⑤彼の夢の中
気が付くと、キアラは荒野に立ち尽していた。
「……え?」
空は分厚い雲に覆われていて夕方なのか朝焼けなのか、赤っぽい色に染まっていた。見慣れている領地の屋敷周辺や王都の景色ではなく、辺りには背の低い枯れ草が散らばっているだけで、荒涼としている。
キアラの服装は乗馬をする時に着るドレスで、足元は外出時は履くお気に入りのブーツだったので、多少動き回るのに支障はない。左右の手には銀時計と、それから祖母にもらったお気に入りの扇子を握っていた。ベッドに入ってこの二つを飼い猫と取り合いになったのを思い出して周囲を見回したが、愛しの白い姿は見当たらない。
「……ちょっと待って」
キアラは記憶に必死に辿った。今日の昼間は王宮でお茶会に招かれ、少々気疲れしたのは事実である。しかしその姉や弟と楽しいやり取りをしてから、ちゃんと自分のベッドで眠りについたはずだった。昼間の婚約者や、家に戻ってからの父や飼い猫のココとのやりとりも詳細に思い出せる。
それがどうしてこんな人気のない場所に移動しているのか、キアラは頭を抱えたが、それで状況が好転するわけではない。キアラ・ヴァンティークは確かに自分の部屋のベッドで眠りに着いた。ここまではちゃんと把握できている。
「これが、姉様の言っていたおまじないの効果、という事なのかしら」
月明かりを集めた銀時計を枕の下に敷いて寝て、好きな夢を見るという可愛らしいおまじないを教えてもらい、その通りに実行した。ちなみにクリストフの事を知りたいとお願いしたつもりだが、今のところ彼の姿も周囲には見当たらない。
「それにしても、ここは本当に夢の……中?」
キアラはひとり言を呟いた。夢を見ている状態にしては感覚が、起きている時と何一つ違わない。普通に歩ける上に、時計の鎖の感触や扇子を開いた感触もいつもと同じだった。
キアラが普段眠っている時に見る夢、というものは大抵あやふやで、勝手に内容も進行していく。起きている時の記憶と内容が少し繋がっている場合もあるものの、何かおかしいと思っても奇妙な展開のまま続いていく。そして余程の事が無い限り、目が覚めて数時間もすれば内容はほとんど忘れてしまう。それが寝ている時の夢、というものだ。
そんな事を考えつつも、立っていても状況の好転は望めそうにない。キアラは荒れ地を歩き出した。やがて背丈と同じ位の高さがある枯れ草が現れ、それがどこまでも広がっている。
絹製の薄い手袋をしているので、乾いた草で手指を切ってしまう心配はない。右手で草を掻き分け、キアラはその中へ進む事にした。もしこのまま誰にも発見されないままだったら、という不安も一緒に頭から追い出す。本当にキアラの身体が寝室から消えていたら、屋敷の誰もが血相を変えて探してくれるはず。父も帰って来たので、迅速に対応してくれるに違いない。そうでないのであれば、朝になるのを待てば良いだけの話である。
こんな荒れ果てた風景ではなくもっと楽しい場所、できれば休める場所へ出たい、と願いながら歩き続けていると、突然地形が変わった。草原は終わりを告げて、開けた場所に出る。むき出しの地面は人間が踏み均した形跡がないので平坦ではなく、とても歩きにくい。ところどころぬかるんでいて、朽ちた木や苔の生えた大きな石が転がっていた。それは何やら、見方や場所によっては倒れ伏して動かなくなった人間の成れの果てにも見え、殊更に不気味だった。完全に悪化しているではないか、と文句を言いながらキアラは足を止めて、引き返すかどうか思案しなければならなかった。
決してこのような、見知らぬ場所を彷徨う夢を見たかったわけではない。試しに絹の手袋をはめた手の甲をつねってみたが、その痛みでベッドの上に戻れはしなかった。キアラは夢の中に持ち込む事に成功したらしい銀時計と、祖母の扇子の所在をもう一度確認する。人前へ出る時と同じく、手に馴染んだ感触で少し落ち着いた。
「よくある悪夢というのはあれでしょう、夜更かしする悪い子供を狙うはずなのに」
どうやったら目が覚めるのだろう、と足を止めて考え込んでいる時に、人の声を聞いたような気がした。助けて、という音を耳が拾って、聞き間違いでなければ子供や女性の甲高いものだった。足元のぬかるみに注意しながら声の方向へできる限り急いで進むと、今度は霧が立ち込め、淀んだ水をたたえた沼が見えて来る。水面が揺れて、もがいているのはまだ小さな子供だった。キアラは慌てて池の周りを走って、一番近い場所に立つ。助けに行くには、この沼の中に入る以外に方法はない。
父の趣味の関係で、ヴァンティークの屋敷や別荘はほとんどが川や池、湖近くに立地していた。外へ出る時は必ず男性使用人がついて回って、万が一の事態が起きないようにされている他、対処法もちゃんと教えられている。
釣り自体は男性の遊びなのでキアラはやった事はないが、夏の暑い時期に水の中へ入って泳ぐのは嫌いではない。万が一溺れた時は力を抜いて、浮く物を岸辺から投げてもらう、という内容だがここでは役に立ちそうにない。
夢の中で溺れたら一体どうなるのだろうと頭を過ったが、それより子供を見捨てるわけにもいかないのでドレスに手を掛けた。ここはたかが夢の中の話じゃないか、と逆に思い切って行動に移す決意が固まる。絹の靴下越しに伝わる水の冷たさに顔を顰めつつ、キアラは水の中へ入って行った。
幸い、沼はそこまで深くはなかった。どうにか歩いて相手を捕まえられる程度ではあったが、溺れてパニックに陥っている子供にしがみつかれた状態のまま岸まで連れて来る間に、キアラも何度かバランスを崩して頭から水を被る羽目になった。どうにか助けた子供と一緒で間違いなく、小汚い恰好である。
足元で咳き込んでいる子供の背中を叩いてやって水を吐かせた後で、置いておいたドレスをとってきて顔を拭いてやった。大きくても五歳くらいの男の子だろうか、とうずくまった子供に寄り添いつつ、キアラは見当をつける。
「……ヘビがいるの、大きい奴」
怯えている子供の視線の先、霧に覆われた沼地の奥に、何か黒く大きな生き物が身動きしたのが見えた。ぼんやりと赤い目が、霧の奥に光っているのが見えた。恐ろしい事に、黒い体躯はキアラとあまり変わらない太さだった。子供の言う通り、頭から尾にかけての大きさが一体どのくらいなのかは想像がつかない。
「……あれは」
これが幼い子供ならしばらく怖がっていそうなものだが、現在十六歳のキアラの頭に一番最初に浮かんだのは、こんなに大きなヘビがいるわけがない、という現実的な指摘だった。少なくともこの国にはいない。怖がらせるためにあのような姿をとっているなら、それこそ術中に嵌る必要はない。
口の中や、腕で拭った顔の辺りまで砂のじゃりじゃりとした感触がする。どうしてキアラ・ヴァンティークともあろう自分が、夢の中でこんな目に遭わなければならないのか、とやり場のない怒りがふつふつと沸いて来た。濡れて身体に張り付いた衣服が、苛立ちを増幅させる。
あまりに現実離れした展開と、夢だとわかっているからという理由で、怖いとは思わなかった。
「……来るなら来たらいいのよ」
洋扇子を目玉に刺してやる、とキアラはいつもとは逆に持ちつつ、真っ黒な蛇を睨み据えた。反対の手にある銀は古来より魔物を払う力があると言われている金属である。キアラが二つを握り締めながら立ち上がると、蛇が慄いたようにも見える。そのまま、霧の向こうへ姿を消した。銀を持ち出したのが効いたのか、キアラの気合いなのか、それとも全く別の要因があったのかはわからないが。
「とりあえず今のうちに」
今のうち、とキアラは足元の子供の手を引いて身を翻した。抱いて運んであげられれば一番なのだが、そこまでの腕力はない。宥めて励まして、もう少しだと根拠のない事を言いながら手を引いた。
握りしめている時計が、自分の体温の熱が伝わったのか暖かく感じた。早足で歩くうちにまた景色が変わって、今度はキアラの知っている場所だった。思わず振り返ると似たような景色が広がっていて、それはついさっきまでいた沼や荒れ地とはかけ離れた、広い緑の草原である。
丘の上から見えるのは深い青をたたえた湖と、赤いレンガ造りの洒落た洋館だった。ヴァンティークが領地に所有している別荘の一つに酷似していた。空もいつの間にか夕方の、晴れた鮮やかな夕焼けである。きっと別の場所へ来ることができたのだ、と安堵が広がった。
「よかった、ここまで来たらもう安心ですよ」
キアラは黙って腕を引かれるがままの子供に声を掛けたが、疲れ切っているらしく返事はなかった。溺れて死にかけ、おまけに巨大な蛇に襲われたのだから仕方がないだろう。
もしかしたら、と各別荘に住んでいる管理人の助力を期待したが、残念ながら姿はどこにも見えなかった。玄関までたどり着いて扉に手を掛けると、鍵はかかっていない。彼を待たせて少し中を調べると、人がいない代わりに適度に熱いお湯の張った浴槽が用意してあり、ちらりと見えたテーブルの上にはパンと飲み物が用意されているのが見えた。
「なんて幸運なんでしょう。さあ、とにかくお風呂。温まらないと。風邪を引いてしまっては大変ですからね。私はこれでも、父の手伝いで孤児院や救護院に顔を出していますからね、慣れています」
これだけ用意がしてあれば、人の手を借りなくてもキアラ一人で何とかなるだろう。子供を浴室へ追い立てて、とりあえず腕まくりをして気合を入れ直した。人見知りを治すための第一段階、という事でキアラは領地内の奉仕活動への参加を積極的に行っていた。父に割り振られたのは孤児院での子供達の相手で、貴族の女性がそういった施設へ貢献するのは珍しくない。結婚相手に渡る資料に、心優しく奉仕の精神を持ち合わせている、との一文が付け足されるのだ。
「あの、僕一人で……」
「さ、遠慮しないで」
汚れている子供ははじめは少しばかり嫌がる素振りを見せたが、キアラは押し切った。まだ彼は一人で入れる年齢ではないし、途中に浴槽や床のタイルで足を滑らせては困る。途中から諦めたのか無抵抗になった幼児を暖かなシャワーで洗ってやって、キアラは弟の小さい頃の服を探して着せてやった。サイズはぴったり、とは行かないまでも袖や裾を数回折りたためば問題ない。
探して来た毛布で小柄な彼を包んで、先にソファに座らせる。キアラ自身も、湯浴みと手早く着替えを済ませて部屋へと戻った。暖炉の上に置かれている陶器製の猫の置き物は、飼い猫の耳だけ茶色の毛並みが再現されている。他にも猫柄に刺繍の施されたクッションの図案など、夢の中では忘れかけていた事が詳細に再現されている。
「……大変な目に遭いましたね」
やるべき事が一段落して、深くもたれながらキアラはしみじみと呟く。夢の中なのに動き回ったせいか、身体はだるくて疲れて切っていた。自分の髪だけはまだ水分が取り切れていないので、タオルを持ってきて拭いていると、隣で毛布にくるまっていた子供が身動きした。
「……ごめんね、僕のせいで」
小さな彼がソファの上に立ち上がって、キアラの髪から水気をとる作業を手伝ってくれた。二人は無言のまま、長い髪をタオルで挟んで叩き、水気をとる音だけが響いた。
ちらりと盗み見ると、柔らかそうな黒髪の、それなりに整った顔立ちのきれいな子供である。勝手な見立てでは、少なくとも親を亡くして孤児院に入るような身の上ではないように思えた。彼が熱心に手伝ってくれたので、そのうちにキアラの髪は完全にとはいかないもののある程度まで水気を取り除くことができた。
「どうもありがとう。一人ではどうしようかと思っていたところです」
「お姉さん、髪が長いと手入れが大変でしょ?」
「……ええ、いつもは侍女達が」
数が揃うと少々かしましい場合もあるが、彼女たちの仕事はいつも丁寧で、頭が下がる思いだった。キアラの周囲にはいつも誰かしらがいてくれる。大好きな家族や頼りになる使用人達が誰も一人いない、というのはキアラにとっても少々心細い感覚だった。
彼は眠たい頃合いだろうか、と覗き込んだが目はしっかりと開いて、暖炉の火をじっと見つめていた。
「ミルクを温めて差し上げますからね。それを飲んだら少し休みましょうか」
キアラの提案を、しかし彼は彼は横に首を振った。
「……眠れないの。怖くて、どうしたらいいのかわからない」
「蛇は追い払ったから、ここまで追いかけて来ませんよ」
「本当に怖いのは蛇じゃない。なのに、僕にはどうする事もできやしないんだ」
子供は口を閉ざし、俯いて黙り込んでしまった。その項垂れている小さな体に、夜更かしをしたのでしょう、としたり顔で口にするのは憚られた。小さな背中は、キアラの弟もよく怖い夢を見た、と泣いていた事を思い出させた。そういう朝だけは何故か飼い猫は優しくて、彼に寄り添って慰めていたのを覚えている。ただし、怖い夢の恐怖が薄れる頃にはいつもの素っ気ない態度に戻ってしまうので、ついさっきまで優しかったのに、と別の意味で弟は泣かされていた。
それと同じように、まだ彼は小さくて、夢と現実の区別もなかなかつかないとなると、恐ろしい思いをしたに違いない。まだ幼い子供が寝ていない、ということは精神的にも体力的も消耗しているだろう。
「……あなたは優しい子なんですね、こんなに小さいのに」
キアラが彼の、まだ少し湿っている黒髪を触ると彼は素直に体を寄せてきた。彼が包まっていた毛布に二人で潜り込むと、少し暖かく感じた。
自分は随分と周りに甘えさせてもらった子供だった。よしよしと抱き締めて頭を撫でてあげるような大人が、起きている時のこの子にもいて欲しいと、心の底から願うばかりである。
「では、少し夜更かしをする事にしましょう。話したい事がたくさんあるのです」
キアラが改めて提案すると、横に座った彼は小さく頷いた。そうでなければ、申し訳ない事にキアラだけ寝てしまいそうな気がする。子供の様子をうかがいながら、とりあえず飼い猫の話から始める事にした。物心ついた時にはそばにいて、しかしちっとも触らせてはくれない。ただ、怖い夢を見て泣いている時に限っては体をすり寄せてくる時もある、憎めない相手である。
子供も時折、相槌を打ったり笑ったりしながら聞いてくれた。
「……そう、きっとココちゃんがおまじないの邪魔をしたんですよ。時計を敷いて眠ってしまって」
猫の話が尽きたあたりで、疲れたのと暖かいので段々眠くなってきたキアラはそうだ、と良い事を思いついたような気分になった。
「……ここはきっと私の夢の中ですから、眠った後はここへ来るようにしたら良いんです。素晴らしい考えでしょう?」
不思議そうな顔で見上げる子供を不安にさせないように、できるだけ明るい声で話すように心がけた。ここまで来れば、あのような怖ろしい魔物はいない。キアラがヘビという生き物を怖いと思っていないからだ。キアラは自分の大切な懐中時計を、彼の小さな手に握らせた。
「父様と母様がキアラに、と腕の良い職人を頼って探してくれたのですから、きっと貴方を守って下さいます」
銀は魔よけの効力がある、とはそこそこ有名な逸話なので、何もしないよりは心強い。大人用の時計は、受け取った相手が首から下げる長さにちょうど良かった。
「……いいの?」
キアラは鷹揚に頷いて見せた。現在の時刻は六時を少し回ったあたりを示している。彼は首から下げた時を手に持って、じっと見下ろしている。
「文字盤の部分が黒だと、格好いいね」
「これには銀と、お月様のおまじないがかかっているのです。あなたを助けてくれた、幸福な夢を見るための鍵ですよ」
キアラはこのおまじないのおかげで酷い目にあったが、彼はそのおかげでヘビに食べられるか溺死の二択を免れたのだから、彼にとっては都合の良いおまじないのはずだ。寝る前に姉から聞いた手順を丁寧に順を追って説明した。
「時計が一時間分、です」
「短い針が一つ分ってこと?」
子供は素直な気性なのか、キアラの話を熱心に聞き入っている。話している間は、眠れないという不安から少し離れる事ができるのかもしれない。楽しい話、とキアラは今度は弟がしていた話を思い出した。
「それからこれが、ブイサインと言うらしいのですけど。これを知っている大人がたくさんいて、助けてくれるんですよ、おそらく」
話題が途切れないように、キアラは思いついた事を次々と子供に話して聞かせた。エリックの話を信じるなら、これを冗談交じりでも、同士の証だと認識している大人が一定数いる事になる。知らなくても、幼児がちょっと変わったポーズをとっているだけの話なので、大して問題もないだろう。
「……私の弟が、最近はちょっと生意気になって来たんですけど、子供の頃は夜に一人じゃ寂しいって、よく私の隣にやって来てくれたのです。可愛い頃もあったな、ってちょっと懐かしくて」
風の音が怖い、雷が怖い、と何故かいつも潜り込むのはキアラの横だった。大人になった今、似たような状況にいると、子供の体温がいかに高いのかよくわかる。
「そうそう、言うのを忘れていました。私はキアラです」
「僕はクリストフ」
ヴァンティーク侯爵の、と付け足す前に彼の口から出た名前に、キアラは思わず目を見張った。少年をまじまじと改めて覗き込んだが、彼はそれには気がつかないまま、大事そうに時計を抱え込んで目を閉じた。
「ちょっと眠くなって来た、ような気がする」
彼の期待と眠気が混ざったような声を聞きながらまさか、とキアラは心の中でつぶやいた。婚約者の名前はそう珍しいわけではないが、これが幼少期の姿と言われると信じてしまうかもしれない。
そう言われれば確かに、あの婚約者にも幼少期は存在したのである。今でこそどこか人を寄せ付けない、冷徹だと世間では恐れられていても、キアラに対しては丁寧だし、兄には頭が上がらない様子なのは今日知った。
次に会ったら子供時代の絵姿を頼んでみよう。嫌がられるかもしれないけれど、とキアラもいよいよ瞼が重い。
「……おやすみなさい、クリストフ君」
そもそもこれは夢なのだから、自分の記憶や感情が作り出した登場人物であって、婚約者本人であるはずがない。二人でソファにもたれて、彼がやがて寝息をたてはじめるのを聞いているうちに、キアラもいつの間にか眠ってしまっていた。