①お茶会と乱入
「……お耳汚しにならないといいのですけれど」
キアラはできるだけしおらしい言葉を選びながら、年季の入った大きなピアノの前に腰かけた。この楽器は名のある技師によって作られ、王宮が建設された際には専用の一室を与えられている特別な存在である。屋根の裏には王都の街並みと思われる美しい絵画が描かれ、豪華な装飾が施された古い型の物だった。
庭に面した扉は開放され、外から入って来た暖かな春風がキアラの結った黒髪を少し揺らした。この場所は主に王族の人々が社交の場として利用している。午後の陽光が柔らかく差し込む部屋の中は明るく、キアラは一番前の席に陣取った老婦人をはじめとした聞き手に向かって、柔らかく微笑んで見せた。その後ろにずらりと勢ぞろいした貴婦人達からは、何か粗を見つけ出してやろう、と言わんばかりの刺々しい目線が、それぞれ手にした洋扇子の向こうから集まって来ている。
キアラはそんな張り詰めた空気の中、貴人や名だたる音楽家達が手を触れて来たであろうピアノを前にしては緊張、というよりは心地よい高揚感の方が強い。軽く息を吐いて、これも侯爵家の娘、そして国王陛下の弟君の婚約者という立場の恩恵だと思っておく。そうしておけば、背後から絶えず注がれる品定めの視線はあまり気にならなくなった。実際はともかく、肩書に相応しい場が設けられているだけの話なのだ、と。
キアラの父、ヴァンティーク侯爵は影で釣り堀侯爵という妙な陰口を叩かれている。確かに父は釣りが好きで、領地に所有している屋敷の多くが水辺にある。共通の楽しみを持つ友人を招いて遊ぶのに困らないように整備されていた。屋敷に招かれた男性陣はいそいそと道具を手に出かけて行き、残った女性陣はやれやれとのんびりお茶を楽しむのがいつもの光景である。ただしキアラは人見知りな子供で、特に幼い頃は楽し気な輪に加わるのを避けて家庭教師と授業か、祖母にピアノを習って静かに過ごしていた。
そんなキアラを含む侯爵家の三人の子供達にとっては優しく穏やかな、そして領地の人々にも慕われる父である。しかし王宮においてはなかなかのやり手だったらしく、渦巻く権謀術数の中心人物であったらしい。
その主な原因がキアラの婚約者であるクリストフと兄王子が幼い頃、どちらが王太子となるのか、王宮に出入りしている者ですら予想しがたい時期があった事に起因する。順当にいけば第一王子となるのが慣例だが、彼の母親の出自に少々難があるとされた。そのため第二王子のクリストフが王太子となる可能性が、当時はまことしやかに囁かれていた。
そのややこしい問題を颯爽と解決して見せたのが、まだ若かった当時の父である。人脈と駆け引きの手腕とで兄王子と隣国の王女殿下との縁談を取りまとめ、更に弟王子の方は自分の二番目の娘を婚約者に、と最終的に完全な一人勝ちを決めて見せた。もちろん、若き国王陛下はかつて不穏な空気の王宮で、幼く後ろ盾もない時期を支えてくれたヴァンティーク侯爵に敬意を示し、まるでもう一人の父親のようにと言っても過言ではないほど慕っていると聞く。
王太子になった方の機嫌をとれば良い、と暢気に構えていた者達は完全に出し抜かれた形になる。そういう経緯で、娘のキアラに対する言い逃れができる範囲でのやっかみと嫌がらせも致し方ない、のかもしれない。
先ごろ成人とみなされる年齢となり、結婚も控え社交界へ出たキアラの元に一通の招待状が届けられた。手紙には王宮にて秘密のお茶会、要するに内輪の気楽な集まり。お喋りを楽しみましょう、と書かれていた。飾らない恰好でいらっしゃい、ともある。ちょうど両親が共に不在だったので屋敷の者に相談した結果、真に受けなくて正解だった。
王宮の門をくぐるのに相応しい衣装を用意して家庭教師と共にやって来てみれば、そこには国王陛下の祖母君と、貴族の女性達とが待ち構えていた。キアラへの品評会は一見和やかに思える空気の中でまずはお茶を、それから庭園を一回りして来た後、このピアノの前へと案内された。父から自分の婚約者についての話があった時点で、ある程度は覚悟の上であるものの、本当に気楽な場として設けるのなら、他の令嬢などをたくさん呼んで欲しいところである。
父は滅多に会えない友人に会いに出かけ、母は腰を悪くした祖母に付き添ってまだヴァンティーク領内に残っている。そして肝心の婚約者はここ一週間程は軍の仕事が忙しく、今日がその最終日と聞いていた。明日は一緒に出掛ける約束になっていたので、タイミングが悪いとしか言いようがない。一応は連絡してみたものの案の定、ここ数日は所有している屋敷にも戻っていないらしい。
一緒に来てくれた家庭教師は別の場所へ通されて、結局キアラが自分で切り抜けるしかない状況にあった。
そんな事情はさておき、キアラは集中と指を慣らすために白鍵を一つ、二つと弾きながら、頭の中に入っている楽譜を準備する。侯爵領の多くの屋敷にもピアノは設置されており、よく似た型の物を弾いた事があるため、技術的な問題は無さそうだった。それから祖母が若い頃に好きだったという、歌劇のために作られた曲に決める。かつては悲劇的な恋物語として、当時はあちこちで熱心に上演されたらしい。
弾き始めて、声には出さないものの背後の空気が変わったのが手に取るようにわかる。流行り廃りの激しい歌劇の世界で、この曲は上演される機会自体が減ってしまった。ただキアラは若い頃の彼女がいたく気に入っていた事を、ちゃんと事前に知っていてこその選曲である。
これで小賢しいと感じるか、純粋に喜ぶのかは本人にしかわからない。キアラはせっかくの機会にお気に入りの曲を披露し、それから祖母に良い土産話ができた事を嬉しく思った。そして気を抜かないようにしながら最後まで弾き終える。一人分の拍手が、演奏を終え身体の向きを変えたキアラに送られた。
「随分と古い曲を御存じね」
「私の一番好きな曲で、一番最初に祖母に教えてもらいました」
幾分柔らかい雰囲気に変わった老婦人に、キアラは嘘偽りのない事実を述べた。演奏の出来には誰も文句をつけられないらしく、後方からは引き続き棘のある視線が送られて来ている。しかし目の前の相手だけは、どこか昔を懐かしむような表情で静かに何度か頷いた。
「……キアラ。ここにいたか」
そのタイミングで、外から聞き覚えのある声がやって来た。おや、と王城へ来てからずっと張り詰めていた緊張の糸が、意外な人の登場で綻びかける。親しさを強調するために人前では名前で呼び合う約束だが、まだ少しだけ落ち着かない気分になる。その相手と一瞬だけ視線を交わす間に、キアラはその糸をもう一度しっかり張り直してから応じた。
「クリストフ様」
仕事が忙しいはずのキアラの婚約者は王族の義務として軍に所属しているだけあって、黒髪の貴公子と称するには少々日焼けしている。姿を現しただけでその場の主導権を強引に奪ってしまった彼は自分の婚約者、祖母、そしてその他の貴婦人達を順番に眺めた。切れ長の涼し気な目元は、今日に限っては冷ややかな印象が強い。威厳に満ちた立ち振る舞いは王弟、公爵、それから軍人としての肩書が、決して名目の上だけではない事をうかがわせた。
彼は大股で歩み寄り、キアラと老婦人の間に立った。乱入者を前にしても彼女は上品な笑みを讃えたままだが、後ろには緊張が走る。
「そんな怖い顔をしないで。……見て分かりませんか? 皆で楽しく音楽やお菓子を嗜んでいたまでです」
「婚約者の私を差し置いて? 一言もなしとは」
涼しい顔の祖母を相手に、しかしクリストフは追及の手を緩めるつもりは全くないのが、背後からでもわかった。上背があって軍人然としているせいか、実年齢に似合わない迫力を有している。この二人が特別仲が悪いとの報告は聞かないが、何も知らされていないとなれば話は別なのかもしれない。キアラは黙って成り行きを見守る事にした。クリストフと生家のヴァンティーク侯爵家の意向に従わなければならないので、口を挟む余地はない。
「私は純粋にお喋りをしたかっただけです。老人の楽しみを奪わないで」
「年長者らしい配慮と振る舞いを重ねなければ、鬱陶しいばかりですよ。今後は控えて頂く」
祖母の意向を容赦なく切り捨て、それから、とクリストフは老婦人の背後で息を詰めるように成り行きを窺っていた多くの貴族女性達に少しだけ視線を投げかけた。キアラの位置からは背中しか見えないのに、きっと怖い顔をしているのだろうな、という事はわかる。
「然るべき相手に次は無いと通達するので、そのつもりで」
その他の人間は抗議の対象ですらない、という冷酷な言葉を告げて振り返り、後ろのキアラに目線で立ち上がるよう促す。まばたきの間に切り替えたのか、こちらに向けられたのは、他の女性達が顔を青くするような目つきではない。もちろんクリストフの意向として辞するよう指示されれば、従わない理由はなかった。
「キアラさん、またいつでもいらしてね。興味のありそうな歌劇があったら、招待状を送ります。それから、噂通りの素敵な演奏でしたわ」
孫の攻撃が効いたのか効いていないのか、とりあえず表面上は上品な老婦人に、キアラも相変わらずの笑顔で応じて見せる。
「ええ、喜んでお受けいたします」
こうして、秘密のお茶会は大変和やかな空気で終わりを告げた。忙しい中で時間を割いて迎えに来てくれた婚約者と連れ立って、キアラは会釈をしながらその場を後にした。