三、ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”
日本は集団主義社会と言われている。ところが、実際に調査してみると隣人達との交流…… つまり、ご近所付き合いはとても少なく、個人主義社会であるはずの欧米の方がむしろ多いらしい。
もちろん、これは比較的近代に入ってからの傾向であり、恐らく、高度経済成長を経る前までは、日本社会は非常に地域社会が密接に結びついていたと思われる。
結婚や葬式というイベントは、地域社会のイベントで、家族、或いは個人のイベントではなかった。だからこそ、地域社会からの強い影響によりそれは成立していた。かつては結婚適齢期になっても誰も相手がいなければ、勝手にご近所の世話焼きおばさんなどが縁談の話を持って来たものだが、今では考えられない。近所の人間が死んだなら、葬式に出るのが普通だったが、今では出席しなくてもおかしな事ではない。
そういった行事には、地域社会を成り立たせる為の機能的な意味があり、だからこそ人々はそれらに参加する必要があったのだ。そしてそれは経済成長と共に失われていったと考えるのが妥当だろう。
日本という社会は、高度経済成長期を経て大きく変化をした。それまでの長い歴史の中で築き上げてきた、地域社会の密接なコミュニティが、産業構造の変化によって引き起こされた、地域社会から都市部への人口の大移動によって破壊されてしまったのである。そして、地域社会の密接なコミュニティにあった様々な機能も同時に失われてしまった。
その昔は、例えば何処かの家で風呂を共同で利用する事等により、スケールメリットを活かし資源の節約をしていた。近所の人間が病気で困っていたならそれを助け、時には食糧も分け合った。また、結婚を半ば強制する事で安定して人口を増やして来た。
つまり、相互補助機能等により地域社会の存続を実現する役割が、地域コミュニティにはあったのだ。
もちろん、そのようなメリットばかりが地域コミュニティにあった訳ではない。デメリットも多かった。多くの因習が人々を縛り、諍いや争い事、差別も多かったのだ。いわゆる“煩わしい人間関係”である。だからこそ地域社会からの解放を望んだ人間達も多く、それが今でも密接なコミュニティの復活を阻害しているのかもしれない。
これを放置しても高度経済成長期には大きな問題になっては来なかった。人口は充分にあり、むしろ過剰ですらあったから、出産率の低下にそれほど神経質にならなくても良かったし(ただし、高度経済成長期の時点で、既に高齢社会への警鐘は鳴らされていた)、社会の機械化によって、著しい効率化を達成していたので、“資源の無駄遣い”を無視しても構わなかったからだ。
だが、近年に入り、状況は大きく変わってしまった。人口減少問題は、国の存亡を左右する程の大問題になり、高齢者の割合が増える事で発生する様々なコスト増で、社会は確実に疲弊していっている。
だから、今、かつてあった地域コミュニティを取り戻すべき状況に既に社会はなっていると言えるのだ。これから先、日本社会に訪れる“労働力不足の時代”を乗り越える為に、それは役に立つはずだからだ。
しかし、地域コミュニティを復活させるにあたって、幾つかの大きな問題点がある。まず「どのようにして、それを為すのか?」という点。次に「日本の酷い財政事情を鑑みるのならば、資金は限られている」という点。更に「地域コミュニティのデメリット、つまり“人間関係の煩わしさ”を可能な限り排除できなければ不幸な社会が実現してしまう」という点。
そして国は、これら問題点を解決する為に、ある民間の情報システム会社を頼ったのだった。
真っ当にプロジェクトを進めさえすれば、情報技術は非常に高いコストパフォーマンスを実現できるから、情報システム会社に依頼すれば、少なくとも資金面の問題は解決してくれるはずだった。そして情報技術は情報交流を促す事で地域社会の形成にも活用が可能なのだ。もちろん、それが成功するかどうかは分からないのだが……
はい。
なんてところで、毎度、お馴染み補足説明っぽいなんかです。
少しテンションが上がっていますが、堅い文体で書いていると、書く方も息抜きしたくなるので、ちょうどいい感じなんですよ、これ。もっと、頻繁に入れたいくらい(流石に駄目か)。
さて。人口は社会にとってとても重要な要因です。そもそもある程度の人口を維持できなければ、社会を維持し続けられませんからそれは自明です。もちろん、それだけでなく、社会が大きくなる為には人口規模を増やさなくてはなりませんし、他の社会との競争の為にも“人口の多さ”は重要です。
ですが、それは“資源がある限りにおいて”という制限付きの話でもあるんです。その人口を賄うだけの資源がない状態で、人口をもし増やしてしまったなら、社会はかなり悲惨な状態に陥ってしまうでしょう。ぶっちゃけ、資源を奪い合う戦争が発生します(中国はだから一人っ子政策を始めたのです。最近になって止めましたが)。
だからこそ、人口コントロールはとても重要で、宗教なんかで性交を禁止するのは、人口抑制の為ではないか?なんて説もあったりもします。
ならば当然、地域社会の慣習なんかにもこれと同様の機能があるはずだと考えるべきではないでしょうか?
今でこそ、結婚は誰にでも平等にチャンスがあると考えられていますが、実はかつてはそうではありませんでした。家の財産を受け継ぐ長男以外は結婚は困難で、生涯未婚率(50歳までで一度も結婚した事がない人の率)もとても高かったのではないかと予想されています。これは或いは、人口コントロールの為にある慣習(制度?)だったのかもしれません。
因みに、現在、生涯未婚率は男性で軽く20%を超えていて、女性でも15%近くととても高い水準になってしまっていますが、これは人間社会の歴史を観れば、特別に異常な事態という訳ではない…… なんて事を、水無田気流さんという方が『「居場所」のない男、「時間」がない女 日本経済新聞出版社』ってエッセイで書いていました。
ただし、“人口コントロール”ですから抑制だけでなく、逆に人口を適度に増やす為の仕組みもあったはずです。でもって、“地域社会が婚姻を促す”という慣習は、その為のものであったのかもしれない、なんて事を僕は考えているのです。
ですが、作中で書いた通り、この慣習は高度経済成長期における地域コミュニティの崩壊と共に失われてしまいました。
結婚は社会から強制されるものではなく、“個人で選択できるもの”に変わったのですね。それは個人が結婚を拒否できるという事でもありますから、人口を維持したいと思ったなら、当然、“地域社会の崩壊”が起こった辺りで男女共に結婚満足度を上げ、結婚願望を高める必要があったはずです。
もちろん、専業主婦主義の下で、結婚満足度が低くなってしまったのは女性ですから、女性の結婚満足度を上げるような何らかの取り組みがその時期に必要であった事をそれは意味します(今は、高齢者の介護負担や経済的な問題も加わるので、それだけでは充分ではありません)。
しかし、国はどうやらそんな事は考えもしなかったようです。人口減少問題が危機的状況に陥った今日ですら、専業主婦を復活させれば出生率は上がるかのような“幻想”を抱いている政治家もどうやらいるようで、はっきり言って“現実を直視”すらしていません。今のままでは人口減少問題の解決は困難だと言わざるを得ないでしょう。
人口減少によって危機に追い込まれた国は、いずれは大規模な移民政策を選択するかもしれません。もちろん、それはそんなに簡単にはいきません。もし何の準備もせずに強行すれば、例えばテロが発生したり、その所為で移民達を差別してしまったりといった、大小様々な問題が発生するでしょう。
問題を解決する基本は、原因を突き止め、それを取り除く事です。その当たり前の手続きを執っていさえすれば、こんな事態には至っていなかったはずです。
こういう事を考え始めると、政治家達や官僚達の基本的な能力すら疑わざるを得なくなってくるので、嫌になって来ます。
この国は、これから先、大丈夫なんでしょうかねぇ?
……本当に。
――ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”。
地域コミュニティを社会に復活させる為、国が民間の情報システム会社に依頼して作ったのはそのような名前のSNSだった。そのセンスがあるとは言い難い名称は、国民が参加することの抵抗を少しでも減らしたいという思いから付けられたものらしい。
菊池奈央はその開発プロジェクトに早い段階から関わっていた。それはどうやら彼女の性別も影響したらしい。“女性の視点”が、このプロジェクトには重要であるとトップの人間達は考えたのだ。
もっとも、菊池奈央は“女性の視点”とやらにはあまり自信がなかったから、そういう意味ではその判断は誤りだったかもしれない。だがしかし、それでも彼女の参加は、そのプロジェクトにとって大きな意味があった。
何故なら、彼女は論理的思考能力に優れ、そして女性差別問題を乗り越える為に培った見識のお蔭で、社会科学的視点から物事を捉える事にも慣れていたからだ。
このSNSを実際に使うのは、もちろん国民で、その活用を促したり人間関係等のトラブル解決に当たるのが公務員達、そして、システム的なトラブルを解決するのが菊池達システム屋、という役割分担になっていた。
このSNSの特色は、通常のインターネットとは異なり、距離的に近い人間達との交流を目的にしている点だった。もちろん、地域間の交流を活発化させる為だ。
このSNSを通し、地域で情報を共有する。そして、地域間で助け合いを行ったり、児童虐待等の犯罪を防止したり、また何かしら共同のイベントを楽しめるようにもする。そのような状態にする事を、このSNSでは目標としているのである。
これが実現すれば、既に現役を引退した高齢者の人的資源も活かす事ができる。常に家にいる高齢者なら、例えば近所で子供が病気になった時に平日でも看病が可能だ。もちろん、高齢者が高齢者を助けるようなケースだってあるだろうし、時間さえ合えば、近所の人間が仕事帰りに高齢者の介護を手伝う事だってできる。それで介護離職を減らす事ができるかもしれないし、高齢者の孤独死も減らす事ができるかもしれない。
もちろん、国はこのSNSにより、結婚率や出産率の上昇も期待していた。
ただし、このSNSを有効に活用してもらう為には、大きな壁がいくつもある。まず地域住民達にこのSNSに入ってもらわなくてはどうにもならない。
そして、テスト段階から、ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”はその壁に当たってしまったのだった。