④ヴァンティークの飼い猫
両親と祖母が不在の代わりに姉と弟が席について、夕食はいつもより賑やかである。弟は学校の授業や寮での共同生活の話題、姉は結婚してからの生活について色々と話してくれた。キアラも王都に来てからできた新しい友人達の事を二人に話しているうちに、すっかり遅くなってしまった。
おやすみなさいと、それぞれ自室へ引き上げると、丸一日分の疲れがどっと押し寄せて来る。今日は頑張った方ではないだろうか、名家の令嬢として。そんな風にキアラは自画自賛を始めながら、ようやくベッドへ横になった。しかしそれはヴァンティークの名前を背負うのには当たり前で、決して特別な事ではない。キアラはとりあえず天井をぼんやりと眺めているうちに、先ほどの姉の話の内容を思い返す。
「銀時計の、……魔法ですか」
「そうなの。私がちょうど今のキアラと同じで、社交界へ出たばかりの頃に流行ったの」
「キアラ姉ちゃんはそういうの、ことごとく失敗しそう。間違えて悪夢が来るんじゃない?」
「……エリック、それどういう意味?」
夕食の席でのキアラの問いかけに、向かい側の席に座っている姉が詳しく話をしてくれた。弟の笑いながらの横やりは小さな子供を寝かしつけるのに使う、早く寝ないと悪夢という恐ろしい魔物がやって来て、怖い夢にうなされるよ、という脅し文句である。放っておくと悪夢に身体を入れ替えられて、夢の中から出られなくなってしまうらしい。子供に銀の装飾品を贈る風習は、この悪夢を追い払うのが元々の理由だった、と何かの折に耳にした事がある。
この屋敷の料理長お得意の、鶏肉の特製オリーブソース焼きを食べている弟のエリックを見ていると、小さい頃の事が思い出された。小さい頃によく、怖い夢を見たと朝方や夜中に、キアラに泣きながら訴える日が何度かあった事は、姉の優しさでこの場で口を出すのは控える事にする。大きくなったものだ、と成長期らしく次々とお皿を綺麗に空にしていく食事風景を眺めた。
それにしても、確かに友人達が占いや、その手のおまじないを信じている話はよく話題に上がる。多くは好きな花が持っている特別な効力や、自分の誕生月と身に着ける服や装飾品の法則等の可愛らしい話が大半で、姉が持ち出した方法は聞いた事がなかった。
「……大事にしている時計を、月明かりにきっかり一時間」
夕食の時の賑やかな様子を思い出しながら、時計の長針が一周する間、キアラは姉の説明した手順に従って月明かりが差し込む窓辺に置いた。その後で時計を枕の下に仕舞って横になると、持ち主の見たい夢を見る事ができるらしい。世間の年若い少女達は、想い人との逢瀬を夢の中へお願いする、との事である。
しかし果たして残り一時間、寝ずに待っていられるだろうかと膝を抱えて考えているところへ、とすん、と横に何かが飛び乗った。
「……ココちゃん。どこにいるのかと思ったら」
キアラの元にやって来たのは、侯爵家で飼われているココという名前の白猫だった。本来はヴァンティーク領の屋敷にいるのだが、キアラがこちらへ出て来る際、当たり前のような顔つきで馬車に乗り込み現在に至る。耳だけが小麦色という少し変わった毛色なので食パン猫、と勝手に呼んでいた。
小柄ですっきりとした顔立ちの美しい猫だが、恐ろしく素っ気ない性格の持ち主でもある。とすとすとす、と皺一つなく整えられたシーツの上を移動し、毛並みを撫でてやろうと伸ばしたキアラの手はさりげなく躱されて、虚しく宙を彷徨う事になった。長く飼われているのに、主人一家の誰に懐いているわけでもない。父にいたっては釣りをして、釣果の中で一番良い魚を彼女に献上するほど可愛がっているというのに、扱いは他の人と同じである。
飼い猫は今もキアラの匂いを少し嗅いだ後は、用は済んだとばかりにベッドから降りてしまった。軽い足音を立てながら部屋の中ほどまで移動して腰を下ろし、じっとこちらを見つめてくる。
「ココちゃーん……。もっと隣に居ていいよ」
聞こえてはいるけど、と言った調子で長い尻尾が左右に揺れている。きっと、時間的に夜のおやつの催促であろうと推測して、キアラはこのメス猫と一緒に厨房へ向かうために、もう一度着替える事になった。彼女は小食で、ご飯を一日に少しずつ食べるのだ。別に猫一匹でご飯を食べに厨房へ降りても、使用人達なら対応してくれるだろうに、とキアラは眠たい目を擦った。
友人達との間でも、飼っている猫の話は聞いていて楽しい話題である。他所では膝の上に乗って来てゴロゴロと喉を鳴らして甘えたり、屋敷中を付いて回って片時も離れようとせず、大変愛らしい様子を見せてくれたりするのだそうだ。キアラはもちろんヴァンティークの飼い猫に対して不満は一切なく、彼女は孤高な存在なのだと理解している。別の甘えん坊の猫を迎えたいとも思わない。ただ、一応羨ましく思っているのも事実である。
「ココちゃんにご飯をもらえるかしら?」
「ええ、ちゃんと用意してありますよ。今日は遅いなって思っていたところです」
厨房へ行くと、まだ仕事をしていたらしい料理長が手元から顔を上げた。チーズの焼ける香ばしい匂いが漂っている。今日は婚約者のクリストフとその屋敷で働いている人達にもお世話になったので、キアラは料理長に差し入れをお願いしていた。詳しく聞いてみると、ワインに合うような軽食を試作してくれているらしい。
足元で大声で催促されている飼い猫の食事については快く了承され、専用の皿に料理長手ずから葉物野菜と鶏肉の切れ端とチーズが用意される。白猫は匂いを嗅いでから、満足そうにむしゃむしゃと食べ始めた。椅子を持って来てその様子を眺めていると、ところでお嬢様、と料理長が話を切り出した。
「前の料理長がね、この猫さんは先代の若い頃からヴァンティークに飼われていた、って言ってたんですが……」
「まさか。あの人は冗談が好きだったから、からかわれているのよ」
去年引退し、故郷へ帰って行ったご老体の事をキアラは思い出した。世話好きだが冗談も好きな料理人で、ヴァンティークの当主はココと会話ができるらしい、とまことしやかに語っていたのを知っている。
流石に冗談ですよね、と現在の料理長は安心したようにキアラの後ろに立って、食パン猫の食事風景を眺めている。確かにキアラの物心ついたころには既に屋敷で飼われていたが、いつからいるのか定かではない。祖母や母まで真面目な顔で、自分が嫁いで来た時には飼われていた、とからかおうとしてくるせいだ。
ココの食事が終わりに差し掛かった頃、侍女の一人がキアラを呼びに厨房へやって来た。
「……お嬢様、旦那様がお戻りになられて、少しお顔を見たいとおっしゃっていますが、どうなさいます? 疲れているようならいいから、とも……」
「わかった。料理長もありがとう」
お風邪を召されぬように、と彼女が用意してくれたショールを羽織って、キアラは用事から戻って来た父の元へと向かう。ヴァンティークの当主は滅多に会えない釣り仲間と久しぶりに楽しんで来る、と出かけて行ったきりだった。階段を上る途中で、尻尾を立てて小走りのココに追い抜かされた。
「お父様、キアラです」
「ただいま、キアラもお疲れ様」
猫と一緒に部屋に入ると、父が出迎えてくれた。世間ではやり手と評されているが、キアラにとってのヴァンティーク侯爵は穏やかな壮年の男性である。虫一匹殺さないような優し気な笑みをいつも絶やす事はない。夜会で見かけるようになった同年代の男性と比較しても、体形や髪の印象から若く見られる事が多かった。若い頃はさぞかし人気があった事だろう。
一緒に付いて来たココは父に向かって、まるで何かの報告をしているかのように鳴いていた。しばらくすると用件は終わったとばかりに踵を返して、一匹で部屋を出て行ってしまった。
「……お父様はココちゃんの言葉がわかると、使用人見習い達の間で噂になっていますよ」
使用人として初めて屋敷に上がるような年端のいかない少年少女達は、先輩からの冗談を真に受けてしまうらしい。そうでなくても色々な噂がある不思議な白猫だが、とりあえずもう少し屋敷の主人達にはもう少し懐くべきだとキアラは思っている。彼女は特別な場合を除いて、毛並みすら誰にも触らせない。
「うん、まあ大体わかるかな。お腹が空いているんじゃない?」
「今、食べて来たところですが」
「……おや」
とぼけた事を言う父にソファを勧められ、キアラは素直に従った。飲み物はどうするかと聞かれて、暖かいお茶をお願いしておく。せっかく皆が気を遣ってくれているのに、本当に体調を崩すのは恥ずかしい。それに、明日はクリストフと出かける用事も入っている。
「まあ、ココちゃんの事はいい。それより大変だったみたいだね、話は聞いているよ」
父が把握している話の出所がヴァンティークの使用人なのかクリストフなのか、それとも別の誰かなのか判断できなかったので、キアラは思い出せる限りで昼間のお茶会の話を説明した。
突然の招待状や、そこで待ち構えていたヴァンティークを良く思っていない貴婦人達の事。それから名高いピアノを演奏させてもらった後で、クリストフが連れ出しに来てくれて、その後で国王陛下とも顔を合わせた。
「……では、上手に切り抜けたと判断していいだろう。よくやったね、きっとクリス君も自分の婚約者がしっかりした女性だと思って安心したところだと思うよ」
一通り説明が終わるとキアラの父は、立派な娘で鼻が高いぞ、と素直に喜んでいる。娘を裏表なく褒めてくれて、キアラはようやく自分の一日の役割を終えたような気分になった。
「これからは彼の方も仕事が片付いて、夜会に行く機会もこれから増えるだろうけど、クリス君から離れないように。どこで誰が、陥れる機会を窺っているかはわからないから」
「はい、お父様」
私からも言っておこう、と父が約束してくれる。ところで、とキアラは話を切り出した。先ほど弟が話していた、父が学生時代に作った釣り同好会の話である。
「本当にこのサインが通じる人間が、そこかしこにいらっしゃるのですか?」
人差し指と中指以外を折り畳んだ右手を顔の横に掲げてみると、父は苦笑しながら同じ仕草を娘に返した。ヴァンティークの頭文字よりはワイの字に見えるような気がする、という指摘は控える事にした。
「そうだよ。そのために釣り同好会も立ち上げたんだ。ヴァンティークの人間なら大体は助けてくれるはずさ」
私は一人息子で大変な苦労をしたのだ、という父の少々長い昔話が始まりかける。幼少期の父はヴァンティーク本家唯一の子供で、厳しい跡取り教育を施されて育ったそうだ。兄弟姉妹の誰か一人でもいいからいて欲しかった、と大人になった今でもよく口にしている。
しかし今夜に限っては別の話題が持ち出された。
「それにしてもクリス君、随分恰好つけた真似をするじゃないか。ハンサムな歌劇俳優みたいだ」
「クリストフ様はヴァンティーク家との繋がりを重視していらっしゃるでしょうから、父の顔に泥を塗るような振る舞いを避けて当然でしょう」
父がキアラの反応を見ながら、からかうように口にした。しかし、あくまでクリストフは政略上の相手としてキアラを選んだにすぎないはずだ。そこを強調して反論してみたが、相手はまだ楽しそうに笑っている。やけに機嫌が良いので、昼間の釣りの成果は上々だったのだろう。
「……キアラは私の大事な娘なのだから、もっと自信を持って良いのに」
「でも人見知りで泣き虫で、きっと手のかかる子供だったでしょう?」
「……キアラから見れば出来の良い姉と弟とそれから私、かもしれないが。親の立場からすれば、三人とも可愛くて、有望で、とても頼りにしている」
父はキアラの内心を見透かしたような言葉を選ぶ。私の父は厳しくて、とまた長い話が始まりそうなので、キアラは軽く咳払いして話題を変えた。
「ところでお父様、私は明日、国立の博物館へ行くのです。クリストフ様と」
「博物館? ああ、あのクジラの骨格標本があるところだね」
あれを欲しがっていた女の子がいたね、と父の言葉にキアラは本日何度めかでしらばっくれる事になった。父の言葉に、キアラは子供の頃に家族で博物館を訪れ、姉と二人で、ヴァンティークの屋敷にも是非、あの大きな骨を設置して欲しいと頼み込んだのを思い出した。言われるまですっかり忘れていたが。
「……釣って来て、と頼まれた時はどうしようかと思ったがね。欲しければクリス君に頼むといいよ」
父は昔を懐かしむように笑っている。子供の冗談ならともかく、クリストフに冗談を言い合える仲ではまだないので、キアラは言葉を濁した。
その辺りでそろそろ休もう、と父の提案で報告会はお開きとなった。おやすみの挨拶を交して部屋に戻ると、当たり前のように窓辺に戻っていた飼い猫が寝そべっている。
「あ、ちょっとココちゃんたら」
この食パン白猫はわざわざ、キアラが月明かりを集めるために窓辺に置いてあった銀時計を身体の下に敷いていたのだ。毛並みからはみ出ている鎖を引っ張ると、じゃれついているつもりなのか、前足で抱え込むように抵抗する。引き離すのに、しばらく時間がかかった。
ようやくわかってくれた、と安堵したのも束の間、今度はベッドに上がり込んで、置いてあったキアラの大事な洋扇子を抱え込んだ。猫という生き物は夜に黒目がまん丸になって大変可愛らしいのだが、この飼い猫は何やら悪い事を企んでいるように見えるのである。
「さっきから大事な物ばかり欲しがって……。破けたらどうしてくれるんです、怒られるのは私なのに」
侯爵家の人間は父をはじめ、どうもこの猫に甘いのである。多少の粗相では怒られない。仕方ないな、で人間側が苦笑してお終いだ。いつか平気になる時が来る、という理由で人見知りを大目に見てくれていたので、キアラもキアラではあるけれど。
銀時計と違い、祖母からの贈り物の耐久性には自信がない。ココが悪さをしない限りは、自分から手放すまで様子を見るしかなかった。
とりあえず好きな夢を見られるなら、とキアラは横になりながら考えた。一日中、誰の目も気にせずにピアノを弾き続ける、好きなお菓子の山に囲まれる、可愛いココちゃんに存分に甘えられたい。
もしクリストフだったら何を願うのだろうかと考えたが、全く想像がつかなかった。これから婚約者、いずれは人生の伴侶として過ごすうちに、いつか彼の本当の胸の内を知る機会が訪れるような事はあるのだろうか、とまた考えは堂々巡りである。
「……決めた」
ココちゃんおやすみ、とキアラは目を閉じた。枕の下から微かに、硬質な時計の秒針の音が伝わって来る。もし自分の好きな夢を見られるなら、クリストフの事をもっと知りたい、と口に出すのは少しばかり気恥ずかしい内容に決める。柔らかい枕に顔を埋めて、眠りにつくのに大した時間はかからなかった。
まるで応じるようにココが鳴く声を聞きながら、キアラは深い夢の中に落ちて行った。