十五、理想の男性
佐野隆が菊池奈央の部屋に入ると、彼女はパソコン画面を目の前に、楽しそうにキーボードを叩いていた。佐野はお盆を手にしていたのだが、その上にはコーヒーとチョコレートケーキが乗っている。
「差し入れだよ」
彼女が彼が入って来た事に気付いて振り返るのに合わせて彼はそう言った。
「ああ、ありがとう」
と、そう彼女は返す。
「しかし、休日だって言うのに大変だね」
佐野がそう言うのを聞くと、菊池は「なに、これは半分は趣味みたいなもんだからね」とそう応えた。
「何をやっているの?」
それで不思議に思った佐野はそう尋ねる。すると彼女は「ふふふ」と笑ってからこんな説明をした。
「“マコトとマコト”だよ、佐野君。今、様々なタイプに分かれている、あれの分類をしてみているところだ」
「ああ、前に言っていたやつ」
佐野が机の上にチョコレートケーキとコーヒーを置くと、菊池は椅子をくるりと回転させた。
「そろそろ疲れて来たから、少し休憩するよ。君も一緒に食べるだろう?」
「うん。そのつもりで持って来たんだ」
そう言いつつ、彼は椅子に腰を下ろした。パソコン画面は点けっぱなしのままだった。彼はちらりとそれを気にする。フォークでケーキを切り崩しながら、菊池は言った。
「“マコトとマコト”が気になるかい?」
「少しね。君がどんな分類をしたのか、ちょっと興味がある」
「そんなに奇抜な分類はしていないよ。極常識的な分類さ。少し説明をしようか?」
そう言うと、彼女は画面をフォークの先で示しながら説明をし始めた。
「“マコトとマコト”のタイプは大きく分けて四つだ。男女共働きタイプと、男性片働きタイプ、女性片働きタイプ。そして、男女家事従事タイプ」
それを聞いて佐野は驚く。
「いやいや、最後のは流石にないのじゃないか? 男女が共に家事に従事していたら、誰が家計を支えるんだい?」
「私も初めはそう思ったのだけどね、ネットで面白い意見を言っている人がいて、ちょっと考えを変えてみたんだ。両親がまだ若くて現役世代で外で働いているのなら、子供夫婦が家事を担当する事だって可能だってその人は言うのだな。もちろん、家計を支えるのが親じゃなくて他の共同生活者でも別に構わない訳だが、確かにそれもありかもしれない。一見、バカな発想に思える事から、新しい何かが生まれるってのはよくある。一概に否定するべきじゃないって私は思ったんだな。
それに、フランスなんかじゃ、“子供を産む”のが別に結婚した夫婦じゃなくても構わないって新たな家族の在り方が既に成り立っているって言うじゃないか。そしてそれによって、出生率を上げる事に成功したらしい。なら、日本もより自由な発想を受け入れる努力をしてみるべきかもしれない」
「ふーん」とそれに佐野は返す。「なんだか君らしいね」とそしてそう続けた。チョコレートケーキを口の運んで飲み込むと、菊池は続ける。
「男女共働きタイプは、更に細かく三つに分類してみた。男が家計の中心タイプと、女が家計の中心タイプ。そして、男女が同程度に責任を負うタイプ。私達はこれに当たるね」
「いやぁ、君の方が収入は良いし、安定してもいるじゃないか。どちらかといえば、家計の中心は君だって思うよ」
「なに、確かに私の方が多いが、そんなの誤差の範囲内さ。大して変わらない」
それから菊池はコーヒーを飲むと、また口を開いた。
「分類をまとめてみて思ったのだが、やっぱり夫婦ってのは互いに足りない部分を補い合う存在なのだなって思ったよ。男女家事従事型って特例はあるにはあるが、相手がどんな役割を担っているかで、それぞれ理想とする男性像女性像は変わって来るんだな。まぁ、当然かもしれないがね」
それを聞くと、まるで感想を言うように佐野はこう言った。
「なるほど。しかし、だとすると、自分が相手に合わないタイプだったなら、苦労する事になるかもね」
菊池はそれに大いに頷いた。
「そうだろうね。実際、そういう人はいるんじゃないかな? そして、負い目を感じていたりするのかもしれない……」
篠崎忠志は、自分の結婚相手の篠崎紗実に対して負い目を感じていた。彼女の方が彼よりも収入が多く、かつ労働時間も長いのだが、彼は家事の類が苦手で、あまり上手くこなせてはいなかったからだ。
洗濯はやり方を間違えると衣服が傷むからやらなくても良いと言われ、掃除は確りとできていない部分を後で彼女がやり直している。そして料理ははっきり言って、あまり美味しくはなかった。
「いやぁ、ごめん。紗実ちゃん。これ、ちょっと塩辛いね」
頭を掻きながら彼はそう言った。紗実はそれに何も返さず、味噌汁をすすっている。怒っているようには見えないが、機嫌が良いようにも思えない。
昨日は味が薄すぎたので、今日は濃い目にしてみたのだが、彼はそれで失敗してしまったのだ。
「はぁ」と彼は嘆息した。
それからその塩辛い味噌汁を飲み込むと、彼は「まずかったら、別に残しても良いからね」とそう言った。すると、淡々とした口調で紗実はこう返した。
「もったいないから食べるわよ。それに、かぼちゃとか野菜とかと一緒に食べれば、誤魔化せるわ」
それを聞いて、忠志は困ったような笑顔で「うん。そうだね」とそう言った。そしてそう言った後で彼はネット上で話題になっている“マコトとマコト”に寄せられた様々なコメントを思い出した。
『女が稼ぎの中心なら、ちゃんと男性には家事をやって欲しいわ。女性が男性に尽くしてきたように』
『家事や育児は自分の仕事じゃないって思っている男が多過ぎるのよ』
『できないんだったら、できるようになれば良いだけの話だしね』
また嘆息する。
“そうなんだよなぁ。できないんだったら、できるようになれば良いんだ。でも、それが難しいのだけど”
そして、心の中でそう呟いた。
最近になって、“マコトとマコト”と呼ばれる男女平等時代の理想的な男女像を描いたキャラクターは、いくつかに分類された。そして、彼らの場合は明らかに女性が家計の中心を担うタイプのそれだったのだ。それに関して世間の女性達は先のようなコメントをしていたわけである。
“多分、紗実ちゃんも同じ様な事を思っているんだろうな……”
忠志は淡々と食事を進める彼女を不安げな表情で見つめた。彼女の表情からは感情が読み取れない。だが、こんな体たらくで彼女が満足するはずがないのだ。彼はそう思っていた。
篠崎忠志と篠崎紗実は恋愛結婚だ。お互いに相手を認め合って結婚したのだが、それはどちらかといえば感情が中心で、それぞれの収入や能力、性格を考慮して結婚をした訳ではなかった。更に、家事の分担を明確に決めずに結婚生活をし始めたものだから、しばらくはそれぞれが朝食も昼食も夕食も勝手に食べ、掃除も洗濯も気が付いた方がやるという状態が続いていた。だが、それではスケールメリットが活かせないので無駄にコストがかかってしまうし、なによりそんな状態では結婚生活とは言えない気がした。それで彼、篠崎忠志は、ある日に彼女に対してこう提案したのだ。
「朝食と夕食は僕が作るよ。掃除も基本的には僕がやるけど、やり切れないところがあったら手伝って」
篠崎紗実はそれを聞いて少しばかり驚いたような顔を見せていたが、特に反論もしないで「うん。分かったわ。でも、あまり無理はしないでね」とそう言ったのだった。そしてその日から、彼は家事を懸命にやり始めたのだった。
だが前述した通り、それはあまり上手くいってはいなかったのだが。
彼は朝早くに起きて朝食を作り、スーパーの特売日に気を付けるようにし、ネットで調べては簡単にできる美味しいレシピを試したりしていたが、どれもよく失敗をした。
“多分、僕に失望しているんだろうな”
日が経つ毎に、彼は徐々に疲労していった。彼の労働負担は確実に増えていたが、それはそんな事が原因ではなく、精神的な要因の方が大きかった。
つまり、彼は彼女に対して“確りと家事を担わなければいけない”という強い負い目を感じていたのだ。
はい。
ハーレム制を執る生物は、雄の方が身体が大きくなる傾向にあるそうです。これは何となく想像ができますよね。ハーレム制では遺伝子を残せる雄が限られてきます。結果として雄の生存競争が熾烈になり、より大きな身体を持った雄が生き残るロジックができあがってしまう。
でもって、人間は男性の方が女性よりも身体が大きい傾向にあります。だから、進化のどっかではハーレム制が執られていたのじゃないか?という可能性があって、実際にその痕跡なのか、ハーレム制を認めている人間社会は数多く存在します。
もっとも、ハーレム制を認めている社会でも実態としては一夫一妻制の場合の方が多いとも聞きます。極稀にですが、多夫一妻制の社会も存在するといいますし。
さて。
何故、こういう話をしたのかというと、これが遺伝子が性役割をどこまで決定するのか?という疑問に結びついているからです。遺伝子が決定していると思われているけど、実は違うって事はよくあるんですよ。例えば、アリの巣には複数の女王アリがいるケースもありますが、これはなんと遺伝子が原因ではありません。環境要因に因るものなのですね。
なら、ハーレム制だって実は環境要因に因るものなのかもしれないじゃないですか。実際、人間の場合は明らかに社会がそれを認めるかどうかを決めています。
この点を考慮するのであれば、母親的役割を女性がやるべきだとか、父親的役割を男性がやるべきだとかいった諸々が“生物的に決定されている”なんてあるとは思えないし、仮にあったとしても少し努力すれば覆せる程度のものなんじゃないか、とも思うのです。
ならば、状況に合せて、どちらがどんな役割を担うのかは柔軟に変えていくべきでしょう。
ただし。
そういうのは、飽くまで本人達が仕合せになれるよう、それぞれの役割を決めるのであって、それによって自分達が不幸になってちゃ何の意味もないのですが。
もしかしたら、そういう根本を忘れている人もいるかもしれない……、なんて事も僕は思ったりするのです。
「手を抜きましょう」
そう、篠崎紗実は言った。その言葉に篠崎忠志は不思議そうな顔を見せる。
「何の?」
と、だからそう尋ねた。
「家事のよ。家事の。忠志君は少し家事を確りやろうとし過ぎなのよ。毎日、夕食を作る必要もないし、掃除だってもうちょっと手を抜いても良いと思う。朝食だって買って来たパンとサラダで済ませれば、わざわざ早起きする必要はないのじゃない?
これからはご飯は休日に多めに作っておいて、平日はそれにコンビニか何かで一品追加して誤魔化しましょうよ。食事なら、それで充分だと私は思うわ」
そう言われて、忠志は軽く混乱した。彼はずっと彼女が自分の至らない家事に不満があると思っていたからだ。
「いや、でも、家事はちゃんとやらないと……」
「家事よりも、忠志君の身体の方が心配よ。無理に家事をやって身体を壊すんだったら、本末転倒だわ。私は手を抜けるところは手を抜くべきだと思う」
「でも、君だって僕の掃除が終わった後で、掃除をやり直していたりしたじゃないか」
「それは、忠志君が“やり切れないところがあったら手伝って”なんて言うからよ。何にもしなかったら、まるで私が怠けているみたいになっちゃうでしょう?
そもそも、忠志君は自分が楽しているって思っているみたいだけど、あなただってちゃんと働いているじゃない。私よりは短いけど、労働時間としては普通よ」
「そりゃ、そうだけど……」
そう言いながら、彼はネット上の“マコトとマコト”を思い出していた。収入が多い女性の多くは、家事を確りやらない男性に対して文句を言っていたのだ。その彼の表情で彼女は彼が何を考えているかを察したようだった。
「断っておくけどね、忠志君。世間は世間で、私達は私達よ。世間なんかに私達が合せる必要はまるでないわ」
それから彼女は腰に手を当てて、じっと彼の事を見据えた。それは叱っているようでもあったし、慈しんでいるようでもあった。少しの間の後で彼は応える。
「分かった。これからは家事は少し手抜きにするよ」
そして、それを聞いて、篠崎紗実は安堵の息を吐き出したのだった。
“面白いからしばらく放っておいたら、勝手に思い込みで突っ走って、勝手に追い込まれていくんだもんなぁ…… 忠志君は”
そう思い、軽く微笑む。
もっとも、彼女は彼のそんな部分を好きにになったのだが。
はい。
家事の道具が進化して、家事労働は楽になったかのように思われていますが、実はそれほど楽になっていない、という主張もあるのです。家事の道具が進化すると、それと同時に家事に求められる“質”も上がり、結果的に労働負担はあまり軽減されていないというのですね。
もっとも、家族が少なければ家事負担が楽になるのは事実ですし、実際に物凄く楽な生活を送っている専業主婦もいるようですが。
まぁ、それでも、家族が多かったなら、家事なんてのは適度に手を抜くべきものだって事はあると思います。共働きの人は特に。
これからの時代は、現役世代が減っていくので、こういう認識は意外に重要なのかもしれませんよ。




