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⑪キアラの悪い夢

 

 寝る前の身支度を終えたキアラは、ベッドの上に座ったままで考え事をしていた。今夜もまた、あの夢を見るのだろうか。もし予想通りに進むのだとしたら、とキアラは少し落ち着かない気分になる。


 今日の昼間は父と一緒に、学生時代からの古い友人だという人を屋敷でもてなした。軍に所属していて、もちろん釣り同好会の会員でもあるらしい。陽気で立派な体格の男性は夫人を伴ってやって来ると、キアラに軍での大きな行事や集まりの事を色々と話してくれて、大変参考になったのである。


「……ココちゃん」


 飼い猫は既にいつも通りベッドの端に横たわっていて、名前を呼ぶと尻尾を軽く振る。早々に明かりを消したキアラは、今まで自分が思う通りの夢を見たのは一度としてない事を、すっかり忘れていた。






 領地の本邸の応接間には、父の知り合いや親戚と思われる着飾った人達がたくさんいて、小さなキアラに好奇の視線を注いでいる。


「……キアラ・ヴァンティークです」


 有象無象から注がれる品定めの視線に、キアラはドレスの裾を握り締めるしかない。誰も背中に隠れる事は許してくれなかった。前の晩から何度も練習したはずなのに、自分の声の小さい事に情けなくなって、最後の方はほとんど消え入りそうだった。


「ちょっとキアラ、侯爵家の顔に泥を塗る気なの?」


 ゆったりとした特別なドレス姿の母はこんな冷たい表情で、娘を見下ろした事があっただろうか。何か大切な事を取り違えているような気がしたが、夢を見ている状態では上手く考える事はとても状況に追いつかない。


「今日は釣りなんかやめて、高級なワインを楽しむ晩餐としゃれこみましょう」


 さあ、と父は客人に向かって呼びかけた。侯爵家の二番目の娘の事などまるで眼中になさそうで、キアラはそっとその場を抜け出した。いつも通りに大人しくピアノの練習をしようと思ったのに、当の祖母は部屋の前でキアラを待ち構えている。


「お客様の相手をしなさい。さあ戻って、さあ!」


 有無を言わさず追い返されたが、とてもすぐに戻る気にはなれなかった。用もないのに衣装部屋に足を踏み入れると、部屋の外からキアラを除いたヴァンティーク一家が、廊下を楽しそうに歩いている声が近づく。もしかしたら探しに来てくれたのかもしれない、と扉をそっと開けると、会話の内容がはっきりと耳に入って来た。


「……娘が二人も続くのは計算外だ、ゆくゆくは持参金の無駄遣いだろうな。……次こそはよろしく頼むよ」


 ええ、と母親が応じている。衣装の上から、お腹のあたりそっと優しく撫でていた。キアラはその場に凍り付いたように立ち尽くすしかない。

 

 わざわざ言われなくても、姉がキアラよりずっと優秀な子供だとわかっている。もし母親の身籠っている赤子が男の子で跡継ぎになるなら、次女が邪魔でしかなくなるとも、知っていた。


 わかっているのに、はっきり思い知らされるのは辛くて、家族達が通り過ぎるまでその場を動けないでいた。喉の奥が熱くて、目も痛くて開けていられない。 


「あら、ここにいたの」


 キアラが一人で泣いている時には、必ず誰かしらがそばに来てくれた。それは姉や母や、傍で絶えず見守っている使用人達であったが、扉を掴んでにこにこと見下ろしているのは、その誰でもなかった。


 黒髪を綺麗に結い上げて、少し気の強そうな目鼻立ちは祖母譲りである。可愛らしいドレスに身を包んで、彼女は子供らしい無邪気な表情で笑いかけた。


「私は貴女よ。キアラ・ヴァンティーク」


 絶句しているキアラに、もう一人の自分はよしよしと頭を撫でようとしたのか、優しく手を添えた。氷のように冷たい指先の感触に怯えて仰け反ると、彼女は心外だと言いたげに口を尖らせる。 


「いつもあの扇子を握り締めて、魔法みたいに唱えるじゃない。私は優秀で、ヴァンティークの名前に相応しい女の子だって」


 ね、と彼女は上品に口元を洋扇子で隠して見せる。本物は私とばかりに鎖のついた銀時計を見せびらかした。良い方法があるわ、と口の端を釣り上げるようにして笑みを浮かべる。両手で何かを押し出すような仕草をした。


「ヴァンティークの領地内に、いくらでも水辺があるじゃない。姉様も母様もこっそり呼び出して、……何の証拠も残らないでしょ、足を滑らせたんだって。上手く一人だけ残ったら、ヴァンティーク本家の血筋として大切に扱って下さるわ」

「……やめて」

「夢は、あなたの心の中を映す鏡なの。認めてちょうだい」

「……そんなの、思った事なんて一度もない!」


 勝手な憶測を並べ立てる相手に、キアラは怒りを露わにして立ち上がる。後ずさりした相手は扉を叩きつけるように閉めたので、キアラはほとんどぶつかるような形で押し開けて後を追った。


「……誰か、ねえ、誰かお願い!」


 キアラの悲鳴に近い叫びが屋敷の中に響き渡ったが、応じてくれる声はどこにもない。どんなに必死に足を動かしても夢の中で、ちっとも前に進まなかった。廊下の突き当りには二階以上に続く階段が見える。

 

 もう一人のキアラは上の階からこちらがようやく追いついた姿を確認して、身を翻した。その後ろに見える大きな窓の外は雨の降り出しそうな黒雲が広がっている。鼻の奥がつんとするような変な匂いが立ち込めているのは、きっとそのせいだ。


 息を切らして、長い階段を駆け上がる。相手にどれだけ距離を稼がれているとしても、どうにか探して止めなければならない。やっとの事で上の階に辿り着いた目の前に、しかし待ち構えるようにもう一人のキアラが立っていた。鈍い衝撃と共に、キアラは宙へ投げ出された。


「随分おバカさんなのね。別に誰も始末しなくたって、私が入れ替わるだけで十分じゃないの」


 勝ち誇った笑みを浮かべるのを見えた。突き飛ばされたキアラの身体は段差に強く打ち付けられるはずだった。しかしぶつかりはしたが、思ったより痛くはない。落ちたのは階下ではなくて、誰かの受け止めた腕の中だった。


「……落ち着いて。それから、名前を」


 耳をくすぐる低い声の主はちょっと日焼けしていて、涼し気な目元の知らない青年がキアラを宝物のように大事に抱えている。彼は階段を数段飛ばしで駆けあがり、改めて悪夢に対峙した。勝ち誇っていたはずの彼女の笑みは凍り付き、わなわなと口の端を震わせている。


 キアラは夢の中の乱入者の、まだこの小さな頃では認識していない相手の事を、何故か知っている。特に王都に来てからはずっと、彼の事を考えざるをえない状況だった。


「クリストフ」


 正解、と青年は何か丸い物をキアラの手に押し付ける。硬質な秒針の音が聞こえて、本来の持ち主の手に戻された大切な贈り物をまじまじと見つめた。


「……今日の貴女は、随分と可愛らしいですね」


 小さくていらっしゃる、と彼の声と名前に繋がるように、キアラは様々な記憶を次々と取り戻した。ヴァンティーク侯爵令嬢という肩書で王都に出て来ている事、それから今晩もちゃんと自分の部屋で休んだ事も。


「……奴の気を引く間に、何か別の日の事を思い浮かべて。それで上手く逃げ切れるから」


 クリストフは作戦会議のように小さな声で囁いた。そうだった。父が屋敷に招くのは一緒に釣りに興じる人間に限っていた。母も祖母も、キアラがピアノの練習をする事を止めたりはしなかった。


 家族は、キアラを愛してくれていた。その確信は、心の中に立ち込めていた恐怖を吹き飛ばすように、気力が戻って来るのを感じた。


「それは別の夢に移動する、という事?」

「ええ、流石に理解が早くていらっしゃる。……貴女は確かに、取り乱して涙を零している日もありました。それがいつだったかを思い出して」


 あまり見ないでください、とキアラは慌てて両手で顔を覆って、より近くで時計の音を聞いた。規則正しい音の向こう側では、キアラがいつも聞いているような口調とは違って、挑発しているらしい。


「そんな顔しなくたって良いじゃないか。……こちらに対抗策が何もないとでも?」


 ちらりと薄目を開けて様子を窺うと、キアラの姿を模した化け物はどうやら冷静さを欠いているらしい様子が見えた。スカートの裾からはヘビのような尾が現れた。瞳孔が縦に裂け、口からは牙がはみ出している。両手を床につけて、本来は四足の獣であるかのような態勢でにらみつけている。怪物じみた自分の姿に、小さなキアラはひっ、と顔を強張らせる。


「大丈夫。二人分の恐怖が混じって処理できていないだけだ」


 クリストフはキアラを安心させるように言葉を選びながら、片手で抱え直した。もう一方の手に構えた剣のような長い得物は、何を持っているのかと思えば、組み立てて使う釣り竿の一部である。それを軽く振り下ろして、風を切る音がした。何の変哲もない道具のはずだが、相手は威嚇しながら何かを恐れるように後ずさりした。


「嫌な感じがするだろう? お前達の大嫌いな天敵の気配が」


 クリストフの頼もしい声を聞きながら、キアラは必死に別の日の事を考える。泣いている日というのは実際、婚約者が思っているよりもたくさんあって選びきれない程だった。その中で一番最初に思い浮かべたのはちょうどこんな態勢で、父の腕におさまっている日の事だった。



「……おいで」


父が幼いキアラを抱えて外へ連れ出した。行き先は屋敷の外にある大きな湖だったが、その日のヴァンティーク侯爵が釣りに興じるつもりではないようだった。


「いいかいキアラ。確かにお姉ちゃんが、私の娘とは思えない程に優秀である事を、我々は認めなければならない。……この話は誰にも言わないように」

「われわれ?」


 キアラは涙と同じくらい熱い喉の奥の痛みを堪えながら、父に聞き返す。我々という複数の呼称の意味がよくわからずに尋ねると、私とキアラの二人だよ、と侯爵は娘を抱え直した。


 今日もピアノのレッスンだったが、今日の演奏はどうも精彩を欠いていた。少し頭を冷やしておいで、と祖母は怒ったつもりはなかったようだが、キアラには突き放されたようにも思えてしまった。それで涙をこらえながら部屋を後にした。そこへたまたま、通りかかった父は娘の様子に目を留めて、気晴らしのために外へ連れ出してくれたのだ。


「キアラは私の子供時代にそっくりだから。しかし、何か勘違いしているようだが、……ヴァンティーク侯爵家の全責任は私にある。王宮での仕事も領民の事も、それからこの家の大切な子供達の事も、当主である私が解決するべき問題だ」


 キアラは父の向かい合うような形で抱っこされているので、父の目にどんな景色が映っているのかはわからなかった。この頃のキアラは外の広い世界で、父が何をやっているのかをまだ知らない。領地の中でも自分の家の中の事しかわからなかった。湖からやって来る少し冷たい風が、親子の横を優しく通り過ぎて行った。


「キアラにお願いしたいのはお姉ちゃんと、まだお母さんのお腹にいる妹か弟が大人になったら、その時はどうか支えてやって欲しい。その時にもしかしたら結婚して別の場所にいるのかもしれないけど、できる限り連絡を絶やさないように。優秀な人間は皆に頼られて、きっと大変に違いないのだから」


 キアラならできるよ、と父は湖畔をゆっくり歩きながら言う。湖の青い景色と、優しい父の声が、心の奥底に深く響いていくようだった。


「ピアノも他の習い事も、本当に必要なのはもっと先の事だ。大人になった時に合格点がもらえれば、それで何の不足もない。大成功だよ」


 その時にキアラは、父の役に立ちたいと思った。支えられるような存在になりたいと。そのためにはまず上の姉と、もうすぐ生まれて来る下の子を大切にしよう、と誓ったのだった。


 

 もうキアラは泣いていなかった。腕で目元を拭ってまばたきを繰り返すと、また場面が変わっている。今度の周囲は賑やかだった。美しい花嫁姿の姉が屋外に作られた会場で皆様、と呼びかけた。純白の衣装を纏った姉のファリィが、両親への感謝の言葉の締めくくりに付け加えた。たくさんいる招待客達の中にほとんど埋もれている妹に向かって片目を瞑って合図を送る。


「それから、大好きな可愛い妹へ。ちょっと恥ずかしがり屋だけど努力家で、私はあの子のひたむきさをいつも羨ましく思っていました」


 事前に、キアラは姉が父と母に贈る手紙の読み上げの練習に付き合ったので、何を喋るつもりなのか知っていた。それを逆手にとって、姉は少しばかりの悪戯を仕込んで置いたのだ。続いて弟のエリックの事も話し始めたが、キアラはもう冷静に聞いていられなかった。


 さっきとは別の理由で、しかし同じく涙が止まらないのである。そっとその場を離れて人気のない方向、とそこまで思い出してキアラは我に返った。涙で滲んだ視界の端、男性物の靴のつま先と、水の入ったグラスが差し出された。思わず顔を上げると、心配そうにのぞき込んでいる青年がいる。


 どうぞ、と当たり前のように差し出されたグラスを呆然としながら受け取った。どうしてここに、この人が姉の結婚式に涼しい顔で紛れ込んでいるのだろう。髪の毛はありふれたブラウンに染められている。


「……あの化け物はどうなったんですか?」

「外へ逃げて行きましたよ。もう大丈夫」


 クリストフはキアラの隣に腰を下ろしてやれやれ、と充足感に満ちた息を零した。会えてよかった、とも口にする。


「どうして貴方はここにいらっしゃるんですか。大体、その頭も」

「今日の主役のお二方を祝うために。そうしたら貴女がこっそり抜け出すのを見つけて。……この後、弟君とピアノを披露すると聞いたのに」


 クリストフは兄がどうしても行きたいと一歩も譲らなかったとか、それから新郎は釣り仲間の一人だから、と段々と言い訳めいた事を口走り始めている。


「……もしかしてあの時、私を助けて下さったのは」


 彼は否定をしなかった。つまりそういう事なのだろう。キアラは足元がすっかり崩れてしまったようで、指先が血の気が引いたように冷たいのは、きっとグラスのせいだけではない。クリストフは自分の婚約者が泣き虫の人見知りで、それから姉の結婚式で取り乱して晒した醜態の事も、全部知っていた事になる。


 それを踏まえたうえで、必死にクリストフに見合うような女性でいなければと必死だった日々の事が、虚しく思い返された。


 

「……もう人前で泣いたりしません、今日のこれっきりです」

「はい」

「私が、ちゃんと正式にお会いするまでにはたくさん勉強して、ちゃんと肩書に見合う女性になります」

「ええ」


 どうにか言葉にできたのは、負け惜しみのような、子供のような宣言である。応じるクリストフの声は、ヴァンティークの家族達がキアラに向けるような慈愛に満ちていた。


 キアラは予想されていた事態だったのか、バッグに扇子や懐中時計と一緒に入っていた小さな化粧道具を取り出して、どうにか崩れた顔を修正にかかる。小さな鏡に映った自分は耳まで赤くなっている。そうでなくても、この顔で人前に戻るのは非常に厳しい。白粉の性能を最大限に引き出してから、立ち上がってクリストフを見下ろした。


「演奏を聞いて行かれるのでしょう? そうしたらもう一度戻りますから」


 ここで待っていて下さい、とキアラは身を翻した。この夢の中ではキアラは一人しかいないのだから、今から戻って演奏しなければならない。未来の婚約者に一礼してから、足早に歩き出した。






 物凄い叫び声が聞こえて、キアラは夜中に叩き起こされた。そのけたたましい鳴き声は、耳をつんざくような断末魔の声にも思える。微かな月明かりが差しこむ部屋の中では花瓶が倒され中身と破片が散乱し、キアラはその惨状に目を白黒させた。慌ててつけたランプに照らされたのはヴァンティークの飼い猫で、絨毯の上に何かを押さえつけていた。


 それはココ自身の影ではなく、床の上でのたうつように蠢くのがはっきりと見えた。飼い猫は黒いもやのような物に噛みついて、一部を呑み込んだ。うっとりとした満足げな表情である。キアラの寝ぼけた頭に浮かんだのは悪夢を食べる異国の、架空の生き物の名前だった。



「……キアラ様!? どうされました?」


 音を聞きつけたらしい侍女達が来て部屋に入ってこようとするのを、キアラは花瓶の破片が危ないからと慌てて制止する。ココはするりと、侍女達の足元を潜ってどこかへ行ってしまった。


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