第5話 ここは、元の世界?
目を開けると、見慣れた天井が見える。部屋の家具や配置も変わっていない。
「僕の部屋……夢から覚めたのか」
歩が寂しい表情をする。気持ちを切り替えるためにカーテンと窓を開き、朝の新鮮な空気を吸おうとした。すると、窓から気持ちの良い風が入り、部屋の沈んだ空気を入れ替えてくれる。
「良い風だな、天気は曇りか」
風を浴びながら一人感傷にふける歩だが、ふと違和感に気付く。
「おいおい、いつから僕の部屋はこんな高層階のマンションになったんだ?」
歩の部屋は職場である菓子屋の3階を間借りしている。
そのため、町全体が見渡せる高層タワーの様な景色が部屋から見える筈がないのだ。
再び、部屋の中を一瞥する。部屋の様子は以前と大差ない。ゲーム機を開くと、昨日プレイしたゲームのセーブデータが入っていた。
ふと指を見ると、見覚えのあるハンカチが巻かれている。恐る恐るハンカチを外す。傷自体はほとんど治っていたが、確かに昨日の怪我に違いなかった。
「まだ夢の中だっていうのか」
1人呟く歩の視線は自分の部屋の扉へと注がれていた。
歩はハンカチをベッドに畳んで置き、部屋を出る。
扉から出ると、そこは見知らぬ広い廊下だった。この廊下にもう一部屋入るのではないか――歩はそう思いながら廊下の先にある重厚そうなドアに手をかける。
廊下以上に広い部屋で最初に目についたのは、5,6人は楽に掛けられそうな豪華な革張りのソファ、そして、壁一面を覆わんばかりの巨大な液晶テレビ。
普段の生活風景とかけ離れた光景に驚くが、その驚きも冷めやらぬうちに今度は嗅覚が異常を感知する。
朝の空腹を刺激する匂いに目をやると、キッチンが見える。
その匂いの元は毎朝食べているハムエッグであったが、明らかにいつもの肉よりもワンランク、下手をするとツーランク程上質の肉を使用しているのではないかと思わせた。
だが、そこにいた2人の人物の姿を確認した途端、歩はそれどころではなくなった。
その2人の人物は歩の良く知っている人物――
「……母さん、父さん?」
「おはよう、歩」
「おはよう、今日は遅かったな」
その親愛のこもった言葉を発したのは歩の職場の上司でもあり、養父母でもあるこの家の夫婦であった。二人とも初老であるが、その表情と言葉の端々から心根の良い人物である事が分かる。
「父さん、母さん……」
思わず2回同じ言葉を発してしまう。
「どうした? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして。朝ご飯を用意してあるからこっちに来て座りなさい」
まだ夢の続きを見ているのではないか――歩は目の前にいる養父母を訝しみながらも、テーブルの席に着く。そして、部屋を見渡しながら両親にそれとなく尋ねてみる。
「……この家に来てどの位だっけ?」
「いつって3年前でしょう。歩が前の家だと近所に迷惑がかかると言うから、ここに越してきたのよ」
自分が原因で家を引っ越したとの答えに歩は困惑する。迷惑とは何だろうと思い、理由を問い掛ける。
すると、今度は父が答える。
「どうした、まだ寝ぼけているのか? お前に会いたい人が多過ぎてプライベートも何もないからここに越してきたんだろう。そうだ、昨日届いたファンからのプレゼントはいつもの場所に置いといたぞ」
歩が頭を抱える。
どうやらまだ別の夢を見ているらしい。
そうでなければ、ただの菓子職人がどうすれば毎日女子から大量のプレゼントを貰えるのか。
自慢ではないが、歩は一歩外に出れば、アイドルのように囲まれる経験など現実で起きた事がない。
「……ちょっと散歩してくる」
「この前みたいに囲まれて警察沙汰にならないようにな」
適当に相づちをしつつ、歩は高層マンションから外へ出るのだった。
「さて、ここはどの辺かな?」
一歩外に出ようと足を踏み出す――途端に歩は懐かしい気配に包まれるが、周りには誰もいない。
「これは……」
気配を気にしつつ、歩は周りの景色と自分の記憶を手繰り寄せる。
「なるほど、商店街とそう離れてはいないな」
ビル以外、周囲の景色に見覚えがあり歩は少し安堵する。
「ひとまず考えをまとめよう」
進み始める歩だったが、この時頭の中には養父から言われた言葉がすっかり抜け落ちていた。
「や……やっと巻いた」
その場所に着いた歩は、疲労困憊の表情をしていた。
もし、今の歩の精神状態を数値で表すなら残高が一桁である。
「まさか、本当に囲まれるとは。しかも、度が過ぎている気がする」
歩が目的地に向かう途中、一人の女子高生に会ったのが発端だった。
握手やサインを求められるうちに、通りかかった別の女性にも黄色い声を上げられ、アッという間に人だかりの山になる。
それだけならまだしも、事態はさらに悪化を辿った。集まった女子高生や主婦が、互いに歩への愛情を巡って口論し始め、遂には、互いの髪の毛を引っ張り合う乱闘騒ぎになったのだ。
何よりも歩が驚いたのは、当人たちが本気の愛情を語るだけでなく、その思いの中に相手への殺意が垣間見えたことだった。
事なきを得るまでにどれだけ時間が掛かったか、今の歩の顔がそれを物語っている。
「……ここは夢の中でも静かですね」
歩が目指していた場所――それはこの町の墓地だった。
歩は目の前にある墓前に立ち安堵する。
「良かった、ここでもあなたの場所があって――師匠」
一際強い風が吹く。まるで、歩の問いに誰かが応えているようだった。
その墓の前に向かって、まるで生きている人と話すかのように喋る歩。
「いつも迷った時はここに来てしまいますね」
襟を正し、直立しながら話す様子は、1人で話しかけているという特異な状況にも関わらず、その様子を見た誰もが、歩の発する厳粛さに息を呑むしかなかった。
「……以上で報告は終わりです。特に姉ちゃんが出てきた時には驚きましたよ。すごい不機嫌なのに、それが懐かしく感じてしまって」
歩は瞼を閉じ、昔を思い出す。




