⑨夢の続き
「やっぱり、ない……」
博物館から戻ったキアラはもう一度、ベッドの周辺を中心に紛失した懐中時計を探したが、やはり影も形も見当たらない。その忙しい時に限ってキアラの傍らにやって来たのは、ヴァンティークの白い飼い猫である。どこから持って来たのか、水色のリボンを口に咥えている。遊んで、と言わんばかりにキアラの目の前にぽとりと落とした。
「……ココちゃんたら、もう」
キアラは摘んだリボンをココの顔の前で軽く振ってやって、彼女が目で追いかけたり、前足で突いたりする様子を眺めた。今、屋敷には予定通りに姉の夫である義兄と甥姪が遊びにやって来ていて、非常に賑やかである。しかしこの飼い猫にとって子供は天敵らしく、滞在中はどこかに隠れているようだ。
しばらく遊んでやって、気が済んだらしい食パン猫がベッドに横たわるのを見て、キアラも寝台の上を整えて膝を抱えた。銀時計が行方不明なので、あの不思議な夢を見る事もないだろう。ただ、贈ってくれた両親にどう説明するべきなのかを考えると、頭が痛い事この上ない状況である。
ランプを消し、昼間にクリストフが教えてくれた話を思い返した。寝ていても覚醒時と同じように物事を考える事ができる、という状態の事だ。もしそれが、自分の思い通りに使えたらどんなに便利だろう。
夢の事を考えていると、必然的に博物館での展示の内容や、婚約者とのやり取りの事も思い返す事になった。
クリストフが、二人でいる時はそろそろ様付けは止めて欲しいと言い出した意図について、キアラはどう考えていいのかよくわからなかった。それはヴァンティーク家の政略結婚とは何の必要性も感じられず、婚約者本人の要望としか思えない。
そんな簡単に言わないで欲しい、とキアラはもう一度寝返りを打った。今日は婚約者が希望した通りにクリス、と頑張って呼んで過ごしたのである。館内は照明が暗いのと、展示を熱心に見学したので、こちらがかなり挙動不審だったのは、多分気が付かれなかったはずだ。次の機会では最初から名前を呼ばせて頂いて、クリストフを感心させてやりたい、と思いながら目を閉じた。
キアラが気が付くと、立ちつくしていた場所は自室でも荒野でもなかった。川のせせらぎが聞こえて来て、この光景は見覚えがあった。ヴァンティーク領にある別荘の近くで、森に囲まれた小さな沢がある。夏になると一家でここを訪れて過ごすのだ。父はもちろん、釣りを存分に楽しむのである。
キアラは日傘を手にして水辺に近づいた。手袋を外し、澄んだ流れの中に指先をつけてみて、水の冷たさと、それから川独特の流れる感触を確かめた。
「……本当に、起きているのと違いがわからない」
キアラは現在王都の屋敷に滞在している、という認識があるので混乱しないが、ヴァンティーク領にいる時であれば、さぞ困惑したに違いない。そんな事を考えていると、川上の方から子供の声が聞こえた。そちらに目をやると、一人の子供がこちらへ慌てて走って来るところだった。
首から下げられた時計が、彼が川の向こう岸から流れの中の石を伝い、走り寄って来るのに合わせて揺れた。銀色が陽光を反射して、川面と一緒にきらきらと輝いている。
「……あの時のお姉さんだ!」
息を切らして駆け寄って来た子供は黒髪で、十歳くらいの外見をしている。利発そうな雰囲気の少年はキアラをまじまじと見上げて、それから恐る恐ると言った様子で尋ねて来た。
「覚えている? 僕の事。……お姉さんは大きくならないんだ、なんか不思議」
少年はこちらを観察するように、キアラの周囲を一周回った。領地で訪問する領地の子供達は大体顔を覚えているが、記憶が確かならそちらの知り合いではないように思える。もしかして、と思い当ったのは、昨日の不思議な夢の中で、眠れないと訴えた小さな姿だった。
「もしかして、……クリストフ君ですか」
「そう! 正解!」
元気よく答える少年に、キアラは曖昧な笑みを浮かべる。キアラにとっては昨晩の夢の内容だが、彼にはどうやら身体が大きくなった分の年月を経ての再会らしい。ね、と彼は人差し指と中指を立てて、教えた例のブイサインをよく覚えている様子だ。もうすぐ十歳になるよ、と正面に戻って来た彼は誇らしげにキアラを見上げた。
「お姉さんに会ってからね、怖い夢を見なくなったんだ。あの時はどうもありがとう」
彼が丁寧に頭を下げるので、キアラも失礼のないようにとお辞儀を返した。彼の言葉を信じるなら、あの大きなヘビに似た生き物に襲われる心配はないらしい。流石に泥沼に入るのは大変なので、そこはとりあえず安心した。
「……もし今夜会えるってわかったら持って来たのに。あの貸してもらった銀時計、壊したらいけないと思って大事にしまってあるんだ。ごめんなさい」
肩を落とす少年を、気にしていませんからとキアラは慰めた。所在がはっきりしただけでも、捜索に割く時間が省けるのは成果である。ほっとした様子の少年を、今度はキアラがこっそり観察した。前回の夢では元気のない幼児の姿だったので判然としなかったが、それとは真逆の様子の少年には確かに自分の婚約者の面影があると言えなくもない。
「……一つだけ、確かめさせて欲しい事がありまして」
「なに?」
木陰の間から陽光が、彼の子供特有のやわらかそうな髪に降り注いでいる。キアラは自分の公の場での婚約者の軍人然とした振る舞いや、今日の昼間の、人目を気にする必要のない場所での表情を思い浮かべながら、目の前の少年に訊ねた。
「クリストフ君はもしかして、……王子殿下でいらっしゃいますか?」
「……内緒だよ?」
しばらく間があってから、クリストフ少年は人差し指を立てて口元にあてた。小さな仕草が可愛らしい年ごろである。
「ねえ、どうしてわかったの?」
「所作がお上品だからですよ」
嘘だ、と彼は明るく笑う。あっちに日陰があるよ、とクリストフ少年が上流を指さしたので、キアラも日傘を差してそちらへ歩き出した。
「兄上から、もっと振る舞いに気をつけなさいってよく言われるんだ。この間も庭園まで競争って言うから近道したら、卑怯者って怒られたし」
彼は自分の兄の事を楽しそうに話している。世間で言われているような、王位を争ったような間柄ではなく、どうやら子供の頃から仲が良かったようだ。それならばきっと彼は甘え上手な弟なのだろう、とキアラは思う。
「お姉さんはこれからどこかに行くの?」
「……今日はここでのんびりしようかな、と」
夢の中でもう一度眠りにつく事で、キアラはちゃんと自室で目が覚めると知っているので、焦る必要はないように思えた。可能なら、この幼少期の婚約者を名乗る少年に色々と尋ねてみたい事もある。
「そうなんだ。ねえ、じゃあ僕と一緒に何かして遊ぼうよ。何でもいいよ」
「……クリストフ君は何をしている最中だったのですか?」
「釣り」
「では、今日は私に教えてください」
もちろん、とクリストフはぱっと顔を輝かせた。表情がくるくると目まぐるしく変わるのは、王族だろうと普通の子供と変わらないように思える。視線の先には日陰と、座って休むのにちょうどよさそうな大きさの石があった。そこにはクリストフ少年の物と思われる釣り竿が置いてあった。
釣りは銃を使った狩猟と同じく、上流階級の男性の趣味として浸透している。女性達はその横で集まって、天幕を張った内側で優雅に噂話に花を咲かせるのだ。
「僕が餌をつける所まで手伝うね」
クリストフ少年はいそいそと靴と靴下を脱いで、ズボンのすそを捲り流れの中へざぶざぶと入って行った。流れの中から、小さな手より大きな石を幾つか川の中から取り出して裏返し始める。先に餌を探すんだ、とキアラにもわかりやすいように解説をしてくれた。
「侯爵が、僕と兄上に釣りを教えてくれたんだ。ヴァンティーク領に遊びに行って、三人で釣り勝負をしたんだよ」
内緒にしてね、との事なので、キアラは快く彼の要求に応じる事にした。彼はしばらくして、黒いにょろにょろした生き物を捕まえて岸へ戻って来る。
「兄君と、……侯爵殿ですか」
「そう。ルイス・ヴァンティーク侯。釣りが好きで、王宮で仲良くなったんだ」
楽しい釣りの話以外はしないから好き、とクリストフ少年が付け加える。他の大人はこの幼い子供に何を話すのだろう、とキアラは考えながら彼の手元を眺めた。それから自分の父親が、そうやって王族の子供達を掌握したわけだ、と少し納得した。
「あ、でもね。釣りじゃない話をしてくれた時もあった。自分に娘さんができた時は、その赤ん坊の話をずっとしてた。一人目の女の子がファリィちゃんで、ちょっと前に生まれたのが、……お姉さんと同じ名前だね、キアラちゃん」
当たり前だが彼もヴァンティークに新しく生まれた赤子と、目の前の相手が同一人物であるという考えには至らない様子である。きっと混乱するだろうから、と今夜は彼に自分の正体を明かすのは控える事にしよう、と決めた。そんな事を考えていると、彼が何気なく口にした台詞に、キアラは思わず竿を持つ手が強張った。
「……侯爵閣下は、どんな風に?」
キアラは思わずクリストフ少年に問いかけていた。咄嗟に自分で聞いておいて、その答えを知りたいような、知りたくないような複雑な気分になる。
「もちろん、これ以上ないってくらいに喜んでいたよ」
「そうですか……。喜ばしい事ですものね」
喜び過ぎて変な踊りを披露してくれた、と有用性の低い報告も付け足される。キアラの心情を知らない彼は屈託なく答えてくれたので、どうにか笑顔を取り繕う事ができた。ただ、父の内心は、本当のところはどうだったのだろうか。今のヴァンティーク家には、エリックという立派な跡継ぎがいるが、弟が生まれたのはキアラより四年後の事だ。
もちろん家族には分け隔てなく優しい父親であるが、と考え事をしていたキアラは、クリストフ少年が不思議そうな顔で様子を窺っているのに気が付いて、慌てて別の話題を探す。
「……ヴァンティークの領地に王子様が来ているなんて、きっと大騒ぎだったでしょう」
キアラは話題を変える事にした。彼らがヴァンティーク領を何度か訪れていたのは知っているが、何も覚えていないのはいつも釈然としないのである。予想した通り、髪を染める等の手の込んだ変装をしていた、という答えが帰って来た。
「兄上が、その方がずっと楽とか…。あ、ダメだこれは秘密って言われていたんだった」
変装していたのは内緒にしてね、とクリストフ少年が念押ししてくるので、キアラも神妙な表情で頷いた。
「……それでね、最初は一人ずつ釣果の数を競う話だったんだけど、兄上が一匹も釣れないから、途中で大きさで勝負する事になったんだ。そしたら言い終わらないうちに侯爵がとんでもない獲物を釣り上げて。僕、もうおかしくて」
釣りはそんなものだろう、と思いつつもその場を空気を考えるといたたまれない。
「制限時間が終わりかけた頃に、僕の竿にすごい当たりが来たんだ。そしたら兄上が一緒に竿を支えてくれて、『共同戦線だ』って言い出して…」
クリストフ少年が、急遽勃発したヴァンティーク侯爵対王子同盟の楽しいやり取りを話してくれる。その間にも彼は慣れた手つきで餌をつけて、それから竿の使い方をキアラに丁寧に教えてくれた。針の行方に注意しながら、キアラはよいしょ、と釣り糸がなるべく川の奥側へ行くように竿を振った。
「そうそう、お姉さん上手だね」
残念ながら、思ったほど遠くへは飛ばなかった。けれどたくさんいるからすぐに釣れる、という彼の言う通り、いくらもしないうちにキアラの竿に当たりが来た。ぐぐ、と川の中へ引っ張られるのを我慢して、力が緩んだ隙に今度はこちらの番である。
「よし、これはマスの赤ちゃん」
やがて釣り上げた小さな魚を、クリストフが鑑定してくれた。振り子のように大きく揺れる釣り糸を捕まえて、針に引っ掛かった手のひらほどの大きさの魚を見せてくれた。小魚のえらが小さく開閉している。
「ムニエルが美味しいお魚ですね」
赤ちゃんは逃がしてほしい、と頼むと彼は快く了承し、針を外して川面に放った。あの小さな魚でも、キアラが驚くくらいの大きさで糸を引っ張るのである。二投目は最初よりも上手に遠くへ飛んで行って、キアラは川の流れに沿って移動する釣り糸を眺めていると、突然竿が物凄い力で引っ張られた。
「え、え、え…」
竿が折れそうなほどにしなり、慌てるキアラを素早く支えたのはクリストフ少年である。彼の力が加わったおかげで、どうにかその場に踏みとどまった。
「大丈夫、僕が経験者だから」
どうやらかなりの大物が糸の先にいるらしい。非常に頼もしい台詞を、真剣な表情で小さなクリストフ少年が口にしてくれた。可愛いやらおかしいやらでキアラは笑いそうになったが、どうにか我慢した。しかし一体どんな大物がかかっているのか、釣り上げるよりも糸が切れるか竿が折れる方が早いように思える。
魚との我慢比べは、ただ糸を引っ張り合っているだけとは思えない高揚感がある。父が唯一無二の趣味としている気持ちも初めて理解できた。竿が軋む音を響かせての真剣勝負は、しかし突然終わりを告げた。
川面へ自ら躍り出た大きな魚は、見間違いでなければキアラの指先から肘までくらいの大きさがあるように見えた。
相手はまんまと空中で糸を外し、大きな水柱を残して住処へ帰って行った。川面は大きく揺れて、飛び散った飛沫がまた跳ねて、と川べりは雨が降ったような音がしばらく響いていた。
「……見ました? 今の」
魚に逃げられた二人は、呆然としながら顔を見合わせた。
「うん、すごく大きい魚だった。ああいうのをヌシって言うんだ。兄上は自分と同じくらいの釣った事があるんだって」
きっとそれは誇張だろう、とキアラは思いつつもしばらくその場から動けないでいた。沢が静かになった後も、二人は立ちつくしていた。
「ねえ、次はいつここへ来れそう? また、何年も経った後にいきなりだと思う?」
あんな大物がいるのは知らなかった、とクリストフ少年はその後も何度か挑戦したが、二度とあの大きな影が現れる事はなかった。そろそろ疲れたよね、と彼も竿を片づけて、座って休んでいるキアラの元に戻って来た。
「……毎晩会えたらいいのにね」
急に元気のなくなったクリストフ少年につられるように、キアラも何だかしんみりとした気持ちになってしまう。これはいけない、と立ち上がって、キアラは膝を折って相手の目の高さに視線を合わせた。
「私も、明日の貴方に会いたいです。だから今日の事を、決して忘れないで下さいね」
これを夢ではない場所で顔を合わせた婚約者に言えたら、とキアラは苦笑するしかない。クリストフ少年は照れたような、可愛らしい笑顔を浮かべてくれた。
ちょうど太陽の位置が動いて、川沿いの木が陽ざしを遮ってくれていた。日傘を畳んだキアラはクリストフ少年と二人、手を繋いで休める場所を目指した。