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 次に音楽室に入った時に私は、机に何て書かれてあるのか、張り詰める思いで確かめた。教室移動の際の特有の騒がしさが満たす教室で、おそるおそる窓際の席に立つ。整った字は、いつものように短く答えていた。

――家路より、好きだよ

 先日に聞こえたピアノのことにはふれていない。

 あの後、千尋に聞いてみても、気がつかなかったと答えられただけだった。まさか空耳だったとは思えないけれど。

――ピアノ弾ける?

 遠回しに問いかけてみる。

 単刀直入に聞くのは気が引けた。いつか彼女に会うことがあったら直接聞いてみたいとは思うけれど。でもどうやったら実際の彼女と出会うことができるのだろう。

 まだ戸惑いがあって、記した質問の上で、シャーペンの先をふらつかせた。

 彼女の書いた「家路より」という曲名がふと目に入る。彼女は自分の好きな曲を記したのにはちがいないが、私の選んだ曲と同じ作曲者なのだった。彼女は私の選曲に合わせて答えを書いたのだ。

 その曲名をしばらく眺めた。やがて旋律が身のうちに流れてくる。夕闇が辺りを翳りに沈め、家路に向かう道を、斜陽が黄金に浮かび上がらせる。優しくも、もの悲しいメロディ。その曲は練習で何回か弾いてる。今もまだ覚えているだろうか。

 シャーペンの先は宙で止まる。ある思いつきが頭に浮かんでいた。


 物音ひとつしない教室に入ると、放課後の賑やかさがやけに大きく響いて聞こえた。

 数日前に目にした時と同じように、西日の差し込む音楽室は、ほんの少し赤みがかった明るさに満たされている。

 ピアノの前に立って、鍵盤の重い蓋をおこすと、その日鞄に忍ばせてきた楽譜を取り出した。

 椅子の脇に鞄をおさめて、楽譜を広げる。前に練習で使った時に書き込んだ鉛筆書きの注意点が、そのままに残っている。 

 改めて楽譜に向き直って、緊張した思いに気がついた。何度練習しても、ミスなく弾けるかどうかは、その時の気持ちにかかっている。

 鍵盤の上で簡単に動きをなぞってみる。それから指の位置を整えると、小さく息を吸った。

 教室の静けさが身に染み入る。無音が深く沈み込むのを待って、初めの一音を奏でた。ゆっくりと次の音につなげて、静かにメロディを立ち上げた。

 寂しげな音ではじまり、やがて旋律はゆるやかに流れ出す。モノクロの世界が色彩を持つように、次第に感情を込めた。次第に音楽は盛り上がりへと向かい、斜陽の燃えるような赤の中で、焦がすような切なさが胸に迫る。音楽はそれからまた、静寂のメロディに戻った。

 廊下の向こうのかすかな物音に、鍵盤を弾く私の指は反射的に止まっていた。思わず耳をすませた。しんとした静けさが辺りを満たしている。気のせいかと思うのとほとんど同時に、足音を聞いた。

 靴が床を離れるときの、わずかに擦れる音は、他に物音がない廊下に大きく響いた。足音の主も、音楽室にいる私に躊躇してか、ためらいがちに歩みを進めるのだった。

 私は戸口を振り返っていた。その向こうに人影が現れるのを待つ。緊張が身体中を締め付けていた。

 引き戸の向こうに現れた女性教員と、その姿を待ちわびていた私と、はたと視線が合った。相良先生の青白い顔は、見覚えのある生徒を認めると、怪訝な色を浮かべるのだった。その眼差しに、私の中の失望は困惑へと変わった。

 面倒なことになってしまった。なぜよりによって相良先生なんだろう。あの子が来なくても、せめて他の人だったら。

「ここで何をしているの?」

 冷たい響きが向けられた。

「ちょっと……弾いてみたくなって……」

 何を理由にしても怒られるだろう。分かってはいるけれど、口にしてみると、どうにも擁護しようのない言い訳になる。

 相良先生の厳しい眼差しは、じっと私に注がれていた。注意の言葉を覚悟する私に、けれどもその真意を探るように、しばらく見据える。やがて相良先生は短く言った。

「職員室に来なさい」


 放課後おそくの職員室に他の教師の姿はほとんどなく、私は心なしか安堵していた。それでも静まり返った空気に重い気持ちになる。

 相良先生が自分の席につくと、無口になったままの私は、机の側にひっそりと立った。

 長い説教を覚悟していたが、相良先生はすぐには口を開かず、机の上を整理しはじめた。そうしながら、何から話すのか考えているようでもあった。

 いっそうこちらから声をかけようか迷っていると、細い声が発せられる。

「放課後に勝手に実習棟へ入ってはいけないのは知っている?」

 普段から冷たい物言いが、この時はいちだんと刺々しく響いた。

「……はい」

「解体前の古い建物よ、新館もまもなく使えるようになるから、それまでは授業以外の出入りはダメよ」

「……すみません」

「次はないと約束できる?」

「はい」

 この状況を逃れたい一心で、私は素直に謝っていた。

 沈黙の間、相良先生は一度も私を見ない。代わりに何か言い足りないように、宙へ視線を投げた。

 これ以上なにも言われませんように――願う気持ちが伝わったように、彼女は口を開いて小さく言ったのだった。

「いいわ、もう行きなさい」

 話は意外に短い時間で終わった。驚きと安堵が沸き起こったが、その気持ちを隠すように、あわてて私は頭をさげていた。


――ピアノ弾ける?

 机のやりとりはずいぶん長くなっていた。

 きっとこの席に座る他の人も目にしているかもしれない。右端に綴られた質問は、あと数回の受け答えで、机の表の下端までたどり着いてしまいそうだ。

――うん。弾ける?

――ちょっとだけ、下手だけど

 私の答えのすぐ下に、短い一言が綴られていた。

――聴きたいな

 午後の日差しがなげかける光を、白い校舎がはねて窓から注ぎ込み、私の手元を明るくさせた。

 どう答えればいいのか、しばらく悩んでいた。

 思い切って、会おうよと書いてみようか。でも、どこで、どうやって? 短いやりとりをもどかしく感じた。

 机の表とにらめっこしていると、音楽の教師が教室に現れた。始業のチャイムが鳴ってから、しばらく時間が経っていた。

 考えが中断されて、少しうっとおしく感じる。手元に視線をおとしたまま、姿勢だけ正した。

「予定より少し早まりますが」

 よく通る声が、教室内の生徒たちに向けて発せられた。

「来週からの授業は新館で行います」

 思わず教壇の方へ顔をあげていた。新館が完成しているのは知っていたけれど、実際に使われるのは夏以降だと聞いていたのに。私が放課後にピアノを弾いたことが原因だろうか。やけにあっさりと終わった相良先生の口頭注意を、今更ながら思い返していた。

 相良先生はあの後、私の話を職員会議でとりあげたにちがいない。面と向かっては深く言わずに、後から他の教員の前で問題にするなんて。たかだか一度、放課後の音楽室に入っただけなのに。

 悔しさがこみ上げたが、同時に不安も起こった。教室が変わってしまったら、私たちの机上のやりとりはどうなってしまうんだろう。

「それぞれのクラスで分担して教室移動の準備をすすめることになりましたので、今日は授業はありません」

 不満の声が一斉にあがる。騒々しくなる周囲の声に、いちばん心をざわつかせていたのは、おそらく私だっただろうと思う。

「このクラスの割り当ては備品移動です、はい、立って立って!」

 教師の張った声に、皆がのろのろと腰をあげ始めた。私はすぐに動けずにいたが、後ろの席の子が立ち上がりながら「面倒くさいね!」と声をかけてきて、渋々と椅子を引いたのだった。

「本当だね」

「備品って何かな、重い楽器だったら嫌じゃない?」

「そうだね……」

「楽なの選ぼうよ」

 彼女が席のそばを通り過ぎるのを待って、私はちらりと机の上へ目をおとした。これが私たちのやりとりを目にする最後かもしれなかった。それなのに、何と返せばいいのか思いつかない。

 クラスの子たちが壇上のそばへと集まり始めていた。不満の声をあげたはずが、みんな思い思いにおしゃべりをしながら集まって、案外楽しそうな様子だった。音楽室の隣りに楽器を保管している備品室があって、そこから荷物を運び出すようだ。

 泣きたい気持ちをおさえて、私は机の傍から離れた。

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