたの。あなたを起こそうとすれば、それはあなたのすぐ横にいる竜をも起こしてしまうことになりかねないから、だからずっと、自然と目を覚ますのをひたすらに待っていた。日が沈んだあたりからだから、月の高さからみてもう三時間ほどね。私たちは何も覚えていない。この異様な状況を説明できない。だからあなたに一縷の望みを託した。賭けていた。この中で、最も、例外的であるあなたに」
例外的……?
最初は意味がわからなかったが、やがて理解する。
そう、ぼくだけなのだ。
他の六人とは違って、ぼくだけが、柱に繋がっていない。ぼくだけが、他の者とは違い、この獣(リゼは竜と言っていたが)の横にいるのだ。
些細なことかもしれないが、しかしこのような危機的で意味不明なシチュエーションであるのなら、そんな気づきにすがりたくなる気持ちもわかる。
「この中で最も特異であるあなたなら、どうしてこんなことになっているのか、なぜ自分だけが他と違うのか、例外的に理解していて、私たちに話してくれるのではと期待していた……」
「でも残念なことに、残念な方に特異であったみたいだネ」
リゼの言葉を接いで、右隣の柱の獣人が至極残念そうに言い落とした。
――そっちなのね。
獣人の言葉で、先ほどリゼが呟いたその言葉を思い出した。彼女のその言葉も、おそらくはそういう意味だったのだろう。
ぼくに賭ける上で、当然想定する。二通りのことを。他と違うなら、それは良い方向でなのか、はたまたその逆か。残念ながら結果は後者であるとわかり、彼女はがっかりしたのだ。
「なんか、すまないね」
「……あなたに責はないわ。私たちが勝手に期待してしまっただけ」
知ってる。でもそんな露骨に失望されると、やるせない気持ちにもなるよ。
「でもほんと、これはどういう状況なのだろう? 誰がどうして、どうやって、こんなシチュエーションをつくりあげたというんだ?」
「それについては皆とある程度話し合いはした」
どうやら、伝言ゲームのような形式で柱の六人たちはコミュニケーションをとっていたらしい。
「でも当然だけど、あなたの目覚めを待っていたことからもわかると思うのだけど、答えなんてでないわ。わからない。わかるはずがない。ただ絶望的な状況にいるということだけしかわからない。ただこうして、その獣が目覚めて私たちを食い始めるのを待つしかない。今は、そういう時間よ」
しかしぼくは、そこであることに気がつく。
「……でも、その剣は?」