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 終業すぐの職員室は、教師や生徒の出入りがあって、いつになく賑やかに感じた。

 職員室の戸口をくぐると千尋は、用事のある教師の席へと向かう。彼女の背を見送ると、私は窓際の隅で物置になっている棚へと足を向けた。

 放課後の活気に取り残されたように、その一角は、窓からの光を受けて静かにたたずんでいる。

 そこに数年前からの卒業アルバムが保管されているのだと教えてくれたのは、滝沢先生だった。他人のことを話すのは気が進まないからと、その年のアルバムを見るように勧められたのだ。

 とはいえ私も、相良先生のクラスが卒業した年のアルバムに、何を探せばいいのか察しがついていた。

 初めに卒業者名簿に相良先生の名前を探す。一組から順に名簿をたどる。ほどなくその名前に行き当たった。

 彼女の組の卒業生は27名。ついで、クラスごとの集合写真へとページを遡った。新学期が始まった頃に撮っただろうと思われる、葉桜を背景にした集合写真の下に、生徒の顔写真が並んでいた。きっちり4列7段。生徒は全員で28名だ。

 予想した通りだ。相良先生のクラスには、卒業できなかった生徒が一人いる。

 頭の中でまだ、事実と想像をうまく結べなかった。卒業者名簿にのらなかった一人が、相良先生と仲の良かった友人だと思うのか。それが何か不幸な事情だと、どうしてそう考えるのか。あの日の音楽室で、私を見た相良先生の眼差しが、深刻な色であったようにさえ思えてくるのだった。

 卒業者の名前と、顔写真の名前を照らし合わせれば、その一人が浮かび上がってくるはずだった。そう思いついてもなお、名簿のページへは戻れなかった。

 まだ心に解けないものが残っている。あのホームルームの時間に私が聞いたピアノの旋律。たった数分もたたないうちに、彼女の姿は音楽室から消えてしまった。そうしてあのメロディーを、私以外の誰も聴いていないのだ。

 この顔写真の中に、彼女がいるのではないかと、その思いつきが私をとらえていた。

 28名の女子生徒の写真。笑顔の子もいれば、写りの悪い子もいる。その先の数十年が彼女たちの前に開けているのに、誰一人その予感を感じていない。15歳のその時間が、彼女たちの永遠だった。その時を閉じ込めたような写真たちであった。

 視線をついと顔写真の右上に向けた。

 この中に彼女がいるなら――時を止めたままの写真のように、閉ざされた時間の中に存在しつづけているのだとしたら――

「絢」

 背後から声がかかって、私は千尋を振り返っていた。

 夢から覚めたような気持ちで、肩越しの友人を見上げる。そんな私に千尋は不思議そうな表情を見せた。

「大丈夫?」

 思わず聞いたあとで、彼女は尋ねるのだった。

「それ? 絢が職員室で見たいものって」

「あ、うん」

 卒業アルバムの表紙を閉じながら、あやふやに答える。

「知ってた? うちの学校の卒業アルバム、何年分もここで見れたって」

 ふうん、と冴えない相槌が返ってきた。

「絢、変わってるよね。そんなの見たい?」

「うん……制服とか今とちょっと変わってた」

 振り返って千尋へと明るい声を向ける。

「千尋は、用事終わり?」

 私がそう言うのとほとんど同時に、相良先生が職員室に入ってくるのが見えた。

「行こっか」

 まだ怪訝な千尋をうながすように、私は埃をかぶったままの本棚を離れたのだった。


 校門と道を挟んで向こう側のグラウンドには、事前練習の陸上部の姿があって、その奥からは練習試合に入ったばかりのテニス部の掛け声が響いていた。

 明日も明後日も変わらない風景。続いていく日常にいることを確かめるように、私はその光景を眺めていた。

 まだ明るい空を、傾いた陽がオレンジがかった色に照らし始めている。

 三人で帰ろうという話になったところ、用事があって早めに帰らなければならなくなった千尋が抜けて、久しぶりに私と麻衣の二人の帰宅になった。

 クラスの用事で少し遅くなるという麻衣より一足先に校舎を出て、校門で待つことになると、浅生先輩のソワソワした気持ちをなぞっているみたいだった。

「絢、」

 声をかけられて振り返る。視線が合うと麻衣は小走りになって私に近づいた。

「ごめんね、待たせちゃった」

 昔から変わらない柔らかい口調の麻衣に、少し安堵する。

 おっとりしている彼女は、それなのに私より先へと歩いて行ってしまう。その背中を追うとき、私はいつも不安を覚えた。いっそうのこと、取り残されることを選んでしまいたい。

 けれども私たちはふたりでいるとき、隣り合って歩く。他愛のないことを話して、特別ではない時間を過ごす。その時間にもどれるかぎり、どちらが先を歩いているかなんて、たいしたことではないように思えた。

「実習棟、変わっちゃったね」

 葉桜の向こうの西日を遮る校舎の影を見上げて、麻衣が言った。

「けっこう好きだったのにな」

 新館での授業が始まって、旧校舎はいっそう寂れた佇まいを見せていた。

 何十年もたくさんの生徒たちが出入りした校舎には、きっとたくさんの記憶が刻まれている。数ヶ月先には跡形もなく消えてしまうのを待って、大きな影はただ沈黙を守っていた。

「古くなってたもんね」

 葉桜が頭上にそよぐのを感じながら、私はそう答えていた。

 残念に思うよりは、労わる気持ちに近かった。数日前には大人たちに反抗したばかりだったのに、急に物分かりのいいことを口にしたようで、少し恥ずかしくなる。

「前にね、放課後に実習棟入ったら、相良先生に見つかっちゃって」

「相良先生に? 怖そう。怒られた?」

「大丈夫、注意されただけだった」

 桜並木の影を抜けると、通りに溢れる日差しが私たちを迎えた。オレンジがかった光の中を歩くような気持ちだった。

「よかったね。相良先生ってふつうに話していてもキツイもんね」

「うん、でも、悪い人じゃないと思う」

 私の言葉に、麻衣は意外そうな視線を向ける。

 自分の言ったことに、私も驚いていた。

 想像にすぎないと言い聞かせたつもりの思いつきを、知らずと受け入れているのかも知れなかった。先に進むことをやめてしまった、ふたりの少女の話を。そうして残されたひとりの少女が、今もとらわれているその時間から一歩踏み出すことを、気がつけば願ってしまっていること。

 そもそも、滝沢先生の話だって本当かどうか分からない。彼女の言ったことがうまくできた作り話だとすると、音楽室の机へ私にメッセージを書いた誰かは、まだこの学校のどこかにいるのだ。私と同じように退屈な授業を受け、更衣室のおしゃべりにうんざりしているはずだった。

 ふいに私は、肩越しに実習棟を見上げていた。

 二階にある音楽室の窓は、斜陽をはねて桃色にそまり、その向こうを見ることはできなかった。まばゆい反射の向こうには、静まり返った音楽室がある。その静謐な昏さを私は思った。

「でも、どうして実習棟へ行ったの?」

 麻衣の言葉に、私は視線を彼女へと戻していた。急な問いにたじろいでしまう。そのいきさつを、誰かにうまく説明することなんてできそうになかった。

「それは、その、音楽室に用事があって」

「忘れ物とか?」

「うん、」

 曖昧に答えて、その問いを逃れる。そっかと答えて、麻衣はそれ以上は聞かなかった。

 ほっとする反面、後ろめたい気持ちもあった。しばらく続いた沈黙になじんでしまって、私はその告白を飲み込んでしまう。

 少しまで涼しかった朝夕も、今は暖かいままに夜が近づく。雨の季節が過ぎれば、間もなく夏が来るだろう。季節が変わるほどの早さでは、変われないけれど、色味を帯びていく周囲の風景に、心をまかせてみてもいいように思えた。

 いつかもう少し大人になったら、あの古い校舎であったことを、麻衣にも話してみよう。そう思いつくと、心が少し軽くなる。

「ねえ、麻衣、私あたらしい曲ひけるようになったんだよ」

 話題を変えてそう言うと、麻衣は明るい表情をこちらへ向けた。

「本当?聴かせてよ」

「うん、今度遊びに行っていい?」

「いいよ」

 答えた後で、麻衣は笑って見せた。

「こういうの久しぶりだね」

「そうだね」

 私が微笑んで答えると、ふたり自然と道の先へ目を向けた。日差しが住宅の窓にはねて、あたりに暮れの光と照り返しのまばゆさが入り混じる。

 ちょっとした沈黙を、いつになく落ち着かずに感じていたけれど、なんとなく言葉を口にできずにいた。麻衣も同じ風景に見入っている気がしたからだ。

 それは日の終わりに、今日の光をすべて刻もうとするような、あざやかな夕焼けだった。

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