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音楽室への階段の前に立つと、いつもは気にかけない直線の空間の先が、やけに遠のいて見えた。放課後でもまだ明るい西日が、長い階段にじぐざぐのシルエットを描いている。
週が明けるまで考えたけれど、やはりこの方法しか思いつかなかった。
もう一度、ピアノを弾こう。怒られても、これが最後だし、校舎に入れなくなるのは今のままでも同じことだから。
聴いてみたい、と机には書かれていた。
あの日、音楽室から聴こえた旋律は、やはり彼女だったのではないだろうか。私の弾いた曲を、あの日彼女も聴いていたのではないか。けれども私たちは会えずじまいだった。だから、最後になったメッセージに、彼女は「聴きたい」と書いた。
だってそうじゃないと、あんな風に唐突に「聴きたい」なんていうわけない。
それは確信に近かった。あの言葉に返信を書けない私ができる、たった一つのこと。この校舎のどこかにいる彼女に今答えなければ、私たちのつながりは、この先ずっと途絶えてしまう。
意を決して足を踏み出したとき、背中にかかる声があった。
「戸田さん!」
ずいぶん遠くから届いたように感じた。振り返ると、渡り廊下と交差した通りの向こうから、私の方へ視線を向けて立つ人影が目に映る。
暗い陰りが心に差した。去年から図書委員だった私はお世話になっていると言っていい、図書館司書の先生だった。優しい人だけれど、こういうことには生真面目そうだ。
滝沢先生は手招きをして、側までくるように私を促した。聞き分けのない生徒を、実習棟への階段から遠ざけたいのだろう。そうとわかっていても、今さら無視はできない。遠目なのをいいことに、私はため息をついた。
放課後の図書館はしんと静まって、ささいな動作も控えめになった。
校舎の影に入って室内は薄暗かったが、窓の外は西日に照らされて、明るく浮かび上がっている。気をそらすように校庭を眺めていた私の向かいに、図書室の早い戸締りを終えた滝沢先生が座った。
ばつの悪さを抱えたままで私は、普段穏やかな中年の女性教員へと目を向ける。
前と違って、今回は知らなかったでは済まない。どう答えればいいか、私自身まったく見当がつかなかった。
同時に、理不尽さへの憤りも感じる。もし相良先生が口頭注意のまま済ませてくれれば、私だって再び放課後の音楽室へ行こうなんて思わなかった。私がそうしなければならないように追い込んだのは、他ならない相良先生だ。
けれど、それをどう伝えればいいのか。机の上でやりとりするだけの顔も知らない誰かに会いたいためだと、そんなことを打ち明けても、大人たちは笑うだけに決まっている。
光の差す具合で変わってしまうような微妙な心の色を、言葉にしても、他の人に伝わるわけがない。同じ光の中にいるどうしでないと、その色を見ることはできないのだ。
「相良先生と話したんでしょう」
優しい声が問いかける。私はつい唇を噛んでいた。答えを待って沈黙をつくる滝沢先生を見返すようにして、私は口を開いた。
「話しました。でも相良先生、職員会議で言ったんでしょ。だから、新館へ移動する日が早まったんですよね」
刺々しい言い方になった私に、滝沢先生の表情が曇るのを見た。筋が通っていないのは自分でも分かっている。それでも言葉で取り繕おうと、強い口調を重ねた。
「それって信頼されてないですよね。だったら私だって、相良先生の信頼に報いる必要なんてないです」
目の前の滝沢先生は息を飲んで私を見て、それから深いため息をついた。普段はおとなしい生徒が、急に反抗的になったことに驚き、失望しているようだった。
その表情に、私の心も暗くなる。こんなこと言っても、なんの進展にもならないのに。
「どうしても音楽室に行きたいの?」
問いかけられて、私はきっと困った顔になっていた。滝沢先生は私をじっと見据えている。担任の立会いのもとで許可するとか、新館に設置される防音室でなら良いとか言いだしたら、どうしよう。
「そういうわけじゃ……」
やっと出た言葉は弱々しかった。言葉を迷わせた私に、滝沢先生はついで言葉をむけたのだった。
「先生も悪く思ってああいったわけじゃないのよ」
根拠のしれない言葉に、思わず見返す。私の視線に気づいてか、滝沢先生は口を閉ざした。それは、言おうとしたことに気づいて、自ら言葉を失わせたというような、どこか唐突な沈黙だった。滝沢先生から目をそらさなかったのは、消えてしまったその言葉が胸に引っかかったからだ。
私の視線にあてられて、彼女は戸惑う表情を見せた。向けていた視線をほどくと、滝沢先生は考え込むように窓むこうを見やる。それも短い時間のことで、再び口を開いて、目の前の生徒へと語りかけるように言うのだった。
「相良先生がこの学校の出身だっていうのは、知ってる?」
「はい」
先日に千尋から聞かされたばかりの話が思い出される。机の上で組んだ滝沢先生の手が、まだためらう気持ちを見せるように、かすかに動いた。
「じゃあ、先生がこの学校を希望した理由も?」
思わず眉を潜めていた。それは知らないと答えたようなものだ。滝沢先生は、いよいよばつの悪そうな表情を浮かべるのだった。
先を躊躇する彼女に、怪訝な思いがこみあげる。言いかけたのなら、最後まで話してほしい。軽い苛立ちが私の口を開かせた。
「関係があるんですか?」
こちらをじっと見返す中年教員のおもてに、夕暮れの深い陰りが落ちている。その陰影のせいか、ようやく口を開いた滝沢先生の声には、心の深くに思いはせるような、ゆっくりとした響きがあった。
「相良先生ね、ここの生徒だったころ、仲の良い友達がいたの。放課後に音楽室で二人、よくピアノを弾いていたっていう話よ」
向かいの棟の音楽室を照らす西日が、ふと視界の端に重く感じられた。あの日、音楽室の戸口に姿を現せた相良先生の、血の気のない顔色が思い浮かぶ。
右手が震えるのを感じて、反対側の手をそっと重ねていた。今聞いた話のどこに、冷たいものを感じたのか。一瞬おきた混乱に、私は返す言葉も忘れて、滝沢先生をただ見つめたのだった。
図書室の沈黙に、思わず耳をすませる。なお言葉を渋って口の重い滝沢先生を待ちきれずに、私から尋ねた。
「相良先生の友達は、今は、」
その問いに、彼女は首を振って見せた。知らないという返事にしては、どこか重々しく感じられる。相良先生にとって音楽室がタブーなのは、その理由は……その先に思いつく答えは、ふと私の目の前を暗くさせた。
浮かび上がった答えのその輪郭を確かめることを、恐れながらも、私は口を開いていた。
「先生がこの学校を離れない理由って」
「私も本人から聞いたわけじゃないのよ」
慎重に選んだ質問を遮るように、滝沢先生はとらえどころのない言葉を返した。
「じゃあ、」
根も葉もないいい加減な話かもしれない。相良先生の音楽室の思い出も、友人の存在も。その気づきから言いかけた私に、滝沢先生が口を開いた。
「あなたがピアノを弾いた日、先生たちの間でも話題になったのよ。相良先生が音楽室に思い入れがあるのは、けっこう有名な話なの」
見返す私に、彼女はひと息ついて言葉をつないだ。
「相良先生にとっては、静かにしまっておきたい思い出だったんじゃないかしら」
「でも、だって、今まできっといましたよね。音楽室でピアノを弾く人くらい」
「私の知ってる限りでは、あなたの弾いたあの日、一回きりよ」
「一回って、」
思わず見返して、夕方の柔らかな陰影に、滝沢先生の不思議そうな表情を見た。
それ以上の言葉を口にできずに、私は目の前の女性教員の顔を眺めた。日はずいぶんと低くまで傾いて、校舎の長い影が中庭に深く伸びていた。