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あの席に座った誰かが、私の独白に同調の意を書いたのだとしたら、三段目の一文に気づくはずだった。そう思うと、宙につぶやく一言ではなく、明らかな問いかけが、急に恥ずかしくなった。
質問を見つければ、彼女は返事を書くだろう。でも、もし何の返答もなかったら? 私は存在しない誰かに尋ねかけたのかもしれなかった。そうでなくても、顔も知らない人から問いかけられたことを、相手は気味悪く思うかもしれない。
いろんな憶測が頭の中を巡って、週が明けるまでの間、音楽室の走り書きを思い出すたびに気が重くなった。
火曜日の午前、その時間が近づいてきた。音楽室へ入ったら、まずは机の上を確かめよう。私の問いかけの他には、何も書かれていないことを確認したら、あの一文を消してしまおう。
誰よりも早く音楽室へ足を踏み入れた私は、窓際の席へとまっすぐに向かった。ベージュ色の面の右上に、私の書いたシャーペンの文字が残っているのが目に入る。文は四段並んでいた。
――冬が好き
遅れて教室に入ってきた同級生たちのおしゃべりが、背中越しに聞こえた。胸に抱えていた教科書とノートをそれとなく机に置いて、椅子に腰掛ける。席につくと、気持ちが高ぶっていることに気がついた。
机の上の一文へ、そっと目を向けた。きれいな字だった。習字を習っている人なのかもしれない、と思った。
どんな人がここに座ったのだろう。整った字を書く冬の好きな、その人のことを考えた。授業の間じゅう、私は上の空だった。
「麻衣!」
隣を歩いていた千尋が呼びかけて、私は渡り廊下の先に麻衣の姿を見つけていた。
背の高い友人が振る手に気がついて、麻衣も足を止める。
「今帰り?」
問いかけながら彼女へと近づく千尋について、私も廊下を進んだ。
私たちを待ちながら、麻衣は頷いてみせる。
「浅生先輩と帰るの?」
千尋の質問で、麻衣の笑顔の向こうに、躊躇うような表情がちらりと浮かんだ。
「いい加減、付き合ってるって認めたら」
「そんなんじゃ……」
もったいぶるのが苦手な友人から、単刀直入に言われると、途端に麻衣はたじろいでしまう。
けれども麻衣いわく、先輩から告白されたわけではなく、家が近いから一緒に帰っているだけなのだという。
一つ年上の浅生先輩は、学区が同じだったため、私も小学校の時から顔を知っている。麻衣は生徒会委員になった時に知り合ったらしく、中学に上がって再会したのをきっかけに、二人で帰るようになったのだということだった。
浅生先輩はただ本心を言い出せないだけに違いないのだけど、麻衣だって、今まで私と千尋の三人で帰っていたのに、今ではすっかり浅生先輩と帰宅を共にするのが日課になっている。ごく自然の成り行きで、先輩と一緒にいるわけではないことは、誰が見たってはっきりしていることなのだ。
千尋は普段からあっさりと、麻衣は私たちより先輩を選んだね!などというので、何となく私が、麻衣をフォローする役目になっていた。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうよ」
私が言うと、麻衣は笑顔を見せた。
「うん」
麻衣の返事に、心のどこかで安堵する。音楽室でのすれ違いに覚えた違和感が、解けた気がした。
千尋が麻衣の隣に追いついて、三人並ぶようになって歩いた。春の斜陽が校舎の壁をオレンジ色に染めている。運動部の練習の声が、薄水色の空にこだましていた。
何か言おうとして自然と口を閉ざしたのは、前方から女性教員が歩いてくるのを見たからだ。
相良先生は国語の教諭で、授業以外で話しているのを見たことがない。いつも不機嫌な雰囲気を漂わせている女性教員だった。
すれ違いざまに、さようなら、と挨拶をする。心なしか三人とも、不揃いに小さな声になった。
歩く速さもそのままに、女性教員は通り過ぎてしまった。千尋がさぞ渋い表情をしているのではないかと、私は視線をあげていたが、彼女の表情は神妙だった。
私の眼差しに気づいて、千尋は口を開いた。噂話をする口調で、ひそめた声になって言う。
「相良先生って、この学校が母校なんだって」
「へえ、そうなんだ」
答えながら麻衣へと目を向けたが、彼女も別段、感想をもった様子はなかった。
「あの年で独身だし」
「ああ、」
千尋の言いたいことが、ようやく伝わってくる。
「ずっとこの学校なの?」
「分かんない」
その国語の教諭が今は四十歳くらいだとして、二十五年ほど前この学校は、名のあるお嬢様校の中等部だった。
数年前に共学に変わったが、今でも女子生徒の方が圧倒的に多い。
数の少ない男子生徒はなんとも肩身が狭そうに過ごしている。ゆいいつ浅生先輩は、その中でも飄々としていた。我が物顏に振舞っている女子生徒の中でもどこか特別で、女の子たちの中でも人気があったのだ。
かつて女子校だった頃と想像すれば、清純でおしとやかな女子生徒が思い浮かぶ。それが今や、不機嫌を身にまとって歩く、あの相良先生だ。彼女は少女時代も、今も、この先も、ここで過ごしていくんだろうか。結婚もせず、新しい職場に行くこともなく、退屈な顔をして。
きっと千尋はそんなことを思ったのだ。眉をひそめて首を振っている。
相良先生とすれ違った時の、ツンとした冷たい空気に、今更ながら胸を刺される思いになった。
窓際の席について、真っ先に机のメッセージに目を落とした。
――音楽の授業は好き?
私の質問だ。
改めて見返すと、我ながらつまらない質問だった。
私はきっと、誰か分からない相手との密かなやりとりを、つなぎとめておきたかったのだ。深入りする質問は何となく憚られて、どうでもいいことを尋ねてしまった。
机上のやり取りは六段目になっていた。あの薄い端正な字が答えている。
――好き。好きな曲とか、ある?
質問が書かれていた。ここに座る誰かと、机の上のメッセージで確かにつながっている。その実感が、私の気持ちを高揚させた。
何て返そう。答えはすぐに浮かばなかった。流行りの曲を書くのも違う気がしたし、下手に相手の知らない曲を書いて、会話がつまってしまうのも避けたい。それに、音楽の授業の流れで尋ねているのだから、教科書に載っている曲で答えるのが無難な気がする。
休憩時間のチャイムが鳴って、私は思い巡らせた末に選んだ答えを、机の上へ書き留めた。
――ユモレスク
誰でも知っているし、字面も悪くない。それに適当な答えでもなかった。曲調に変化があって、不器用な私でもうまく弾けている気がするのだ。
思いついた答えにまんざらでもなく、私はシャーペンの芯を机の上で押し戻してから、ペンケースへと戻した。
ひっそりとしていた廊下の向こうから、賑やかな声がしだいに満ちてくる。
他のクラスのホームルームが終わったのだった。
いつも話が長引いてしまう担任の声を聞き流して、活気づきはじめた廊下へと視線を向けた。
廊下と隔てる窓向こうに、先に放課後を迎えた千尋が立っているのが目に入る。午後の晴れた空を背に、彼女は小さく手を振って見せた。
クラスが別になってしまった今でも千尋とは、何となく放課後を一緒に過ごしている。部活に入ろうと二人意気込んだはいいが、短期間で辞めてしまい、学習塾に通う麻衣と帰宅をともにするようになったのが、今に続いているのだった。
終わらない担任の話に紛れて、ピアノの旋律が聞こえてきた。遠くから届くメロディーは、離れの音楽室だろうか。上の空でぼんやり聞いていた私は、その違和感にすぐには気がつかなかった。
軽快なメロディーは途切れ途切れに届いた。なんの曲だっけ。オルゴールで使われていそうな、聞き馴染みのある曲。
ふと曲調が優しげに変わって、はっとして顔をあげた。
この先、楽曲は転調する。明るい長調から、憂鬱な短調へと。
「じゃあ、今日はここまで」
担任の声と同時に、私は席を立っていた。それに遅れて、同級生たちの椅子を引く音がばらばらと響く。
鞄を肩にかけると、教室を飛び出した。その勢いに驚いた千尋と視線があう。
「千尋、ごめん!後で!」
短く言って、そのまま廊下を駆けた。今はともかく、音楽室へと行かなくては。
下階への階段へ差し掛かると、壁に遮られてか、メロディーは聞こえなくなった。けれどもあとの旋律は、頭のなかで流れ続けている。ふと日が翳ったような、重く切ない曲調。
もう一度、明るいメロディーに転調すると、楽曲は終わる。
階段を下りきって、ガラス戸が開いたままの大玄関を抜けると、春の空気が鼻をかすめた。ピアノの音は止んでいた。
音楽室には、まだ彼女の姿があるはずだ。渡り廊下を抜けて、音楽室へと続く階段へと向かう。
放課後のこの時間に、音楽室でピアノを弾く人が他にいるだろうか。しかも、あの机に私が記した曲を。
階段をのぼるにつれ、放課後の賑やかさは背の向こうに遠ざかった。午後のこの時間、実習棟は深い沈黙に包まれている。
しんと静まりかえった音楽室への廊下を、足音をしのばせるように奥へと進んだ。 息切れとあいまって、呼吸が苦しくなる。息を整えながら、開かれたままの引き戸へと近づいた。
教室の戸口に立つ。西日が教室の深くまで差し込んでいた。
埃っぽい教室内を斜陽が照らしている。ピアノの鍵盤の蓋はきちんと閉じられて、すでに人の気配はなかった。
緊張したせいか、どっと疲れがのしかかってくる。すれ違ってしまった。階段をおりる間に、彼女は教室を後にしたに違いなかった。
耳の奥に残るユモレスクの旋律を探るように、私はしばらくその場に佇んだ。