八、久慈家の文化
久慈春は男性は外で働き、女性は家事に従事するといういわゆる“伝統的性役割”と一般的に呼ばれるものを信じていた。だから、夫である久慈幸一の身の回りの世話をする事について少しも疑問に感じてはいなかったし、夫に対しても何の不満も感じてはいなかった。
ただし、それは彼女の夫である幸一が、彼女に対して横暴に振る舞わないからなのかもしれない、とも思っている。彼女の女友達の何人かは夫婦関係が上手くいっていなかったのだが、話を聞いていると彼女達の男性パートナーは、基本的には威張っているらしい。
『生活費を稼いでくる男は偉い。だから、家で上の位置にいても何の問題もなく、女は男の為に尽くすべきなのだ』
女友達らの話を聞く限りでは、彼女達の男性パートナーは、そんな考えを持っているように思えた。
もちろんそれは彼女達の一方的な主張で、だから彼女達の言葉をそのまま信じる訳にはいかないのだが、それでも久慈春は、自分の夫の久慈幸一との大きな差を感じていた。そして自分は恵まれているとも思っていた。
――ただ。
彼女が幸一と結婚する前までは、彼女は男性とは……、つまり、夫とは、威張っていて当たり前だと思っていたのだ。つまり、彼女の女友達の男性パートナー達の方が、彼女の抱いていた“男性像”に近い事になる。
つまり、皮肉にも彼女は自分の抱く“男性像”とは異なった相手と結婚したことで、仕合せな結婚生活を送れたのだ。
「あなたは、本当に優しい人です」
だから、彼女は感謝の意味を込めて久慈幸一に時々、そのような言葉を伝えた。久慈幸一は照れ隠しなのか何なのか、それを聞いてばつの悪そうな顔を見せるのが常だった。彼女は夫のそんな表情が好きだった。優しさと謙虚さの裏返しのように思えて。
先日、彼女が風邪を引いた時も、幸一はそんな表情を見せた。
「風邪の時くらいは、俺が飯を作る」
彼はそう言って食事を用意しようとしたのだが、台所の使い勝手や料理の仕方が分からず結局は諦めてしまった。それから店屋物で済ます事も考えたらしいのだが、病人食を出前してくれる店など彼には検討も付かず、最終的には『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』で、近所の人達に助けを求めるという手段に出た。
「飯も作れんで、すまん」
その時、彼はそう謝って例の彼女が好きなばつの悪そうな表情を見せた。
彼女にしてみれば、ほとんど料理をした事がない夫が料理を作れなくても仕方ないと思っていたのだが、どうも彼はそもそも家事をほとんどしてこなかった事自体を悪く思っているようだった。
“……本当に、優しい人”
それで、春は改めてそう思った。
「あなたは、本当に優しい人です」
妻の久慈春のその言葉を聞いて、久慈幸一はいつも居心地の悪い思いを感じる。彼自身はそれほど自分が優しいとは思っていなかったからだ。“優しさ”など比較しようもないから、或いは本当に自分は優しいのかもしれないが、少なくとも世間の男達と比較して著しく優しい訳ではないだろう、と。
実は彼はただ単に“男女の性役割”について疑問を感じていただけなのだ。だからこそ、献身的に自分に尽くそうとする妻に対して感じなくてもいい罪悪感を覚えてしまう。
確かに生活費を稼いで来ていたのは彼だ。しかしそれは、世間の仕組みが“男性が外で働いて、一家の生活費を稼ぐべき”となっていたからで、もしも“女性が一家の生活を支えるべき”となっていたなら、彼女だって充分な経済力を持っていた可能性は大いにある。ならば、何を根拠に立場の優位性を主張すれば良いのだろう?
退職してから幸一のその思いは更に強くなった。主婦に定年退職はなく、つまり働いているのは彼女だけだったからだ。彼女は相変わらずに、毎日仕事をし続けている。もちろん、子供が出ていったから仕事量は減っているが、それでも自分より遥かに働いている。
幸一は流石に悪いと思い、できるだけ家事をやるように心がけたつもりだったが、それでもつい妻に甘えてしまい、恐らくは三割程度しか家事をやってはいなかった。そして、それでも彼の妻は彼に感謝をした。
先日、彼女が風邪を引いた時、“こんな時くらいは自分が家事をやらなければ”と彼は一念発起し、インターネットで調理方法を調べた上で病人食を作ろうかと思って台所に立ったのだが、食器や調味料の場所すら満足に把握しておらず、“こんな状態で無理して作ったなら、病気の妻に健康に悪い物を食べさせてしまうかもしれない”などと不安になった結果、結局は料理は作らず『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』で近所の人達に助けを求めることを選択してしまった。
店屋物にする事も考えたが、“病気の身には良くないのではないか?”と不安になってしまったらしい。
『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』で、彼は妻が風邪を引いてしまった事や、自分の料理の腕では病人食を作れない事などをそのまま訴え、「どうか、どなたか病人食を作ってくれませんか?」とそうお願いをしたのだ。
すると、最近になってSNS“和やか”が活発に利用されている事も手伝ってか、直ぐに助けが来てくれた。立石望という近所の主婦や知り合いの高齢者女性などが、代わる代わるに料理を届けてくれ、妻の風邪が治るまでの三日の間、食事に困ることはなかった。
彼にとって意外だったのは「奥さんを心配する態度、立派です」などと評価された点で、「“マコトとマコト”にこういうのがあっても良いかもしれない」と彼にとっては訳の分からない事まで言われた。
後になって調べてみると、“マコトとマコト”というのは、“男女平等社会に相応しい男女像”を決める試みらしく、様々な意見がネットを通じて主張されているようだった。その発信源は『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』だとか。
“男女像か……”
彼はそれを知って、複雑な気持ちになった。
『“性役割の伝統的価値観”に対抗する、新しい男女像の提示』
ネットではどうやらそのような事も言われているらしい。久慈幸一はその“伝統的”という表現にも違和感を抱いていた。定年後、暇になった彼は日本のジェンダーの歴史について調べてみたのだが、男性が働き、女性が家事をやるという性による仕事分担は、どうやら比較的近年に入ってから生まれたものらしいのだ。
はい。
既に似たような事に触れたような気がしないでもないですが、気にしないで“伝統的”と思われている専業主婦主義的な性役割は、実は伝統的でも何でもないって事を今回は説明してみたいと思います。
まず、専業主婦主義なんて考え方は江戸時代にはありませんでした。しかも、更に時代を遡るのなら、日本は母系社会であった地域も多いらしいのです。その痕跡は今も文化の中に残っています。“夫婦”と書いて“めおと”と読みますが、本来、これは“女男”と書きました。“女”の文字が先で、男性中心社会の慣例に反していますね。有名は話ですが神道で最も偉い神様“天照大神”は女神で、その他にも重要な位置付けにある神様が女性である事は日本では珍しくありません。女性パートナーの事を「かみさん」と言ったりしますが、この語源は“上さん(殿様)”とも“神さん”とも言われています。揶揄の意味も込められていますが、それでも立場が上でなければこのような表現は生まれないでしょう。
因みに日本は昔っから“性”に関して寛容なようですが、母系社会ではそのような傾向があるようです。
父系社会の場合、産まれて来る子供は男親の血を引き継いでいなくてはならないので、女親の性交を厳しく制限しなくてはなりません。万が一にも他の家系の子供を育てたりなんかしちゃいけないからです。ですが、母系社会の場合は、女親の血を引き継いでいれば良く、産まれて来た赤ちゃんが、子供を産む女性の血を引き継いでいる事は自明なので、それほど“性”に関してナーバスになる必要はありません。結果として、母系社会は性に関して寛容になるのです。
国際的に日本の性の文化が問題視される事もあるみたいですが、だから、国際社会も日本に対して少しは生温かい目を向けて欲しいですよね。そもそも、日本社会は凶悪な性犯罪は少ないですし。まぁ、それでも“文化の違い”って言い訳が通じないような性の文化もありますけども。
男親が働いて一家の収入を支え、女親が家事に従事するという“家制度モデル”は、明治時代に欧米の性役割の考え方の影響を受けて初めて誕生したものです。だから、専業主婦主義は“日本的な考え方”などではなく、“一昔前の欧米の考え方”といった方がより正しいのじゃないかと思います。
しかも、専業主婦主義は、『絵に描いた餅』でした。男性だけで一家の収入を支えられていたのは、わずかなエリートだけで一般的な家庭はほとんどが“共働き”だったのです。女性も働かないと生活ができなかったからですね。しかも、女性労働力を求める社会的な要請から、国はこの“共働き”を後押しさえしました。託児施設を整えたのです。
待機児童問題をほぼ放置しちゃっている今の政治家達との差を感じますねー。
この『絵に描いた餅』であった専業主婦主義が現実のものとなるのは、前述した通り、高度経済成長期に入ってからです。しかし、これも前述した通り、様々な問題点があり、女性の結婚満足度は低かった訳ですが。
歴史的経緯を知ると専業主婦主義が“実績”のない考え方って事がよく分かります。失敗だったと分かっても、そりゃそうだろって感じになりませんか?
社会にとってまず注目しなくてはならないのは“機能性”。そういう意味でも、専業主婦主義は“イケテナイ制度”だと僕は思います。
風邪が治ってから数日後、久慈春は「助けてくれたご近所の方々にお礼がしたい」とそう久慈幸一に言った。
「なるほど。それもそうだ」
と彼はそれを直ぐに認めた。いずれ何か機会があればその時に今回の礼代わりに手助けをするつもりで彼はいたのだが、冷静に考えてみれば、助けてくれた人達全てにその機会があるとは考え難いだろう。ならば、こっちから積極的にお礼をした方が良い。
「ですが、どうお礼をしましょう?」
春がそう尋ねると、幸一はしばらく悩み、それから自分の膝をパンと叩くと「よし。チラシ寿司を作って振る舞おう。蟹肉の乗った贅沢なやつだ」とそう言った。彼は春の作る料理の中でそれが最も好きなのだ。
「ああ、それは良いかもしれませんねぇ」
春もそれに快く同意した。
久慈幸一には、一度にたくさん買えば、蟹を随分と安く売ってくれる伝手があるのだ。もちろん、それでもそれなりの値段になりはするのだが。
「どうせ、金の使い道なんざないし。景気良く蟹を買って、お礼をしちまおう」
幸一はそう言って笑った。
一般的に高齢者は消費意欲が低下する傾向にある。もう育児をする必要もないし、そもそも欲自体が低下するからだ。そしてそれは久慈夫妻も同様だった。高い年金を毎月貰っているが、使い道がない。質素な生活をしている。だから金が貯まる一方なのだ。
はい。
またまたちょっと補足説明っぽいもんです。
さっき作中で述べたように、高齢者は消費意欲が低下する傾向にあります。お金を使わないのですね。ですが、高齢者達の中には高い年金を貰っている人も少なくはありません。
でもって、その年金を払っているのは“現役世代”だったりするのです。
そして、その“現役世代”は消費意欲が高いどころか、育児などで消費をする必要性すらあります。お金があれば使う可能性はかなり大きいでしょう。
つまり、今の社会は、年金制度によって、「お金を使う現役世代」から、「お金を使わない高齢者」にお金を渡している事になります。もちろん、社会全体のお金を使う量は減ります。より不景気になっちゃいますね。
更に、現役世代には貧困問題が広がってもいるんです。経済的事情が整わなければ結婚などできないし、当然、出産も無理です。晩婚化・非婚化などと言われていますが、その原因の一つには間違いなく経済問題があります。
この現状を鑑みるに、少子化対策って意味でも景気対策って意味でも、高額の高齢者年金に対して税をかけて消費意欲の低い高齢者に回るお金の量を減らし、その分を現役世代の子育て支援などに回すべきだ、と僕は思うのです。
少し考えれば誰にでも分かる当たり前の事ですが、何故か実現はしません。シルバー民主主義っぽい現状になっちゃっているんでしょうかね、やっぱり……
久慈幸一は必死に蟹を剥いていた。力仕事なら自分の方が良いと、自らその役割を買って出たのだ。
久慈春は自分の作業を進めながら、時折、その様子を微笑みながら眺めた。
実は幸一が蟹のチラシ寿司を提案したのは、この料理なら自分も役に立てるとそう考えたからだったのだ。
――妻にばかり、負担をかけてはいられない。
それは優しさではなく、罪悪感を抱いているからこそなのだが、それを理解しない春は彼のその行為を優しさだと思っていた。
――男なら、ただ威張っていても良いはずなのに、本当に優しい人。
或いは、罪悪感でも優しさでもあまり大差はないのかもしれないが、それでも、この夫婦はお互いにわずかばかり認識のズレがあるからこそ上手くいっている、そんな奇妙な関係にあるのかもしれない。
因みに、この時久慈幸一は蟹の殻を剥くのに必死になり過ぎて、お礼をする近所の人達への連絡を忘れてしまっていて、伝えるのが遅くなってしまったのだが、それは愛嬌の範疇だろう。