第51話 決行前夜と、迎える朝
その日の夜――
歩は1人家の屋根の上に寝そべり、空を見上げていた。
恰好はルームウェアで、汚れないようにビニールシートを下に敷いている。空は雲1つ無いが、都会に近いからか、星はまばらにしか見えない。それでも、歩はここから見える空と自分の住んでいる街が好きだった。街には余り高い建物は少なく、家々には明かりが灯っている。その上には、綺麗な真ん丸を描いた月が夜闇をほんのりと包んでいた。
歩の傍らには水筒があり、中には商店街の店で買ったハーブティーが入っていた。
「やっぱりここにいた」
屋根に出れる3階の天窓から顔を出したのは、真春だった。
もう寝る体制に入っているためか、ショートパンツとTシャツを着ており、その上から薄手のパーカーを羽織っている。
真春は、背中に羽が生えているのかと錯覚するほど軽やかに窓から屋根に移り、あっという間に歩の傍に座った。
「ねぇ、私にも頂戴」
真春が指差すのは、歩が飲んでいる水筒だった。
「うん」
あいにくコップは1つしかないため、歩は自分の器に新しくお茶を注ぎ直して渡す。
「ありがと」
真春が感謝の言葉を述べ、ちびちびとコップの液体を飲み始める。
それからしばらくは互いに無言であった。いつもと変わらないように見える街並みと空を4つの目が見つめている。
「それで、明日はどうするつもりなの?」
永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、真春であった。
歩が横を見ると、真春の瞳がじっとこちらを見つめている。体育座りをして、少し首を傾けていた。その仕草は、真春の美貌だけでなく、天窓から入る僅かな明かりを反射している絹のような黒い髪と相まって、どこか現実離れした印象を与える。100人男がいたら、99人は頬を染める状況であるにも関わらず、歩は至って落ち着いていた。長い付き合いという理由もあるのだが、何よりも真春の目が本気である。その眼力は、別の意味で狙った者を離さない力を持っていた。
「最後までイリーナさんの命を諦めない」
歩が返した瞳は、それ以上に真剣さを帯びていた。同時に、真春以外に何か別のものをも見据えている。
「そう……それで、私は何をすれば良い?」
歩の回答に満足したのか、真春の表情が和らぐ。
「姉ちゃんは――」
歩が明日のことを話す。時間にして、5分もかからない会話の後、
「なるほど……その可能性に賭けるしかなさそうね。シアちゃんが明日の朝に定期検査から戻ってくる予定で助かったわ」
「そうだね。姉ちゃん、明日は頼む」
歩の問いかけに、真春がウインクしながら親指を立てて返事をする。
「お姉ちゃんに任せなさい!」
その表情には、慈愛や愛情が表に出ていたが、並々ならぬ決意が見て取れた。そんな真春の返事に歩も同じポーズで返す。親指と親指を軽く触れ合いさせながら……。
翌日、魔法世界にて――
朝10時、歩とシアはイリーナのいる病院の近くに馬車で来ていた。そこから徒歩で移動する。
「お兄ちゃん、ここ?」
真っ白なワンピースに水色のカーディガンを着たシアが歩を見上げて言う。その手は歩としっかり繋がっていた。褐色の肌に黒い髪、大きくクリっとした瞳を歩に向けている。もう片方の手には、可愛らしい竜のぬいぐるみを大事そうに抱えていた。
「うん、ここからは少し大変だ」
辿り着いた病院を目の前にして、歩は異変をはっきりと感じ取っていた。
まず、馬車から降りてここに来るまでも含めて、辺りに人の気配が全くない。通りも民家も店も静まり返っている。聞こえるのは、僅かな風の音くらいだ。まるで、辺り全体が夜逃げしたような様子だった。
(まさか……)
歩がある推測を思いつくが、今は他に優先すべきことがあるため、考えを頭の隅に追いやった。
次におかしいのは、病院そのものである。こちらは目に見えて明らかだった。誰もいない様子だけではなく、病院全体が何かに包まれている。入った者を拒絶するどころか、粉砕するかのようなプレッシャーを歩は感じた。
シアも何かを感じ取ったのか、握った手を強く握りしめる。
(嫌な汗が出てくるな)
歩が不安を取り除くようにシアの手を軽く握り直し、
「さっきも言ったけど、ここから先は必ず僕の後について来て。それから、絶対に僕に触れないでね」
そう言うと、繋いだ手をすっと放した。その直後に、シアが一瞬寂しそうな顔をするが、自分を鼓舞するかのように、ぬいぐるみを両手で強く抱きかかえて歩に答える。
「うん!」
歩が笑顔をシアに向けた後、
「さぁ、行こう!」
そう言って、歩が病院の扉に手を掛けたのと、痛そうな男の悲鳴が上がったのはほぼ同時であった。
一方、真春と亜紗はソフィアとの待ち合わせ場所である博物館跡地に来ていた。時刻は歩が病院に着く少し前だ。
「あら、随分早い到着ね」
声を出したのは、ソフィアだった。いまだに片付いていない瓦礫の一角に、持ち込んだであろう簡易的な椅子と机が用意してあり、ソフィアは日傘の下に優雅に座っている。机には、本と飲み物が置かれていた。
その隣には、見慣れぬ老執事が眉1つ動かさずに立っている。背丈が高く、執事服の下には筋肉隆々な肉体が見て取れた。短く刈り上げた見事な白髪とは対照的な浅黒く焼けた肌が目に眩しい。
「真春様、亜紗様、お久しぶりでございます」
恭しいお辞儀と共に、渋く太い声が辺りに響いた。銀縁の眼鏡が朝の陽光に反射して光っている。その表情には微笑を浮かべてはいたが、瞳の奥にあるのは静かで深い決意だった。
「エンドレフ、貴方もいたのね」
真春が少し驚いた様子を見せる。
「ええ、全てを見届けるために私は本日ここにおります」
自分の主が何をしようとしているのか、これから何が起きるのか全て分かっている顔であった。
「挨拶は終わったところで、もう1人の男はどうしたの?」
ソフィアが真春の方を向き、会話を遮る。
「あら、まだ約束の時間までは大分あるでしょう」
「……まぁいいわ。でも意外ね。病院に行くとしたら、行くのはあなただと思ってたわ。そんなに有用な男だとは思えなかったけど」
真春の真意を推し量ろうと、ソフィアが真春を疑念の眼差しで見つめる。
「あいつは必ず時間通りに来るわよ」
ソフィアの鋭い視線を真っ向から真春が返す。その視線が癪に障ったのか、ソフィアが苛立ったように言った。
「それで、あなた達だけ先に何をしに来たの? まさか、この期に及んで話し合いをするとでも言うんじゃないでしょうね?」
ソフィアの考えを否定したうえで、真春が放った言葉に一番衝撃を受けたのは、ソフィア・ブラガロード本人だった。
「私はアンタをぶっ飛ばしに来たのよ。いつかの魔法大会のようにね」
少し遅れてしまった、、、。




