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⑧兄の話


 既に陽が傾きかけているので、ジルベールとクリストフの二人は宝物殿へと急いでいた。何しろ王宮の敷地は広くて、子供の足では動き回るのにも苦労する。最初に鍵を取りに行かなければならなかったのと、目的地は反対側の隅の方にあるので、余計に時間がかかっていた。


「クリスは、銀の贈り物に何をもらうのか決めたか?」

「時計をお願いしようかな、と。これは借り物なので、あの女性にいつか返さなければならないのです」


 親が子供に贈るのは時計以外に、男の子なら銀の短剣、女の子は髪飾りが一般的とされていた。二人は急ぎ足なので、クリストフの首に下げられている懐中時計が、歩く度に胸の上のあたりに軽く当たる感触がしている。


 兄のジルベールはもう銀時計をくれた彼女には会えないのでは、と後ろ向きな意見を口にしていたが、クリストフの方に諦めるつもりは毛頭ない。あの不思議な夢の秘密を解けばもう一度会えるのだ、と根拠は特になくても信じていた。



「……ところで、どうしてクリスは自分の夢に悪夢が現れたと思う?」

「どうして、って……」


 歩きながら不意に問いかけられて、クリストフも首をひねった。悪夢は夜更かしをする悪い子供を狙ってやって来るのだが、生憎ベッドで横になればさっさと寝てしまう体質だった。夜に眠る事に関しては、厳しいお目付け役の目を盗んで悪い事をやろう、と思った事もない。


「……もし悪夢に捕まったら、身体を入れ替えられて夢の中から出られなくなってしまうのでしょう?」

「そうだと言われているな」


 クリストフはジルベールに指摘された先の話を初めて考えた。もしもあの時、助けてくれた女性がいなかったら。次の日の朝に目を覚ますのは自分ではなく、悪夢に乗っ取られた別の人格が弟王子になりすましている事になる。


 あのキアラと名乗った女性が悪夢を追い払い、クリストフを安全な場所へと導いてくれた。それがなかったら国中で一番広い城で、誰よりも贅沢をしている子供と成り代われるのである。調子の良い事を吹き込んで操縦しようとする大人はいくらでもいるので、やりたい放題を満喫するに違いなかった。


「そう考えると、なんだか最初から狙われていたみたい」


 もし自分が悪夢だったら、貧しい家の子供よりも可能な限り、裕福な家の子供を標的にして為り替わろうとするに違いない。そんな恐ろしい想像をしたクリストフは、一つ重大な事実を思い出した。悪夢は追い払っただけで、倒したわけではない。弟王子を失敗した次に狙う相手、というのは限られているように思える。 


「……兄上は、カエルに丸呑みにされる夢は見ていませんよね、……痛いっ」


 弟王子はカエル嫌いなジルベールを真面目に心配したつもりだったが、額に軽く手刀を頂いてしまう。真面目に聞いたのが間違いだったとまで言われたのでクリストフは素直に謝罪したが、別に怒ってないと素っ気ない返事だった。


 ジルベールは弟の数歩先にいるので表情は伺えない。クリストフは追いつこうと小走りに何度か試みたが、兄も顔を見られまいと一層足を速めているらしく、簡単には追いつけなかった。


「別に、怒ってないと言っているだろう」


 やっと歩調は緩められのは随分と先だった。兄が、うっすらと夕焼け色を帯び始めた空を背に振り返ったのを見て、さっき痩せたと思ったのは間違いではなかったとクリストフは確信した。急がないとな、と兄は今度は弟の手を引いて歩き出すのに逆らわなかった。


「クリスには、話をしておこうと思って」

「はい」

「……あれには参った。起きているのか寝ているのか、そこから既に判然としなくて」


 兄ははっきりと断言したわけではなかったが、クリストフには何の話をしているのかはなんとなく想像がついた。今日も王宮で夜会が催されるのか、遠くから招待客らしい賑やかな気配が聞こえて来る。楽団の演奏も始まったが二人の足は静かな方を向いていて、喧騒からは遠ざかって行く。代わりに風が、梢を揺らす音が聞こえた。


「……母上の声も姿も、起きている間は全然思い出せないんだ。肖像画だって、新しい王妃様がいらしたから、もう城には残されていない。亡くなった時、自分はまだ生まれたばかりだった。それなのに、夢だと怖いくらいにこの人こそが母上だという確信があった」


 先を行く声は段々と暗さを帯びて行って、クリストフが優しい兄に掛けられる言葉は頭の中からなくなって行く。第一王子のジルベールを追い詰めているのが他ならぬ自分の存在である事は、嫌と言うほどわかっていた。

 どんな家でも、一番最初に生まれた男の子に家と財産を継ぐ正当な権利が与えられる。けれど兄に何の後ろ盾もないのを良い事に、新しい王妃の息子のクリストフが次の王様に相応しいのではないかと勝手な言い分がまかり通ろうとしていた。それはまるで、巻き込まれたら望みがない大きな渦のようだった。


 父はこの混乱を招いた張本人であるくせに、一向に何もしてくれない。母はこのまま兄を追い詰めて、最も都合の良い時機を見計らって排除するのは目に見えている。世話係に嫌がらせをして自ら辞するように仕向けているのは孤立させるためだ。


 クリストフが見た、大きな蛇に追いかけ回される夢。詳しい事を兄にも説明していない。何故そんな夢を見たのかといえば、庭園に迷い込んだ小さな生き物をうっかり踏んで噛まれてしまって、可哀想に剣で切られて殺されてしまったからだ。お前のせいで、と迫って追いすがる声は、今手を引いてくれている人と同じ声だった。その事に動揺して、上手く逃げる事ができなかった。


「……それで、弟王子を言い包めて、人気のない場所へ誘い出すのは今しかないと言われた。後ろ盾を持たない兄王子を侮っているから、きっと疑いもせずについて来るからともおっしゃっていた。必要な物を、魔物を払う銀の武器だと偽って渡してあると」


 淡々と語る兄の背中を、クリストフは手を引かれるがままに見つめているしかない。ジルベールが母の形見と魔除けを合わせて受け取っているのが、銀の短剣だと知っていた。

 しかし腕を振り払って逃げ出そうとも、大声で助けを呼んで自分だけ助かろうとも思わなかった。

 母親の違う二人の王子のうち、どちらが跡継ぎとなるのか。その問題はクリストフが生まれ落ちた瞬間から発生している。王宮を取り囲む大人達の残酷な噂話は、クリストフの耳にも届いていた。


「兄上、僕は……」


 真っ黒な思惑に対抗する方法を、今のクリストフには一つしか思い浮かばない。繋いでる兄の手の平を握り返して、どんなに大きな流れだろうと絶対に離さない以外に、できる事はきっとないのだと思う。

 

 永遠にも思えるような沈黙の後に、ジルベールが先に口を開いた。


「……お前は賢いな、クリス。一人でいくら考えても辿り着けなかった答えを、先に理解しているんだから。私があまりにも頼りないからいけないんだ。自分より小さい弟に気を遣わせて甘えて、辛い思いをさせて申し訳なかった」


 クリストフは首を横に振った。兄の孤独や苦しみに比べれば、自分の苦悩など微々たるものである。たった一人の兄、ジルベールがこちらを振り返って、その表情は今までとは違っていた。もう覚悟を決めてしまったような、確固たる静けさだけがあった。


「色々考えたんだ。私はこのまま、王宮を去った方が良いのかもしれないと。けれど、最も過酷な道だと言われても、私もクリスもこの先大人になって、家族や子供ができたらその人達も。決して政争のための玩具ではないと明確にしなければ、弟を、たった一人味方になってくれたクリスをここに一人で置いて行けない」


 わかってくれ、と兄の決意に、クリストフは気圧されたように目を瞠った。出口のない暗闇に光が差したような、そんな感覚さえ覚えた。自分の未来を考えなければならない、という先を見据えた希望の言葉は、心の奥底まで深く響いた。


「兄上は、すごいですね」

「お前が弟で良かったよ、本当に」


 ようやく笑ってくれた兄に、クリストフは言われるがままに頷いた。一生懸命真面目な顔をして言葉を返しながら、その台詞をあと十回聞きたい、とお願いしてみたが、それはあっさりと却下された。








 歩いているうちにいつの間にか、二人は宝物殿までたどり着いていた。他の建物が白い大理石を中心としているのに対し、この建物だけは落ち着いた色の外壁である。そこまで重要な建物でもないため入り口を固める門番もおらず、二人は途中で手に入れた鍵を使って、簡単に中へと入る事ができた。


 広い室内には、献上された海の向こうの異国の品々が保管されている。見栄えや価値が高いと思われる品々は然るべき場所に飾られていたり、王族が気にいった物を持ち出して個人で保管されたりしている。ここにあるのは比較的、価値が低いと判断された品である。棚が中を区切るようにして一直線の通路が何本も作られていて、収蔵品を陽ざしから守るために中は薄暗かった。壁際の書棚には大量の、分厚く古い背表紙が並んでいる。


「兄上は、ここへ何度か来ているのですか」

「そうだ、調べ物をしに。……ああ、話したらすっきりした」


 クリストフが見たい、とお願いした夢に関する資料を探して、兄は通路の奥へと進んで行った。その後に続きながら、クリストフは密かにジルベールの様子を窺ったが、今まで見た中で一番すっきりとした顔をしていたので、何だか拍子抜けである。


 また後で話そう、と言われて、そう言えば夢について調べなければならない状況だった事を思い出した。


「あった、これだ。この生き物はバクと言って、悪夢を食べるんだよ」

「……何ですかこれは」


 兄は棚に無造作に放置されていた巻紙らしき物を一本取り出して、上下に広げて見せてくれた。黒と白の奇妙な生き物は色んな意味で興味深かったが、それはしかしクリストフの夢に出て来たキアラという女性の手掛かりにはなりそうもなかった。

 その後も幾つか棚を覗き、古い文献を手に取って二人で読んでみたが、クリストフにとって役に立ちそうな情報は得られそうにない。望みの夢を見るための仰々しい形状の首飾りというのも見つけたが、やはり関係性があるとも思えなかった。



 異変に気が付いたのは、クリストフの方が少し早かった。


「何か、変な匂いがしませんか」

「……雨でも降るのかな」 


 弟に続いて兄の方も、訝し気に資料に目を落としながら同意した。雨が降る前に特有の、湿り気を帯びた不快な匂いが宝物殿に漂っている。換気をした方が良いのでは、と収蔵品が傷む心配をし始めた二人は顔を上げて、そこにいるはずのない自分達以外の姿を認めて、固まった。


 視線の先にいたのは、昼間にクリストフが追い払った楽士である。栗色の髪の男がゆらりと現れたのは、奥の通路からだった。


「ここで何をしている」


 突然現れた相手からジルベールが弟を庇って通路を塞ぐように立ち、銀の短剣を迷いなく抜いて逆手に構えた。しかし楽士は刃物を一向に気にした様子はなく、朗らかに笑う様子はどこまでも不気味である。


「失礼ながら、どうしてもクリストフ殿下に謝らなければ、と居ても立っても居られず。お探ししていた次第です」 

「……それ以上近づくなら近衛に突き出す」


 兄の警告する声を聞きながら、クリストフが咄嗟に首から外して右手に握った銀時計の鎖の音に、楽士の顔から笑みが消えた。不快な匂いが強くなって、クリストフが思わず顔をしかめるほどだった。

 

「どちらもあと少しまで追い詰めたのに、まさか、二人共に逃げられるとは思わなかった。あの女も近くにいるのか」


 楽士は本性を現したのか急に低い声で、具体的な名前こそを出さないものの、クリストフには銀時計を警戒している様子とあわせて、何の話をしているのか察しがついた。相手は狭い通路をじろじろと見渡している。どこにも誰かが隠れられる場所がないのは子供でもわかるのに、と異様な光景だった。悪い夢に捕まって、もうとっくに人間ではなくなってしまったのかもしれないが。


「噂を流して何人か襲って、もう人間のフリをするのも限界だ。……せめて一人は喰わなければ」 

 

 楽士は二人を見据えて、襲い掛かる機会を窺っているらしい。逃げろ、という囁くような兄の声が聞こえたが、それはこちらの台詞である。悪意を以て噂を垂れ流し、ジルベールを追い詰めた犯人を捕まえるか、叶わなくても手近な収集品や蔵書を投げつけるかして、兄だけでも逃げてもらわなければならない。



 その均衡を破ったのは、背後の扉が乱暴に開け放たれた音だった。差し込んだ夕焼けの色と共に、雨を吹き飛ばすような日差しの匂いを確かに感じた。反射的に振り返ったクリストフは、白い小柄な生き物が物凄い声を上げて楽士に飛び掛かったのを見た。


「……殿下!」


 収蔵品の詰まった棚が勢いよく倒されて轟音が響く中、先ほど兄と親し気にやり取りをしていた若い宮廷医ともう一人の青年が、狭い通路を駆けてやって来た。蒼白な顔で兄の様子を気遣う若い宮廷医の後ろでまだ争いは続いていて、今度は陶器の割れる音が響いている。


「……ヴァンティーク閣下、ここは王城の宝物殿なのに」

「それは最初に忠告したじゃないか、あの大威張りは私の命令を何一つ聞かないと。そういうわけで、悪魔に魂を売った男の事なんて放っておいて、我々の最優先事項は口裏合わせる事だ。それにここには大した物は置いていない、……多分」


 兄の肩を抱くようにして支える宮廷医が青い顔をしているのは、主人の心配だけではないらしい。反対に涼しい顔の男は通路での戦いの行方を見守っている。兄と宮廷医は揃って呆れた視線を送っているが、彼は気に留める様子はない。


「それにしてもジルベール殿下、囮になるなんて大胆な事を。それならそうとはっきり言ってくれないと」

「違います、あっちが来るのが早すぎたんです。そうでなければ弟まで巻き込むような真似はしません。貴殿じゃあるまいし」


 兄は先ほど居室近くで庭師の真似事をしていた彼に食って掛かった。そうかと思えばこちらを覗き込み、大丈夫か、と心配そうな顔をしている。話にさっぱりついていけず、クリストフはジルベールと駆けつけてくれた大人二人をまじまじと見つめてしまった。


 どうやら決着はついたらしく、建物の中は静かになった。下敷きになったらしい楽士の足だけ、総崩れになった収蔵品の下から覗いている。

 悪いのは私ではない、と言わんばかりに肩を竦めている男は、クリストフが見上げているのに気が付いたらしく、恭しく膝を折ってのんきに自己紹介を始めた。


「ルイス・ヴァンティーク侯爵と申します。窮状をお救いするべく参上いたしました。今度兄君と一緒に存分に釣りをしましょう、弟殿下。きっと楽しいですよ」

「……はあ、兄がお世話になっているようで」


 クリストフは、国内屈指の規模を誇る名家ヴァンティークを名乗った相手をじっと見つめる。黒髪と暗めの青い目の持ち主の笑い方は、あのキアラという女性に少し似ていて、その時はそれをただ不思議に思った。


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