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②上手くさよならは言えない

 

 クリストフと共に部屋の外へ出てみると、既に陽は傾きかけていた。キアラが思っていたよりも、長い時間が経過していたようだ。手持ちの時計を取り出して確認すると、午後四時の少し前を指していた。


 この国では子供に魔除けのため銀の装飾品を贈る風習があって、生家のヴァンティーク領がある一帯では銀の懐中時計が一般的である。両親から贈られたのは、文字盤が黒いデザインが少し大人びて見えるお気に入りだった。

 キアラは役割を果たした時計を仕舞った代わりに、祖母からもらった洋扇子を手にする。彼女が若い頃に大事に使っていた品を孫娘のキアラに、と綺麗にして持たせてくれたのだ。


 この馴染みのある品を、大事な場面の前には必ず手で触るようにしている。そうするとしっかり者で才能溢れる貴族令嬢であるキアラがいて、肩書に見合った振る舞いができるような気がしていた。実際には都合の良いもう一人の自分は存在せず、自力で頑張る以外に方法はなくても、何となく落ち着いた気持ちになれるのである。


 自室の寝台に一人で寝転ぶ瞬間まで、まだまだ気を引き締めなければならない。特に今、隣にいるのは婚約者なので、尚更である。


「……今日はお忙しいと聞き及んでいましたから」


 誰が耳をそばだてているのかわからないので、キアラとクリストフは回廊を並んで歩きながら、二人だけに聞こえる声で言葉を交わし合う。本日のお誘いへの参加に関しては一応、彼の屋敷にも使いを出しては見たものの、申し訳ないが仕事が立て込んでいるようで数日戻っていない、という返答だった。


「部下に、何かあれば伝令を命じてある。屋敷からも連絡があったと報せが来た」


 それもそうか、とキアラは周囲に視線を走らせた。その部下の方にお礼と、できれば顔を覚えておきたいのだが、それらしき人物の姿はない。今は近くにいない、と補足が入ったので視線を前に戻した。それなら彼の屋敷へもお礼に何か差し入れをしなければ、と検討する事にした。


 回廊の外には庭師が丹精を込めて手入れしているであろう花々があちこちにあって、白い小さな蝶々がひらひらと舞っている。温室も見事だったが、外の庭園も時間があればゆっくりと見て回りたいと思うような光景だ。しかしクリストフは一刻も早く仕事へ戻らなければならないだろうから、また別の機会を伺うしかなさそうだ。よくよく聞いてみると、午後の六時から最終の報告会があるらしい。



「……あのような不躾な呼び出し、適当な理由をつけて断ってくれて構わないのに」

「それはそれで問題でしょう」


 クリストフはそう言ってくれるとしても、御しやすい大人しい娘だと思われるのだけは避けなければならない。それはキアラの今後に大きく影響する。今さら誰かの一声で婚約が覆るとも思えないが、仮にも病弱で、王家の者と結ばれるのに相応しくないなどと噂を立てられては堪らない。祖母、母、そして姉と代々守られて来たヴァンティーク侯爵家の名を貶める事は、決して許されないのだ。 


「私が行くまでに、何か変な事を言われなかったか?」

「素敵なお茶会でした。毎日でもお受けしたいくらい」 


 それはそれは、とクリストフは呆れているのか感嘆しているのか、すぐ横にいるのに声音や表情からは読み取れなかった。顔を合わせている間は常に注意深く観察してもその有様なので、自分の父や弟がわかりやすいのとは正反対である。

 


 キアラとクリストフの正式な婚約は二年前に結ばれた。そのずっと前から時折、ヴァンティークの領地の屋敷にもこっそり顔を出していたそうだが、キアラの記憶にはない。確かに人見知りが酷く、一通りの挨拶が終わればその場を母と姉に任せていたのは事実ではある。しかしそんな大事なお客様ならもっと覚えていても良さそうな気がするのに、といつも腑に落ちない気持ちになった。


 クリストフは世間では気性の激しい、子供の頃には王宮に招いた遊び相手や教育係を気に入らないとして容赦なく追放した逸話が知られていた。更には政争に敗れて王位を継ぐ事ができなかったのはキアラの父のせいだと言われている。最終的に彼が新しく設けられた公爵の称号を得たのは国史を見ても異例の対応だが、国王の真の狙いは弟王子から母方の生家の影響力を断ち切るためだとする見方もある。ヴァンティークとの縁談を受け入れた今でも、内心では恨んでいても少しもおかしくはない。

 

 しかし家同士、過去の事は一旦置いて自らの立場を守るための婚約である。その前提がある以上、彼が真の意味で胸の内をキアラに明かす事はないのだろう。その事を考える時、キアラはいつも行き場のない迷子のような寂しい気持ちになってしまう。

 彼が子供だった頃に身近で起きていた事の複雑さは、家族に守られて育ったキアラに到底推し量れるようなものではないのかもしれない。

 

「クリス君? 子供の頃には玄関まで競争とか何とか言い出して、ドアではなく窓から躊躇なく飛び出て行くタイプだよ」


 ところが当の父はのんきなものだ。クリストフの事を尋ねると彼の幼少期の解釈に困る思い出話ばかりがもたらされる。ヴァンティーク領に来ていた話と父の口ぶりからして、どうやら対立しているような関係でもないらしい。


「彼は自分だけが安穏と過ごすのは良しとせず、職務にも熱心だと聞いている。ただ、毅然として不愉快だという意思表示をする方だ。私が上手に立ち回ったのとは対照的に、何もかも上手くいかなかった人達もそれなりにいるわけでね」


 というわけでキアラは侯爵家の娘、という肩書を頼りにクリストフと向き合うことになったが、今のところ猫を被っているのはお互い様なのだろう。本人同士ではなくもっと大きな思惑のための婚約、その後の結婚であって、恋愛関係ではなく協力関係である。ヴァンティークは王家との繋がりを手にし、クリストフは今後の足元を固めるための。



 会話の途切れたまま、王城の門がある方向へ歩いていると、クリストフへと掛けられた声があった。声の主はキアラの婚約者と似ていて、しかしいくらか柔らかい雰囲気の青年である。あちらはあまり日焼けはしてない。二人は揃って姿勢を正した。


「顔を出そうと思っていたが、お前の方が早かったようだ」


 玄関ホールの方向からやって来た国王陛下と侍従達に、二人は並んで臣下の礼をとった。クリストフとは三つほど年が離れている相手は、こちらをしばらく見比べて穏やかな笑みを浮かべている。形式的な挨拶が交わされた後で、陛下は後ろに先に行くように命じた。文官らしき数人が指示に従ってその場を辞し、護衛の侍従達は素知らぬ顔でその場に留まった。


「……齢を召してから我儘が増えてしまって。こちらからもよく言っておく」

「いえ、私にも本当の孫娘のように優しくして下さって、嬉しい限りでございました」


 横のクリストフが何やらわざとらしい咳ばらいを始めたが、一応陛下の手前で本音を口にするわけにもいかない。キアラは侯爵家の子供達の中では一番、厳しい祖母にあれこれと世話を焼かれて育ったので、老婦人という存在には親しみがある。

 若い国王はキアラの返事と、クリストフのわざとらしい反応に相好を崩した。


「当り前といえばその通りだが、ヴァンティーク侯爵に少し似ているね。また、釣りに誘って欲しいと伝えておいてくれるかな」

「はい、父も喜ぶかと」


 この方もクリストフと一緒に釣りをしに、よくお忍びでヴァンティーク領まで足を運んでいたという話だが、やはりキアラは何も記憶にないのだった。横の婚約者は、先ほどのピアノの前での刺々しいやり取りとは対照的に、兄に対しては困ったような表情を浮かべている。


 向こうも国王という立場より、彼の兄のジルベールとして話をしているつもりらしい。兄から弟への態度は、自分の両親や祖母、姉がキアラに対して注ぐ眼差しによく似ていた。


「……婚約者殿と並んでいるのを見ると、感慨深いな。クリスも大きくなったものだ」

「……もうすぐ、二十五になりますので」

 

 キアラは兄弟の親し気なやり取りを前に、どこを見ていようかと迷った末、隣のクリストフの表情を窺った。婚約者は相変わらず困ったような表情で、歯切れ悪く応じている。見ようによっては照れているようにも感じられ、キアラにとっては新鮮な光景である。


 この兄弟も幼少期はともかく、少なくとも今は良好な間柄であるらしい。自分の父も、兄弟姉妹は仲良くするように、とそれだけは口を酸っぱくして三人の子供に言い聞かせていたのを思い出す。



「……彼女を馬車まで送るので」

「もうそのような時間か。それからキアラ嬢、良い演奏を聞かせて頂いた」

「それは、……お耳汚しを失礼致しました」


 クリストフは横でキアラが興味深そうに見上げているのに気が付いたのか、話を切り上げた。それでは、と去っていた寛大な背中を二人で見送る。さあ、とキアラも婚約者に促され、王城の外へと向かった。


 扉が開放されていたので、多くの人間がキアラの演奏を耳にしたに違いない。段々と恥ずかしくなって来た。思い返してみれば、クリストフもピアノを弾き終わってから姿を現したのだった。







「……お嬢様!」

「あら、ばあやもお疲れ様。何か変な事を言われなかった?」


 キアラはどこかへ連れて行かれたままになっていた家庭教師が、馬車の所で待っているのを見てほっとした。クリストフの真似をして心配をしてみる。

 

「……心配でお茶の味が全くしませんでしたよ、ええ。ピアノは調子が良かったようですけど」


 疲れ切った表情の女家庭教師は別室で、随分と気を揉んでいたらしい。それから、今日のお茶会ではクリストフの援護は望めないとの認識だったらしく、キアラの横に当たり前のように佇んでいる姿に、目を丸くして頭を下げた。


「大変だったわね、早く屋敷へ戻って、美味しいお茶を頂きましょう」


 出された以上手をつけないわけにはいかず、美味しい紅茶と焼き菓子を堪能していたキアラは少々の罪悪感を覚えながら、彼女を先に馬車へ押し込んだ。


「クリストフ様」


 キアラは婚約者に改めて向き直り、今日のお礼と、お別れの挨拶のために声を掛けたはいいが、その先が上手に出て来ない。一応婚約者同士なので二言三言、雑談に興じるのはおかしくないとは思っていても、何を話すべきなのかは、よく考えてから口を開くべきだった。


 人見知りは付き合いに支障が出ないように直したが、根本的な部分を変えるまでに至っていない。先ほどのお茶会や招待される夜会では、家名に恥じない振る舞いを意識する必要があっても、少し気を抜くとすぐこうなってしまう。


 キアラは手に持っている、祖母から譲り受けた扇子の柄を持ち直した。あれだけ礼儀作法に関して型がどうこうと細かい割に、一番肝心な物事に、正確な答えは存在しないのだという。


「……お顔を拝見できてほっとしました」


 決して、家同士の利害関係に夢を見ているわけではない。それでも、彼と良い関係を築きたいと思っていた。この人はキアラをきちんと婚約者として扱ってくれて、それから立場に奢るような振る舞いはなく、義務を遂行するという、純粋に尊敬できる相手だった。

 いつか彼の隣に、自信と誇りを胸に並び立てるような人間になりたい。キアラはいつしか、そう思うようになっていた。


 キアラには仲の良い父母や姉夫婦という存在もあり、年頃らしい憧憬も抱いている。ただそれを、この婚約者にどこまで素直に向けていいものか、それを探っている最中である。

 


「……お会いできてうれしかったです」


 口にしているのは建前ではなく本音であるはずなのに、我ながら不自然な間があった。気まずい雰囲気になる前に、こちらこそ、とクリストフからも事務的な返答が来る。 


「……明日は予定通りで外出ができるだろうから」

「はい、よろしくお願い致します。それでは」


 キアラは自分の顔が赤くなっているという自覚はあったので、相手の表情はほとんど見ないまま逃げるようにその場を後にする。楽しみにしている、と言い逃した婚約者が微妙な表情のまま取り残されている事には気が付かないままだった。







「……どうぞキアラ様、御用達のお店でお気に入りを調達して参りましたよ。公爵殿の使用人さんにも、ちゃんと伝えておいたので、嫁いだ後でも大丈夫です」


 ゆっくりと走り出した馬車の中で、侯爵家に仕えている護衛の青年が口を開いた。彼の説明によると、待機していた御者と護衛は主人に気を遣って何か買って来よう、と相談していたらしい。そこへ主人であるクリストフを王宮まで送って来た彼の従者と使用人がやって来て、今後の円滑な仕事のために情報交換する話になったらしい。


「……そうだったの。クリストフ様は使用人に慕われているのね」

「そんな事言ったら、キアラ様だってうちのお姫様ですよ」

「お姫様って」


 色々と気を遣ってくれているらしいクリストフに対し、嬉しいような気恥しいような思いを抱えつつ、キアラは夕食の事も考えて小さな焼き菓子を一つだけ口に入れた。ばあやに渡した残りは一人で大事に食べよう、と包みを膝に抱える。


「ばあや、さっきみたいな場合は、どうやったら上手く好意を伝えられるのかしら」

「……怖かった、とか何とか言って甘えながら腕に抱き着いてしまえばよかったんですよ。きっと公爵閣下も大喜びでしょう」


 横に座っているばあやは随分と神経をすり減らしたらしい。護衛の話を聞く限り、気を揉んでいただけで何の収穫も無かった、と拗ねているようだ。随分と投げやりな回答を寄越して来た。


「それはちょっと」


 キアラは自分とクリストフでその一幕を思い浮かべてはみたが、あまり不自然なので、途中で断念した。まず自分の口から出す言葉だとはとても思えないのである。


「……人見知りと泣き虫がようやく治ったと思えば、今度はやたらと無鉄砲になってしまって。ばあやの心臓は一つしかないのに」


 ごめんね、とキアラは小言を大人しく聞いた。食べ慣れているマドレーヌのはずだが、いつもより少しレモンが強くて甘酸っぱいような、そんな気がした。 



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