⑫最終話:今日見る夢の話
「それにしても真夜中に花瓶を蹴倒すなんて、悪い猫さんだこと」
ばあやがカウチに寝そべっているヴァンティークの飼い猫を覗き込んでいる。夜会へ着ていく衣装の打ち合わせが、ようやく終わったところだった。割れた破片が片づけられたキアラの部屋には、代わりに何着ものドレスや靴、バッグが並べられている。組み合わせや実際に身に着けた雰囲気を確かめる作業が繰り返され、やっと参加者全員に太鼓判を押してもらい、後は予定通りに出かけるだけとなった。
「それにしてもお嬢様、夜中に突然起こされるだなんて、……少しお休みになった方が良いのでは? 幸い、今日は予定が空いているようですから。体調に響いたら大変ですもの」
「そうね、……少しお父様と話をしたら、横になる事にする」
今晩ゆっくり寝れば大丈夫だろうとは思いつつも、彼女達の仕事ぶりと気遣いに感謝の言葉を伝えてから、キアラは父を探して部屋の外へ出た。扉を閉めようとしたところで中からココもやって来て、尻尾を立てている彼女はどうやら、書斎へ先導しているらしい。
部屋の前に到着し、そっと扉を開けて中を窺うと、ちょうど蔵書を何冊か抱えた父が立ち上がったところだった。
「お父様、キアラです。今、よろしいでしょうか」
問題ないという返事をもらって、キアラは猫と一緒に書斎のソファに腰かける。向かいの席に座った父に、昨晩にキアラの部屋で花瓶が割れた本当の理由を父に話した。ヴァンティーク侯爵は途中に余計な口を挟まず、娘の話を最後まで聞いてくれた。終わった後も、馬鹿馬鹿しいとかそんな事はあり得ない等の否定はせずに、大変だったと労ってくれた。
「……それで、ココちゃんは一体何者なんでしょう」
「……さあ? ココちゃんも人の言葉が話せたらいいのにね」
キアラの真面目な問いかけに、父はとても真剣な顔で肩を竦めて見せた。その反応には思わず座ったままよろめきかけたが、父は別に悪ふざけのつもりはないらしい。
「たとえば二足歩行で屋敷を徘徊しているとか、明らかに普通じゃない行動をとっているならともかく。……まあ何というか、多分この子は猫じゃないんだろうけど、猫として生活している以上、そっとしておいた方がいいのかなって。昔は正体を突き止めようと、色々調べた事もあったけど。結局、悪さをしなければいいと思ってしまって」
にゃん、とその通りと言わんばかりに返事をした飼い猫は、ソファから床に移動して、ゴロゴロと絨毯の上に転がった。毛並みが汚れるよ、との忠告もおかまいなしである。父は諦めて、それからまたキアラに向き直って再度話始めた。
「私の父、またそれ以前の当主達は知っていたようだ。おそらく、何らかの方法で意思の疎通も行われていたらしい。ただ、詳しい事を教えてくれないまま亡くなったからね。……ココちゃんにも悪いと思っている」
「……折を見て、そういう話をしては下さらなかったのですか?」
キアラは昨日見た夢の中で、キアラに対して掛けてくれた優しい言葉を思い出しながら聞いてみたが、父はどこか苦い表情で首を振った。
「残念ながら、私は父の御眼鏡にかなうような優秀な息子ではなかった。いつだって、一方的な物言いだったかな、それなりに尊敬はしているけどね。ただ、代替わりした後になって、この侯爵家には跡継ぎの息子だけに当主が直接伝える事項が数多くあるはず、と家令に言われた時は流石に眩暈がしたのを、よく覚えている」
王宮では有能な貴族として立ち回り、娘の婚約者やヴァンティークの領民からも頼りにされている侯爵は、深い溜息をつく。父が子供の頃の話は、今まで話題に上がる事はなかった。もしかしたら、意図的に避けられているのかもしれない。
キアラは昨日の夢のうち、父が二番目の娘を抱いて湖のほとりを歩いている一幕を思いだした。我々は、と慰め励ましてくれた声が、怖い夢に飲み込まれかけたキアラを救ってくれたのだ。
「こんなに良いお父様なんて、どこにもいないと思うのですけど」
正直な意見を口にすると、父はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべてくれた。昔の事だからね、と呟きながら、部屋の隅の飼い猫に視線を戻した。
「それでもこうして、きっと色々と不便な思いをしているはずなのに、困っていたらちゃんと助けてくれるからね。本当にありがたいと思う」
二人でココを観察していると、彼女もこちらをじっと見つめ返して来た。ココちゃんいつもありがとう、とお礼の言葉を口にした。白猫は目が合った後で静かに瞼を閉じた様子は、どこか笑っているようにも見える。
それにしても、と父は娘にどこか含みのある笑みを浮かべて見せた。
「クリス君と、そういう話をするようになったんだね」
「ええ、はい。長らく心配をお掛けしましたが、もう大丈夫です。お父様が繋いでくださった素敵な縁を、大切にします」
「お兄さん思いの良い子だからさ。頼りになる子供に恵まれて、父親としてこんなに嬉しい事はないね」
扉の外から旦那様、と家令の声が聞こえた。奥様方のご到着です、との言葉が終わらないうちに書斎に踏み込んできたのは、領地からやって来たばかりの母と祖母だった。顔を合せなかった期間は一月あるかないかの短い間だったはずなのに、少しばかり目元が潤んでしまう。
「あらキアラ。相変わらず優しい娘だこと。見てのとおり、あなたのお祖母様はちゃんと回復しましたよ」
「医者が大袈裟なだけです。ほら、この通り」
当の祖母は杖こそついていたが、それを除けばいつも通りのかくしゃくとした老婦人である。大切な扇子を譲ってくれた祖母に、博物館で見聞きした話をしなければとキアラは思い出した。
「あらお義母様ったら。可愛いキアラの花嫁姿が見られないかも、とあんなに弱々しく涙ぐんでいたではありませんか」
早々に付添人によって内実を暴露された祖母は、言わない約束のはずだと食ってかかり、いつも通りの光景が繰り広げられる。さあお茶にしよう、と仲裁しながら父が立ち上がった。ヴァンティーク家の面々は飼い猫を含め、揃って書斎を後にした。
夜になってキアラは、窓辺で月明かりに照らされている銀時計を眺めた。両親からの大切な贈り物は、昨晩ココによってたたき起こされた際に、当たり前のように手に持っていたのだ。何故あるのか、と問われれば返却されたからに過ぎない。ただし、夢の中の話ではある。
もうすっかり大人の年齢になったはずなのに、とキアラは夢の中での出来事を思い返して身震いした。頭の中を覗かれて、心と記憶の奥底にしまい込んでいたものを無理やり暴かれたような、苦い気持ちがまだ消えていない。
キアラは家族が好きだったし、自分の弟が生まれた時は皆と一緒に喜んだのだ。上書きするように、心の中でその気持ちを繰り返した。
明りを消して、それからふと思いついて髪を確認した。寝る時に絡まったりしないよう、緩く編んである髪をリボンで留めただけの簡素なものである。窓辺の銀時計を回収して枕の下にしまってから、キアラは目を閉じた。
「……寒い」
キアラが気が付くと、夜の屋外に一人で立っていた。手に持っているのは銀時計だけで、後はベッドに入った時と同じ格好であるのに気が付く。いきなり何を失敗したのか、あちこちにレースや花の刺繍が施されている可愛い寝間着姿のままだった。
今まではちゃんとドレスや日傘までつけてくれたのに、とキアラは早くも泣きたい気持ちになりながら、前方に見える家の明りに目を留める。小さな平屋建てだったが、そっと近づいてみるとは外壁等の家の造りはしっかりしているのが、暗くても何となく見て取れた。
窓からそっと中の暖かそうな光を窺ったつもりだったが、正面のソファに座っていた相手と誤魔化しようがないほどはっきりと目があう。家の中で靴音がして、すぐに扉が開いた。
「……あの、これは少々手違いが」
「風邪を召される前に」
キアラは抵抗も虚しく、建物の中へと押し込まれてしまった。今夜のクリストフは小さな子供や活きの良い少年、それから微妙なお年頃でもなく、キアラのよく知っている婚約者の姿である。寝間着ではなく楽そうな部屋着だった。
「今日の日付はわかりますか?」
その問いかけに、キアラは銀時計を確認して正確に答えるよう努力した。数日後に一緒に出掛ける事になっていると付け足す。では、とクリストフは笑った。同じ日の貴女ですね、と。
こんな時間にこんな格好で婚約者の元を訪れるのはどうかしてるとは思いつつも、夢の中を出るにはもう一度横になるか、外部から無理やり起こしてもらう以外の方法を、キアラは知らない。
室内は暖炉が焚かれていて、外と比べ物にならない居心地の良さである。内装の雰囲気も洒落た部屋だった。婚約者がこの家の構造や物の位置を知り尽くして手早く動いているのに対し、キアラはその場に突っ立っているしかない。
「……それで、何のご用件で?」
「先日、助けて頂いたお礼を、と思うと居ても立ってもいられず」
キアラにソファを勧めた後、彼も横に当たり前のように腰かけた。横にいるクリストフの声はどこか意地悪く聞こえてしまう。五年位の前の話かな、と更に追い打ちが来る。そう言えば、昨日の夢は途中で強制的に終了してしまったのである。しかしここで負けてはいけない、とキアラも澄ました顔を押し通した。未来の夫にこれ以上の醜態は晒せない。
「それより、ここで何をしていらっしゃるので?」
「世界中の子供が、怖い夢を見る事がないように待機している、という事にしておきましょう」
クリストフは王族の一員らしい、繊細な細工や彫刻の施された懐中時計をキアラに見せてくれた。これを使って様々な夢の中を移動して、あの悪夢の気配がないかを見回っているそうだ。
なるほど、とキアラはお茶に口をつけた。素直に関心してしまったが、今のは笑うところ、と本人から注釈が入った。キアラは昨日の夢で、悪夢に追い詰められた時に、しっかり助けに入ってくれた姿を思いだす。あの調子で、この人は眠った後も国中の幼い夢を救うために活動しているのかと思うと、笑う気にはなれなかった。
「かつての私の兄や、貴女まで標的にされたとなれば、野放しにする気はさらさらない」
「……何か、私にできる事は」
「私に任せて、夜は大人しく寝ていて下さい。……なにも、兄上と一緒の台詞を言わなくても」
クリストフは苦笑している。キアラは実際に婚約者の小さな姿とも会話をしたので、向こうがずっと年上にも関わらず、どこか無鉄砲な少年を心配するような、そんな気持ちになってしまう。今思えば一番最初に銀時計にお願いした魔法は、ちゃんと実現した事になっていた。
「公爵と公爵夫人は対等な立場なのですから、心配もして当然でしょう。それに一緒に夢の中で戦えなくても、起きている間にできる事だって、たくさんあるはずです」
キアラは彼自身から聞いた理屈を並べて、負けじと言い返した。この人はいつだって矢面に立つのを厭わない人だから、せめて自分だけはちゃんと彼の振る舞いを労われるような存在でいたいと強く思う。
ヴァンティークの領地では父が駆け出しの職人達に掛け合って補助制度を作り、貧しい家庭でも購入できるようになっている。この話をどうにか適当な理由をつけ、貴族に義務付けられている社会への貢献活動の一環として広めて行けば、少しは楽になるかもしれない。ここが決して餌場に適さないとわかれば、向こうからいなくなってくれる可能性もある。
「なるほど」
キアラの提案に、クリストフはしばらく考え込むように押し黙っていた。我ながら良い考えじゃないかと少しばかり誇らしい気分でいると、彼の方は面白くなさそうにソファに深く座り直した。
「さすがに危険を顧みず、泥沼に突っ込んで来るだけの事はある」
キアラにとっては一番最初の不思議な夢はほんの数日前の夢の話だが、クリストフにとっては二十年近く前の出来事をよく覚えているらしい。どこか遠い目で暖炉を眺めている。
「あ、そうだった。これをお願いされているんでした。髪をそのままにしているのが好きなんでしょう」
キアラは半分忘れかけていた事を思い出して、髪の毛を束ねているリボンを引っ張って解いてみた。指先で梳いて整えたのに、クリストフはさっと視線を外してしまう。
「こんな時間に人の夢の中に勝手に入って来て、……よくもまあ」
「ご要望にお応えしたまでです。何なら触っても構いませんよ」
キアラが今までの夢で顔を合わせて来た、大小さまざまなクリストフ達の先にこの相手がいるなら、とまるで弟に接するような寛大な気持ちが湧いて来るのだった。
「……こちらが今までどんな思いで二十年以上も夢を見ていたのか、想像した事もないとみえる」
「……ええ、ですから教えてください。私は、貴方の事をもっと知りたいのです。それが終わったら、私も貴方にどうしても伝えなくてはいけない事があるのですよ」
婚約者はキアラの申し出に、おそらくは習慣になっているらしい、周囲に人目がないかを確認するために室内に目線を走らせた。当たり前だがここには誰もいない事を確認した後、クリストフは横に座ったままの位置から手を伸ばした。話の切り出し方を探しているのか、キアラの耳のあたりの髪をくすぐるように、くるくるといつまでも指先が触れていた。




