⑩入り江と日傘
ああ楽しい夢だった、と内容を思い返しながら、キアラは子供の声で目を覚ました。カーテンの隙間からそっと覗いてみると、早朝だというのに、既に姉の二人の子供達が庭を駆け回っている。その後ろには、義兄がやや眠たそうな顔で立っているのも見えた。姉のファリィが嫁いだ相手は顔や体つきはいかついが、いたって気の優しい人である。
「お屋敷がしばらく賑やかだね、ココちゃん」
キアラの頭の下にやって来て、同じく外の様子を窺っている飼い猫は、こころなしか顔をしかめているように見えた。彼女は世の中の多くの猫達と同じく、子供を苦手としているのだった。
キアラが朝食を終えたタイミングで、家令がキアラ宛に届いている手紙を幾つか持って来た。友人からのお茶の誘いの次に手に取ったのは、見慣れた筆跡である。腰を痛めて療養している祖母に付き添い中の、領地の母親からだった。
祖母に侯爵家お抱えの主治医より、ようやく馬車の移動の許可が下りた、との内容である。二人で数日中にそちらへ向かう、との事だった。祖母本人は自分の事は良いから早くと急かされて困る、とか社交界へ出たばかりのキアラへの気遣い、それからもし困ったら迷わず父や婚約者に相談するように、と短くまとめられていた。しかし、見慣れた筆跡を目にしただけでも、温かい気持ちになる。
もう一通はクリストフからで、数日後に開催される夜会に、婚約者として参加する旨の確認である。主催は国王陛下なので規模は大きく、日時や当日の段取り等の詳しい内容を確かめた後、キアラは他の手紙と同じように、心得た旨の返事の手紙を書いて家令に渡した。出かけるための馬車と支度のために侍女の手配の確認も一緒にお願いしておく。
家令が去って行ったのと入れ替わりで、姉と義兄が横へやって来た。二人の子供達はまだ外で遊んでいるらしく、笑い声がここまで聞こえて来ている。
「公爵閣下と一緒のお出かけはどうだったの?」
「……楽しかったですよ、子供の頃の話をしたりもして。久しぶりに博物館へ足を運んだのも、新鮮な感じで良かったです」
打ち解けたのを強調しながらの報告に、姉は満足気な様子である。その横では義兄が昔を懐かしむような表情で相槌を打った。
「……昔は一緒に釣りをしたんですよ、兄弟王子と。内密で領地にお義父上が招待して」
キアラは姉を顔を見合わせた。気さくなヴァンティーク侯爵は釣り仲間に身分を問わないが、流石に王族まで釣りに参加していたとなると複雑な気分である。主催である父の口からは何も聞かされていないのは、どうやら姉も同じだったらしい。
「……周りが気を遣わなくて良いように、とお二人はおっしゃって髪まで染める念の入れようで。もちろん、私にもヴァンティーク侯は当日まで教えて下さらなかったので」
女性二人の複雑な表情を前に、義兄は自分の髪を指差した。説明がないまま釣りに参加せよと呼び出されて来てみれば、と父に毎回振り回され、苦労の多い義兄である。
「兄君は釣りに夢中でしたが、……そう言えばクリストフ様の方は、たまに聞こえるピアノに耳を澄ませていましたね」
その頃から親交があったのか、と義兄に聞かれてキアラは首を横に振る。屋敷に誰かが来ていても、キアラは祖母にピアノを習うという名目で席を外していた。客人は釣りに行くか、母と姉とお喋りに興じるかのどちらかだった。次女だけ挨拶のみで早々と退場するのを、わざわざ追って来る人はいないので気が楽だったのを思い出す。
そんな風に三人で昔の話をしていると、駆け足の音が二人分やって来た。
「キアラお姉ちゃん、ピアノ聴いて!」
一応キアラは叔母にあたるが、年齢の関係なのかお姉ちゃんと呼ばれている。姉にそっくりな小さな女の子は、食事を終えたキアラの手を取り立たせようと腕を引いた。その後ろで、甥は猫は一体どこにいるんだ、と義兄に飛びついている。ココはどうやら既に行方を眩ませたらしい。
キアラは姪の要望を快諾して、小さな彼女と手を繋いでピアノが置いてある部屋へ向かう。後から姉夫婦も付いてやって来た。彼女に面倒な詳細は省略した上で王宮にある有名なピアノを弾かせてもらった話をすると、聞き手は素直に目を輝かせている。
ピアノがある部屋では、先回りした侍女達が演奏の準備を整えていた。窓を開け椅子を運んで来てと、慌ただしい準備を終えた彼女達にお礼を言って、キアラは演奏席へ姪を誘導した。
「横に座ってね」
姪っ子は一人前の音楽家よろしく、集まった聴衆を前に恭しく一礼した。使用人達も手が空いている者は次々とやって来て、ちょっとした発表会の始まりである。キアラはその横にそっと腰かけた。かつては祖母や姉にこうしてもらう側の立場だった、と少し懐かしくなった。
聴いて、と口にするだけあって、姪の演奏は目に見えて上達している。一曲ごとに拍手が起こって、ますます気を良くした演奏者は指の練習曲や子供向けの手習い歌を幾つか披露してくれた。キアラは特等席で見守りながら、自分の小さな頃の事を思い出していた。
キアラには祖母が手ずから練習曲を幾つも書いて、苦手な指遣いを徹底的に練習させた。難しい曲や箇所もたくさんあって苦戦していると、姉がやって来てお手本を見せてくれた。ファリィはどんな曲でも、楽譜をしばらく眺めただけで弾く事ができた。何回も何回も繰り返さなければ身に付かないキアラとは対照的である。
裏表のない称賛と拍手を残して、使用人達はそれぞれの持ち場へと引き上げて行った。去り際に庭師が、猫さんは温室に避難している、と口を滑らせたので、二人の子供達はそちらの方へまた駆けて行った。ココの機嫌を損ねて鋭い牙と爪の餌食になっては困る、と義兄もそちらの方へ付いて退室した。
「ねえ、キアラ」
椅子から立ち上がりかけたキアラの横に、姉が腰を下ろした。昔はこの椅子に、詰めて座れば弟のエリックまで三人横に並ぶことができた。しかし今は時間が経って、姉と二人で座るだけで少々窮屈だ。姉は妹の名前を呼びつつも正面のピアノをじっと見つめている。
「私の服の後ろをぎゅうぎゅう掴んで隠れていたキアラが、公爵夫人か。いつの間にか人見知りも克服してて、……キアラはピアノが上手になったよね」
正確には、キアラが人見知りを克服したのは姉の結婚式で感極まって大泣きして、危うく大失敗しかけたのが本当の転機だった。ただしそれは今思い出しても恥ずかしいので、キアラは黙って隣に座っていた。
ファリィはまるで妹の方が上手に弾けるかのような口ぶりだが、未だにキアラは姉より上手に演奏できるとは全く思っていない。
「……姉様を目標に練習したんですよ。昔はおばあ様に叱られてばかりだった」
難しい曲を姉はすらすらと弾いて見せて、妹にお手本を聴かせてくれた。それを何回も耳で聞いているうちに、私にも弾ける、という気持ちがどこからか生まれて来たのだ。もう一回練習しようかな、と姉は白鍵の上に両手を置いた。
久しぶり、と姉は言いながらピアノを弾き始める。キアラは大好きな演奏を、横でずっと聞いていた。
今度の夢は、どうやら眩しい海岸線らしい。夢の中のキアラは日傘を手に、別荘から砂浜の方へ歩いているところだった。潮の香りを感じながら、背の高い草の小道を抜けた先は領地の海岸、ヴァンティーク家が所有している静かな入り江は見覚えがある。
海は透き通っていて美しい。子供の頃は澄んだ淡い水色を、一日中でも眺めている事ができた。
「……それにしても、暑い」
昨晩は森の中だった事もあってか気にならなかったが、今回は季節が進んで、容赦なく照り付ける陽ざしを遮ってくれる物がない。淑女たるもの日焼けには気をつけるように、とよく言い聞かせられていた。ふと、日傘を手放さなくなったのは何歳の時だっただろう、と考えた。
骨組みが広がる時の軽い音は好きで、傘は決して嫌いではない。夢の中なら日焼けしようが関係ないのかもしれないが、何しろ不思議な夢には万が一、という可能性もあるので日傘を手に歩き出した。クリストフ少年の手に渡ってしまっているであろう銀時計の事を考えると、用心に越した事はない。
昨日のあの少年に会えるだろうか、と昨夜の楽しい時間と、また会いたいという約束の事を考えながら歩みを進めた。やがて海の音が近くなり、そして波打ち際に一人で海を眺めている姿があるのを視界に捉えた。
「……また出た」
小さく聞こえた声の高さは、キアラの知っている声に変わっていた。今夜のクリストフは、ちょうど弟のエリックと同年代か少し年上に見えた。また長い何かを手にしているので釣りかと思いきや、単なる長めの木の棒のようだ。それを使って砂浜に何か描いていたらしい。
キアラも子供の頃に姉弟三人で砂浜に立ち、誰の絵が波に耐えて最後まで残るのかを競ったのを思い出す。クリストフはしかし何を描いていたのかを確認するよりも先に、靴底で砂を掻き消してしまった。
「あら、子供の頃の様に喜んでは下さらないのですか?」
キアラが片手を傘の柄から離してブイサインを作ってやると、彼はしぶしぶと言った顔で、二本の指を立てた右手をあいさつ代わりのように掲げた。
父は毎回、このやり取りを釣り仲間達と交わすのだろうか。昨日の彼は紛れもなく子供だったが、今日はもう背丈がキアラに追い越してしまっている。無邪気な子供時代ならともかく、大人になった彼にブイサインを見せつけるのはやや抵抗があった。
「お久しぶり、ですね」
彼の声がやや皮肉気に聞こえるのは、こちらの気のせいではないのだろう。しかしキアラも決して自分の意思で夢を見ているわけではないので、父の真似をして軽く咳ばらいをした。
「ええ、残念ながら手違いが発生してしまったようです。それからどうして貴方という人は、人気のない場所にいつもいらっしゃるのかしら。たまには人里も悪くないと思うのですけど」
最初の時は沼地、次が森の沢のほとり、それからこの入り江である。弟と見かけの年齢が近いせいか、ついつい小言をつけるような口調になってしまう。
キアラは水平線を眺めたり、頭上を沖の方へ向かって旋回しながら飛んで行く白いカモメや、太陽の眩しさに目を細めたりした。クリストフはこちらを窺っているようだが、目が合うと露骨に視線を逸らす。昨日は向こうから積極的に話題を振って来たのに、今日は不自然なくらいに静かだった。
「挙動不審ですね」
様子を窺うキアラに、ずっと気になっているんだが、と彼は前置きした。子供らしい無邪気さはもうすっかり影を潜めている。昨日よりも自分が知っている婚約者の姿に近くなっていて、こちらも自然に身構える。
「貴女は、一体誰なんだ?」
彼の言葉に、そう言えば、きちんとした名乗りをしていなかったと思い当った。彼にとっては、夢に数年おきに現れる怪しい女、という扱いだろう。
「……名前や年齢から何かわからないかと散々調べたが、全て空振りに終わったんだ。それなら直接問い質そうにも、なかなか顔を出しても下さらない」
キアラが昨日その話をしなかったのは、まだ子供の相手を混乱させるかもしれないと考えたからだった。しかし、もう正体を明かす頃合いなのかもしれない。いつもの洋扇子の代わりに、キアラは日傘の柄を少し握り直した。
「……私の名前はキアラ・ヴァンティーク。あなたの未来の婚約者でもあります」
彼は目に見えて狼狽えた。キアラは自分の婚約者が慌てているのはまだ目にしていないので、少しばかり意外だった。
「それは、……俺が貴女を夜会で見かけて声を掛けたとか、そういう……」
「残念ながら政略結婚ですね」
「……そう、そうなんだ」
急に挙動不審になった相手の思考がよくわからず、キアラは首を傾げる。しかしこれは、自分の婚約者の内心を知る機会なのでは、と少しどきどきしてきた。
「どうして政略上の理由でないと思ったんですか? もし私が夜会に一人で出席していたら、声を掛けて誘って下さると?」
「な、なんでちょっと嬉しそうなんだよ!」
「素直に教えて下さっても良いじゃありませんか。さあ、さあ」
キアラが詰め寄ると、彼は分が悪いと悟ったのか、くるっと背を向けて走って行ってしまった。彼は何しろ軍の学校へ通っていたそうなので、全力で逃げられてはキアラに勝ち目はない。微妙なお年頃の相手を少しからかい過ぎてしまったらしい。反省して一人で歩いていると、日傘の外に黒いブーツが見えた。
「何故追いかけて来ない」
「……そんな早く逃げられては追いつけません」
正直な理由を口にすると、彼は無言でキアラの横に並んで歩き出す。こちらも反省しなければ、としばらく何の会話もないまま歩く事になった。先に音を上げたのは、クリストフの方だった。
「……さっきの話の続きなんですけど。……髪が長いのが好きと言えば、まあ……」
「大抵の女性は長いですよ」
「何も手を加えないで、下ろしているのがいい」
「……」
女性の髪型はドレスと同じく、場に応じて形を変える。毎回頭を悩ませているので、まさか下ろしているのが好きと言われるとは思っても見なかった。鏡がないので、キアラは自分の髪に手を伸ばしてみた。比較的、編み込みや髪飾りがしっかり作られているようだった。大体、人の目がある場所で髪を無造作にしている女性はなかなかいないだろう。
「……外してみます? 鏡があれば、自分でもできるかもしれません」
「……いや、いい。……多分崩れるだろうから」
それきりまた会話が途切れてしまったので、今度は自分の番だろうとキアラはずっと疑問に思っていた事を聞いてみる事にした。
「私の知っている、もう少し先の貴方は、夢で会っていた事は何も言ってはくれないのですよ」
「……その話を、こちらから口にする事はないと思う。小さい子ならちょっと勘違いしているんだな、で済むかもしれないけど。大の大人が『夢の中でお会いした時からお慕いしていた』なんて言い出したら、兄上に頭の医者へ担ぎ込まれる」
「……慕っているんですか?」
「いちいち揚げ足とらない!」
キアラが日傘を動かして様子を伺うと、彼は少々顔を赤くした。照れ隠しなのか何なのか、手に持っていた棒を海に向かって思い切り放り投げた。放物線を描きながら波間に飛んで行く木の棒である。
「……ヴァンティーク。……キアラ? あ、ルイスさんところの、あの娘か。姉君の後ろから恥ずかしがって少しも顔を見せて下さらない、あの」
「……ご名答です」
今度は彼がこちらを覗き込んで来ようとしたので、キアラは慌てて日傘で防御を試みた。相手は思いの外あっさりと引き下がった代わりに、腕を組んで何かを考えて込んでいるようだ。そうかそうか、と何やら嬉しそうな声が聞こえて来た。
きっとクリストフが思い返している頃のキアラは、恥ずかしいのと、姉と比較されるのも嫌でどこかへ雲隠れしていた姿に違いない。家族の誰かの背後を使って話しかけられないようにしていたのは事実である。
「……何がおかしいのです?」
「いや、貴女にも可愛いところがあるなって。ちょっとヴァンティーク侯爵が嬉しそうに自慢して来るのもわかる。人見知りが激しい分、自分には懐いていて優越感があるとか」
お父様、とキアラは自分の父親が周囲、特にこの兄弟にどのような話をしているのか不安になる。これ以上変な話がありませんように、と祈るばかりだ。
「釣りをするために舟を漕いで湖の上にいる時に、風に乗って貴女が弾くピアノの音が聞こえるんだ。それを含めて、ヴァンティークに滞在するのは好きだった」
そうですか、とキアラは言葉少なに返事をした。先ほどから貴女、あなたとキアラが一番平静でいられない声で呼ばれるのはひどく落ち着かない。日傘があってよかった、と心底思う。
「というわけで、舟を使いましょうよ」
彼は宣言するやいなや、テキパキと動いた。別荘の小屋に置いてある木の小舟と櫂を運んで来て、波打ち際に置いた。どうぞ、と促されてキアラは舟の真ん中へ腰を下ろした。
「……結構揺れますね」
「最初だけ、岸に近い場所だと。……ほら、落ち着いて来た」
「……陽ざしが辛くありませんか?」
「……ありがたく、入らせて頂きます」
キアラは太陽の方向を見ながら、二人共影の中に入れるように、白い傘の位置を調整した。 図らずとも身体を寄せ合う事になって、キアラは少し狼狽えたが、クリストフに悟られるのは嫌なので何でもない風を装った。
彼は随分と大人びた、と思う。学校へ通うという外での経験は大きいのかもしれない。
「ところで、次回はこちらが年上で出て来るんですよ」
すぐ傍で聞こえる彼の声が、波間に明るく響いた。その楽しそうな、嬉しそうな声は、キアラの知っている婚約者と、昨日の夢に出てきた無邪気な少年の姿を繋げたように思った。
このまま順調に進めば、明後日にはキアラの知っているクリストフにかなり近付く事になるだろう。
「……次の事なんて良いじゃありませんか。今の貴方には今しか会えないんですから。学校の話とか、聞かせて下さい」
今まで同じく、このクリストフに会えるのも今夜だけなのだと思うと、寂しい気持ちになるのを止められない。それから、図らずともキアラが一番最初に銀時計にお願いした、婚約者を知りたいという願いは叶えられている事になる。
本当は博物館で、呼び方の事を指摘されたのは嬉しかった。キアラが家同士の関係上、どうしても避けられない壁を、クリストフ自ら気にしなくて良いと言ってくれた。それは同時に、そろそろ自分の胸の内を打明ける時期が近い事も意味している。
「仲良くなりたいですよ、クリストフ様と」
一緒に傘に入っている関係で、もう表情を隠す事はできない。キアラの声は相手にちゃんと届いたらしい。櫂を動かす手を止めた彼にはまだあどけなさが残っていて、しかしキアラの知っている婚約者と同じく少々日焼けしている。
「……やっぱり、今のは聞かなかった事にしておいて下さい」
「何故?」
「……ちゃんと、私の口から言うようにします。大人になった貴方に」
キアラの答えはクリストフにとって意外だったようで、しばらく黙っていた。やがてわかった、と彼は言ってくれた。それから待っている、とも付け足した。




