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七、立石夫妻の場合

 立石武が家に帰ると、いつもはいるはずの妻、立石望の姿がなかった。まだ幼稚園に入ったばかりの息子の正一が一人不安そうな様子でリビングにいて、彼の顔を見るなり残念そうな、それでいて喜んでいるような複雑な表情を見せた。恐らく、母親が帰って来た事を期待したのに父親だったからだろう。

 「お母さんはどうしたんだ?」

 武がそう尋ねると、息子の正一はこう答えた。

 「なんか、お爺ちゃんとお婆ちゃんの家に行って来るって」

 「お爺ちゃんとお婆ちゃんの家?」

 それを聞いて彼は不安になった。“お爺ちゃんとお婆ちゃん”という言葉から、妻が実家に戻ってしまったのかもしれないと考えたのだ。ただ、確かに夫婦仲はここ最近冷え込んではいるものの特別大きな喧嘩をした覚えもなく、もし実家に戻るのなら彼女なら息子を連れて行くだろうと直ぐに考え直し、何か別の意味だろうと判断した。

 そしてそれから10分も待たずに妻の立石望は帰って来た。何でもないような顔をしていて、手には何故か空の鍋を持っている。

 「何処に行っていたんだ?」

 彼がそう問い詰めると彼女はやはりとても落ち着いた様子で「久慈さんの家よ」とそう答えた。まるで“子供じゃあるまいし、ほんの少し家を空けたくらいでとやかく言うな”といったような顔だった。

 「久慈さん?」

 「通りを挟んだ向こう側に住んでいるお年寄りのご夫婦。なんでも奥さんが風邪を引いてしまったらしくてね。それで、ちょっと軽い食事を作って届けて来たの」

 その説明で、武は彼女が空の鍋を持っていた理由を察した。料理の中身はその久慈さんの家にあるのだ。だが、まだ彼には腑に落ちない点があった。

 「お前が久慈さんって家と付き合いがあったなんて初めて聞いたぞ」

 「付き合い? 付き合い何てないわよ。話したのだって今日が初めて」

 「なんだって? だったら、どうしていきなり食事を届けたんだよ?」

 「サイトでご夫妻が助けを求めていたからよ」

 「サイト?」

 「そう。あなたも知っているでしょう? 『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』。ちょっと昨日からやり始めたのよ、私」

 それを聞いて武は“そういう事は、俺にちゃんと話しておけ”とそう言いかけて口を閉じた。これでは妻を束縛している夫そのものだと思ったからだ。しかしその代わりにこう問いかける。

 「どうして、そんなサイトに登録したんだよ? 普段からお前は“時間がない時間がない”って繰り返していたじゃないか。それともあれは嘘だったのか?」

 それを聞くとため息を漏らしてから望はこう答えた。

 「仕方ないでしょう? ご近所の目ってものがあるんだから」

 「そんなサイト、どうせ、誰も登録してないのだろう?」

 彼が聞いていた話では、町内会や何かが高齢者達の登録を促しはしたが、現役世代のほとんどが未登録ということだった。

 「それがここ最近は少しばかり事情が違って来たみたいなのよ。

 ほら、高齢者の“家族難民”が社会問題になっているでしょう? 孤独死とか、生活苦とか色々言われているけど、それを防ぐ為の手段としてその“和やか”が使えるって話題になっていてね、私達みたいな現役世代も登録するべきだって盛り上がっているみたいなのよ」

 「それでどうして俺達が登録しなくちゃならないんだよ?」

 「分からない? それって裏を返せば、このサイトに登録しない者は、他人なんてどうでもいいと思っている薄情者って事になっちゃうのよ。だから、登録しないと白い目で見られかねないの」

 「ふん。馬鹿馬鹿しい」

 「でも、実際に登録者が増えているのよ。私達だけ未登録って訳にもいかないでしょう? 連絡網代わりにこのサイトを利用しようって話もあるくらいなのに。

 ほら、近所に住んでいる飯島さんっているでしょう? その人なんてもうたくさんの人を助けていて、皆から感謝されているみたいよ」

 そう言われても武にはサイトに登録しなくてはならない切迫した実感は感じられなかった。早い話が気分が乗らなかったのだ。その様子を敏感に察したのか、望はそれからこう続けた。

 「それにこっちから助けるばかりじゃないみたいよ。お返しに、こっちも何かしら助けてもらえる。それが、この“和やか”ってサイトの売りらしいの」

 それを聞くと「ほー」と言って、武は頭を掻いた。“そんなに上手くいくもんか?”と疑問に思っているようだ。

 「とにかく、あなたも登録しておいてよ」

 それを聞くと、彼は驚いた表情を見せる。

 「どうして俺が?」

 「さっき言ったでしょう? 近所の目ってもんがあるのよ」

 「お前が登録しておけば充分だろう?」

 「充分じゃないわよ。それに、あなたにはどんどん近所の人を助けておいて欲しいんだから。私達が助けてもらう為に」

 「いやいや、ちょっと待て。どうしてそうなる?」

 「あなた、家事をほとんどやってないじゃない。私だって働いているのに。だからよ。あなたが近所の人を助けておいてくれれば、いざという時に私が楽できるの。家事の代わりだと思ってよ」

 それを聞いて武は反論をしようかと悩んだのだが、ここで反論をすれば望が怒りだしそうだったので「分かったよ。登録はしておく」とそれに応えた。

 取り敢えず今はこれでやり過ごし、登録だけはしておいて、後は無視をし続ければ良いと考えたのだ。地域交流型コミュニティだろうがなんだろうが、高がネット上のSNSである。それほど深刻になる事はないだろう、と。

 

 はい。

 日本の男性は“働きアリ”だと言われています。その他にもエコノミックアニマルとか、色々と揶揄する言葉がありますが、これはつまりは男性が“働き過ぎている”って事です。

 ところがどっこい、この通説は実は間違っているようなのです。家事などのプライベートな労働時間を合わせると、日本男性の労働時間は国際的にもむしろ短い。そしてその反対に働いている母親…… ワーキング・マザーの労働時間は世界最長になるのだとか。

 何度か触れていますが、今の日本社会では男性がほとんど家事をやらない傾向にあります。

 もちろん、男性だけが外で働いていて、女性がずっと家にいるというのなら、それにも納得できるのですが、実情はどうも違っていて、夫婦共働きの場合でも男性はあまり家事をやらないようです。つまり、女性に労働負担が集中してしまっているのですね。しかも状況がわずかしか改善していないのに、労働力不足に伴って、女性の社会進出が求められているんです。

 で、ですね。その事情を踏まえて冷静に考えれば「これじゃ、女性にはとても子供を産んでいる余裕はなさそうだ」って思える訳なんですが、実際に男性も家事や育児を行う家庭の方が、出生率が高い傾向にあるみたいなんですよ。

 つまり、女性の労働負担を軽減すれば出生率は上がるんです。

 ですが、これをまったく理解していないのか、日本の政治家達の中には「女性が子供を産まないのは、愛国心がないからだ」なんて“いつの時代?”って思わずツッコミを入れちゃいそうな全体主義まがいの危険思想っぽい発言をしちゃっていたりする人もいるんです。

 本当に「いい加減にしてくれ」って感じですよね。

 まだ、これだけで話は終わりません。

 昨今、社会の超・高齢化に伴って“介護の手”が求められていますが、ここでも“女性の労働力”に期待する傾向があります。しかも、それを国が後押ししてすらいる。

 つまり、ただでさえ高い女性の家事負担に、今後は更なる介護負担が加わろうとしているのです。

 普通に考えれば、もっと出生率は下がりますよねぇ…… でもって、それで出生率が下がったなら、また政治家は「女性の愛国心が足りない」とか言うのでしょうか?

 ……恐らく、これからもっと高齢社会問題は悪化していくと思います。

 何も手を打たなければ、ですが。

 

 立石武は『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』に登録する前に、軽くネットを検索し、先に彼の妻が言っていた“家族難民”問題解決の為に、同サイトが本当に期待されているかどうかを確かめてみた。

 すると、確かにその記事が出て来た。何でもSNS“和やか”を運用しているエンジニアの男性パートナーがライターをやっているらしく、その男からそんな提案があったのだとか。それで彼の記事を国が取り上げ、注目を集めるに至ったのだ。

 「チッ なんだよ。身内が身内の記事を取り上げたって事か。胡散臭いな」

 それを見て彼はそんな独り言を呟いた。SNS“和やか”を運営しているのは国だから、身内贔屓という事になるのである。しかし、例えそれが身内贔屓だったとしても、その記事が多少なりとも話題になっているのはどうやら事実であるらしい。

 その地域で『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』の運用が行われていて、もし独居老人等が助けを求めていたにも拘らず孤独死していたなら、恐らくはその地域に住む人々は「見殺しにした」と責められてしまうのだろう。日本どころか、下手すれば世界中から。

 「こういうタイプの恐怖には、とことん弱いからな、日本人は。“恥の文化”ってか。嫌だ嫌だ」

 その恐怖から逃れる為には、このサイトに登録して、常日頃から、助けを求める誰かが近くにいないかを確認するしかない。“助け合いの精神”と表現するのなら美しく聞こえるが、同時に人間関係を強制されているかのような圧迫感も覚える。それが彼の正直な感想だった。これは恐らく、特別彼が性格の悪い人間だから持った感想ではないだろう。

 つまり、このサイトの在り方にも問題点がない訳ではないのだ。

 とにかく、それから立石武は『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』にユーザー登録した。普通のSNSに比べて登録作業が面倒だった事に愚痴を言いつつ、自分の住所がある場所に妻の存在を確認し、交流申請を出しておいた。

 これで妻に対しての義理立ては終わったと彼は思っていた。

 そして、その所為か、それから早々にログアウトしてしまった。彼には積極的にこのサイトを活用する気など微塵もなかったのだ。このまま何もなければ、二度と見る事もないかもしれない。

 

 その数日後、立石武が帰宅するとまた彼の妻の立石望の姿がなかった。しかも今回は、息子の正一もいない。

 冷蔵庫をあさって夕食を食べてしまうべきか、それとも望が帰って来るまで待っているべきか。彼は多少の不安を覚えながらリビングで途方に暮れていた。一応テレビを点けているが、少しも集中できない。

 やがて望が帰って来た。開いた玄関の向こうから、妙に明るい声で誰かと話しているのが聞こえて来る。そして「さようならぁ」という息子の声があったかと思うと、それから彼女達は家の中に入って来た。

 家の中に入って来た望は、手にお盆と食器を持っていて、その上には料理が乗っていた。蟹肉がたくさん乗ったちらし寿司だった。

 「一体、何処に行っていたんだ?」

 怒った口調で武がそう尋ねると、「子供じゃないんだから、私が帰って来た時にいないくらいで怒らないでよ」とそう言った後で、彼女は「これ、夕食。蟹よ、蟹。贅沢なチラシ寿司。とっても美味しかったわ」とそう続けた。武は無反応で、それを不思議に思ったのか一呼吸の間の後で彼女は「食べるでしょ?」とそう尋ねた。

 彼はそれには答えずこう言う。

 「俺は、何処に行っていたか?と尋ねたんだ」

 肩を竦めると望はこう説明した。

 「だから怒らないでよ。ちょっと、久慈さんの家にお呼ばれして来たの。この前の風邪の時のお礼に夕食を御馳走になっちゃって」

 「どうして、俺に何も言わなかった?」

 「直ぐに帰って来れると思っていたのよ。はじめは料理を受け取っただけで帰るつもりだったから。

 でも、他のご近所の方々も来ててね、一緒に皆で食べようって話になっちゃって。なら、断れないじゃない。あなたが帰って来るまで皆を待たしておくのも悪いし」

 そう言いながら、彼女は料理を机の上に置いた。それから麦茶を用意する。それを見て、武は怒っていても仕方ないと思い、夕食を食べ始めた。蟹は美味しかったし、腹が満ち足りた事で多少は気分が落ち着いた。その様子を見て取った望は口を開く。

 「この前、久慈さんを助けておいたお蔭で夕食代が浮いたし、作る手間も省けちゃったわ。しかも、こんなに贅沢な料理。やっぱり、良い事があったじゃない」

 それに武は何も返さない。無言のまま食べ続けている。まだ、多少は腹が立っていたし、素直に同意したくもなかったからだ。しかしそれから彼女はこんな事を言うのだった。

 「そう言えば、飯野正さんって人も来ていたわよ、今日。“和やか”で、色々な人を助けているって例の人ね。

 朗らかで好い人そうだったわ。自分が色々な人を助けている事をあまり自慢していないのも良かった。ああいう人が、結婚相手だったら女は仕合せでしょうね」

 それで思わず武は反応してしまう。声を上げた。

 「若い男もいたのか!」

 彼は彼女以外は老人ばかりが集まっていたと勝手に勘違いしていたのだ。

 「何を言っているのよ? いたはいたけど、ただそれだけよ。ほとんど話もしなかったし」

 それを聞いて彼はまた不機嫌になる。自分の妻が他の男を褒めたのが気に入らないのだ。無言のまま食べ続ける。その彼の気持ちを分かっているのかいないのか、望はこんな事を言った。

 「そう言えば、町内会役員の古野さんの家で粗大ゴミを片付けたいから誰か協力して欲しいって言っていたわよ。業者に頼んだら、お金がかかっちゃうからって。“和やか”にもヘルプコールを出すつもりだって言っていたけど、あなたはどうする?」

 やはり、それに武は何も返さなかったが、内心ではこんな事を思っていた。

 “それには、その飯野とかいう奴も参加するのか……”

 

 「えっと、立石さんの奥さんというと、どんな方でしたっけ? すいません。ご近所付き合いが増えたとは言っても、お年寄りが中心で若い方とはあまり関わりがなくて」

 

 その次の休日。

 古野家が助けを求めていた粗大ゴミの解体作業…… 古くなったオルガンの解体作業に立石武は参加していた。SNS“和やか”を通して、ヘルプコールに応えたのだ。

 そして彼は飯野正を見つけると「先日は妻がお世話になりまして」と、探りを入れるような気持ちでそう言い、彼からそのような言葉を受けたのだった。

 武は拍子抜けしてしまう。

 「あの蟹のチラシ寿司の時に、一緒に食べていたはずなんですが」

 そう返した。それを聞いて、飯野は「ああ、分かりました。あの子連れの方ですか」と言う。

 “子連れ”

 そのフレーズに武は頬を引きつらせる。

 “そういえば、あいつはあの時、正一を連れていたんだった……”

 そして、自分の浅はかな考えを恥じた。子供を連れて不倫をするようなふてぶてしい人間は滅多にいないだろう。それを誤魔化す為にか、彼はそれからこう言った。

 「聞けば、飯野さんは色々な人を助けているのだとか。大したものですね。立派だ」

 それを聞くと飯野は、いかにも気恥しそうにしながら「いえ、なんだか成り行きでそうなってしまっただけですよ。初めはそんなつもりはなかったんです」と応えて来た。そしてそれからお返しのつもりなのか、武に向けてこう言う。

 「しかし、立石さんだって今日は手伝いに来ているじゃないですか」

 武はそれを聞いて困る。まさか、“あなたと妻との不倫を疑っていたからだ”などと言えるはずがない。それで、

 「いえ、普段私は家事をあまりやらないもので、妻からせめて近所の人間を手伝って来いと言われましてね。いつも家事をやっていれば出ては来ませんでしたよ。やっておくべきだったと後悔しています」

 と、そう心にもない事を言い、「ははは」と笑って誤魔化した。

 

 はい。

 ちょっと短いですが、補足説明っぽいもんです。

 男性の多くは、公の場では「男女平等賛成!」、「男も家事育児に参加するべき」なんて発言をするようですが、自分自身はあまり家事も育児もやらない傾向にあるそうです。

 つまり、公の場での意見と、プライベートが解離しちゃっているのですね。

 ちょっと、あまりよろしくない感じかな?と思います。

 え? お前自身はどうだって?

 ノーコメントでお願いします!

 

 複数人でオルガンの解体作業を行った為、作業は一時間程で終わった。ただし、それでもそれは良い運動になり、久しぶりに立石武は汗をかいた。そしてそれに達成感と共同作業の高揚感が影響したのか、彼は爽快感を味わっていた。つまり、とても気分が良かったのである。

 「いやぁ、今日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」

 それで、その仕事の依頼主である町内会役員の古野とかいう中年男性の言葉に、つい快く「はい。これからもよろしくお願いします」と応えてしまったのだった。

 言い終えた後で彼は思う。

 “しまった。この男は、本当に仕事を頼んで来そうな気がする……”

 古野という中年男性は妙に馴れ馴れしく、物怖じせず人に頼み事をするタイプに思えたのだ。

 しかも、今は『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』によって、彼らは繋がってしまっている。

 それで、立石武は、少しばかり暗い気持ちになったのだった。

 また、何か仕事を手伝わされる破目になるかもしれない。

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