⑯後日談1 きっと気に入ってくれますように
あらすじ:キアラは観劇に誘われて、婚約者のクリストフも一緒に来てくれるそうなので嬉しい。
さて、十六歳のキアラ・ヴァンティークはそれなりに忙しい日々を送っていた。なるべく友人は多い方があとで楽だと母が助言してくれるので、一緒に色々な場所へ精力的に顔を出している。
もちろん自分の婚約者のクリストフとも上手く時間を作って、自分達の関係は安定しているので付け入る隙はどこにもない、と内外に示しておかなくてはならない。
しかし実はずっと腹の探り合いをしていたと思っていた婚約者は、キアラの知らないところで気を配ってくれて、恥ずかしい秘密は全てお見通しであると発覚した。
さらに生まれた時から家族で可愛がっていた飼い猫が、実は普通の猫とは違うという事実も明るみになった。父はそれを知っていたが知らないで突き通していて、更にまだまだ隠している事のありそうな雰囲気である。
若い頃に、二人の王子殿下の後継ぎ争いで混乱していた王城内を、さんざんに翻弄して見せた片鱗を、初めて目の当たりにしてキアラは困惑してしまう。しかし、いつまでも周囲に振り回されてもいられない。
直近では、婚約者と国王陛下の祖母君から歌劇に誘われている。日時の打ち合わせをして、出席したい旨をクリストフにも知らせた。手紙を届けに向かった使用人は返事を携えていて、同行するために屋敷まで迎えに来てくれるらしい。
「クリス君はこれからどこへ行くの? 軍の急な会議でも召集されたのかい?」
「婚約者殿のお誘いですから、もちろん正装です」
娘のためにありがとう、と顔を出した父が不思議そうな顔をしている。クリストフは夜会で貴族階級の男性達が優雅に見せつけるような衣装ではなく、一分の隙もない軍装でやって来た。階級章の他、金や銀の飾り紐が、彼の公爵や王弟といった称号に、威厳たっぷりに寄り添っている。キアラは身支度を整えた後でこの装飾は何か、と質問して意味や名称を教えてもらった。彼も気さくに、わかりやすく応じてくれたので、色々と勉強になって嬉しく思いつつ、一応尋ねてみた。
「窮屈では? 演目はそれなりに長いですよ」
「婚約者に見劣りしては困るので」
クリストフは終始そんな調子だったので、屋敷に居合わせた家族や使用人も微笑ましそうな視線を向けてくれていた。
侯爵邸では和やかだったが、外へ出るとまた違った空気に出迎えられた。劇場に到着して特別な席へ案内された後も、婚約者は他の席からの注目を集めている。
国王の祖母君に王弟、そして婚約者のキアラが揃っているためか、劇場の支配人がわざわざ挨拶に訪れた。形式的にやり取りした後も、クリストフの方をちらちらと伺っては冷や汗を浮かべている。
それでは、と支配人がそそくさとその場を辞してから、呆れ交じりに彼の祖母君がまじまじと彼を眺めている。彼はその視線に、冷ややかに応じて見せた。
「まさか、つい先日の事をお忘れか?」
二人は周囲の迷惑にならず、中身を聞き取られない程度にやり合っている。先日、キアラが王城で多くのご婦人達に囲まれて緊張した空気だった件を、彼はまだ忘れていなかった。
「何をおっしゃっているのやら。キアラさんはあのヴァンティーク閣下の愛娘ですもの。あんなものは、道端の石くれにもならないでしょうに」
まあまあと仲裁する声を、キアラはぎくりと強張らせた。残念ながら単なる人見知りで、なんとか自分の立場や期待に応えようと、背伸びして頑張っているに過ぎない。
大体、王城での父がどんなだったかよくわからないので、その辺りも非常に気まずい。自分達にとっては優しくて穏やかな父でしかないのである。
「まあ、それについては同意見と言っておきます」
何もかも把握しているはずのクリストフは素知らぬ顔で応じていて、キアラは肘でこっそりつついておかなくてはならなかった。全部知っているのに、と非難の眼差しも、彼は涼しい顔でやり過ごしている。
祖母君は人気者らしく、挨拶してくる者が絶える事はなかった。自分達の方は比較的静かで、少し内緒の話をしても問題なさそうだった。あの、と呼び掛けて彼がこちらに注目すると、その後を続けるのに少々時間がかかってしまう。少し薄暗い照明の下で、キアラは何度か咳ばらいをした。
「あの、……クリスに少しばかりお願いがあって。時間がある時に私の方の祖母と会って、少しお話する機会があると助かるのですが」
クリス、とそろそろ特別な呼び方でも差し支えない、のだけれどやはりまだ慣れない。本当は、もっと自然に口にできたら良いと思っている。それに、相手も呼ぶと嬉しそうにしてくれるのである。けれど、やはり自分は何をするにしても時間のかかる人間なのだ。
もちろん、と気さくに彼の方は余裕があるように見えてしまい、余計に恥ずかしい上に腹立たしい。
その動揺を隠すために、キアラは彼に事情を説明した。家族の中で、唯一祖母はキアラを厳しく指導してくれた。もちろん、それは人見知りな孫娘を心配しての事である。
春先に腰を悪くしたが、治ったと言い張って今はこちらにやって来た。しかし何だか元気がないので、母が気にして話を聞いてみたらしい。すると、どうやらキアラがそのうち結婚して領地から出て行くという事実に、相当まいっているようなのだ。これにはキアラ以外の家族も困惑せざるをえない。
詳しく聞いてみると、そもそも祖母はキアラが外へ嫁ぐと思っていなかったのである。キアラには姉と弟がいるけれど、父は一人息子で、祖父やその前もそうだった。上の姉は領地内で結婚して暮らしている。人見知りがひどかったキアラが、まさか領地の外へ行くのは寝耳に水であったそうだ。しかし先方からの正式な要請なので、断れるような話ではない。
その事実に、話を聞き出した母の方も驚いてしまう。今までヴァンティークの娘たる者、と厳しく指導してきた過去の言動を指摘した。それはキアラの婚約の件を把握した後も続いている。
まさか今までの発言は強がりだったのか、などと否定される前提で尋ねたらしい。すると、あの気の強い祖母はなんと、そうだと認めたのである。
母も流石に言葉を失い、その反応で祖母はますます拗ねてしまい、現在に至る。せっかくこっちに来たのに何をやっているのやら、と他の家族は同情と呆れの半々であった。
「……父が、それから母と私でクリスがいかに優しい素敵な方で、というような話に切り替えて慰めているところです。一度会って話をすれば、祖母も安心するのではないかと思いまして」
「……その期待に添えるかどうかはともかく。機会を作っていただけるのはこちらもありがたい」
クリストフが真面目な表情で快く承諾してくれたので、キアラはほっとした。さすがに祖母が納得しないままなのは、あまりに申し訳がない。
それに、実態とはかけ離れているが、自分の婚約者を悪く言う人もまだ多い。その話が耳に入っても動揺しない程度には、親しい関係を築いておきたかった。
「何か、貴女の方の祖母君が嬉しいような贈り物を、先んじて教えていただけると助かるが」
「ええ、そうですね。何か決めて、早急にお伝えします」
何がいいだろうか、とキアラも舞台が始まるまでに候補はいくつか考えておきたい。その横でクリストフがふと思いついたように口を開いた。
「以前、まだ知り合う前の貴女にぬいぐるみを贈った時に。本当はそこで友人から始められないかと悩んだ事があった。近づく隙を与えてくれない貴女と、なんとか交流できるのではないかって。けれど一晩考えてやめた。その時は格好つけたかったという理由で」
そうなのですか、と意外な打ち明け話にキアラは目を丸くした。そういえば、彼にぬいぐるみをずっと前に、相手や事情を知らずに贈られていたのである。その時は幼かったので、父を経由して匿名で渡されても、特に疑問に思わなかった。
贈り物、という手段は交渉を有利に滞りなく進めるための懐柔策として、あまりにも行き過ぎでない限りは、嫌悪感を示す類のものではない。誰でも、気遣いと称して行っているものでもある。
「……ぬいぐるみを差し出し受け取らせた後から、『さあ姿を見せろ』はあまりにひどいと思って」
ルイスさんに渡してもらった、と彼の話を聞きながらキアラも想像を巡らせた。もし、その時に当時の彼と会っていたら、どうなっていただろう。しかし当時の自分に、いかに彼が優しい人だとしても、王子様と臆せずやり取りできた自信はない。
今、ある程度キアラが自分で何とかなる、という思いがあって初めて、こうして隣に座っていられる。尊敬や穏やかな恋心や、秘密の共有といった経緯を経て、今があるのだと感じている。
何事も、これが一番よかったと自分に言い聞かせて生きていくしかないのだろう。
「……ぬいぐるみを下さったあの時も、それから今も、優しくしてもらって申し訳ないです。祖母にもよくよく伝えておきます。ずっと以前からそうだったと説明しておけば、印象はもっと良くなるでしょうから」
「……先に優しくしてくれたのは、本当はそちらなのだが」
よし、と話がまとまったのでキアラはほっとした。そこへ相手が辛うじて聞こえる程度の声で、どこか懐かしそうに応じてた。
そうなのですか、と話の続きを聞こうとしたけれど、そろそろ開演らしい。会場の空気もいつの間にか、演目への期待が肌で感じられるようだった。
祖母君が戻って来て、自分の隣に座る。今日はありがとう、とこちらに微笑みかけた後は、舞台にうっとりとした視線を向けていた。
クリストフの方もキアラとこっそりやり取りしていた状態から、静かに舞台へと視線を向けた。彼は自分と違って、あまり観劇に出かける機会はないらしい。
けれど今日はせっかく来てくれるのだから、と少しでも興味の持てそうな演目を選んだのである。主題はもちろん恋愛話だけれど、舞台ははるか昔の争う二つの国で、堅牢な砦を打破するための奇計が登場するらしい。
彼もぜひ楽しんでくれますように、とキアラも幕が上がるのを心待ちにした。楽しい記憶を一つずつ、一緒に増やしていけたらきっと幸せだろう。