二、菊池奈央
菊池奈央は、“女であること”のハンデキャップを克服する事に特に注意して、社会人としての経歴をつくってきた。ただし、そうは言っても彼女は別に社長になりたいだとか大金持ちになりたいだとか、そういった社会的な成功を目指していた訳ではない。彼女が望んだのは、適度な労働と収入、余暇や趣味に割けるだけの時間が充分にあり、衣食住に困らないといった、“普通の”生活を手にする事で、決して欲深で贅沢な願望を抱いていた訳ではないのだ。
彼女が“女であること”のハンデキャップを克服しなければいけないと考えるようになったのはまだモラトリアムの頃で、恐らくは高校か大学辺りで漠然と危機感を抱くようになった。そして、いよいよ社会に出る事を実感し始めるようになると、具体的にそれについて調べ始め、彼女は自分がどんなスキルを身に付けるべきで、どんな方向に進むべきかをよく吟味するようになったのだ。
彼女がまず考えた道は『専業主婦』だったが、彼女は早々にその可能性を除外した。理由は簡単で、今という時代は既に『男性が外で働き、女性が家事に従事する』という“専業主婦モデル”が一般的にはほぼ通用しなくなっているからだ。調べてみて彼女は驚いたのだが、日本の伝統のように言われている専業主婦モデルは、実は伝統でもなんでもなく、高度経済成長期の一時期でしか成立していなかったものらしい。つまり、日本社会の通常のスタイルは“共働き”なのだ。もちろん、今でも一部の高収入の男と結婚するならば専業主婦も可能だが、彼女はそんな好条件の男に狙いを定め、積極的に恋愛関係を築けるような器用な性格はしていない。
更に言うのなら、専業主婦というのは経済的弱者でもある。男に収入を依存してしまっている為、もし仮に男が高圧的な態度で自分に接して来ても逆らい難い。どれだけ酷い男でも貧困を恐れるのなら、離婚だってし難いだろう。実際、高収入の男性は、女性パートナーに対し高圧的に接する傾向があるらしい。多くの男性は、経済的に優位な立場を利用して、女性を支配しようとするのだ。
つまり、彼女がもし専業主婦という立場で、彼女のが望むような暮らしを手に入れたいと思ったなら、“高収入で、かつとても性格の良い男性”を見つけなくはならないのだ。これは非常に難しいと言わざるを得ない。そもそもどうやって“とても性格の良い男性”を見分ければ良いのかも分からない。結婚後に男が豹変するというケースはよく耳にする。
昨今、“専業主婦志向”の女性も増えているらしいが、こういった点を考えるのなら、思いとどまった方が無難だろう。それは現実的な人生設計と言うよりも、むしろ現実逃避に近いのかもしれない。
専業主婦を除外した菊池奈央が、次に考えたのは、『結婚をしない』という選択肢だった。しかし、この考えも直ぐに捨てた。それではいざという時に頼れる相手が減ってしまうし、彼女は出産や育児に興味がない訳でもなかったのだ。だから彼女は初めから『共働き』での家庭スタイルを前提とする結婚を考え、『共働き』の生活実態について調べ始めたのだが、それで共働きでも男性があまり家事をやらないという事実を知ったのだった。公の社会での労働に加え、家事労働や育児もほとんど女性がやらなくてはいけないとなると、その労働負担は相当なものになる。しかも育児期間はかなり長い。それは彼女が望むような人生ではなかった。
そこで彼女は、共働きを選択した場合でも、ある程度の収入は確保しなければならないと考えた。何故なら、女性が経済的強者であるならば、男性は平等に女性パートナーに対し接する傾向にあるらしいからだ(因みに、当然の事ながら、その方が夫婦仲は良くなり易い傾向にあるようだ)。家事を平等に分担するように交渉する事だって容易になる。
もちろん、男性の収入ですら不安定な昨今の社会情勢を考えるのなら、女性にもある程度の収入がある方がより望ましいのは言うまでもない。収入源が多い方が、生活は安定する。それは『一人で家族の生活を支えている』というプレッシャーから、男性を解放する事を意味しもするだろう。
だが、しかしそこには一つの問題があった。女性はこの日本という社会では、労働環境においても差別を受けているのだ。ある程度の収入を確保する事すら難しいかもしれない。特に出産後の復職についてのハンデは大きく、子供がいるというだけで能力の評価が下がる場合もあるらしいし、そもそも認められないことも少なくない。
「やっぱり、手に職を持つべきかな?」
それで彼女はそのような事を考えた。つまりは技術職希望だ。技術職の場合、立場や肩書きではなく“何ができるのか?”という点がより重要である為、女性であるハンデキャップが多少はマシになるはずなのだ。
彼女はそう考えると、労働需要が高い技術を調べ、そしてプログラミング技術に目を付けたのだった。彼女は論理的思考には自信があったし、IT業界はどちらかといえば先進的だから、女性差別も少ないだろうと期待したのだ……
はい。
ここでちょっとガラッと雰囲気を変えて小話を挟みます。やや硬い文体で進んでいましたしね、休憩って意味も込めて。因みにこれからもこんな感じでちょいちょい補足説明みたいなもんを入れていきます。まぁ、こんな流れで進む小説なんですよ、これは。
慣れてください。
……かなり前の事なんですが、僕はあるグルメアニメを観ていました。その中のエピソードで、横暴な夫の行動に対し妻が「夫の成功が私の望みだから」と発言し、夫を理解していると主張するようなシーンがあったんです。
僕はそれを観て、はっきり言って、ドン引きしました。
世の中は広いですから、もしかしたら中にはそんな女性もいるかもしれませんが、酷い扱いを受けてもその男性パートナーに対し女性が不満を抱かないなんて普通は考えらないと思ったからです。
まぁ、男側の手前勝手な理屈のように思えてならなかったのですね(そのアニメの原作者は、男性でした)。
それからちょっとばかり過ぎて、今度はあるたい焼き屋のこんな噂を僕は聞きました。
「たい焼き屋の主人が宝くじを当て、その半分を妻に与えたところ、妻から離婚されてしまった」
そのたい焼き屋は美味しいと有名で、だからこそそんな噂も広まったのでしょう。噂ですから、どこまでその話が本当かは分かりませんが、それは充分に真実味のある納得できる話でした。そのたい焼き屋の主人は、奥さんに対してかなり高圧的に接していて、見ていて気分が悪くなるほどだったからです。
これらのエピソードは、男性が女性に対して願望を持っていて、かつ願望と現実の区別が付いていない傾向にある事を示しているのじゃないでしょうか?
話がこれだけなら特例で済ましても良いかもしれませんが、「夫は妻の気持ちに対して鈍感」という主張も僕は読んだ事があるのです。つまり、本当は妻から嫌われているのに、夫はそれに気付いていないのです。また、専業主婦型の家庭スタイルの下で、日本の女性の結婚満足度が他の先進国に比べて低くなってしまった事実もそれを裏付けているように思えます。
「女の幸福は家庭に入る事だ」
なんて話を未だに信じている政治家もどうやら多いようですが、それもそんな事例の一つなのかもしれません。
女性に対する願望と現実の区別がついていない男性が多く、男性はその“願望”を前提として女性を扱おうとしてしまう……
だとすれば、それは改善するべき認識です。何故なら、それが男女平等問題の改善を困難にし、しかもその所為で発生する低い女性の結婚満足度は、少子化問題の原因の一つにもなっているからです。男性は女性の気持ちにもっと敏感になるよう努めるべきでしょう。
菊池奈央は学生時代に、プログラミングのスキルを身に付けると、初めはアルバイトとして開発現場で働き始めた。アルバイトにしては良い金になったし、正社員になる前に現場を経験しておきたかったのだ。
一年程その職場で働いて卒業間近になったところで、彼女は「正社員にならないか」とそこの男性社員から誘われた。菊池奈央の顔立ちはやや硬い印象を与えるので好みは分かれるかもしれないが、綺麗と表現できる部類に入るし、スレンダーな体型も魅力的と言えば魅力的だから、それは純粋に実力を認めれらたという訳ではなかったのかもしれない。が、それでもそれを彼女はチャンスと捉え、そのままそこの会社に卒業と同時に正社員として入社をした。その会社を彼女はある程度は評価していたし、それで就職活動を行う労力と時間を節約できると考えたからだ。
正社員になってから、彼女はいくつかの開発現場を経験し、スキルをアップさせた。そしてそんな頃、彼女は後に婚約する事になる佐野隆と知り合った。実力が身に付いたと実感し始めた頃に、彼女はあるプロジェクトでアプリ開発のメンバーの一人に選ばれたのだが、そのアプリは宣伝手段の一つとしてチラシを選択し、そのチラシの原稿を担当するライターとして佐野が雇われたのだ。
佐野隆は見るからに人畜無害そうな男で、自己主張も少なく、話せば話すほどプライドという言葉とは無縁なのだという事がよく分かった。そしてそんな彼は、菊池が思い描く結婚相手と一致していたのだ。会ったばかりの頃はまだ彼女は彼と付き合うことは考えてはいなかったのだが、それでもその印象は、彼に対する彼女の態度に影響を与えていたのかもしれない。
佐野は説明するとそれをよく吸収して分かり易い文章に仕上げる事ができたが、ライターをしている割には、知識はそれほど豊富ではなく、誰かがそのアプリに関連する説明を彼に充分にしてやる必要があった。それで菊池が彼に説明する役割を担ったのだが、何故かそれは彼女の労働時間外に行われ、彼に下心があったかどうかは未だに不明なのだが、その場は主に飲食店だったのだ。
「時間外ですし、どうせなら夕食も取った方が効率的かと思いまして」
というのが当時の彼の弁だ。
佐野と話している内に菊池はますます彼に対して好印象を持った。どちらかといえば、彼女の方が優位に立って説明しているのに、彼はそれにまったく気を悪くしたような様子を見せなかったのだ。もちろん、それは彼が彼女達の会社に雇われている立場という事もあるのだろうが、少なくとも彼女にはそれは彼の素の反応であるように思えた。
そしてその頃から漠然と、彼女は彼となら結婚しても良いとそう思うようになったのだた。
“考えていたよりは、ちょっと収入が少なそうだし、不安定だけど、でも、それは私の方でカバーすればあまり問題にならないか……”
彼女にとって大切なのは、相手が自分に合せてくれるかどうかで、そういう意味では彼は充分にその条件を満たしていた。そしてそう把握する事で、彼女は彼に対する恋愛感情と呼ぶべきものを育てていったのだった……
はい。
結婚相手を選ぶ基準として“金を取るか、愛情を取るか”などと言われる事があります。経済的条件で結婚するのか、それとも本当に好きになった相手と結婚するのか?って話ですね。ですが、もしかしたら僕はそれは違うのかもしれない、とも思っているのです。
女性は妊娠すると、その間、非常に無防備になります。また、出産した後も誰か第三者の協力により育児を行った方がより良いのは明らかです。
つまり、だから女性は自分を守ってくれる性格と力を持つ男性をパートナーに選ぶ傾向にあるのではないかと考えられるのです。しかも、或いはそれは生物学的な性質ですらあるのかもしれません(その辺りは慎重に判断するべきだとは思いますが)。当然、現代社会においては、それは“金を持っていること”も“自分を守ってくれる”重要な要因です。まぁ、早い話が“金を取るか、愛情を取るか”などといった話ではなく、女性が金持ちと結婚をするのは“金を持っている相手に愛情を感じるようになる”からかもしれないって話ですよ。
実際、男性に比べれば、女性は結婚相手に容姿の良さをそれほど求めないようです(これを読んで“だから、自分はモテないのか!”とかって思った人が何人かはいるんじゃないでしょうか?)。
だから菊池さんのように自分が考える結婚条件に一致する相手を見つけたなら、本当にその相手を好きになるという事も起こる…… のかもしれない、とも僕は思うのです。
菊池奈央は仕事上の関係がなくなった後も佐野隆と頻繁に会い続け、二人はいつの間にか“付き合っている”とそう表現できる程の関係にまでなっていた。
そして彼女は、その当時、開発メンバーとして参加していた『ご近所付き合い型コミュニティサイト“和やか”』という名前のSNSの運用を担当する事が決まったタイミングで、佐野隆に対して自分から結婚を申し込んだのだった。
運用の仕事は開発に比べれば、一般的にそれほど過酷ではなく、いざとなれば社内に残っている開発メンバーに助けを求められる為、ある程度の時間の融通も利くと判断したのがその理由だった。
充分に結婚をする余裕はある。
初期はまだ運用が安定していないから大変だろうが、出産する頃には恐らくは落ち着いているだろうとも彼女は考えた。もちろん、それだけ時間があれば、自分が中長期間離れても運用に支障が出ない体制も作り出せるはずでもある。
――が、その彼女の予想に反し、そのサイトの運営は過酷なものだったのだった。