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四、飯野正の場合1

 飯野正は家に帰ると、自分の部屋のパソコン机の上にチラシがあるのを見つけた。デスクトップ型パソコンのキーボードの上に滑り落ちかける感じで無造作に置かれている。恐らくは、本当にこれはキーボードのわずかな傾斜の所為で滑り落ちかけているのだろう。いつもこのようにして手紙等の郵便物を置いておくのは彼の年老いた母親なのだが、彼の母親は確りとした性格だから、丁寧に置いたはずだ。

 チラシは普通のA4用紙にプリントされてあり、かなり安上がりに仕上げてある。見るからに胡散臭そうだった。金のない何処かの中小企業が経費削減の為に事務所のプリンターで作ったか、或いは詐欺の類かもしれない。飯野はぱっと見てそんな予想をしたのだが、それは外れていた。そのチラシは、市が配ったもので、国と市が共同で運営するSNSの始まりの告知と参加を促すものだったのである。それで彼は何故このチラシが自分のパソコン机の上に置かれてあったかを察した。彼は両親と三人暮らしをしているのだが、彼の両親はいずれもかなりの高齢で、昨今の情報機器の類をあまり使いこなしてはいない。当然、インターネットにも詳しくはなく、SNSなどと言われても何の事なのかも分からないはずだ。それでこのチラシを彼の所に回したのだろう。

 そのチラシをつまみ上げると、飯野は呟く。

 「しかし、国もやっぱり金がないんだなぁ」

 以前から国が地域社会の活性化の為のSNSを立ち上げるという話は聞いていたが、まさかこんな質素な紙で宣伝をしてくるとは思ってはいなかったのだ。

 もっとも、このSNSを実質的に運営するのは各自治体らしいから、この安上がりの宣伝方法は自治体が決めたものなのかもしれないのだが。

 「しかもSNSの名前が『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』って……。名前もまったくセンスがないし。“おもてなし”とか、それ系統の名前を付けたつもりなのかねぇ?」

 彼はチラシに書かれてあるそのサイトの『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』という名前を見て、愚痴をこぼすように独り言を言い、国を馬鹿にした。いつも通り、国のやる事にはまったく期待が持てないと思ったからだ。

 それから彼は着替えを済ませると、居間に行って母親が用意してくれた夕食を食べた。夕食の時に母親から、チラシの件について何か訊かれるかと思ったが、忘れているのかそもそも興味がないのか、何も訊かれなかった。夕食を食べ終えて部屋に戻ると、彼はチラシの内容をよく読んでみた。どうやらこのSNSは、まだテスト段階らしい。チラシが安っぽいのはその所為かもしれない。全国の何カ所かでテストを実施する事になったらしいのだが、そのうちの一つに彼の住むこの辺りが選ばれたのだ。このSNSがどんな運用になるのかはまだ未知数で、ここでのテストがそのモデルケースに影響を与えるのだろう。そう考えると彼は多少は興味を覚えた。それで彼は試しに『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』にパソコンでアクセスしてみたのだ。

 サイト名はセンスがないし、チラシは安っぽかったが、サイトデザインは遊び心があって彼の好みだった。センスのない名前を逆に活かしてあって面白かったのだ。サイトのトップには、サイトの主旨が書かれてあった。それによると、このSNS“和やか”は、相互補助文化のあったかつての地域社会を、日本社会に取り戻す為に発足したものであるらしかった。それは物質資源と人的資源を効率良く利用する事に繋がり、地域住民の生活を助けるはずだと謳ってある。しかもそれだけはなく、人間関係によって生じる“煩わしさ”はできる限り抑えるようなシステムを目指しているとも書かれてあった。

 「へぇ、大きく出たもんだ。そんな事、可能なのかな?」

 彼はそれを読むとそんな独り言を呟いた。

 どんなシステムにしてあるのか、好奇心を刺激される。それから彼は、「アカウント作成」ボタンを押下した。ちょっと中身を観てみる気になったのである。ただしそれは好奇心を刺激された事だけが原因ではなかった。

 前述した通り、彼は両親と三人暮らしだ。両親は高齢で、いつ介護が必要になるか分からない状態だ。そうなった時、このSNSに参加していたお蔭で隣近所から助けてもらえるようになるのなら、非常にありがたいと思ったのだ。彼は自分の家庭事情を考え、かなり前に結婚は諦めていた。高齢者介護は精神的にも肉体的にも重労働で、それが十年以上も続く場合もある。しかも要介護者が二人もいて、彼の収入は平均程度しかない。結婚してくれる女性が現れるとは彼には思えなかったのだ。仮に見つかったとしても、その後の結婚生活が上手くいくとは限らない。パートナーとなる女性が、介護生活に耐え切れないかもしれない。離婚されるかもしれないし、もっと悪い事だって起こり得る。結婚はノーリスクではないのだ。

 結婚を諦めてしまうと気は楽になったが、彼にはまだ不安があった。“介護離職”というリスクを彼は抱えているのだ。もし仮に二人同時に介護が必要になったなら、職を離れなくてはならない状況に追い込まれる可能性はかなり高い。どちらか片方ずつでも状況によっては有り得るだろう。しかも、国の介護問題対策は遅々としている。

 しかし、“近所の人の助け”と“介護サービス”を併用するのであれば、介護離職は回避できるかもしれない……

 

 はい。

 “超”が付くほどの高齢社会に突入していると言われるこの日本では、既にこのような事が起こっています。人間の寿命が延びた上に兄弟姉妹の数が減ったので、自ずから親の老後の生活を支えなくてはならない現役世代の割合が増えちゃっているのですね。

 一人っ子だと分かり易いですが、介護の負担を兄弟姉妹に分散する事なんてできません。当たり前ですが、たった一人に集中します。ならば、「結婚している余裕なんてない」って当然なります。

 高齢者の介護と育児。どちらも大変ですが、そのどちらをもやらなくてはいけない期間が十年以上も続く事を想像すると、結婚を諦める人がいる事も納得できるのじゃないでしょうか? 施設の利用も高額ですから、経済的な負担も重くなりますしねぇ。

 近年に入り、生涯未婚率が急速に高くなっている事は既に説明しましたが、恐らくは“親の介護”もその原因の一つになっています。もちろん、これは更に少子化を悪化させます。そしてそれが更に次世代の介護負担を重くし、このままではその悪循環が続いてしまう…… かもしれません。僕と一緒に、介護ロボットの普及を心の底から願いましょう。

 介護離職問題はニュースなどでよく取り上げられているので知っている人も多いと思いますが、恐らくはその前の段階だろう「両親の介護が原因で結婚を諦めている人」はあまり意識されていません。

 ですが、今の少子化問題を考えるのなら、意識しなくちゃいけない事です。問題解決はまず“その問題が存在するのを意識する事”から始まりますから(そういう意味で、問題提起型の小説の価値はある事になります)。

 これを少しでも改善する為には、もっと介護の分野に税金を割いて、安価で質の高い介護サービスをより多くの人が受けられるようにしないといけないと思うのですが、政治家の皆さん達はあまりやろうとはしませんねぇ……

 いえ、介護職員の数を増やすって指針とかは出していますがね。

 既に遅すぎですが、高額所得高齢者に支払っている年金に対する税を増やして財源を確保しつつなどして、今からでもやらないと、もっととんでもない事になると僕は思いますよ。

 

 ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”のアカウント作成方法は、基本的には通常のSNSと同じだった。メールアドレスを入力し、仮登録。送られて来たメールから本登録の手続きに入る。しかし、本登録の為の必須項目に“電話番号”があり、しかも本人認証がどうのと書いてある。通常のサイトではあまりないシステムだ。飯野正は少しばかり奇妙に思った。が、その疑問は直ぐに解けた。登録後、直ぐに彼の携帯電話に電話がかかってきたのだ。それはどうやら自動処理になっているらしく、機械的な音声がSNS“和やか”からの電話である事を告げた後で、「身に覚えがない場合は“0”を、本人である場合は“1”を押してください」と指示を出して来た。飯野が“1”を押すと、それから直ぐに本登録が認められた。

 ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”は、通常のSNSとは違い住所の特定が容易だ。だから、そのようにセキュリティを厳重にしてあるのだろう。電話番号を知られていれば、悪事はし難い。

 登録項目の一つに郵便番号があったのだが、どうもそれでユーザーの住んでいる地域を特定する仕組みになっているようだった。飯野正が住んでいる地域のマップが画面には映し出され、「あなたの住居です」という文字が出ている。もちろん、正確な場所ではなく、郵便番号から分かる範囲の大雑把な表示だ。

 そこをクリックしてみると、この地域に住んでいる人間の人数と年齢層、そしてこのサイトの登録者数が表示された。

 観ると、高齢者の人数が比較的多かった。飯野の自宅も含め、周囲には新築の住宅が多い。そこに住む人達は比較的若いから、恐らくここから少し離れた、古くからある家々が立ち並ぶ場所に高齢者が多いのだろう。彼はそう予想した。

 彼にとって自分の住んでいる地域の人口と大凡の年齢層が分かるのはそれなりに興味深い事だった。ただ、彼はサイトの登録者数を見てみて落胆した。まだほんの六人しかいなかったのだ。始まって間もないという事もあるだろうが、これでは地域の活性化は難しいだろう。このサイトは充分には活用されないかもしれない。

 新設されたばかりのサイトで、しかも利用者も少ないから当然だが、他に見るべきものは何もなさそうだった。人間関係の“煩わしさ”を抑える仕組みとやらがどんなものなのかを知りたかったのだが、そもそも利用者が少ない状況ではそれを見る事も難しいだろう。

 それから彼はもう一度、サイト内をざっと見回してみた。

 上の方にある注意書きに『人と人との関わりは“お互い様”です。誰かの行いが気に食わなくても、あなた自身も誰かに不快な思いをさせているもの。相手に悪意がないのであれば、互いに“許し合って”いきましょう』などと書かれてあった。

 ――まさか、この注意書きが人間関係の“煩わしさ”を抑える仕組みじゃないだろうな?

 それを見て飯野はそう思った。もちろん、そんなはずがない事は分かっていたのだが。それから彼はコンテンツ欄に『マコトとマコト』という謎の文字リンクを見つける。

 “なんだろう?”

 不思議に思ってクリックしてみたが、『男女平等社会における理想の男女像はどんなものか、皆で案を出し合いましょう』などと書かれてあるだけで、他の項目は全て空だった。案が投稿できるようになっていて、それに対して投票する事も可能らしい。恐らくは、票が多く集まった性質が、その男女平等社会の理想の男女像『マコトとマコト』のものになるのだろう。

 「よく分からないな、このサイトは。なんでこんなものがあるんだ?」

 飯野はそう呟くと、そのままSNS“和やか”からログアウトした。彼はもうこれでこのサイトを利用する事はないかもしれないと、その時はそう思っていた。しかし、それは大きな間違いだった。彼の生活は、これから少し後、SNS“和やか”で一変してしまう事になるのだ。

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