⑥博物館
キアラは翌朝目を覚ましたのは、王都にある屋敷の寝室だった。あれは夢だったのか、と天井も壁の模様も見慣れた光景である。何故自分が荒野を彷徨ったり、泥沼に突撃したりしなければならなかったのか、と再度沸き上がって来た怒りも、夢なんてそんなもの、とベッドでぼんやりしているうちに落ち着いて来た。
とりあえず、夢を見ている最中にもう一度眠ると解決するらしいと覚えておく事にした。
「きっと、ココちゃんのせいでちゃんと月明かりを集められなかったのが原因ね」
先に起きて窓辺から外の様子を点検している白い飼い猫を見ながら、キアラは起き上がって枕の下しまっておいた時計を回収しようと試みた。しかし銀の鎖も本体も捕まえられないので、よいしょと枕ごと持ち上げる。
「……?」
ところが、枕の下には何もなかった。寝相が悪くて落としたのか、とベッドの下や床、マットレスの隙間をくまなく探してはみたが、どこにも銀時計は見当たらない。夢の中で同じく携帯していた、祖母から譲り受けた洋扇子の方は、昨晩飼い猫ココの横たわっていた辺りに放置されていた。一応、飼い猫の悪戯による損傷は見当たらない。
「ねえココちゃん、時計は?」
キアラは白猫に一応声を掛けたものの、もちろん返事があるわけがない。別の人間に渡してしまった、と思い当る事が何もないわけではない。ただ、眠っている間の出来事であって、キアラの横で眠りに着いたあの少年は、夢の中の登場人物に過ぎないはずだ。
「……あの子の名前が、クリストフ」
いやまさか、とキアラは頭に浮かんだ一つの推測を、馬鹿馬鹿しいと掻き消した。五歳前後の子供と二十代の婚約者の姿を頭の中で比べてみたが、体つきも何もかもが違い過ぎて検討のしようがなかった。本当に単なる夢の登場人物の一人に過ぎないというなら、悪夢に悩まされている子供は存在せず、それでも何の心配もないのだが。
「お嬢様、よろしいですか?」
枕を抱えて考え込んでいると、部屋の外から呼ぶ声がする。問題ないと返答すると、ばあやとキアラの身の回りの世話を担当している若い侍女達が入って来た。
「さあキアラ様、今日は博物館へ行くんですからね、公爵閣下と。気に入ってもらえるよう、落ち着いた雰囲気のドレスにしようかと皆で話し合っていたところでございますよ。とりあえず朝食からですね」
そう、いくら不思議な夢を見た後だとしても、キアラには今日は大切な用事がある。婚約者であるクリストフから、今日は王立施設の見学に誘われているのだった。昨日は王宮でのお茶会から奇妙な夢まで色々あったけれど、身体も気分もあまり疲れていない。それも不思議で、しかし単に夢だからと言われればそれまでの話だが。
「……本日はお誘い頂きまして」
「こちらこそ、長らくお待たせしてしまって」
定刻より少し早めに、王立博物館の前でキアラは婚約者のクリストフと顔を合わせた。実は今日は休館日なので、馬車を停めるための場所には、先にやって来ていた公爵所有の物と思われる一台しかいない。陽ざしが強いので日傘を差しながら、軽い挨拶を交して入口へと向かう。
親交を深めるため、二人でどこかへお出かけしませんかというこちらからの提案に、クリストフは博物館という思わず身構えてしまうような内容の手紙を寄越して来た。世の中の恋人同士、婚約者同士という間柄の二人が向かうには少々、方向性が違うような気もして戸惑ってしまった。しかし返信を読み進めてみると、普段は王宮宝物殿の収蔵品の一部を、近いうちに初公開と銘打った特別な展示を開催するらしい。
事前販売の入場券は既に完売しているらしく盛況ぶりが予想されたが、なんと一般公開前の休日にこっそり入れてくれるのだそうだ。資金面や展示品について、クリストフも王族の一人として随分と協力を行ったらしい。国外からわざわざ見に訪れる人もいるくらいなので、二人で人目を気にせず観て回れる、というのは魅力的に思えて来た。
三十代前半の職員らしき男性が入り口で待っていてくれた。どうぞ、とガラス張りのドアが開き、ひんやりとした空気に出迎えられた。公爵閣下には多大な寄付とご協力を頂きまして、と背後のやり取りを聞きながら、キアラは吹き抜けになっている玄関ホールを見上げた。子供の頃の記憶と同じ、クジラの巨大な骨格標本が吊り下げられている。これを領地の本邸に飾るとして、広さとしては不可能ではないはずだが、確かに実現性には欠けるだろうな、と少しばかり懐かしい思い出に浸る。
どうぞ、と話を終えたらしいクリストフが腕を貸してくれるそうなので、キアラは自然に聞こえるように返事をしながら素直に従う。これも婚約者の義務である。照明が調整された博物館の中は静かだった。自分達の足音と衣擦れの音だけで、後はもう何も聞こえる事はない。
もちろん、それぞれの家からの従者達が静かに、適切な距離で後を付いて来てはいる。なるほど、と実際に来てみると日傘を持ち歩く必要も、日焼けの心配もしなくて楽なのかもしれない。
「……展示に協力、というのは?」
「ええ、歴代の王族達の収集した品が収められている宝物殿を、兄と協力して少しずつではありますが鑑定、整理を行いまして。海の向こうの異国から持ち帰られたのは、美術品から日用品と思われる物まで多岐にわたるので難航したのです」
まずは船の模型が展示されていて、嵐に翻弄されながらも勇ましく進んで行く、大きな木造船のレプリカが出迎えた。彼らには多くの困難が立ち塞がったのだ、と説明のパネルが添えられている。飢餓や遭難、船上で流行する原因不明の病気で、全滅に追い込まれるケースも少なくはなかったとされている。
「病気の原因は食事に関係するというものから、海風に長く当たるためとか、もしくは異国の寄港地でよくない病気を乗せた、と所説あって」
クリストフが丁寧な補足や説明を加えてくれた。展示品の説明をそのまま読み上げているわけではなさそうなので、きっと一通り頭に入っているのだろう。仕事の繁忙期が終わった解放感が嬉しいのか、キアラの婚約者はいつもより饒舌だった。
「とにかく、こちらを貴女にお見せしたかったのです」
「……これは」
ショーケースの中に収められるのは、キアラの持っている扇子と似ているようで、細かい作りは違う。持ち手の先端には長い、リボンとは異なる形状の紐飾りがついていた。キアラも、祖母から譲り受けた洋扇子のルーツが海の向こうの遠い国だと知ってはいたが、実物を見た事はなかった。
「……大事にされている、という話を耳にしまして」
「ええ、その通りです。祖母が私にと、自分が使っていた物を持たせてくれたのです」
祖母は若い頃に苦労したそうで、自分の小さい頃に似ているキアラが心配で仕方がないらしい。今は腰を痛めて療養中の、キアラにとってはピアノを熱心に教えてくれた存在である。自分で練習曲を作り、孫娘に課題として出すのである。苦手な指遣いがこれでもかと詰め込まれていて、とにかく難しかった。
「……以前に領地のお屋敷に伺った際には、湖の方まで風に乗って、ピアノの音が聞こえていましたよ。耳にした事のない曲ばかりで、不思議に思っていたのですが」
「……それは」
キアラの想像では、釣りに出かけた男性陣はわいわいと騒いでいるイメージだったので、まさか演奏を聞かれている自覚はなかった。そう言えば先日も、クリストフは弾き終えた直後に顔を出したのを思い出した。外で頃合いを見計らっていたのだろう、と今更ながら恥ずかしくなった。
「……拙い演奏でしたね、きっと」
「いや、……私も兄も、音楽をはじめ芸術に関する才能は一切ないと教師が匙を投げましてね。祖母はあのピアノを絶対に触らせないのです。壊したらどうするのだ、と」
「私も劣等生でしたから。優しく教えて差し上げる事も可能ですよ?」
「……拙いの度合いを舐めていると痛い目に遭う、とだけ言っておきます」
上手に弾けないのはともかく壊す、というのはどういう事かとキアラが問いただす前に、クリストフから扇子についての追加の説明が入った。表面は経年による劣化が進んで色あせてしまっているが、目を凝らすと異国の建物と女性の絵、それから文字と思われる物が書かれている。
「かの国では、想い人は夢に出て来ると信じられていたそうです。この話ではある男がそれを大層喜んで、恋い慕う女性の元を強引に訪れるという筋書きで」
海の向こうでは、夫婦といえど住まいは別になっていて、夫が妻の元に通うらしい。文化も何もかもが違うとなると、不思議な風習を聞いているだけで一日が終わってしまいそうな気がしてきた。
それから、異国は随分と都合の良い解釈をするものだ、とキアラは思う。しかしよく考えてみると、結果的には沼地でヘビに襲われる夢になったが、本当はクリストフの事をもっと知りたいという夢を希望したのだった。キアラもその海の向こうの者達と都合の良さではあまり変わらないかもしれない。
名残惜しくも扇子の展示から離れると、観賞用に盛んに輸入された異国の壺が製作地や年代別に置いてあり、その後は壁に飾る絵が並べられている一画にやって来た。風景や動物が多い中、キアラは不思議な物を見つけて足を止める。
「これは、……何の生き物でしょう?」
絵の具や画風がこの国で主流の物と異なるので、上手なのか下手なのかもよくわからない。豚に似ているようにも見えるが、鼻の形が独特で、おまけに色も黒と白のはっきりと二色に分かれている奇妙な動物の絵姿である。
「……想像上の動物ですね、悪夢を食べてくれるという言い伝えがあって」
「……悪夢、ですか」
名前の響きも異国風で馴染みがない。教えてもらった二文字の名前を、キアラはもう一度聞き返さなければならなかった。
「それにしても、夢に関する内容が多いのですね。それには何か理由が?」
「ええ、お察しの通り、かつて王宮に住んでいた者達が突発的な睡眠不足による体調不良に悩まされた時期があったようなのです。それであちこちに内密に解決方法を探させていた結果、関係のありそうな品物が集まったようです」
今のは内密に、とクリストフは声を潜める。キアラは頷いて、それから自分が昨日見た不思議な夢の事が思い出された。そっと展示品を眺めている婚約者の横顔を注意深く観察してみたが、夢の中の子供と似ているのか、似ていないのかやはり結論は出なかった。
「……あの、クリストフ様、この話は秘密にして頂きたいのですが、私も不思議な夢を見たのです。寝ているのに起きているのと同じような感覚で、少し驚いて」
キアラは口にしてから、変な事を言ったかもしれないと少々不安に陥った。しかし、クリストフは笑ったり気味悪がったりはせず、そのような話が意外と多いのだと真面目な見解を示してくれた。覚醒時と変わらない明晰な思考によって音楽家が新しい曲を思いついたり、哲学者が新たな考え方を見出したりした例があるのだと言う。
クリストフにそう教えてもらい、昨日の夢はそこまで珍しい事ではなかった、という事がわかって少し安心したような、反対に少し残念なような不思議な感覚である。銀時計が消えた事や、婚約者と同じ名前の子供と出会った事は、流石に口にするのは憚られた。
「良かった、他にも経験された方が何人もいらっしゃるなら心配する必要もなさそうです。不思議な事に変わりはありませんけど」
クリストフ様のおかげです、とキアラは婚約者にお礼を言いながら不思議な動物の絵に視線を戻す。改めて見ても、これが犬猫の様に動き回っている姿は想像がつかなかった。それ以外に背景も何も描かれていないので、大きさもよくわからない。
「……一つ、提案なのですが」
そんな調子で熱心に考察をしていたキアラは、クリストフに不意を突かれた形で振り返った。彼は数ある収集品ではなくキアラを見ていた。薄暗い照明の関係なのか、いつもと違う眼差しに感じられて戸惑っている間に、彼はあくまで穏やかに話を切り出す。
「二人でいる時は、そろそろ様をつけて呼ぶのは止める事にしませんか」
「……しかし」
「公爵と、未来の公爵夫人は対等の立場でしょう」
クリストフが口にした提案は、親交を深める上で特に不自然ではない。しかし元々王族という立場なので、キアラとしては抵抗しておきたい気持ちの方が強い。それをどうにか言葉として婚約者に訴えたが、相手は残念ながら引き下がってはくれなかった。
こういう場合の切り札として、父に怒られるという言い訳は一般的だが、残念な事にキアラの父親はそのような考え方とは無縁の優しい性格である。そしてそれはヴァンティーク侯爵と幼い頃から面識のあったクリストフもよく知っている。
「……せめて、今日一日一杯は猶予を下さいませんか」
「では、ここで一度口にできたらという事で。さあどうぞ、キアラ」
まるで譲歩しているように見せかけている婚約者を少々恨めしく思いつつ、キアラがクリスと呼んでその場を後にするまでには相当の時間がかかった。名前を呼ばれた相手がやけに上機嫌なのは、仕事から一時的に解放されたからに過ぎない、とキアラは自分に言い聞かせながら残りの展示の見学に集中する他なかった。