⑰後日談2 噂の花嫁付添人
後日談2つ追加予定です
「あ、あの……」
涙が混じったか細い声は、緊張と困惑を帯びている。
良く晴れた日の正午過ぎ、天上からは微笑むように穏やかな陽ざしが降り注いでいた。春と湖の美しい景観で名高い庭園には花々が咲き誇り、集まった人々と共に祝福を添えている。
領主の一番上の娘、明るく心優しい令嬢が、優秀かつ誠実さでよく知られる青年と結ばれた。今日は古くからの慣習に従った厳かな式とはまた別の、花嫁と花婿が企画し親しい人々のみが招待されている。家族と仲の良い親族、そして友人達がほとんどだった。
敷地の隅には古びた白い噴水が設置されていて、その縁に腰かけていたクリストフは相手より先に立ち上がった。さりげなく手持ちの懐中時計を持ち出しながら、ひらひらと気安く手の平を振って踵を返す。
時計を見せつける仕草は、ご婦人方が洋扇子を手に扱う言語と似たようなもので、『時間が押しているのではないか?』、と口に出さなくても伝える事が可能だ。
背後ではしばらく躊躇した後、隣に腰かけていた相手は意を決したように、反対方向へ駆け出した。どうやら自らの持ち場に戻る勇気と余裕を取り戻したらしい。
クリストフはほっと胸を撫で下ろしながら、自身も会場へ戻るため歩みを進めた。顔をはっきりと見られたわけではなく、言葉も交わしていない。こちらの正体が露見しないだろう。人々が集まって賑やかな方向へ向かいつつ、首尾よく手助けできた一幕に安堵していると、明らかにこちらを待っている人影があった。
「クリス、一人で式を放り出してどこかへ行くとはね」
「……少し休憩しただけです。今から戻るところですよ、兄上」
兄、ジルベールの口ぶりからして今しがた、弟が噴水そばで女の子に水の入ったグラスと濡らした手巾を渡したところは見逃したようだ。そそくさと並んで歩きだしながら、兄の小言に大人しく耳を傾けた。
本日、兄弟に許されているのは何食わぬ顔で参列、係の者の指示に従い、歓声と拍手を笑顔で添えるだけ。決して目立ってはいけないし、新郎の友人という建前以上を悟られるのも論外だ。
「それにしても良い式だ。これほどに好天に恵まれるとはね。九割は主役二人の人柄によるとはいえ、大勢が穏やかに集っているのを目の当たりにすると、私が政務に追われている甲斐が、少しはあるというものだ」
「全くですね、ジル兄上。国王陛下とその弟がこっそり参加しているとは、誰も思わないでしょう」
兄の感想には緊張感がなく、クリストフも投げやりに応じてみせた。二人は髪をありふれた色に染め、衣装と小物の趣味を変えただけだ。しかしここにいるはずがない人物という先入観によって、この場に上手く溶け込んでいる。
「こうして二人で楽しく過ごせる日も、これからは限られてくるだろう。面倒なしがらみが多くて困る」
「ええ、本日は素敵なお誘いをどうも、兄上」
快く手引きしてくれた新郎と花嫁の父親と兄の意向によって、クリストフが知らない間に本日の参加が勝手に決められていた。
『……本来は妻として私が同席するべきですが、最後まで正体を知られず済ませる自信がありません。けれどクリス殿下がご一緒であれば、祝福の席を騒がせず、ジルもきっと問題なく過ごせるでしょう』
兄の妻、王妃陛下の良識に基づいた懸念と信頼を持ち出されて断り切れず、兄のお目付け役を仰せつかるほかない。これも弟の役回り、と無理やり納得させて現在に至る。
「この後は侯爵家の深窓の姫君が、とびきり優れた技量を披露してくださるそうじゃないか。見逃す手はないぞ、クリス。今日はそのために来たのだ」
「……そうですね」
クリストフはにこやかな招待客として振舞いつつも、目線はどうしても主役の二人以外の人物へ向けてしまっている。相手は姉君によく似た容姿の花嫁付添人、彼女はやや緊張した面持ちで、つつがなく役回りを果たしている。
対するクリストフはその顔立ちをじっくりと眺め、現時点で自分だけが把握している事象の答え合わせに成功したところである。
花嫁付添人の順調な立ち振る舞いが崩れたのは、花嫁のちょっとした悪戯である。
『では最初に私の妹、とても可愛いキアラなのですけれど……』
姉君は時折目頭をそっと抑えながら、可愛がっている妹の努力家な一面を人々の前でひとしきり褒め称えた。拍手と歓声の後で次は弟君の話題へ移ったのだが、クリストフは花嫁の妹君がそっと目を伏せ、そっとその場から離れたのを確かに見た。
「……」
彼女が今、どのような状況に陥っているかそれとなく察しがつく。
元々後ろの方にいたクリストフは、花嫁の口上に耳を傾ける聴衆の輪からさりげなく後ずさった。先ほどまで立食形式で振舞われていた卓から冷たいグラスをもらい、手巾を濡らし、彼女の後を追ったのだった。それが他の人間であればそこまでのお節介に走らなかっただろう。待機している侯爵家配下の使用人が適切に対処してくれるはずだった。
しかしキアラ・ヴァンティークが相手となると、こればかりはどうにも仕方ない。
「……ところで兄上、戴冠式の日もこのように、よく晴れた一日でしたね。覚えておいでですか?」
「ああ、そうだった。大勢から祝福と同時に期待を寄せられ、身が引き締まる思いがしたものだ」
どうして突然その話を、と言わんばかりの兄の眼差しを誤魔化すように、クリストフは手持ちの懐中時計をもう一度取り出す。急ぎましょう、という合図を兄に送りつつも目立たないように、会場へ戻る足を速めたのだった。
秋の終わりに父が王都から帰還して、釣り好きな友人達と数日を過ごす。上流階級の人々が忙しく過ごす日々が終わり、冬季はそれぞれの領地で静かに過ごしながら、翌年に備えておくのである。
ヴァンティーク侯爵家も客人が帰途につき、少しずつ寒い季節へ移っていくのが、毎年変わりのない流れであった。
ようやく一息ついた頃になって父、ルイスが田舎屋敷から別邸の一つへ足を伸ばそうと言い出した。それもさほど珍しいわけではない。水辺の美しい立地が自慢の建物はいくつもある。侍女達に手伝ってもらい、いそいそと旅支度を整えて、家族と共に目的地へ出発した。
ただ今年は、結婚したばかりの姉は後日合流という形をとっている。夫婦二人の楽しい時間を邪魔しては悪いから、というわけであった。
「やあ、キアラ。今、少しいいだろうか?」
「ええ、お父様」
予定を入れずに家族だけでゆっくり数日過ごした頃、父が声を掛けて来た。うとうとと午睡を楽しんだ後で散策へ行こうと準備していたキアラは、呼ばれるままに書斎へ赴く。
「今年、特にキアラは忙しかったね。今までと違う過ごし方で大変だっただろう。けれどきっと、有意義でもあったのではないかな」
キアラはひどい人見知りで、今まで屋敷に客人があっても最初の挨拶だけで奥へ引っ込んで過ごしていた。貴族階級の女性が夫の社交を支えながら客人をもてなすのは必須の仕事とされ、幼い頃から経験を積んでおく必要がある。それにも拘わらず、今までは人前で上手く振舞えずにいた。
しかしキアラは今年になってようやく心を入れ替えて、主に両親に付いて訓練に取り組んだ。最初からできなかったのか、とは誰も口にしない、よく甘えさせてくれた家族である。
家名には義務と責任が伴う。名家ヴァンティークに生まれた者として、恥ずかしくない振る舞いが今後はより一層求められていくに違いない。
キアラに何があったかといえば、今年の春先にあった姉の結婚式での大失態が転機である。花嫁付添人として緊張しながらも、主役の側に控えて過ごしていた。主役を悪いものから遠ざけるため女性近親者から選ばれる役目は、古い祈りの一つでもある。人見知りだからと言い訳するわけにはいかない。
次は主役二人から両親への感謝の言葉を述べる段階となって、姉が突然こちらを振り返って微笑んだ。淡々と役目をこなすだけだと言い聞かせて頑張っていたキアラは、予定にない動きに目を丸くする。
『では最初に私の妹、とても可愛いキアラなのですけれど……』
事前の打ち合わせで、全く知らされていなかった内容だった。公衆の面前で突然褒められた事より、子供の頃のよく可愛がってもらった思い出や、お祝いの場に満ちた特別な高揚感。姉に幸せになって欲しいのと同じ気持ちと同じくらい、寂しさや過ぎ去った時間がもう戻らない寂しさが一気に押し寄せて、キアラはその場に留まっていられなかった。
姉が次に弟の話を始めた時、キアラはそっと人の輪を抜け出した。実はこの後、花嫁の弟妹は招待客にピアノの演奏を披露する予定が組まれていた。そのための移動だと思われたようで、誰にも止められずに敷地の隅まで避難できた。
この日のため祖母、母と受け継がれた花嫁衣装が姉のために整えられていく過程を一緒に見守って、心の準備はとっくにできていたはずだった。それなのにどうして、と止まらない涙をどうにもできずに一人で泣いていた時に、近づく足音があった。
差し出された冷たい水と手巾を差し出したのは父かと思ったのだが、涙に滲んだ視界でも別人であるらしいと察した。相手は何も言わなかった。キアラがどうにか立ち直って、会場へ戻る気力を取り戻すまで、その人はそばにいてくれた。
式が終わってキアラは相手を探したものの、顔をはっきりと見たわけでもなく、名乗ってくれたわけでもない。そして父や母にそのような出来事を報告した者もいなかった。こちらを気遣って、そのような方法をとってくれたのである。
その苦い経験を経て、キアラは心を入れ替えた。家の外にいるのは決して味方ばかりではない。一つの失態が家全体に関わる事すら珍しくない中、今回は運がよかったというだけの話である。何より、お礼も伝えられないままになってしまった。
そうして、一体あの方はどなただったのだろう、という焦燥だけが残ったのだった。
「ファリィが嫁いで行ってしまって、寂しいかな? 良い式だったけれどね」
キアラは父の声で我に返った。ね、と父はくつろいだ様子でキアラに話を向けている最中である。
「キアラもこの頃はすっかり大人びて、しっかりしてきたように思ってね。お姉ちゃんが嫁いで少し寂しい気持ちもあるに違いないけれど、……そろそろこの話を持ち出しても良い頃合いだろうと思って」
父は他愛のない話のため呼びつけたのではないらしい。侯爵家当主は優しく穏やかに何気ない態を装いつつ、話を進めていく。
「要するに、縁談だよ。ついこの間ファリィお姉ちゃんが、とも思うけれど。とてもいい話だから、そろそろ伝えておこうと」
「はい、ええ。大丈夫です」
キアラは内心の動揺を隠しながら居住まいを正したつもりだけれど、あまり上手くいかなかった。その様子を見て父が笑い、空気を和らげようと試みている。
家族を支え、子供を授かって育て上げ次代を託す。領地を豊かに維持するため、貴族階級の女性に求められている役割だ。キアラが人見知りであるとか、出来の良い姉弟と比べると見劣りしてしまうのは一切関係ない。
「その方はね、私がとてもお世話になっていて」
「ははあ、素敵です」
「私から申し上げる事など何もない。思いやりと責任感をゆるぎなく発揮する勇ましい方で、何より一緒に過ごすのが楽しい、素敵な人柄でね」
父はその人物を一通り褒め称え、名前と身分をキアラに明かした。
「……コ、ココちゃん!」
別邸の廊下を、我が城であるかのように堂々と歩くのは、侯爵邸で飼われている白猫である。家族の一員なのでもちろん保養地にも一緒に付いて回っていた。細身の身体つきは、まだ若い猫のように見える。
行き会ったキアラがいきなり駆け寄ったためか、驚いた彼女は毛並みを針のように逆立てながら機敏な動きで威嚇した。水色の美しい瞳が真ん丸に見開かれている。
「あ、あ、違うの……びっくりさせてごめんね。そんなつもりじゃなくて」
驚かせてしまったのを、キアラは姿勢を低くして真摯に詫びた。申し訳ない気持ちが伝わったのか、彼女は許してくれたらしい。いつもの澄ました顔で腰を下ろした。人間の言葉を理解する、賢い猫であった。
彼女は抱きしめたり擦りついたりして、ぬいぐるみのようによしよしできる猫ではない。高貴で孤高な屋敷の女王様だ。
母より父より、そして祖母まで彼女の方が先に屋敷に住んでいた、などとのたまう。キアラも流石に作り話だと看破できる年齢だが、大人達は彼女をダシにして子供をからかうのが面白いらしい。
キアラが母か祖母がいないかと探し回る後ろを、飼い猫はゆっくりと追って来た。食堂を覗くと、めあての二人はのんびりと歓談していたらしい。こちらに気が付き、座っている長椅子へ手招きされた。
「落ち着きなさい。私たちはどこへも逃げませんよ」
お茶とお菓子を差し出されたキアラは半ば無理やり口の中へ押し込み、飲み込んだ。父から聞かされた話をそのまま繰り返そうとしたが、上手く説明するのが難しかった。
「とにかく、王子様ですって! 国王陛下の弟君の」
キアラは天地がひっくり返ったような心地だった。しかし母も祖母もさほど大袈裟な反応は示さず、何が王子様だと聞き返す事もない。大人の耳には既に入っているようだ。
父が進めているキアラの婚約相手は現在軍に所属し、いずれは公爵位と王領の一部を領地として兄陛下から受ける話であるらしい。
「二人共、ご存じだったのですか?」
「……今回の小旅行はあなたにその話をする、とルイスが」
「私も何度かお会いしたけれど、とても良い方ですよ。よかったですね、キアラ」
祖母がぼそぼそと口ごもる横で、母は洋扇子を優雅に弄んでいる。そこへ弟のエリックが走り込んで来て、猫が先ほど景色の良い場所を教えてくれたのだとわいわい騒ぎ始めた。それが落ち着くと何の話をしているのかと不思議そうに尋ねて来て、キアラはもう一度初めから説明した。
「……すごい! 国王陛下はもうご結婚されているから、現状一番すごい縁談じゃないか、キアラ姉様!」
「……」
かつてこの国には、母親の違う兄弟王子がいた。慣習に従えば後継は兄君だが、生母の出自が問題となり、腹違いで正式な王妃陛下の実子である弟王子が選ばれるのではないかと噂された。後ろ盾のない兄君は継母の手によって冷遇され王城の隅で息を潜めるような辛い状況の下、幼少期を過ごさなければならなかった。
当時は情勢を正確に読み取るのは難しい状況が長く続き、人々は右往左往するほかない。
そこへキアラの父、ヴァンティーク侯爵は兄殿下の実質的な後ろ盾を名乗って、王宮で事態収拾のために動いたと聞いている。父と二人の王子殿下で、王宮に吹き荒れる嵐を治めるべく、奔走したらしい。
「協力して帆を広げたり畳んだり、碇を下ろしたり巻き上げたり。船が沈まないように四苦八苦していたそうですよ」
母は優美な手つきで扇子を広げては元に戻し、それからその場でくるくると回して弄んでいる。
結局は諸侯の支持と、それから隣国の王女殿下との縁談が取りまとめられ、慣習通り第一王子となって速やかに即位した。国中がお祝いに浮かれ、そして現在は安定した治世の下で暮らしている。兄君に比べ、弟君の方は出回っている情報が少ないものの、息災ではあるようだ。
後継争いを比較的穏便に決着させた経緯から、父は若い兄陛下からの信頼も厚い。弟王子の今後をよろしく頼みたい、という意向であるらしい。
経緯を鑑みれば決しておかしくはない話なのだが、当事者が人見知りの困ったキアラという一点に尽きている。
「やあ、みんな揃っているじゃないか」
父も書斎から移って来て、飼い猫を含めた家族全員が集まった。キアラ以外の人間はいつもとあまり変わらない表情を浮かべているように見える。
「要するに先方も、今後はヴァンティークという後ろ盾を得たいわけですよね、お父様」
何を口にするべきか迷った末、キアラはとりあえず頭に浮かんだ疑問を父に訪ねてみた。
「そのとおり。弟王子、つまりクリストフ殿下は既に兄陛下へ話を通してあるらしい。差し当たって大きな問題はないと、私は考えている」
父が説明するには、二人の兄弟王子から釣りに誘われご馳走を振舞われ、なんだか良い気分のうちに話を進められていたらしい。祖母が軽く額を押さえて難しい表情を浮かべていて、これがどこまで冗談なのかは不明瞭である。
「クリストフ殿下の母君の方は……?」
「国王陛下が、弟君のために王領の一部を爵位と共に与えるという話だそうだ。母君の生家との繋がりを絶ちたいという狙いもあるだろう」
先代の両陛下は治世の混乱を招いた咎によって王宮から遠ざけられ、王妃陛下は身体を悪くしてしまったという名目で生家へとお帰りになられたという。生家は領地の要衝を自主的に国庫へ寄付する形で、厳しい追及を免れたそうだ。
「父様、姉様が婚約された方、はっきりと物事を判断されるというのは、僕も存じています。時折、それが雷のように激しいと、揶揄する者もいるようで」
弟は怖ろしい自然現象を例え話として持ち出した。
昔、別邸近くにある背の高い大きな木に落雷があって、後から様子を見に行った記憶がある。大木は激しく焼けた上、根元からへし折られてばらばらになってしまっていた。
クリストフ殿下がまだほんの幼い頃、遊び相手や教師として城に招かれていた者を数名、容赦なく追放した逸話は、キアラも耳にした事がある。どうやらその話が、まるで落雷に遭ったように理不尽かつ無慈悲だとされているらしかった。
「父上は良好な関係のようですけれど、そのクリストフ殿下は、僕とキアラ姉様の手に負えるでしょうか?僕にとっては随分年上で、何より王族の方です。上手に関係を築けるかどうか、それだけは心配です」
「もしクリストフ殿下が噂通りの人物であるならば、私など王城に足を踏み入れた瞬間に木っ端微塵に吹き飛んでいるだろう。しかし、そうなっていないじゃないか?」
弟の素直な懸念に、父は鷹揚に頷いた。よく見て、と胸の辺りを軽く叩いて見せる。健康体であると示したいらしい。
「エリック、そもそも不利だと思うなら、正面からぶつかる必要はない。間に誰かしら挟むのが賢明だ。こちらにはファリィと結婚したステファンがいるじゃないか。彼ならさほど年齢も違わないから、よく言っておくよ。私の紹介で話した事もあるから適任に違いない」
父が挙げた名前の持ち主は、いかにも荒事に長けていそうな見た目とは裏腹に、とても気の優しい青年である。そして、と侯爵家当主は先を続けた。
「あの方がはっきり物を申す方でなければ、継承争いは今頃血なまぐさい結果に終わっていただろう。弟殿下は混乱を遠ざけ後ろ盾のない兄君をお守りするため、そのような言動に迫られていたのだ。後になって良い方法ではなかったと口にされていたよ」
歴史上兄弟や、叔父と甥など、よく知る者同士の権力争いは珍しくない。敗れた方は幽閉、そして事故や病気が原因で、という悲劇的な結末が、決して偶然ばかりではないのは明白である。
「弟殿下の希望のみならず、それに何より、先ほどキアラも前向きに進めたいと言ってくれていてね。実際に顔合わせを重ねれば、クリストフ殿下の優れた人柄をより深く知る事ができるはずだ」
父に促されて、キアラはなるべくしっかりとした態度で頷いてみせた。内心では重大な話が、あっさりと取りまとめられかけている事実に慄いている。しかしせめて、弟には悟られまいと表情を取り繕う。
キアラにとってどれほど困難であっても、家族は必ず味方でいてくれる。自分一人の話ではないという事実は良くも悪くも、この話に取り組む決意を強固にした。
よろしい、と父はクリストフに向けて前向きな返事をしたためると、早速返事が届いた。キアラ宛にもあって、おそるおそる開封すると、丁寧な挨拶とキアラへの感謝が綴られている。
『前向きな返事をいただけて、とても光栄です。つきましては、キアラ嬢、どうか冬が訪れるより前に、お会いできる日を用意していただきたいのです。父君にも伝えしてありますが、どうか最後の一押しに、お力を貸して頂きたく』
事務的な内容ではなく、個人的な協力をキアラに念押しする内容に雷だとか、怖ろしい剣幕などは一切感じられない。しかし、心拍数が跳ね上がったのは確かに感じた。見知らぬ誰かが、この手紙の向こうに確かに存在している。
実際に顔を合わせるのは次の春頃だというのんびりとした目算は外れ、しかし相手の懇願を無下にするわけにもいかない。大慌てで当日の段取りを父に相談した。
「あの、お父様……。なるべく早いうちに顔合わせを、と考えているのですが……」
「そう? では、そのように返事をしておこう。上手く都合がつくといいのだが」
「すごい! あの人見知りの姉様が積極的に話を進めるなんて」
弟の素直な賞賛に、どう答えたものか迷って、キアラは曖昧に返事を濁す他なかった。