⑦銀時計の話
クリストフが外出先から戻ると、使用人達は妙にそわそわとしていた。やがて執事より、ヴァンティークの屋敷から彼ら宛てに、美味しそうな差し入れが届いているという緊急性の低い報告がされる。チーズがたっぷり使われたと思われる香ばしい匂いは屋敷中に漂っていて、確かに食欲をそそる上等な贈り物のようだ。
先日、クリストフがよりによって軍の監査で忙しく、留守にしている間に婚約者からとある招待状についての問い合わせがあった。自分が不在の中でも使用人達がそれぞれ上手く動いたおかげで、何も問題は起こらなかった。彼らがいつもよりどことなく誇らしげな表情でてきぱきと仕事をこなしているのは、贈り主が近いうちにこちらへ嫁いでやって来る相手、というのも大きいに違いない。
そんな事を考えていると閣下、とクリストフが子供の頃から身の回りの雑事をこなしている、自分にとっては最古参にあたる侍女が声を掛けて来た。
「ヴァンティークのご令嬢への贈り物へのご参考に、お使いいただきたく存じます」
「……いつも悪いな」
受け取った羊皮紙の束には、王都にある仕立屋や菓子店の情報が並んでいる。忙しい主人のためにヴァンティークの使用人から話を聞いた、との事であちらの行きつけの店や流行の情報をまとめてくれたらしい。
使用人の質は個々の能力や経験に大きく左右されるが、逆に彼らにとっての主人も、当たり外れは運次第となる部分が大きい。当主の結婚や代替わりで見込みが大きく外れ、最悪の場合は屋敷を去って一から仕事を探さなければならない事もある。使用人にも心を砕く事を忘れない優しい人柄の持ち主が来てくれるとあれば、それに越した事はないのだろう。クリストフは軽食を手に自室へ御用聞きに現れた執事に、地下室におさめられているワインを皆で少しずつ、と伝えて鍵を手渡し下がらせた。
クリストフは軍の学校を出ているので、普通の貴族に比べると生活面において使用人に世話を焼かれる割合は低い。自室に一人になってぼんやりとしていると、徐々に眠気が強くなってくるのを感じた。昨晩は軍の監査の最終報告が結局深夜まで続き、今日は朝からヴァンティークの令嬢と博物館へ出かけていたので、自分で思っているよりも、疲れているらしかった。
他人行儀に呼び合うのは止めにしよう、というこちらの提案を、キアラがどうにか躱そうと品の良い笑みを浮かべつつ脳裏ではあれこれと考えを巡らせている様子が思い起こされた。彼女に関してはもうひと押しかふた押しだろうな、とクリストフは目を閉じて、眠気に身を任せる事にした。
いくらもしないうちに、目を閉じている感覚はあるのに視界は徐々に晴れて来て、と夢を見始めている兆候が表れた。調度品や壁紙の記憶を辿ると、どうやら幼少期を過ごした王宮内の景色だった。普段であればこのような、幼少の頃を追体験するような夢は滅多に見ない。それでも無理やり覚醒して寝直す事をしなかったのは、やはり多少は疲れていたのと、懐かしい幾人かの姿をもう一度見たい、という気持ちになったからだった。
自分はまだ五歳かそこらの子供で、クリストフが初めて不思議な夢を見てから少し時間が経った後の記憶である。
「……一月前よりずっと良くなりましたな。このまま快方へ向かうでしょう」
主任宮廷医の診断に、弟王子を囲む、生母でもある王妃や侍女、随従達の輪の中に安堵が広がった。一方の、天幕付きの寝台で診察を終えた幼いクリストフは冷めた表情で、周囲が喜んでいるのをぼんやりと眺めた。自らが持ち込んだ薬湯が効いたに違いないとか、特別製の枕が功を奏した、用意した花で気が紛れて病も和らいだのだろう、と各自勝手な手柄の主張を始めている。
残念ながら薬は恐ろしい程苦くて一回で飲むのは止めてしまい、枕は高さが合わずに大して使わないままどこかへ下げられてしまった。花は毎日取り換えられている。
普段は元気が有り余っている、祖母の手厳しい言葉を借りるなら少々粗暴な傾向が強い、とひどい言われようのクリストフだが、この時期だけは宮廷医の指示に従って、ベッドで横になっていた。起きている時と遜色ない奇妙な夢を見るようになり、それはいくらもしないうちに悪夢に変わった。目が覚めてしまえば馬鹿馬鹿しい内容だが、自分よりずっと大きなヘビに延々追い回される、という内容は子供の自分にとっては十分な脅威だった。
ある晩にとうとう追いつかれてもうだめだ、と思った矢先に助けてくれた存在があった事は、まだこの時点で誰にも話していなかった。無意識に、首から下がっている銀の懐中時計を指で触って、硬質な秒針の音に耳を澄ませる。この時計を手に入れて以来、怖い夢を見る事はなくなった。代わりに知らない水辺に大抵いて、クリストフはその周辺を一人で探検していた。疲れて来ると大小様々な屋敷が現れて、そこを借りて休憩しているうちに、気が付くと朝が来て目が覚めている。
その場所がとある貴族が治める一帯に実在する景色だと知るのは、もう少し先の事だ。
とりあえず、と何度も診に来てくれた医者の先生にお礼を述べたが、周囲が騒がしいのできちんと伝わったのか不明瞭で、少しばかりイライラする。感謝の気持はどうやらわかってくれたようで、長く王族に仕えている上級医務官は笑顔を浮かべて場を辞した。その姿を見送った視線の先で、部屋の出入り口付近にいた小さな姿をクリストフはしっかり見つけた。追いかけなければ、とベッドから出ようとしたところで、馴れ馴れしく話し掛ける者が一人いた。
「お元気になられて何よりです、クリストフ殿下」
声の主は明るい栗色の髪の楽士である。この男は類まれな音楽の才能と、それから時折鋭く、毒の交じった指摘を面白がった王族の誰かのお気に入りのようで、最近頻繁に顔を見るようになった。
「いやあ、それにしても一時期はまさか、……まさかアザレアの花の報復ではないかと、一部ではまことしやかに囁かれていたのですよ」
彼が挙げた花の名前に、ある者は意味ありげな目配せを、また別の人間は好奇の笑みを隠すためか、羽飾りのついた洋扇子を口元にあてた。
夢見が悪くて医者にかかったのは、クリストフばかりではない。同様の症状を何人もの侍女や文官、厨房の下働きまで訴えて、王宮内は少しばかり騒がしい。初めの一人か二人の頃は小さい子供ではあるまいし、と軽く扱われていた。しかし患者が増えるにつれて、妙な噂が流れるようになった。
彼らは同じ悪夢を見ているのだ、と。その原因ではないか、と噂されるようになったのは、クリストフの母の前に王妃候補として囁かれた女性の名前だった。
「……」
「……あくまで噂ですよ、噂。私もそのように下衆な連中には、心を痛めておりますゆえ」
彼はクリストフの機嫌が目に見えて悪くなったのを見るや否や、実在するかどうか怪しい相手に罪を擦り付け始める。ほんの冗談で、とか噂によると、と重ねて言い逃れを試み始めた。
「ところで……」
「……楽士殿、貴殿が誰のお気に入りだろうが、ここへの出入りは二度と許さない」
クリストフは一瞥もくれないまま、別の話題へと移ろうとした相手を遮った。身体の上から勢いよく払った寝具の音が大きく聞こえる。主治医の先生はきっと外出許可を出してくれるだろう、と服装はこのまま庭へ出て差し支えない恰好にこっそり着替えてあった。
「クリス」
「撤回はしません」
やんわりとした母の仲裁をはねつけ、ベッドから降りたクリストフは、床に揃えられていた靴を履いた。床をつま先で叩いて調整する不機嫌な靴音が、牽制のように部屋に響いた。先ほど主治医の太鼓判をもらって、部屋の外へ出るのに支障はない。そんな事よりクリストフには、会わなければいけない相手がいる。
「……まだ寝ていなくてはダメですよ」
「ベッドから出るなと言われてもう二週間。このままでは、色んな事を忘れてしまいそう。剣の稽古も語学の勉強も早く再開したいので。少し散歩に行って参ります、付き添いは要りません」
実際は数日前には既に周囲の目を盗んで度々出歩いてはいたが、わざわざ口にする必要性は感じなかった。健康であれば、繊細さとはかけ離れた気性の子供である。
それからここに集っている者達とは、物の見方と感じ方に、埋められない溝があるのだ。それは残念ながら実の母親も例外ではない。
視界の隅に青くなった楽士の姿を捉えつつ、剣の先生に稽古をつけてもらう前のように、腕を十字に軽く交差して身体を伸ばす。夜にちゃんと眠れるようになって、随分と楽になっている事を確認した。
「で、殿下。お気を悪くされたのなら……」
「撤回はしない。貴殿の演奏は確かに素晴らしいのかもしれないけど、僕は美しい音色だと思わない」
この場にいる全員に聞こえる声で言い切った。何よりも、クリストフがこの噂話を興味津々で聞き入っていた、等と話が広がるのだけは防がなければいけない。大人達がオロオロして、一部の者が母の意を汲んで入り口を固め始めた裏を掻いて、クリストフは窓の桟に飛び乗った。そのまま昼間の明るい庭へ飛び降りて、部屋から抜け出す。行儀が悪いのは重々承知の上での、精一杯の反抗である。
後ろの気まずい空気はどうでも良かった。一足先に部屋を後にした兄に、弟の否定する声はちゃんと届いただろうか。心配しながら回廊を横切って、もう一人の王子を追いかけた。
かつて、アザレアの花を冠した美しい女性がいた。クリストフが生まれる少し前の話である。王に見初められたが、妃となるには難しい位置にある貴族の令嬢だった。その後も何かにつけて元の身分の低さが批判の的となり、結局兄を産んだ負担が祟ったのか、若くして亡くなってしまったらしい。
王である父はその後すぐ正式な婚姻を結び、それでクリストフが生まれた。当時散々責めらたてられたのがよほど効いたのか、クリストフの母は、王妃に相応しい教育と家柄を有した女性として選ばれた、そうだ。
「兄上、兄上待って下さい」
クリストフは庭の一画で、兄のジルベールに追いついた。兄は先ほどまで横になっていたはずの弟が、先回りして外へ出ているのを見て怪訝な表情を浮かべている。
「……クリス、あのような言い方はよくないだろう。せっかく皆、お前を心配して集まってくれていたのに」
「誰のお気に入りなのか知らないけど、あいつは頭がどうかしている」
あの道化気取りの世迷い言を、兄はやはり全部聞いていたらしい。弟の褒められたものではない返答まで聞いたのであれば、その前段階のやり取りも耳に入ったはずだ。年上らしい一応の建前を口にする兄に、クリストフは反論を試みた。
向かい合うと、兄とは容姿がよく似ているのがよくわかる。異母兄弟であるという、大人達が何より重く考えている事を、クリストフには何回その話を説明してもらってもよくわからなかった。少なくとも、血の繋がった上の兄弟を軽んじる理由にはできなかった。
それをさっきの楽士も、周囲のあんな反応も。そもそも、故人を貶めて耳目を集めるような、それを聞いて喜ぶと思われている事実の何もかもを、到底許せるとは思えない。
「あれは僕を見舞いに来たんじゃなくて、僕が子供だと思って、何もわからないと思って。……あんな話は二度と聞きたくない、聞かない」
まだ憤慨しているクリストフに、兄はやれやれとため息をついた。二人はいつものように連れ立って庭の散策を始めた。王宮内の、クリストフですら耳を塞ぎたくなる噂話が、どこまで兄の耳に入っているのだろう、と少し不安になる。
周囲の大人達の思惑に反して、兄弟は仲が良かった。
「……相談?」
小道を歩きながら、クリストフは兄に話を切り出した。遠くから響いて来ているのは、祖母が管理している古いピアノだろう。側面に絵がかいてあるのを知っていた。しかし楽器は繊細だから、との理由でこの兄弟に触る許可は未だ出ていない。
兄は音が聞こえて来る方に顔を向けながら歩みを進める。知っている曲なのか聞いてみると、小さい頃の耳にしたことがあって、しかし曲名も詳しいは何も知らない、と言った。
「覗いてみましょうか? 兄上」
「多分おばあさまが弾いているんだ、いつでも聞けるよ。それよりクリス、相談とは?」
「……はい、兄上だけに」
ジルベールはしばらく逡巡していたが、やがて自室へ向かう方向へ歩き出した。クリストフの方は誰かしらが尋ねて来ていて騒がしいので、素直に従う。
「あ、兄上。カエルがこんなところに」
「えっ」
兄は機敏な動きで、クリストフが示した方向から飛びのいた。クリストフはたまたま見つけた小さな緑色の生き物を、どうしたものかと思案する。誰かに踏まれて潰れてしまうのも可哀想で、近くに落ちていた木の枝で軽く突いて、道の端へと追い立てようとした。
「見せなくていいから……」
大嫌いな小動物の行方を確認しようと後ろから覗きこんだ兄は、振り返ったクリストフが持っている枝の先に飛び移ったカエルを見て大袈裟な悲鳴を上げる。騒々しいジルベールを尻目に、なるべく暗くて湿り気のある場所を探して、放してやった。
「……身体が小さくて目は大きくて、可愛らしい生き物なのに」
クリストフの見た事がある生き物の中で、愛らしさでは猫犬小鳥に次ぐと思っている。ぴょこぴょこ跳ねての移動や、子供の頃は全く違う姿をしている、というのも面白い生態である。生まれたばかりの姿には尾があって色は黒なのに、あの緑色はどこから来るのだろう、と興味は尽きない。
「お前だってヘビが怖いクセに。調子に乗るな」
クリストフは正直な意見を口にしたつもりだが、兄の自尊心をいたく傷つけたらしい。追いかけっこが始まって、流石に病み上がりの身体能力では歯が立たず、幾らも逃げないうちに捕まった。
「ヘビは噛むけど、カエルは悪さをしないでしょう」
うるさい、とクリストフは兄の手によって芝生の上に転がされた。その後もくすぐられもみくちゃにされて、兄の居室に近付く頃には一人だけ嵐の中を彷徨った旅人のような恰好である。
「病み上がりなのに、ひどい。せっかく新しい服も出してもらったばかりなのに」
「悪いな、うっかりしていた」
仕方のない弟、とばかりに兄が髪や服についた芝草を払う。騒々しい寄り道を経て目的の場所へやって来ると、花壇の前で何やら相談をしている若い二人の青年が、兄弟王子を振り返った。一人は兄の専属である若い宮廷医務官だが、もう一人には見覚えがない。彼は大きなシャベルを片手に、何やら花壇の造成でも始めるつもりのようだ。
「殿下、おかえりなさい。ちゃんとお見舞いに行けたようですね」
クリストフの知らない若い男は快活な笑みを浮かべて、連れ立って戻って来た兄弟を出迎えた。一番最初に思ったのは、土くれいじりという作業内容と、服装や雰囲気のバランスが取れてない。それから嫌と言うくらい見慣れている、こちらの機嫌を下から伺うような笑い方ではなかった。そんな風に庭師の真似事をしている男が、兄に親し気な様子で話を振った。
「あまりに殺風景なので何か植えようと思って、相談していたところです。何か希望があれば今のうちに」
「……そんな事を言って、庭を池に改造して、釣りでも始めるつもりなんでしょう? 許可なんて出しませんよ」
「……殿下はお見通しか、それは残念。我らが同好会の計画は練り直しだな」
どこまで本気なのか、男は笑いながらシャベルで花壇を掘り返し始めた。ジルベールの苦笑交じりの意見に、居合わせた医務官は大きく咳払いして、明後日の方向に慌てて顔を背けた。クリストフの記憶では真面目な人柄だが、笑いを堪えているかのようだった。
行くぞ、と兄は弟を部屋の中へ招き入れた。
「兄上、あの人は誰でしょう? 初めて見る顔ですね」
身の回りにいる人間の顔はできるだけ頭に入れるようにしていた。王族の側に上がる人間なのに顔を把握していないのは妙な話である。最近来たばかりだから、と兄は無難な回答を寄越した。
部屋の中は調度品はきちんと整えられているものの、クリストフの方と比べると随分と殺風景である。
「……あれは警戒する必要のない相手だ。私にだって冗談の一つや二つ、言い合える人間がいてもいいだろう?」
兄が何を根拠に断言しているのかよくわからないが、そういう人間がいるならクリストフにも紹介して欲しいところである。二言目には便宜を図って欲しい話に移行するのはうんざりだった。兄の従者がお茶を入れてくれて、二人はとりあえず口をつけた。
「この時計を見て欲しいんです」
クリストフは首から下げていた銀時計を兄に手渡した。文字盤の部分が黒くてやや小ぶりな、女物と思われる銀時計である。これを身に着けた状態で目を覚ましたという奇妙な入手方法は、まだ幼い子供にとっても不思議、としか言えない。
「……これをもらって、それで朝起きたらそのまま持っていた、と」
クリストフはできるだけ正確に、丁寧に夢の内容をジルベールに説明したがあまりにも支離滅裂な子供の言動そのもので、自分でも喋っている間に自信がなくなってきた。一応、懐中時計自体は職人達の組合の刻印と年月日が施された正規品のようだ。
しかし、である。
「記載がおかしくないか」
兄の指摘した通り、製造年月日として刻印されている日付は今日から何年も後の記載となっている。上質な正規品にはまずありえない不良に、兄は何か真剣に考え込んでいた。
横でその様子を見ながら、クリストフはある事が気になり始めた。
「ところで兄上。……少し、痩せましたか?」
「そんな事はないよ。それで、そのキアラと名乗った女性は、起きている時に会った事はないのは確かなのか」
今は兄の手にある時計によると午後の三時を過ぎで、日の当たり方が変わった影響なのだろうか。クリストフは自分によく似た兄をじっと観察した。以前より痩せたようにも思えるが、確信はない。ジルベールは弟の疑問を一蹴して先を促したので、クリストフは不審に思いながらも話を進めて行く。
夢の中で、孤児院での奉仕について言及していたのを覚えているので、それなりの家柄の女性である事までは推測できた。しかし名前を頼りに調べてみたが、該当しそうな年齢の女性はそもそも存在していなかった。その上、会えたのは最初の一回だけで、それ以降の夢には一向に姿を現さない。
「具体的に、どんな女性だったのか覚えているか?」
「はい、とても優しくて綺麗なお姉さんでした」
クリストフは自信満々に返事をした。しかし兄が知りたかったのは風貌やおおよその年齢の情報だったようで、苦笑されてしまう。
「きっとあれだ。彼女は世界中の子供を悪夢から守るために戦いの日々を送っているので、今頃は別の子供を助けているんだ。この間がたまたまた、クリスの番だったんだろう」
「……ええ、そんな」
もう諦めろ、と神妙な顔つきの兄に、弟は嫌だと全力で抵抗した。借り物の銀時計を返さなくてはならないし、何しろ助けてもらったお礼も言えないままである。クリストフの必死な様子を兄は投げやりな表情で慰めていたが、やがて思いついたように、それならと切り出した。
「……夢、に関する文献が宝物庫にあったような気がする。行ってみるか?」
「行きます」
何か手がかりがあるなら、と即座に立ち上がった弟に兄は苦笑している。ジルベールは窓から外に向けて、宝物殿へ向かうと伝言を残している。釣り堀はダメだと言っているでしょう、と再三言いつけている声が聞こえた。咎めている口調の割には楽しそうで、それが不思議だった。