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 春が嫌い、と、シャーペンの細い芯で書き留めた。薄く書いたつもりが机の面にくっきりと残る。

 ネガティブな気持ちを言葉にするのは、自分に落とし穴を掘るようなものだ。呟くほど穴は深くなって、はい出せなくなる。でも私はその穴に落ちてしまいたかった。

 学年があがってクラスが別々になってしまった麻衣と、最近めっきり話さなくなった。クラスの女の子たちとも、なんとなく会話が合わずにいる。いや、と思い返す。理由なんてとくにない。ぱっとしないことが一つずつ増えていって、退屈な空気が重みを増した。それだけのこと。

 書き捨てた言葉をそのままに、窓の外へ目を向けた。よく晴れた空は澄んだ青さで、憂鬱な気持ちが紛れる。音楽室のゆるやかな雑音が、遠くのことのように響いた。


 更衣室は制汗デオドラントの霧で白っぽく濁った。むせるような香りの中で、のろのろとハーフパンツに足を通す。

「ね、絢はどうなの」

 賑わっていた会話が、ふとこちらに向けられた。

 ああ、来てしまった。重い気持ちで顔をあげて、同級生の顔を見た。

「誰が一番いい?」

 うーん、と悩んでみせて、頭の中に教員の顔をずらっと並べてみる。

 数学の矢田先生はすでに何票もあがっている。それに紛れるのも悪くないけど、真実味をもたれるのはちょっと。体育の鏑木先生はダントツ人気だけど、個人的には苦手だし、理科の山本先生は陰気で、むしろ引かれる可能性がある。

「相川先生かな」

 比較的若い、その情報処理の教員の名を挙げた。へえーと気のない声がもれる。

 あながち嘘ではなかった。背が低くて丸い体型をしているけど、温厚で、言うことが地味に面白い。でも異性としては見ていない。それは同級生たちにも安易に見抜かれたらしかった。

 じゃあ、アイは? と質問の先が他へと向いた。ほっと胸をなでおろす。私の話を掘り下げても、色めいた話題は引き出せないと察したのかもしれなかった。


 4月からの新しいクラスは、明るい子が多くて雰囲気も良かった。女の子たちはみんな仲が良かったけれど、それは恋愛への興味という共感で繋がっている。

 クラス替えの後に安堵した私も、ほどなくその理解の及ばない感情への関心が、彼女たちを結びつけていることに気がついて、暗い気持ちになった。

 クラスの彼女たちだけではない。その流行病は、この歳の女の子なら誰でもたやすくかかってしまうらしかった。いまだ病の兆しのない私が、彼女たちを真似て、春の気分に酔ったふりをしようにも、心の冷めた目がそれを許さない。

 先を歩く彼女たちに追いつこうと足を早める気には、どうしてもなれなかった。自分の中に子供っぽさを感じながら、そうとも開き直れずに取り繕っている。そんな自分自身に、嫌気がさす毎日。


 音楽室に入る前から、そのピアノの旋律と明るい笑い声は、廊下にこぼれて響いていた。

 南向きの窓から明るい日差しが差し込んでいる。校内の外れにある棟は、老朽化した内装を白く塗り替えて、古さと新しさの入り混じった妙な雰囲気があった。

 軽やかなそのメロディーには聴き覚えがあった。旋律の反復に差し掛かると、心なしか抑え気味に奏でる。人の前で弾くときに、彼女は必ずそう心がけた。

盛り上がりへと向かうパートを、本当は感情のままに弾くことができることも、私は知っている。けれどその先の、激しさから華やかさへと切り替わる瞬間、甘美さに酔う一瞬を、彼女には隠すことができない。

 ピアノの弾き手に確信があって、途端に音楽室に向かうのが億劫になる。開いた扉の向こうには、女の子たちが数人、ピアノを取り囲むように立っていた。

 通り抜けできずに、戸口で足を止めた。ピアノの前には、思った通り麻衣の姿がある。週二回の音楽の時間のうち、木曜日のこの時間、前の授業は彼女たちのクラスなのだ。

 メロディーが止むと、柔らかな歓声があがった。

 照れて困ったように顔をあげた麻衣の目が、私をとらえる。気まずい思いが心の内に湧きおこった。私はどんな顔をしてただろう。きっと不満げな表情で彼女を眺めていたんだろう。麻衣の顔がふと曇るのが見えたから。

 その場を逃れるように、女の子たちの間をぬって窓際の席へと向かった。些細な〈つまらない〉が、またひとつ心に積もっていく。

「上手だね」

「いいなあ、私も弾けるようになりたい」

「どのくらい練習するの」

 明るい声のさざめきに背を向けて、音を立てないように椅子を引いた。

 軽薄な質問。でも馬鹿にできなかった。麻衣に出会ったばかりの頃、私も同じ質問をした。

 私たちは母親どうしが古くからの知り合いで、彼女の家族が近くに引っ越してきたことをきっかけに、幼いどうし遊ぶようになった。

 小学校にあがるのと同時にピアノを習い始めた麻衣は、魔法を使うように軽やかに鍵盤から旋律を奏でた。

 あんな風に両手が別々に動くなんて、私には無理――そう思いながらも、憧れる気持ちもあって、尋ねたのだった。

「簡単だよ」

 麻衣は即座に答えた。

「絢も習って、一緒に弾こうよ」

 彼女の言葉は嘘じゃなかった。たどたどしくも弾けるようになって、階段を登るみたいに、弾ける曲をひとつづつ増やしていく。でも、いつまでたっても麻衣に追いつくことができずにいる。

 麻衣がクラスの子の前で披露したあの曲は、私にだって弾けるのだ。でも彼女が弾くように、まるで音一粒が響き合うように奏でることはできない。

 そんなことは始めからわかっている。ただ、私は麻衣と一緒にいるためにピアノを習っているのだという気がして、虚しい気持ちになる。

 席につくと、頬杖をついて窓の外へ目を向けた。まばゆい空に校舎は優しい翳りをおとしている。戸口のおしゃべりは、私たちのクラスの女の子たちと入れ替わりに、廊下の向こうへと引いていった。音楽室の騒々しさが、少しだけやわらいだ。

 息苦しさがほぐれて、視線を手元へと落とす。数日前に私が書いた、不機嫌な言葉が目に入った。人に気づかれないように机の端へ記したつもりなのに、自分が書いたからか、やけに目立って見えた。

――春が嫌い

 そのすぐ下に、もう少し薄い字で、短い言葉が記されていた。

――私も

 少しの間、私はその文字を眺めた。二段並べば、返答を記したように見える。いや、もしかすると、私が書くより前にすでに書かれていたのかもしれない。でもそれなら、まさか気づかないはずはない。

 しばらく悩んで、なんだか可笑しくなった。

 私みたいな子が、別の時間この席に座っている。そんな気がした。私と同じように、冴えない自分にうんざりしているのだろうか。

 改めて眺めてみると、癖の強い私の字と違って、整った字だった。上級生かな、と何とは無しに思った。

 教師が入ってきて、音楽室は授業の雰囲気に引き戻されていく。ペンケースからシャーペンを取り出すと、私は机の文へ短い返信を書いた。

――いつなら好き?

 退屈な時間を過ごす、もう一人の自分に宛てて。

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