南華の四季‥百度踏揚の生涯
私がその教授(?)と出会ったのは、冬空のクリスマスが近いある夜のことだった。場所は、大阪の梅田。茶屋町のちょっと薄暗い居酒屋だった。クリスマスも近いというのに、私は彼と別れて初めての独りきりのクリスマスを、「さて、どうやって過ごしたものか‥」と考えながら、三杯目のチューハイのグラスをカラカラと揺らしていた。別に彼に未練があったわけではないが、独りきりのクリスマスというものを私は経験したことがない。昨年までは彼がいたし、それまでは家族や友達と一緒だった。今さら家に戻る気もないし、第一実家は香川県だ。友だちもみんな適当な相手を見つけて、うまくやっているようだし‥
「さて、どうしたものか‥」
私は、その居酒屋がもの凄く騒音(話し声や、食器の音‥)に包まれていることもさほど気にはならなかった。カウンター席に頬杖をつきながら、ぼんやり目の前のグラスを見つめていた。携帯も今は意味がなかった。様々な映像が頭の中をぐるぐると巡ってきて、周囲から切り離されたことが、余計に自分を孤独に追いやっているような気さえした。考えてみれば、私は自分一人で何かをするということが今までほとんど無かったような気がする。遊ぶ時も、必ず誰かと一緒だった。誰かとつながっていないと何もできない‥ もしかしたら、私たちの世代ってみんなそうなのではないだろうか? 大学のキャンパスでも、どこかの遊び場でも、みんな必ず群れている。群れから離れたものは、孤立し「いじめ」の対象になってしまうのだ。みんなそれを恐れるから、誰かとつながるんだ。‥ということは、私は今「孤立」しているのか? 否、そんなことはない。群れようと思えばたくさん、つながることができるゼミの友だちや昔からの友だちがいるし、SNSの友だってうんざりするほどいる。決して私は孤立なんかしていない。「会いたい」とメールすれば、喜んでやってくる男も一人や二人じゃない。ただ‥今は群れたいという気分になれないだけなんだ。どうしたんだろう? 酔ってしまったのかな?
「お客様、お隣ご相席でもよろしいですか?」
私が、考えていることに疲れ始めた頃に若い男の店員が声をかけてきた。
「はぁ?」
「お隣ご相席でもよろしいですか?」
私は、店員の後ろに立っている中年の男性を見て、それから隣の椅子にかけていたコートを取って、「どうぞ」とつまらなさそうに言った。もしいやらしいオヤジなら帰ってしまえばいいし、店を変えてもいい。どうでもよかった。
「すみませんね。」
と新しい客は私の隣に座り、ビールを注文してから私に言った。私は無視した。どうでもいいような顔でチューハイを飲み干した。
「あの‥ 貴方は『近松』が好きなんですか?」
「はぁ?」
その男は、私がテーブルの上に置いてあった本を指差して、声をかけてきた。私は大学のゼミで必要な「曽根崎心中」に関する本を何冊か置いていたのだ。
「一応、国文科なもんで‥」
「なんだ。まだ学生さんなんですね。どこの大学ですか?」
私が大学の名前を告げると、男は「あぁ‥」と言い、それから。こんなことを聞いてきた。
「小野君は、元気ですか?」
「小野君?」
「小野正人‥ 確かその大学の国文科だったと思うのですが‥」
「小野教授のことですか?」
「ええ。」
「私、小野教授のゼミなんです。」
「そうですか? なるほど‥だから、近松なんですね。彼も昔と変わっていないなぁ‥」
「貴方は‥ 小野教授とお知り合いなんですか?」
「いや、昔の同僚なんですよ。」
「じゃぁ、どこかの大学の?」
「えっ、まぁ‥」
私が、その教授?に興味を持ったのは、別にその人が私のゼミの教授の知り合いだっただけなのかもしれないが、その教授の話が面白かったからかもしれない。その教授は、講師だった頃に地方の大学で小野教授と同僚で、中世日本史を専門としていたらしい。昔のことをいろいろ教えてくれ、私は小野教授の若かった頃のエピソードなどを可笑しく聞いていた。ゼミでいつもぶっつらした顔で、難しそうな古文書を読んでいる、あの小野教授にも昔の意外な面を教えてもらえることは、確かに興味深かった。私たちは、昔からの知り合いのように話しに夢中になって話し続けていた。
「‥私が、何故日本史を専門にやっているか分かりますか?」
「いいえ。どうしてですか?」
「貴方は、沖縄についてどう思いますか?」
「オキナワですか? ‥う~ん、一度友だちとダイビングに行ったことがある程度で、海がきれいな南の島ってことぐらいかな? 後は宮里藍とビギンぐらいしか‥」
「ははは‥ なるほど、確かに住んだことのない人にとっては、その程度の知識が妥当でしょうね。」
「先生は、沖縄に住んでいらっしゃったんですか?」
「四年間いました。‥実は私は琉球大学の出身なんですよ。」
「沖縄の?」
「首里キャンパスの最後の学生だったんです。」
「琉球大学って、首里にあったんですか? 今は確か‥」
「そうです。今は中頭郡西原町にありますが、それまでは今の首里城の建っていた場所にキャンパスがあったんですよ。」
「確か、やたらと赤かった城ですよね。」
「そうそう、明らかに中国の影響を受けましたよって感じですよね。‥でも、確かにそこに我々のキャンパスはあり、その頃は学生街だったんですよ。隣にはキリスト教短期大学なんかもあったりして‥」
「やっぱり合コンなんかもあったんですか?」
「いや、最近のような形の合コンと言うより、何故かダンスパーティーなんかが多かったですね。」
「ディスコですか?」
「違いますよ。チークとかワルツとかジルバとか‥」
「おっかしい! なんか明治時代みたいですね?」
「鹿鳴館ですか‥離島だからかな? 私もかなり驚きましたよ。その当時の沖縄では、それが男女の出会いの場であることが多かったんです。」
「‥じゃぁ、コンパなんかは無かったんですか?」
「ありましたよ。寮やゼミなんかでは、結構一緒に飲みに行ったりしたものですよ。」
「やっぱり泡盛ですか?」
「これがねぇ‥ 泡盛やビールも飲んだけれど、今じゃ手頃ですが、カティーサークやホワイトホースだったりして、結構スコッチやバーボンなんかが流行っていましたよ。復帰特別措置法のおかげで、税金が安くって、高い酒にも手を出すことができたんです。」
「米軍基地の問題と関係あるんですか?」
「それを話し出すと、一晩中かかりますよ。でも、もちろん関係はありますがね。」
「‥じゃぁ、話を戻すとして、何故日本史になったんですか?」
「もともと私は、教育学部で社会科学の専攻でした。‥それで日本史を専攻することにしたんです。最初は古文書の漢文にうんざりしましたがね。‥それで三回生の時に偶然、『琉球史』の講義をうけたんです。その講義が今の自分の専門分野に大きく影響していることは確かです。沖縄は、今は県として日本の一部になっていますが、明らかに沖縄の文化や言語、生態系は、大和のそれとは違うんです。明治になって、日本の一部に編入されましたが、琉球には、大和の朝廷とは別の王朝があったんです。」
「島人ってやつですか? ‥確かビギンの歌にあったような気がします。」
「沖縄では、島人のことをウチナンチュウと言います。他府県の人はヤマトンチュウと呼んでいました。‥沖縄というところは、実に不思議な歴史を歩いてきたんです。中国と大和という大国にはさまれていて、南海中継貿易で栄華を誇った時代もあったんですよ。」
「何か面白そうですね。」
「だから私は、日本史を研究しながら、比較文化として沖縄の歴史を重ねてみるようにしてみたんです。」
「‥例えば、関が原の戦いの頃に沖縄ではどうだったか、みたいに?」
「そうです。そうやって、沖縄の歴史を見ていくと、意外と面白いことが分かってくるんですよ。」
「どんなことですか?」
「貴方はこれをなんと読むかわかりますか?」
その教授は、サイドバックから手帳を取り出して「百度踏揚」とペンで書いてから、私に見せて聞いた。
「ヒャクドフミアゲ?‥う~ん、分かりません。なんですかこれは?」
「モモト、フミアガリと読みます。中世の王女の名前なんですよ。」
「モモト、フミアガリ‥」
「私の人生を今に導き、大きく変えた女性です。」
私たちは場所を変え、教授の案内で会員制の終夜営業のお洒落で静かなラウンジへ行った。その教授は、沖縄の琉球王朝が誕生した頃の話を私に詳しく話してくれた。だが、私は相当に飲んでしまっていたので、その名前も知らない教授の話を半分ほどしか覚えていない。沖縄本島が三つの国に分かれていて、それがどのようにして統一されて、王朝がどのような道を歩いてきたのか‥ 詳しい記号や年代は、記憶の奥に今も眠ったままだ。だが、私はある女性のことだけは、何故か妙にはっきりと覚えている。私と教授は、お互いに名乗っていないのだから、多分この先に会うようなこともないだろう。だけど、その教授が話してくれた物語のような実在の女性の生涯の記憶だけは、きっといつまでも心の中で私に残っていくだろうと思っている。教授の仮説も含めて、百度踏揚という、数奇な運目をたどった一人の女性の姿を‥
大和では室町時代、三代足利義満から六代義教が将軍だった頃、沖縄では南山・中山・北山というように、本島を大きく三つに分けた勢力が競い合っていた。そういう三山時代が百年ぐらい続いていたが、一四二九年に中山王の尚巴志が北山に続いて南山の勢力を倒してついに三山の統一を実現することになったこれが第一尚氏の誕生である。その後、地頭制度などを明国や鎌倉幕府の制度に倣って置いていったが、尚巴志の後継者が短期間で王位を退き、骨肉の争いが展開された。やがて王位に就いた尚巴志の末の息子である尚泰久が六台目の王となった。ある意味で、第一尚氏の全盛期を築いたのが泰久であると言ってもいいかもしれない。彼は権力を万全なものにするために、当時本島の勝連というところに居城していた阿麻和利に自分の娘である百度踏揚を嫁がせて、自分にとっての祖父である中城城の護佐丸とともに北山への守りを築いたのである。
「ここで私の仮説なんですが、一人の大和の男を登場させようと思っています。ここでは、その名を助八とします。」
教授は、煙草に火をつけて話を続けた。私は教授が煙草を吸う人なんだと、その時初めて知った。
助八は京で笛師の家に生まれたが、十五才の時に盗賊に家を襲われ、賊に連れ去られ転々としてやがて倭寇の手によって明国へ売られていくために舟に乗って堺から出航していた。だが、途中嵐に合い、舟は琉球の座喜味の浜へと難破し、村の役人に捕らえられ、那覇の御物城に連行された。当時の御物城御鎖側が内間金丸という人物で尚泰久の信頼も厚い人物であった。御物城というのは、当時の琉球の貿易に関する役所で、御鎖側というのは、その長官のようなもので、王朝の重要な役職だった。
投獄された助八は、なすすべもなくしていたが、ある夜ずっと隠し持っていた亡き父の形見である笛を取り出し、波音に共鳴するように笛を吹き始めたのである。父の手ほどきもあり、助八はなかなかの笛の名手であったらしい‥ 牢番も助八の笛の音に聞き惚れていた。
そうやって助八が笛を吹いていると、やがて奥の座敷のほうから、使いがやってきて助八に牢から出るように伝えた。このような夜更けに詮議でもあるまいし、何だろうと助八は不審に思ったが、役人に逆らうことは許されなかった。助八は御物城の庭先まで連れてこられた。そこには四十台半ばの立派な衣装を着た男が供の者を従えて立っていた。これが内間金丸と助八との出会いである。
金丸が供の者に何か小声で囁き、それを助八に伝えた。
「先程より、笛を吹いておったのはお主か?」
「へい。」
「今一度、ここで吹いて見せろ。」
助八は言われるままに庭先で先程の笛を奏でた。じっと目を閉じ、或いは故郷を想い、或いは今の自分の状況を憂うように、低く静かに笛の音が屋敷に流れていった。
しばらくして、助八が笛を吹き終えると、閉ざされていた部屋の奥から、まるで歌うように美しい女性の声が聞こえてきた。
「ここに御座すお方は、琉球の王、尚泰久王の姫君、百度踏揚様であられる。姫が申されるには、そなたのような美しい音色の笛を奏でる者が悪事を働くとは、到底思えぬ。きっと何かの間違いゆえ、赦免せよ、とのことじゃ。」
「ワシは、元々は京の笛師の倅で、盗賊に拐かされた者です。身寄りも亡くなり、倭寇に身を売られ、明国へ連れて行かれる途中でした。」
しばらくすると、座敷の奥から、また歌うような声が続き、中へ金丸が入り、やがて手鏡を手にして戻ってきた。金丸は供の者に何かを囁き、その者に高価そうな手鏡を渡し、やがて供の者は手鏡を大切に抱えながら、助八の前までやってきてこう言った。
「姫は、そなたの過酷な定めに痛く共感なされたようじゃ。そこで、そなたを無罪放免とし幾ばくかの金子とこの姫の手鏡をそなたに遣わすとのことじゃ。有難く思え。」
「ワシは‥いえ、私は、助八と申します。せめて私を助けていただけるのでしたら、お姫様のお名前とお顔を拝見させていただきとうございます。」
「百度踏揚さまじゃ‥」
と、金丸が言い、襖が少しだけ開けられ、百度踏揚の横顔をちらっと助八は見ることができた。助八は、百度に跪き、頭を何度も地面にこすり付ける様にして礼を言った。
「これが、百度踏揚と助八の一度目の対面だったのです。」
教授は、そこまで話すとまた煙草に火をつけた。もう、夜は更にふけて十二時を当に過ぎていたと思う。しかし、私は教授の話に完全に魅了されていて、時間のことなどはまったく気にならなかった。教授の話が、まるで私が研究している近松の人情噺に出てくる人間像と重ねて聞いていた。もちろん、時代も場所も違うのだけれど‥ 歴史という時間の流れの中で、翻弄されていく様々な人間の「人生」という名のドラマを‥
「助八は、その後どうなったのですか?」
教授の話は続く。
次の日の朝まで助八は一睡もできなかった。自分の笛の音さえ凌駕する歌うような美しい声、そしてほんの刹那だけど、垣間見た百度踏揚の天女のような美しい姿が頭の中を何度も思い出していた。そして、思い出すたびに「百度踏揚様‥」と王女の名を繰り返すのだった。その手にはしっかりと百度の手鏡が握りしめられていた。‥やがて朝になり、助八は無罪放免となるばかりか、内間金丸の部屋に通され、過分の黄金を金丸から手渡されたのである。
「このように法外なな黄金を頂いてもよろしいのですか?」
「踏揚様のご意向だ。遠慮はするな。この黄金を元手にして商いでも始めればいい。よいか、あのお方は心が読めるのだ。お前の笛の音には、可細いが真直ぐな魂があるとおっしゃっていた。お前の心の中に、まともに生きなければいけない何かを感じられたのであろう。‥どうする? 大和へ戻るか? それとも明国へ‥?」
助八は、大坂の堺へ戻り、貿易の商いを始めたいと申し出た。
「私は、この琉球とつながりたく思っています。そうすれば‥ 貴方様や踏揚様にご恩返しができると思っています。」
「なるほど‥ それは、いいことかもしれんな。立派な商人になって、またこの琉球で会いたいものだ。」
助八は、何度も深くお礼をし、やがて金丸の手配した舟で堺へ戻ることになった。堺で助八は「南海屋」という屋号の貿易商を始めた。助八は店の神棚に百度からもらった手鏡を置いて、毎日仕事の始まりと終わりには手を合わせて祈るのだった。彼自身が琉球へ赴くことは少なかったが、金丸の口利きもあり、南海屋は立派な商家となり、堺の町衆の中でも認められるようになっていったのである。
「そうやって、手広く商売に精を出していた助八のもとに手紙が届いたんですよ。」
「誰からですか?」
「百度踏揚からです‥」
と、教授はふと目を落として、目の前のグラスに手をかけた。もう相当に酔っているはずなのに‥
「なんて書いてあったんですか?」
「すぐに、会いに来て欲しいと‥」
助八は手紙を読むと、いてもたってもおられぬようになり、すぐに店の者に琉球への舟の手配をさせた。だが、舟頭は首を振った。
「旦那さん。今年はいけねぇや。波も風も定まらねぇんです。」
「いつになったら出せるんだ?」
「分かりませんや。とりあえず、いつでも舟出できるように用意だけはしておきやすがね‥」
助八は苛立ちを隠せなかったが、舟が出せないならなす術はなかった。「一体踏揚様の身に何が起こったというのだ?」繰り返される疑問の中で、助八は自分が鳥になれれば今すぐ会いに行けるのに‥ と地団太を踏むことしかできなかった。眠れぬ夜を何度も数えていた。百度踏揚が今の自分をここまでに救ってくれたというのに、自分が恩を返せないでいることに耐えられなかったのだ。
そうした日々を三ヶ月も過ごした頃、ようやく舟頭が「舟を出せそうだ。」と知らせてきたので、助八は早速琉球へ向かうことにした。助八にとって、久しぶりの琉球だった。それまでも、何回かは琉球へ商いに行ったことがあったが、すべて金丸とだけ会うだけで、王女である百度踏揚との再会は、あの夜以来のことだった。考えてみたら、まともに百度踏揚と話すのは助八にとって初めてのことになる。あの夜見かけた、驚くほどの美しさを思い出していた。甲板に出て一人潮風に吹かれながら、百度踏揚のことを考えていたのだ。舟は波に軋みの声を上げながら、ひたすら南へ進路をとっていた。これから待ち受けている人生の波間に漂う枯葉のごとくに‥
「それで、助八は百度踏揚と再会できたんですか?」
「ええ‥ しかし、その前にその頃の歴史を振り返っておかなければいけません。」
尚泰久は、統一された琉球の勢力を万全なものにするために、あらゆる手段を使った。泰久を一番悩ませていたのは、北の守りだった。特に、勝連に城を構えていた阿麻和利は一代で勢力を築き、北部の脅威となっていた。泰久の義父である護佐丸は首里への守りとして、中城に城を築き、阿麻和利と対峙していた。しかし、それだけでは不安だったので泰久は自分の娘である百度踏揚を阿麻和利に嫁がせることにして、姻戚関係となり阿麻和利を取り込むことにしたのである。しかし、当時の噂では、勝連の阿麻和利は「才あって徳なし」と言われていて、その粗暴な行動を戒めることが多かったのである。阿麻和利へ嫁ぐことを百度踏揚がすんなりと納得するはずがなかった。
「だから、百度踏揚は助八に助けの手紙を書いたのですか?」
「そうです。百度踏揚は助八に何処かへ逃がしてもらおうと思ったのです。‥しかし、助八の舟は遅れ、百度踏揚と阿麻和利の婚儀は、予定通りなされてしまい、百度の側ご用の大城賢雄と共に勝連の城に入ることとなったのです。‥そして、ついに護佐丸・阿麻和利の乱へとつながっていくのです。」
「護佐丸・阿麻和利の乱?」
「当時の琉球王朝を揺るがすような大事件でした。‥もちろん二つの乱には、諸説あって、私がお話するのは、あくまでも個人的な見解なんですが‥」
護佐丸は、阿麻和利の野望を恐れ、兵を蓄え城を堅くしてこれに備えていたのである。だが、それを阿麻和利は逆手に取って、「中城の護佐丸が、兵を蓄え首里に謀反を企てている」と尚泰久に讒訴したのである。泰久は、義父を信頼していたので、最初は信じなかったが、中城城に偵察を送り、確かに護佐丸が兵を蓄えていることを知り、自分への反逆として、阿麻和利に挙兵を許し、護佐丸を討つように命じたのである。阿麻和利の挙兵は予測していたが、まさか首里からも兵が送られ、周囲を囲まれてしまった護佐丸は、ついに自害し、中城の城は陥落したのである。
助八の舟が琉球に着いたのは、中城城が陥落してすぐのことだった。助八はまず、首里城で金丸と再会し、百度踏揚から手紙が届いた旨を伝え、王女に会いたいと申し出た。
「‥助八、今は踏揚様には会わぬ方がいい。踏揚様の定めを変えることは、誰にもできぬ。」
「しかし、金丸様。私は踏揚様に命を救われたばかりか、今の商人にまで育てていただいたのです。せめて‥一目だけでも会いとうございます。」
「ならば、今姫は首里においでじゃから、夜にでも会うように手はずをとることにしよう。ただし、これだけは約束して欲しいのだ。踏揚様は、首里にとって大切なお方だ。どこへも導いてはならぬ。たとえあの方にどのように請われても‥」
「分かりました。約束します。」
「‥場所は、御物城でも構わぬか?」
こうして、助八は夢にまで見た百度踏揚との再会を果たすのである。初めて百度と会った、あの場所で‥ 助八は夜がくるのをじっと待っていた。それは、今までの月日よりも長く感じられたが、恩人と再会できることの喜びにふるえ、御物城のあの部屋の中で、じっと時を待つしかなかった。
やがて夜になり、ふと思い立って助八が笛を吹くことにした、懐かしい父の形見のあの笛であった。そうやって、助八が笛を奏でていると、いつの間にか襖が開き、供の女官を連れた百度踏揚が部屋に入ってきたのである。百度は供の女官を別間に控えさせ、助八と二人きりになったのを確かめてから、流暢な大和言葉でこう切り出した。
「貴方様の笛を聞くのは二度目でございますね。」
「はい。本当にお久しぶりでございます。そして、あの時貴方様が私を助けて頂いたお陰で、今また笛を興ずることができるようになりました。」
「本当に立派な商人になられましたね。」
「踏揚様もお変わりなく‥」
「いいえ、私はすっかり変わってしまいました。あの時の自分が懐かしゅうございます。」
「はい‥ 大体のことは金丸様からお聞きしました。せっかく、文を頂きながら、すぐに琉球へ来られなかったことをお詫び申し上げます。」
「いいえ、貴方のせいではありません。私の運命だったのだと思っております。」
百度踏揚は、そう言って瞳をうるませた。助八は変わらぬ百度踏揚の美しさに見入っているばかりで、うまく言葉が選べず、黙っていた。百度は、夫である阿麻和利の粗暴さが許せないと語った。言葉使いから、食事の仕方、ちょっとした仕草が百度は許せなかったのだと言う。そして何よりも許せなかったのは、百度の祖父である護佐丸を陥れ死に追いやったことだとも‥
「私は、祖父を愛しておりました。幼い頃には、よくその頃の祖父の城であった座喜味城へ遊びに行ったものでした。或る時を境にして座喜味城には行かなくなりましたが‥」
百度踏揚は、涼しげな目でまるで遠くを見るように助八にこんな話をしたのである。
「あれは、確かまだ私が幼かった頃‥ 私が父と共に座喜味の城へ参った時のことでございます。ある夜、私は不意に目覚めてしまい、どうしても眠れなくなってしまいました。私は、得体の知れぬ誰かに呼ばれているような気になりました。いいえ、確かにその声は私を呼んでいました。私は、声の導くままに、闇夜の城を出て、ひたすら歩きました。ガジュマルの林を抜け、やがて波の音が辺りに聞こえましたが、その声は確かに私を導きました。やがて、岬と思われる所までたどり着いた私は、一人の老人と出会ったのです。」
「老人?」
「その老人は、私に予言をしました。」
「何と?」
「そなたは、今日決して殺生をしてはならぬ。たとえ誰かのためであってもじゃ。さもなくば、そなたは助けたその者によって、永久の苦しみを受けることになるであろう‥と、」
「では、貴方様は‥」
「そうです。あれは夢幻だったのかもしれせぬ。ですが、私はその日庭先を父と歩いておりました折に、父に忍び寄った毒蛇を供の大城賢雄の剣を抜いて殺してしまったのです。」
「何と‥」
「その時から、私の運命は決まっていたのかも知れません。父は阿麻和利に私を嫁がせることによって、その勢力を首里に叛かぬようにさせたいと思ったのです。もちろん私は拒みましたけれど‥」
百度踏揚は、自分が阿麻和利に嫁いだことを後悔していると言い、自分をこのまま明国でも大和でも、どこでもいいから逃がして欲しいと助八に頼んだ。だが、助八には金丸との約束が頭をよぎった。どうすればいいのか、考えあぐねた挙句、助八は一言ずつ、ゆっくりと言葉を選んで百度に話した。
「踏揚様、私は貴方様のためになら、この身を投げ打っても構わぬとさえ思っております。貴方様が望まれることは、どのようなことをしてでも叶えて差し上げたく思っております。‥しかし、貴方様は私とは違って、琉球国の王女様であります。首里にとって大切なお方です。今は阿麻和利殿も首里においでなのでしょう? もし、今ここで貴方様が出奔されましたら‥ そのことを阿麻和利殿がお知りになったのなら、首里の城内で何が起こるか貴方様もお分かりのはずです。本当に歯痒い思いですが、私は貴方様をお連れすることは出来かねます‥」
「助八様‥ 確かに貴方様のおっしゃる通りでございます。私の愚かな望みでした。先ほどの申し出は、もうお忘れ下さい。」
そう言うと、百度踏揚は供の女官を呼び寄せ伴って御物城を後にした。助八はあきらめたような眼差しで自分を見ていた百度の姿に呵責の念を覚えたが、自分にはどうすることもできないのだと思い二人を見送っのだった。
助八は、忸怩たる思いで琉球を後にすることになった。その夜百度踏揚との話を終えてから、翌日には金丸の計らいで首里城で尚泰久や阿麻和利に謁見することを許された。助八は、尚泰久王よりも寧ろ阿麻和利の存在が気になっていた。確かに百度の言った通り、阿麻和利は所謂気品に欠けた部分が多く、王という器ではなく、豪傑な武将のような振る舞いであった。「この男が踏揚様を苦しめているのか‥」と助八は、大きな声で周囲の者を驚かす阿麻和利を見ていた。‥だが、自分ではどうすることも出来ず、適当な商談話を終えて宿に戻り、帰り支度をしていた。そこへ、金丸がやってきた。
「いつ舟を出すのだ?」
「準備ができ次第、発とうと思っております。」
「踏揚様は夕べ何と?」
「はい。金丸様がおっしゃった通りにこの国から逃れたいと‥」
「やはりな‥ 本当にこれが良かったのか、私にも分からないのだ。踏揚様の幸せを奪ってまで、我々は首里を守らなければいけないのか‥」
「それで良いのだと思っております。仕方ありません。踏揚様は、王家のお姫様でございますから‥」
助八は、波間に浮かぶ飛び魚を眺めながら、ぼんやりとしていた。何か不吉な嫌な予感が頭から離れなかった。百度踏揚の身に何かとんでもないことが起こりませぬように‥と助八祈るばかりだった。
「まさか自害?」
私は、教授の話に段々引き込まれて行き、怖くなって思わず声をかけてしまった。
「いいえ、百度踏揚はもっと壮絶な最期をとげるのです。」
教授は、深いため息をついてその後のことを話してくれた。
堺へ戻った助八は、仕事に励む傍らでも、琉球の話を舟乗りから聞くようにしていた。だが、琉球の王朝の話はあまり芳しいものではなかった。否、寧ろ内乱状況になっていると言った方がいいのかもしれない。
阿麻和利が勝連で首里攻略を図っていることを知った百度踏揚は、供の大城賢雄と共に勝連の城を出て、隠れ首里に戻り、尚泰久にその旨を伝えた。そのことを知った尚泰久は王家の総大将として大城賢雄を勝連に向かわせた。勝連城は難攻不落の城砦であったが、大城賢雄が女装し城内に忍び入り、ついに阿麻和利の首を討ったのである。やがて、百度は戦に功のあった大城賢雄のもとに嫁ぎ、賢雄は越来親方となった。しかし、泰久の死後王家を継いだ尚徳は、琉球の背力を拡大するために、喜界島へ兵を送るなど、戦に明け暮れ家臣や人心は重い重税のため離れていった。金丸は、何度も尚徳王を諭したが、前王の意向に従うはずのない王であったから、金丸の進言を聞くどころか、益々悪政を重ねていったので、とうとう金丸は内間村へ隠遁することになった。だが、そんな尚徳王は、二十九の若さで他界した。病死とされていたが、家臣から毒を盛られたのではないかという噂さえあったのである。尚徳王が崩御した後に重臣たちが会議を開き、金丸を次期王に推挙することとなり、遂に第一尚家の血統は途絶えたのである。後に尚円と名乗り金丸が王位に着いたことを知った助八は、尚円王からの文をもらった。名目は王位に就いた祝宴に招かれたのである。助八はもちろん承諾し、再び琉球への舟に乗った。首里城では、華やかな祝宴が何夜も続いていた。助八は百度踏揚の姿を探したが、首里城のどこにも彼女を見つけることはできなかった。助八が首里城へ入って何度目かの夜、助八のもとへ王からの使いが来て、王に会いに来るように告げられた。助八はすぐに王の部屋へと向かった。
「あの‥」
「‥言うな。そなたの聞きたいことは分かっておる。踏揚様のことであろう? あのお方は、この城のどこにもおらぬ。」
「まだ、越来に?」
「いいや、ワシはワシの思いとは違うところで今ここにおる。泰久王が亡くなられた時に身を引くべきであった。よいか? 最早踏揚様を始めとして旧王家に関わる者はすべて逆賊になってしまったのだ。賢雄も、踏揚様も‥」
「‥まさか、亡くなられたとか?」
「いいや、踏揚様はまだ生きておられる。賢雄は知花に追い詰められておるから、間もなく自害するか首を捕られるであろう。しかし、踏揚様は‥」
「何処へ?」
「良いか? ここから申すことは、尚円王の言葉ではない。初めてそなたと出会った、御物城御鎖側の金丸の言葉として聞け。」
「はい。」
「玉城へ行って欲しい。」
「玉城に踏揚様はいらっしゃるのですか?」
「噂じゃ‥ だが、ワシは踏揚様が不憫でならん。」
「分かりました。私にとっても、踏揚様は命の恩人でございます。今度こそ、あのお方を導き、必ずお幸せにしてみせます。」
「頼んだぞ‥」
翌日、助八は自分の供を従えず、一人玉城の村へと道を急いだ。琉球には「ニライカナイ」という神の国があるという伝説があるらしい。それは、遠い海の果てだとか‥ 助八は、百度踏揚をニライカナイへ連れて行こうと思った。大明国でもいい、大和でもいい。とにかく百度を誰も知らない所へ連れて行けば、もう逆賊としての汚名を背負って生きることはないのだ。そうだ。できるならば、誰もいない南海の孤島でもいいではないか。そこで百度と二人で暮らせばいいのだ、とさえ助八は思っていた。
南風原の村を抜けて、与那原へ出たら海沿いの道に変わっていった。青緑色に輝く美しい海は、助八に不思議な充実感のようなものを与えてくれた。珊瑚礁に包まれて、複雑な模様を描いている海岸は神秘な啓示のような気さえした。助八は、百度踏揚と出会った時から、自分が琉球という国との不思議な関わり方をしているなと感じていた。「人の運命とは、どこでどうなるのか分からないものだ」と思った。今までの自分を‥これから先の自分の人生を思いながら、助八は道を急いでいた。昼過ぎには百名の海岸を抜けて、玉城まで少しずつ近づいていた。王女という地位から逆賊の汚名をきた百度は、きっと悲嘆にくれているに違いないと思った。百度が哀れでならなかった。どのように声をかけてあげればいいのか助八には分からなかった。だが、今の百度を救えるのは、自分しかいないのだと固く心に刻みながら、玉城への道を歩いていた。
玉城の村は小さな漁村だった。寂れた村人に百度踏揚のことを聞いて回ったが、誰も口を開こうとはしなかった。首里からの追っ手だとでも思われたのだろうか、誰一人として百度のことを聞いても教えてくれる者はいなかった。助八は、自分の素性を明かして「踏揚様を助けに来たのだ。」と話してみたが、大和の商人の服装を見て皆怪しんだのかもしれない。しかも助八が話せる琉球の言葉は首里のものであり、玉城の村人が話す言葉は少し違っていたので却って意思疎通ができなかったこともあっただろう。
助八は、途方に暮れて村が見渡せる高台に上がり、南に広がる海を眺めていた。波は高く、まるで自分が波間に漂う小舟のように思えた。不意に助八は胸に忍ばせていた父の形見の笛があることを思い出し、それを手にとって静かに奏で始めた。百度のことを思い、初めて出会った御物城でのこと‥二度目に同じ御物城で百度からその身を託され琉球から逃して欲しいと乞われた時のことを思い出しながら一身に笛を吹き続けた。助八は百度踏揚とは二度しか出会っていないのだということに気がついた。このように深く思い、その容姿の美しさにときめきながら、もしかしたら自分は百度を愛しく思っているのではないかという疑念さえ感じたが、心の中で頭を振った。「私とあのお方とは、住む世界が違うのだ」と‥
助八はそのように自分の思いに浸りながら、夢中で笛を吹いていたので、自分のすぐ側に誰かが立っていることにさえ気づかなかったのである。
「主は‥」
助八は声に驚いて、笛を止め声のする方に目を向けた。そこには、見窄らしい身なりの老人がこちらを睨むように立っていたのである。助八は驚きの余り声を失っていた。
「主は、思いのままに為せばよい。奪いたくば奪え。相手がなんと言おうともじゃ‥ さもなくば、主は生涯悔やみ続けることになるであろう‥」
老人は、それだけ言うと何処かへ去っていった。老人が去った後も、助八は暫くの間動くことができなかった。助八はかつて同じようなことを聞いたことがあったように思ったが、それがいつのことだったのか、どこのことであったのか、どうしても思い出せずにいた。老人の言葉が頭の中で何度も反芻されていた。
「奪いたくば奪え。相手がなんと言おうとも‥」
やがて助八は立ち上がり、何か強い力のようなものに導かれるように歩き始めた。どこをどう歩いたかは分からないが、やがて助八は琉球の人がガマと呼んでいる洞穴の前に来ていた。
「ここは‥?」
洞穴は、深く先が暗くて中の様子を窺うことはできなかった。しかし、助八は何か直感めいたものに導かれるように穴の奥へと歩いていったのである。穴の中は漆黒の闇が広がっていたが、意外と広く足元は先の尖った岩で歩き辛かったが、手探りであればなんとか先へ進むことができた。
「うん?」
助八は曲がりくねった穴の奥に幽かな明かりを見つけた。「誰かいる!」助八は明かりの方へゆっくりと足を忍ばせた。不意に明かりの奥の方から声が低く響いた。
「首里からの追っ手か?」
「いいえ、私は‥」
助八が声に答えた時、予想だにしなかった聞き覚えのある声が返ってきたのである。
「助八様ですか?」
「もしや、貴方様は‥」
助八は闇に慣れてきた目に、幽かに揺れ動く人の影が、自分がずっと探していた百度踏揚であることを知った。
「踏揚様!」
百度踏揚は宮中の衣装ではなく、土地の者と同じ着物を着ていて、かなりやつれた顔をしていたが、澄んだ眼差しや美しい顔立ちは昔と変わっていなかった。百度は少し恥らうように身を捩じらせてから、助八の顔を懐かしそうに見つめた。
「お久しぶりでございます。」
「このような姿になってしまって、まさか貴方様と会うとは‥ 恥ずかしい思いで胸が張り裂けそうです。」
「私は、貴方をお助けするためにここへ参ったのでございます。」
「金丸‥いや、尚円王に頼まれてでございますか?」
「いいえ、私の意志でございます。貴方様は私の命の恩人でございます。以前のようなことはございません。」
「助八様、私は最早決められた道をしか進めません。あの夜、私は阿麻和利様から逃れるように頼みましたよね。私は‥でも間違っていたのです。阿麻和利様は確かに不躾な男でございましたが、私を本当に愛でてくれていたのです。‥ですが、私がそのことに気づいたのは、阿麻和利様の死の後でした。」
百度踏揚は、昔を思い出すように、ゆっくりと話し始めた。勝連の城を大城賢雄と共に出奔し、首里に逃げ帰った百度はこれでやっと阿麻和利の呪縛から逃れられると安堵していた。やがて阿麻和利は、大城賢雄の手によって討たれ、予ねてより思いを寄せていた大城賢雄と結ばれたことを非常に喜んでいた。‥だが、幸せな日々が一転したのは、意外と早く訪れた。越来の親方になった賢雄は、祝宴での酔いに任せて自分の本心を語り始めたのである。実は護佐丸を逆賊に追い込み、阿麻和利に討たせたのも、その後阿麻和利を討ったのも、すべて自分の計らいごとであったと。
「阿麻和利は本当に愚かな男よ。本来なら、首里の兵も勝連城を攻めあぐねていた。だが、私が『踏揚様が来ておる』と嘘の文を差し出すと、のこのこと出てきよった。だから、私一人であやつを討つことができたのだ。」
この言葉を聞いた百度は、賢雄の本当の目的が自分を得ることであり、そのために二つの乱を策略したのだということを知ったのである。
「阿麻和利は死ぬ前まで、そなたのことを気にしておったぞ。本当に愚かな男よ。そなたのためになるならば、と自分から首を差し出したのだからな。」
この時、百度踏揚は阿麻和利と賢雄の本心を知ったのである。泰久の配下であった賢雄にしてみれば、武勲を上げて王家とのつながりを持つための手段の一つでしかなかったのである。百度は、涙が流れるのを構わず、話し続けた。
「私は阿麻和利様の本心を知らず、ましてや賢雄様の本心までも知らぬままに、生きてきたのです。そして、その後尚徳王亡き後に逆賊として賢雄様を追い込んだのも、すべて私の業なのです。」
助八は、百度踏揚の悲運を自分のことのように哀れんでいた。そして、改めて百度を救わねばならないと思った。
「踏揚様、最早貴方様をこれ以上不運のままでいさせるわけにはなりません。どうか、私と共にこの島を出ましょう。貴方が幸せになるのであれば、大明国でも大和でも構いません。どうか私と共に本当のニライカナイへ参りましょう。」
「いいえ、助八様‥ 私は私に関わる多くの人を不幸にしてしまいました。祖父である護佐丸様、そして阿麻和利様、更に賢雄様までも‥」
「しかし、それは大城賢雄の策略のためでは?」
「違います。賢雄様には罪はありません。私の業が、賢雄様をあのような道に導いてしまったのです。」
「しかし‥」
「私には、ニライカナイなどないのでございます。上ならば空にも、西ならば大明国にも、北ならば大和にも、最早どこにも私の行くべき場所はあり得ないのです。私は首里に参ることも考えました。ですが、私が首里城に行き、また尚円王によって処罰されても、きっと金丸様を苦しめることにしかなりません。ですから、最早私は、何方とも関わらず、ここで死することを待つのみでございます。」
「貴方は私を救っていただいたじゃありませんか。私は貴方様に関わったけれど、私は決して不幸になったとは思ってはおりません。」
助八は、思い切って百度の手を引き抱き寄せた。百度は決して逆らわず、助八の胸に抱かれた。暫く助八の胸で泣いていたが、百度は助八の手をそっと手に取り、やがて助八の胸から身体を起こして、凛とした顔になってこう言った。
「助八様‥ 私と関わってはなりません。それに‥」
「それに?」
「私は‥琉球の王家に生まれた者でございます‥」
助八は、海を見ていた。大和へ向かう舟の中で、ぼんやりと海を眺めていた。共にいるはずであった百度踏揚の姿はそこにはなかった。助八は、何故今自分が百度踏揚を連れ出せなかったのか、考えていたが、どうしても納得のいく答えを導くことができなかった。助八が玉城から去る時に、百度は詠み人知らずの琉歌を残したのである。
「月や昔から、変わることないさめ。変わっていくものや、人の心‥」
助八は、あの時の老人が言った言葉を思い出していた。「奪いたくば奪え。相手がなんと言おうとも‥」頭の中をその言葉が何度も繰り返されていた。
「だが‥」
助八は、自分がきっとこの先、何度もこの日のことを思い出しては後悔するだろうと思っていた。波間を飛ぶ飛び魚の群れが、却って悲しげに見えたのは、最早二度とこの舟に乗ることはないだろうと思いながら‥
その教授の長い話が終わった時には、最早ラジオは早朝番組を始めている頃だったと思う。私たちは店を出て、まだ明けない早朝の誰もいない街を並んで歩いた。教授も私も黙っていた。教授は私に話したことに対しての感想を求めなかったし、私も何も言わなかった。言葉にすれば、その瞬間に壊れてしまいそうだったから‥
「あのぅ‥」
「何ですか?」
「先生は、何故? 何故私に今のお話をなされたんですか?」
「顔‥ですよ」
「顔?」
「目の前の小さな困難に、本当は大したことないと頭では理解しているつもりだけど、何故か気になって前へ進めない。‥そんな自分が情けない。居酒屋に座っていた貴方は、そういう顔をしていましたよ?」
「あぁ‥分かりましたか‥」
私は俯いて頬を染めた。
「どうやら、ズバリだったようですね」
「はい‥」
「貴方には今のような笑顔が似合いますよ」
「ありがとうございます」
私たちは、お互いに名乗ることもなく、別れた。ほんの一夜のすれ違いだったのかもしれない。しかし、私はその教授(?)から何か大切なバトンを受け取ったような気がしている。「大切なバトン」‥それが何なのか、未だに私は確たるものは見えていない。もしかしたら、これから先も見えてこないのかもしれない。
私は、夜明け前の駅で一番電車が入ってくるのを待っていた。その時、不意に私はまだ明けやらぬ空に西の空に沈んでいく月を見つけた。ほぼ満月に近いその月を見ていると、何の脈絡もなかったが私は教授が話してくれた詠み人知らずの琉歌が甦ってきたのである。
‥月や昔から、変わることないさめ。
変わっていくものや、人の心‥
だが、私がそんな思いに耽っていることをかき消すかのように、始発電車という名の日常生活が、金属的な軋む音を響かせながら、まだ明けやらぬ人影疎らな駅のホームに入ってきたのだった。
(完)